陽の当たる障子戸の向こうから、ふたつの琴の音が響いてくる。
今は山裾にひっそりと隠れるように建っているこの館も、その瓦屋根の構えや柱の太さを見れば建築された当時の隆盛を容易に想像することが出来る。かつては西南の集落にあって、大臣家の三本柱のひとつと呼ばれた一族。しかし今やその名声も遠く、他の領主たちの勢いに圧されて隅に追いやられ、まさに風前の灯火であった。 館の主である男は四十も半ばになる頃であるから、世が世であれば大臣家を陰となり日向となりお守りする重臣のひとりとして皆から一目置かれる存在であったに違いない。だが、他の領主の跡目と共に元服と同時に出仕を許された彼はいつまで経ってもうだつが上がらず、その上病弱であったため思うようにお務めも果たせずにいつの間にか屋敷の奥にひとりで籠もるようになってしまった。 まだ陽も高い刻限だというのに、今日も館主は一番奥の対にひとり引き籠もり、不味い酒をすすっている。傍らに控えているのはやせ細った老婆がひとりきり。それの連れ合いであるやはり老いた男は、今頃領地の村々を巡り今夜の食料を調達している頃であろう。 「ええい、忌々しいことを……! 今に見ておれ、自分たちがどんなに愚かであったか思い知らせてやろうぞ」 毒々しい言葉に老婆が顔色ひとつ変えなかったのは、彼女が全てをわきまえていたからではなく単に耳が遠く聞き取ることが出来なかったからだ。それでもかすかな気の揺れで何かを感じ取ったのだろうか。もう一本の燗をつけるために、老婆は静かに立ち上がった。
中庭に面した表の部屋にも、暖かな日差しが注ぎ込んでいた。このように人気のない場所、障子戸を取り払ってしまったところで何の不都合もなさそうな気がする。しかし館主の言いつけで、そこはいつでも堅く閉ざされたまま。狭い二間続きの対は、奥の部屋が寝所となっている。壁が崩れかけ重い梁に柱が目に見て分かるほどに歪み掛けてはいるが、そこにもまた二輪の春の花が芳しく咲きほころんでいた。 「もう、これ以上は無理です。わたくしは楸(ひさぎ)さまのようには出来ません」 そう広くない部屋は見苦しくない程度に片付けられていたが、それでも二面の琴を並べると表の間はいっぱいになってしまう。そうでなくても女子(おなご)のまとう衣はかさがあり、その上を流れる豊かな朱色の髪も行き先を遮られ、心なしか窮屈そうに感じられる。 「またそのようにして投げ出そうとする。繭(まゆ)、あなたの悪い癖が出ていますよ」 あとから穏やかにたしなめた声の持ち主の方がいくらか年上に見えるが、ここにいるふたりは実は同い年。正確には小柄な娘の方が二月ほど早く生まれている。乳兄弟として片時も離れることなく姉妹のように過ごしてきたふたりも、その身分は館の姫君とそこに仕える侍女とはっきり分かれていた。 「……でも」 あどけなさの残る面立ちの娘は、それ以上の言葉を続けることが出来ずに唇を噛みしめた。これ以上話を続けても、出てくるのは愚痴や恨みごとでしかない。言葉を重ねることで更に惨めになるのは自分自身、そのことは他の誰よりも彼女自身が一番よく知っていた。 「そのように落ち込むこともないでしょう、この曲も初めて合わせた頃に比べれば格段に上手になったではありませんか。辛抱強く頑張れば、必ず上達していきます。決して、諦めてはなりませんよ」 そう言って微笑む面差しは、亡き御母上にうりふたつ。貧乏暮らしの悲しさで化粧道具もギリギリまで節約しつつ用いなければならない有様ではあるが、それでもわずかばかりの紅を落とせばその口元は鮮やかな花色に染まる。きめの細かい肌はおしろいなど使わずとも目映いほどに美しく輝き、ふっくらとした頬にはつい触れたくなるほどだ。 「それに……この曲を最後まで完璧に合わせることの出来る日が、楽しみでなりません。さあ、私のためになら、頑張ってくれますね? 私の琴の相手をしてくれるのは、昔も今も繭ひとりしかいないのですから」 ―― どうしてここまで完璧な御方がいらっしゃるのだろう……。 千をとうに越える昼と夜をこの方と共に過ごしてきた。歳月を重ねるごとに、お美しさと知性にはさらに磨きが掛かり、一体どこまでお進みになるのか末恐ろしいほどである。どうして自分などがおそばにお仕えすることが叶うのだろう。身の程に余る幸運に、繭は時折気の遠くなる心地がした。 「も、もったいないお言葉にございます……!」 裕福な家柄であったとはいえ、自分の母は農民上がりの身の上。頃良く領主様の御子と月近くに自分を身ごもったため、乳母に上がるという栄誉を得た。その母もそして父も世を去って久しい。母の実家とも疎遠になり、今ではもうここの他には戻るあてもなかった。 「楸さまはお姿が美しいだけではなく、お心もそれに勝る程にございます。このように深い藍染めの衣も完璧に着こなされて……その……」 花の季節に間に合うように、新しい衣が仕上がって本当に良かったと思う。いくら今夜の食料に事欠くような状況でも、自分の主であるこの人にあちこち繕ったあとのある衣ばかりをまとわせるのは心苦しい。暇を見つけては顔見知りの家をいくつも訪ね歩き、ようやく希望に叶う品を手に入れることが出来た。 「まあ、……繭もこの新しい衣が気に入っているようですね。良かったらあなたも鏡の前で合わせてみませんか? 私たちは肌の色も髪の色もよく似てますから、きっと似合いますよ」 優美なお姿に似合わず、次の瞬間には飛ぶような足取りでこちらまでお出でになった。 「えっ、……いえっ!? そのようなこと、滅相にもございません……! わたくしなどが、姫様のお召しものを拝借するなど……」 慌てて言い訳をする間もなく、藍染めの衣はひらりと宙を舞う。そして己が肩に舞い降りたかと思ったそのときには、もうそこに深窓の姫君のお姿は見あたらなかった。 「ああっ! お待ちくださいませっ、……楸さまっ! なりません、いつの間にそのような男装束を衣の下に……!?」 哀れな侍女が真っ青になったのも無理はない。数えきれぬほど水に通し洗いざらした下男の装束は、紛れもなく彼女の兄のもの。いつの間にこのようなものを手に入れていたのか。片時も離れずおそばにいたはずなのに、少しも気づかなかった。兄上も兄上だ、粗末な衣など気安くお貸ししないようにといつも申し伝えているのに。 「とてもよく似合っているよ。せっかくだからしばらくの間、それを羽織ってじっとしていてくれないかな」 あっという間に、お言葉までが男のものにすり替わっている。逞しい肩先は、粗末な衣の上からでもその精悍さを容易に想像できた。 「このような暖かな日和に障子戸の奥に押し込められていては息が詰まってしまう。ああ、もう限界だ。だから頼んだよ、繭」 手早く御髪をひとつにまとめる仕草もさすがに手慣れている。こうなってしまっては、いくら言葉で制したところで思い留まるような方ではない。とはいえ、腕力でねじ伏せられる相手でもなかった。立ち上がって身丈を比べれば、その差は歴然。 「ひっ、楸さまっ! 困りますっ、このようなことが御館様に知られたら、わたくしがお叱りを受けることになってしまいますっ……!」 必死に持ち出した最後の切り札も、全く役目をなさない。すっかり若君のお姿に変わられたその方は、にっこり微笑むと紅をぬぐった口元に自分の長い指を当てた。 「ふふ、……だから、声など立てずに大人しくしていて。夕餉の膳が届く日暮れまでには必ず戻る、約束するから」 そして彼は障子戸のすぐ近くまで寄り、一度片目が覗くほどの細い隙間を開けて外の様子をうかがった。 「繭だけが、頼りなんだ」 ふわり、と柔らかな気が部屋奥まで舞い込み、そのあとまた静寂が訪れる。元通りに閉ざされたその場所には、途方に暮れたままの侍女がただひとり残された。
◇ ◇ ◇
十数年前、館主が困った思いつきをしたときには、当時はまだ大勢いた家臣たちの誰もが一様に途方に暮れた。 「何を言う、男子を成人させ立派な働きが出来るまでになるには、途方もない出費が掛かる。それが、姫君であれば終始暗闇の中に押しとどめておくだけで用が足りるではないか」 旧家のお世継ぎともなれば、学芸にも武芸にも秀でていなければならない。そのためには相応の師匠を雇わねばならず、大金がかかるは必須。 「それに引き替え、娘子であればすべてにおいて気楽なものだ」 女子に必要なのは、結局のところ美しい容姿と立ち振る舞い。元々の素材さえ良ければ、大して手を加えることがなくともそれなりの仕上がりになる。いよいよ縁談が持ち上がったときに、急ぎ支度をしても十分用が足りるではないか。手習いなど、ほんの遊びのように習わせておけばそれで良い。あまり生真面目であったり学問にのめり込むような女子は、かえって敬遠されてしまう。 あまりにも奇抜な考えに、誰もが首を捻るばかりであった。そのように相手を欺くようなことをして、真実が明らかになってからどうするつもりなのか。これほどに初歩的なところに子供ですら気づきそうなものだが、とうのご本人は気楽なものである。 「それは、そのときが来てから考えれば良いこと。遠い将来のことなど、今から気に病んでどうする」 そうは言っても、気づけば「そのとき」はすでに間近に迫っているではないか。それを御館様ご自身もご承知のはずであるが、面倒ごとに進んで手をつけるような御方ではないから、すべてが後手後手にまわっている。
枯れ草がそのまま生い茂った中庭を進み、わずかばかりの林を抜ければ、見晴らしの良い丘に出る。 短くすることの許されない髪が重く、思うような動きが出来ないことがもどかしいが、やはり外気は格別のものがあった。気の優しい侍女にはいつも心配ばかりを掛けてしまうが、彼女ならそれも仕方ないと許してくれるはずである。 「あ、これは若様……!」 その場所にはすでに繭の兄が到着していた。この者は小瀬(オゼ)という名で、見るからに純朴そうな顔立ちをしている。体型もずんぐりして、ふたりが並ぶと頭ひとつ分ほどの差があった。 「本日も首尾良くいったご様子ですね。さあ、準備はすべて出来ております。こちらへどうぞ」 人目を避けた狭い場所に、本格的な的場を作ってしまうとは驚きだ。この者の閃きには、いつも驚かされてばかり。しかも武芸であれば、自己流ではあるが一通りはこなすことが出来、師匠としても申し分ない。 「ほう……、これはまた見事なものだね」 無理に切り開かれた土地を斜めに使い、木々の幹に設置した的も様々な遠近や高低で変化をつけている。これならば、腕を磨くにはもってこいだ。 「さあ、ぐずぐずしてはおれません。早速稽古を始めましょう、まずはこちらへ」 小瀬は一度地に膝をつくと、よく手入れされた弓と矢を若君へと差しだした。侍従職には遠く及ばない身の上ではあるが、その品格は田舎暮らしにはもったいないほどである。 「あちらの的を目指してください。まずは前回までの復習と言うことで、お手並み拝見といきましょうか」 軽い調子でそう言われるが、実際は言葉ほどは甘い状況ではない。幾重にも折り重なるように並んだ幹や枝の奥に定められた的は、一体どこに目標を定めたらいいのか迷ってしまう。傍らの下男の口元に浮かぶ淡い笑みも、まるでこちらの戸惑いを承知しているかのようである。 「お前もなかなか口が達者になったな」 ぎりりと矢を引いて、一気に放つ。しかし、途中までは具合良く進んだかに見えたその行方も、もう少しのところで右にそれてしまった。そして、再び試みたその結果も同様であった。 「やはり、脇が開きすぎているようですね。あまり上腕に力を入れ過ぎない方が安定しますよ」 楸は軽く舌打ちをしたが、それは己自身に対する戒めであった。どうしても武芸には遅れを取ってしまう、それが口惜しくてならない。他の館の者たちのように幼少よりきちんと師について習えば良かったのだが、自らに課せられた特殊な環境がそれを許してくれなかった。 ―― このようなことでは、跡目としての役目を果たすことも出来ぬではないか。 あの父に、今更何を望むことも出来ない。もしも己の進みたい道があるのなら、自らの力で切り拓く他ないのだ。だが、それを承知したとしても、具体的にどうすればいいのだ。このままでは、ただいたずらに時が過ぎていくだけ。 「分かった、もう一度注意してやってみよう」 決して自棄を起こしてはならぬ、地道に一歩ずつ前に進むしかない。そう思いつつも、行き場のない焦りが我が身に押し寄せ、彼の足場を不安定に揺らし続けていた。
続く(100414)
|