立夏・原案/広瀬もりの著

第四話


 森澤のアパートはいつもふたりで歩いていた商店街を抜けたところにあった。もうすっかり馴染んだ洋食屋の前を通って、そのまま雑貨屋がちょっと大きくなったようなスーパーマーケットの横を入る。そうすると何棟かのアパートが並んでいるので、奥から3番目の建物がそうだと言われた。
 真梨子はその路地をちょっと覗いてから、まずはスーパーの店内に入った。せっかくお見舞いに行くのだ、何か買っていこうと初めは思った。でも、その後考え直す。まだ日も高い。3時のお茶を済ませて早退してきたのでまだ腕時計は4時過ぎをさしている。夏の日はまだまだ暮れない。だったら、何か簡単でもいいから温かい食事を作ってあげよう、そう思った。
 大家さんが作ってくれたあのお粥は本当においしかった。熱のあるときはぱさぱさしたサンドイッチや冷たいお弁当ではなくて温かい食事が恋しい。いつもは外食だという森澤。朝などはインスタントコーヒーで済ませることも多いと聞いた。家庭的な食事はあまり食べていないはずだ、料理もそれほど得意ではないと言っていた。
 黄色い買い物かごを持って狭い店内を回る。何を作ろうかな? きんぴらゴボウもいいな、ひじきの煮付けもいいかな。冷蔵庫に入れておけば少しは保ちそうだし。お肉とお魚はどちらがいいかな…。魚のケースまで行って中を覗く。艶々した鮭の切り身が2切れでパックになっていた。それに手を伸ばす。
 魚の切り身なんて買ったこともなかった。ひとりでは何切れも食べられない。その後豆腐も1丁、ためらいなくカゴに入れることが出来た。そうしているうちに真梨子はだんだん楽しくなってきた。
 ゴボウを1本、にんじん3本、大根を半分…いつもだったら野菜も余って腐らせてしまいそうでなかなか手が出ない。でもこうしてふたり分の食材を求めていくと、びっくりするくらい色々なものを手に取ることが出来る。すぐにカゴの中はささやかな幸せで一杯になってしまった。
 レジで財布を開けたとき、ふっと漏れたのはため息ではなくて幸せの吐息だった。お金を差し出しながら、心からありがとうと思っていた。買い物がこんなに楽しかったのは初めての経験だった。
 細い路地を進んでいくと、急にぱっと開けたところに出る。アパートが狭い敷地内に並んで建っていた。真梨子の住んでいる場所よりも大きめに見える。元々は所帯持ち用に作られたものだったらしいが、管理者が近くにいないことや日当たりの問題があって、いつの間にか住人は単身者ばかりになってしまっていたという。昼間は皆出払っているのだろう、辺りはしんと静まりかえっていた。少し離れたところにある小学校のチャイムが響き、子供たちの歓声が聞こえる。
 真梨子は冴子が書いてくれた地図を確認しながら、奥から3棟目の建物に向かった。その1階の右から2番目。『森澤』と彼のマジック書きの表札が出てきた。
 そこまで来て。一瞬、ひるむ。もしも…もしもだけど。部屋に彼以外の人がいたらどうしよう。森澤に女性がいないと決めてかかることは出来ない。30の男なのだ、そう言う関係の人がいてもおかしくない。その人が看病に来ていたら…。思わず、買い物袋を下に置いてしまった。そして、ためらいがちに2度、ノックする。ごくりとつばを飲み込んだ。
「―…開いてますよ?」
 ドア越しに他人行儀な声がした。いつもよりかすれている気がする。でも森澤の声に違いない。真梨子は恐る恐るドアノブを回して、そっと覗いた。
「…先輩?」
畳三分の一くらいの狭い玄関。そこには森澤のいつも履いている通勤用の革靴と安っぽいサンダルが脱ぎ捨てられていた。大丈夫だ、他に人はいない。そう思ったら、ホッとして、外に置いてあった買い物の袋も中に入れることが出来た。
 玄関を上がると廊下。突き当たりは少し明るく見える。左手は磨りガラスの引き戸になっていて、その気配から台所らしい。奥の部屋でごそごそっと何かが動いた。ぎしぎしっと廊下をきしませながら、真梨子は少しずつ中に進んでいった。
 初めて上がる部屋、何だか全てが他人行儀で。ムッとした熱い空気が独特の香りを運んでくる。塗料の匂いだろうか? 何だろう…木の柱にそっと手を添えて、部屋の中を伺った。
「…え? どうして…」
 森澤がびっくりして起きあがる。掛けていた薄い布団がふわっと舞い上がる。その下はランニングの下着姿。
「先輩? お加減はいかがですか?」
 男性の下着姿なんて、そう見たことはなかった。もちろん、森澤だってワイシャツ姿しか知らない。腕まくりをして腕がぬっと覗いただけでドキドキしてしまうのだ。こんな風に肩から二の腕が覗いたら、もうどこを見ていいのか分からない。
「何で…真梨子君が…」
 そこまで言うと、くらっと膝の上に倒れ込んでしまう。まだ熱が高いのか? 真梨子は慌てて駆け寄った。
「先輩、寝ていてください。起きあがっちゃ駄目ですっ! あのっ…熱があるなら、まずは冷やさなくっちゃ…」
 きょろきょろと見回すが、そんな準備をした様子もない。真梨子はどうにかして森澤の大きな体を横にすると、慌てて風呂場に行ってみた。この部屋にはちゃんと風呂が付いている。そこに小さな洗面器が置いてあった。洗面所に安っぽいタオルがかかっている。それを取ると水ですすいだ。井戸水なのだろうか、ひんやりして気持ちいい。水道管の丸見えの洗面台に歯ブラシが1本だけ置いてある。それを見たとき、何だかホッとした。
 洗面器を抱えて戻ると、絞ったタオルを額に乗せる。熱のせいかカサカサに乾いた唇が何度も動く。でもなかなか言葉にならない。
「お薬、ちゃんとお飲みになりましたか? 一応薬局で症状にあいそうなものを求めてきました。…あ、でも何かおなかに入れないと駄目ですよね…」
 そっと頬に手を添える。水を使ったばかりの真梨子の手は冷たかったのだろう。森澤がぴくっと目を伏せる。その仕草がとても可愛らしく思えて、真梨子は楽しくなった。
 いつもいつも、世話になるばかりだった。森澤はいつでも整然としていて、とても真梨子の入る隙などなかった。でも今はどうだろう。布団に入ったまま、まるで子供のようだ。
 今なら、今だけなら、彼の役に立てるかも知れない。いつもあんなに色々して貰ってきたのだから、今度は私が。森澤に会えた嬉しさと、心にわき上がってくる幸福感で、真梨子は浮かれていた。
「あの、私…少しだけお買い物してきたんです。これからご飯作ります、たくさん食べて元気になって下さい…お米はありますか…?」
 ガサガサと買い物袋を持って立ち上がる。開けっ放しのガラス戸の向こうに台所がある。食卓に使っているのだろう、小さなテーブルの上に袋を置く。そして流しを見るとたくさんの食器が汚れたままで積み重なっていた。台所の床も何だかザラザラしている。後で拭いた方がいいかも知れない。昼間なのに薄暗い北向きの台所。灯りの紐に手を伸ばしたとき、不意に声を掛けられた。
「真梨子…君?」
「はい?」
 嬉しさを隠しきれずに笑顔で振り向く。しかし横になった森澤の瞳を見たとき、次の言葉が出てこなくなった。
 冷たくて…突き放すような色。最後の晩に見たよりももっと濃い色でこちらを見ている。その後、ふっと目を伏せるとくるんと背を向けるように寝返りを打った。
「…帰ってくれないか?」
 その言葉を耳ではなくてとても遠いところで聞いているような気がした。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったから。
「え…」
 言葉を無くして立ち尽くす真梨子に、森澤は背中のまま、さらに言い放つ。
「心配掛けて申し訳なかったけど、俺は大丈夫だから。君も病み上がりなんだから、早く部屋に戻って休みなさい」
「で、でもっ…」
 せめてご飯だけでも作らせて。せっかく材料を買ってきたんだから。そんなにすぐに…。
「帰ってくれっ!! 早く出ていってくれっ…!」
 その言葉が、真梨子の小さな胸を打ち抜いた。信じられないひとことが叫ばれて、心が一瞬で凍っていた。
「…あ…」
 真梨子は買い物袋に突っ込んでいた手を取り出すと、口元を覆った。ようやく合点がいった。森澤の言いたいことが飲み込めた。
 迷惑、だったんだ…。
 そうかも知れない。こんな風にやつれて寝込んでいるところを見られたい人なんているわけないだろう。それなのに、承諾も得ずに上がり込んであちこち歩いてしまった。台所が荒れているのだって、仕方ない。病気なのだから。いつもの彼だったら、もっと綺麗にしているはずだ。
 プライベートな部分に土足で乗り込んでしまった。自分はしてはいけないことをしてしまったのだ。そのことによって森澤のプライドがどんなに傷ついたことだろう…。そんなことにも気付かなかったなんて、ただ、自分のことしか考えられなくて。
 でも、認めたくなんかなかった。まさか、森澤が。あんなに優しい人がこんなに冷たく突き放すなんて。
「…ご、ごめんなさい…」
 動かない背中に声を掛ける。でもかすれて上手く音にならない。真梨子は、はあっと熱い息を吐いた。
 会いたくて、ただ会いたくて。その気持ちだけでここまで来てしまった。森澤の気持ちなんて少しも考えることが出来なかった。これ以上、会わないでいたら、どうにかなってしまいそうで。欲しかったのはこんな冷たく突き放す言葉なんかじゃない、優しく微笑んで貰いたかった。自分が来たことを喜んで欲しかった。
 だって…真梨子が高熱にうなされていた数日間、会いたかったのは森澤だけだったのだ。森澤に会いに来て欲しくて、傍にいて欲しくて、寂しくて。だから、彼も同じだと思ってしまった。
「わ、…わたし…帰りますっ! ごめんなさい、すみませんでしたっ…!」
 真梨子はふらふらと自分のバッグを手にするとくるりと玄関に向かった。頬を流れていくものが首筋を伝っていく。生暖かい、自分の中から溢れ出るもの。足元が崩れてそのがれきの中に飲み込まれていく。母が亡くなったときのように、ううん、それ以上に。真梨子は味わったことのない冷たいものに覆われていた。
「…真梨子君?」
 ずずっと、すすり上げてしまったから、気付かれたのかも知れない。廊下の方に歩きかけたところを、慌てた声に呼び止められた。ぴくっと背中で反応する。でも声も出なかった。出せなかった。
「あのっ…違うんだ、そうじゃなくて…! その…」
 がばっと起きあがった気配。その埃っぽい空気の揺れが真梨子の髪を揺らした。
「その…、俺、君が来る前まで…君の夢を見ていたんだ」
「え…?」
 涙顔のまま思わず振り返る。布団の上で身を起こした森澤が、布団を掛けた膝を抱えていた。その姿を傾いた陽ざしがオレンジ色に染め上げる。髪の先がふわふわと金色に光っていた。
「夢の中で…俺は…っ!」
 苦しそうに、かぶりを振る。そして、思い詰めた顔でこちらを見た。
「駄目だっ! 君が来て、もう自分が思い通りになりそうにない。頼む、帰ってくれっ! 明日になれば、熱が下がればいつも通りに戻れる。でも今日は無理だ…このままだと…俺は…!」
 悲痛な叫びが部屋中にこだました。真梨子は信じられない気分でその言葉を聞いていた。…先輩が? 先輩も、私の夢を見たの? そして…夢の中でって…?
 そろそろと。震える背中に近付いていく。帰ってくれと言われたのに、それと反対の方向に身体が動く。自分の心を越えた本能の部分が森澤に反応していた。
「先輩…」
 ランニングの背中に、そっと手のひらを当てる。ぽつんと首の付け根にほくろがあった。そこはしっとりと汗ばんでいた。ぴくりっと微かに反応する。でもそれ以上は動作も言葉もなかった。真梨子はそっと声を掛ける。
「先輩? あの、明日になったら、いつも通りに戻っちゃうんですか…?」
 でも背中を向けた人は何も答えてくれない。真梨子はどきどきと高鳴る胸を押さえながら大きく深呼吸すると、言葉を続けた。
「だったら、今日は私にお世話させてください。先輩が困っていらっしゃるときに、私助けて差し上げたいです。先輩のお役に立ちたいの…こう言う時じゃなくちゃ…傍にいられないんでしょう?」
 真梨子はきゅっと唇を噛んだ。悲しみの上を行くものがひたひたと心を満たし始めている。それが心の大部分を占めていくと、もう怖いものはなかった。
「私、先輩のお世話がしたい。ご飯作って、お掃除して、お熱が引くまで看病して。先輩、病気なんでしょう? 動けないんでしょう? だったらいいじゃないですか、お願いします、勝手にやらせてっ!」
「か…風邪がうつるから…」
 布団に押しつけたせいかくぐもった声で反応する。でもそんなことにひるむ真梨子ではなかった。
「大丈夫。だって、森澤先輩の風邪は私がうつしたんだもの」
「…え?」
 森澤がさすがに信じられないように声を上げた。その反応が真梨子には嬉しかった。
「私…ずっとずっと先輩のことだけ考えてました。先輩に会いたい、会いたいって…だから私の心が先輩のところまで届いたんだわ…」
 そこまで言うと、真梨子はそっと背中に添えていた手のひらを離した。
「私、ご飯を作ります。上手には出来ないかも知れないけど…頑張りますから。だから…」
 食べて下さい、という言葉が遮られた。がばっと布団を翻して森澤がこちらに向き直った。そして真梨子の前で畳を掴むように四つん這いになる。
「ま…真梨子君っ…!」
 身体から絞り出すような叫びだった。その声に腰を浮き掛けた身体が止まってしまう。真梨子は呆然とその人を見つめた。
「俺を見くびらないでくれっ! 君は分からないのか? 俺が初めから、何の出来心もなく、思いやりの気持ちだけで君に接したと思うのか? そんなことはないんだっ…いつだって、特別の心で君を見ていた。君に優しくすることで君に頼られたくて…精一杯大人の男を演じたつもりだ。でも…今日は無理だっ! それが…出来そうにない…」
「先輩…」
 真梨子は。森澤の訴えにどうやって答えたらいいのか分からないでいた。でも自分の想いをちゃんと伝えなくてはならないと思った。
「私、ご飯のお買い物して、すごく嬉しかったんです。ふたり分の食事の材料を買うことがこんなに素敵なことだとは思いませんでした。…ずっと、ひとりでいたから…ふたり分なんて忘れてました。私には手に入らないものだと思っていたから…」
 寂しかった、もう限界だった。心を埋めてくれる人を求めて、自分はさすらっていたのだ。ゆらゆらと頼りない空間を渡り歩いて…そう、どこまでも。そっと手を伸ばす、その人の頬に。それを両側から包み込もうとしたとき、ぶわっと大きな風が起こって…そのままその中に取り込まれていた。
「…真梨子君…」
 ぎゅっと抱きすくめられて、さすがに気が動転する。どうしたらいいのか、分からず、大きな腕の中できゅっと身を固くした。そんな真梨子の首筋に熱い吐息がかかる。森澤はどうにかして呼吸を落ち着かせようとしているようだが、熱い息がさらにごうごうと燃えたぎっているように思えた。
「真梨子君…俺が、これから何をしたいか、分かるね。…嫌だったら、そう言ってくれ。ここまで来たら、もう自分では止めることは出来ない…」
 ふうふうと肩で息をしながら、苦しそうに絞り出す声。ギリギリのところで踏みとどまっている、辛い想いが伝わってきた。それが何であるか、全く分からない真梨子ではなかった。それなりの知識はあった。
 でもそう言うことがこんなに早く自分に降りかかってくるとは思っても見なかった。クラクラと目眩を覚える。熱に冒され汗をかいた森澤の身体はいつかの職場での抱擁とは較べモノにならないくらい熱くたぎっていて、むせるような体臭がした。
「先輩…」
 恐ろしくて、逃げてしまいたいような状況だったのかも知れない。でも真梨子の心は熱い森澤の身体に触れて、かえって穏やかになっていった。急流がやがて大きな海原に注ぎ込んで穏やかな波に乗るように、この流れに身を任せればもう怖いものはない気がした。
「いいの…離さないで…」
 どうやって答えたらいいのか分からなかったが、この腕から逃れたくないと言うその気持ちだけを伝えたかった。真梨子は震える声でそう告げると、ゆっくりと顔を上げた。森澤が信じられない表情でこちらを見ている。
「…そんな、真梨子君…」
 真梨子はふっと微笑んだ。そして、少し背中を伸ばして彼に近付くとそっと目を伏せた。森澤の荒い呼吸が止まる。そして…ゆっくりと真梨子の上に熱が落ちてきた。森澤は貪るように真梨子の唇を吸い、片手で焦るようにブラウスのボタンを外した。小さな滑りやすいボタンをようやく外し終えると、背中に手を回して下着に手を掛ける。ずるっと緩んだその奥に大きな手のひらが入り込んだ。
 真梨子には何も考える余裕がなかった。ただ瞳を閉じて森澤の熱を身体に受け止めながらその流れに乗ることしか。もしかしたら取り返しの付かないとんでもないことをしているのではないか? そうは思っても全く怖くなかった。むしろ包まれているという温かい実感だけを感じていた。
 今まで森澤が横たわっていた薄くて湿った布団の上にそっと横たえられる。森澤は真梨子の上体から服を全てはぎ取るとそっと細い身体に覆い被さってきた。ふっと胸に息がかかって真梨子はぴくりと反応する。そして薄目を開けてそちらを見た。
「…いいの? こんなに綺麗なのに…俺なんかが…」
 彼のギリギリの理性が最後の糸を繋いでいた。真梨子はふっと微笑んで静かに言った。
「先輩が初めての人なら…後悔しないから…大丈夫…」
 そう言うとまた恥ずかしくて目を伏せてしまった。大人と呼ぶには心許ない身体だろう。森澤を惹き付ける魅力なんてないかも知れない。もしもがっかりさせたらどうしたらいいのだろう。森澤の熱がふっと胸の間に落ちた。そこに初めての湿ったぬくもりを落とされる。真梨子の身体がびくっと震えた。
「…真梨子…」
 低い、染みていくような声がする。震える身体でそれを受け止めていた。
「こういう考え方は古くさいと笑われるかも知れない。でも…俺は君とこういう関係を持つなら、それきりにするつもりはないよ? 君さえ良ければ、ずっと…一生傍にいて欲しい。そう思ってる…」
「先輩…」
 真梨子は信じられない気持ちでいっぱいだった。目が合うと森澤がふっと微笑んでくれる。
「大切にするよ…君が悲しむ隙がないくらい…誰よりも、何よりも大切にするよ…」
 真梨子は言葉が出なかった。でも潤んだ瞳でその人に応え、小さくこくんと頷いた。森澤は嬉しそうにふうっと息をすると、首筋に顔を埋めてきた。
「……?」
 ふと、森澤の動きが止まる。彼は真梨子の白い首筋に絡みつく赤い糸を見つけた。それをそっとたぐり寄せる。やがて銀色の小さな鍵が現れた。
「あ…」
 今の今まで。真梨子はその存在を忘れていた。彼と、大野と一緒に埋めた宝箱の鍵。10年後に必ずふたりで掘り起こそうと約束した…思い出の。あれからまだ1年と少ししか過ぎていなかった。でも母の訃報を伝えることも出来ず、辛いときに連絡を付けることも叶わないその人がとても遠く小さな存在になっていた。
 欲しかったのは思い出でも約束でもない。確かな今。今を一緒に歩いてくれる存在。真梨子が求めていたものと大野は大きくすれ違っていた。振り切ってしまった振り子はもう同じ時を奏でることはない。永遠に時をたがい続けるのだ。
 真梨子は少し青ざめた頬をほっと緩ませた。そして自ら赤い糸に手を伸ばす。
「…邪魔ですよね。いいです、外します…」
「いや、このままでいいよ」
 その手を制される。森澤が優しくかぶりを振ると自らの手にその銀の鍵を乗せる。そしてそれに優しく口付けた。
「…先輩?」
 森澤の優しい視線が真梨子の驚いた顔を辿る。
「君の、過去も未来も。みんなまとめて愛するよ。それじゃなくちゃ、君を幸せになど出来ないからね…」
 真梨子は感極まってぼろぼろと涙をこぼした。森澤がそれを優しく拭う。真梨子は振るえる腕を彼の首に回した。そしてそっと、抱き寄せた。


「ママ〜〜〜!」
 大きな花束を手にした真帆が明るく叫びながらかけていく。線路沿いの遊歩道。さらさらと風に舞う背の高い草。毎年巡ってくる5月。また1年、身丈はそれほどでもないがびっくりするくらい娘らしい姿になった彼女を真梨子は感慨深く見つめていた。
「あんまり、慌てると転びますよ。顔に傷でも作ったら、お嫁入り前の娘が大変です」
「やっだ〜、ママ、そのいい方、古臭〜いっ!」
 あれから何度の5月を迎えただろう。彼の命を奪ってしまった10年目の5月。新しい出会いと別れのあった20年目の5月…。いつの間にか自分の娘があの頃の自分と同じ歳になるなんて…。

『いつまで、一緒にいられるかしら?』

『いつまでも、いつまでも、一緒にいよう。この街が人が変わっても、俺達は変わらないから』
 そして、あの日に二人で作った秘密。桜の木の下に埋めたささやかな夢。

 永遠なんてないのかも知れない。確かにあったはずのぬくもりが無に帰ることも。振りほどいてしまったのは真梨子で。彼を信じられなかったのも真梨子で。それでも生きている。ささやかな幸せの中で。
 肩のところでふっつりと揃えた髪。娘の真帆のクラスメイトの親の中でも真梨子は若い方だ。時々娘と姉妹に間違えられる。真帆の方はぷうっと膨れているけど、そんな時、夫はとても嬉しそうな顔をする。変わらない笑顔でずっとずっと包み込んでくれる。だから、何もかもを乗り越えることが出来た。
「ねえ、ママ?」
 くるくると大きな目を動かしながら、真帆が真梨子の顔を覗き込む。あの、思い出の桜の木の根元に花を捧げて、ふたりで思い出に手を合わせた後で。
「なあに?」
「ママって…やっぱり、パパに無理矢理モノにされたの?」
「…え?」
 真梨子は面食らってしまった。いきなり、何てことを言い出すんだ。まあ、そんな年頃なんだから仕方ないか。
「お兄ちゃんが言ってたわ。計算したら、ママは高校を卒業して就職したその翌年の3月にお兄ちゃんを産んでるって。就職したての無垢な女の子をパパってば、どんな顔で口説いたの? 全然想像が付かないわ…」
「ま…」
 何と答えたらいいのかも分からずに、真梨子は言葉に詰まってしまった。まさか自分の方から押し掛けたとは言えない。やはり恥ずかしいものがある。森澤と関係を持って、あっと言う間に妊娠して。真梨子は19にして母親になってしまったのだ。
 でも幸せだったと思う。ずっとずっと真梨子は幸せだったと思う。この人だと信じた人に間違いはなかった。真梨子は大きく深呼吸した。新芽の芽吹く季節の空気はみずみずしい。生気に溢れている気がする。
「ねえ、真帆ちゃん…」
 真梨子はふふっと微笑んだ。
「素敵な彼がいるのはいいけど、くれぐれも避妊には気を付けてちょうだいね。ママ、まだおばあちゃんにはなりたくないわ…」
 今度は真帆が真っ赤になる番だ。いくらませている現代の若者とは言っても、まだまだ負けない。
「そそそそ、そんなんじゃないもんっ! まままま…ママっ! 何てこと言うのよ〜下品だわ〜!」
 ぴょんぴょんと跳ぶように駅への道を走っていく。今日もこれから予備校だ。と言うことは彼とデートだと言うことで…。

『いつまで、一緒にいられるかしら?』

『いつまでも、いつまでも、一緒にいよう。この街が人が変わっても、俺達は変わらないから』

 そう言うことがあればいいねと思う。もしかしたら、娘はそんな夢を見てくれるかも知れない。かたちは違えど、愛の重みは変わらないから。

 線路沿いに続く遊歩道。ここを流れる南風は過去と未来を繋ぐ気がする。真梨子は背の高い草に負けないようにすっと背を伸ばすと、新しい季節へと歩き出していた。

Fin (021119)

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