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 奥の間から急な呼び出しがあったのは、その翌日のことであった。

 呑んだくれの父親とは久しく顔を合わせる機会もなく、そのことをむしろ清々しくさえ思っていたほどである。せっかくのうららかな日和、今日こそは遠乗りの稽古を付けてもらおうと考えていたのに、とんだ横槍が入ってしまった。

「ああ、全くもって面白くない」

 しかも礼儀とはいえ、実の父親との面会のためだけにどうしてここまで着飾る必要があるのだろう。その苛立ちがついつい口をついて出てしまう。古びた姿見に映るその面差しからはおよそ想像も付かぬ暴言である。

「そのようなお顔をなさるものではありません」

 手持ちの衣装をすべて床に並べ、かいがいしく支度を手伝ってくれるのはいつもの気のいい侍女であった。こういうときの彼女は、急に姉のような顔つきに変わる。

「これも良い機会ではありませんか。一度きちんと御館様に楸さまご自身の胸の内をお話になることも必要かと存じます。このようにいがみ合ってばかりでは何も変わらないでしょう」

 いつになく凛とした響きで言葉を重ねる繭を不思議な気持ちで見つめる。だが、考えてみればそれも当然のこと。不安な心地のまま過ごしているのは何も楸ひとりではない。このまま朽ち果てていくばかりと思われるかつての名家に去りどきを誤って留まってしまった片手ほどの使用人も、皆一様に心細い日々を送っているのだ。

「そうかな、あの父には何を申し上げても無駄な気もするが」

 表向きは大臣家の姫君とも見まがうほどに美しく飾り立てながらも、やはり自分は「男」であるのだ。いつまでもこのような馬鹿げた芝居に付き合ってはいられない。そうは思っても、酒が回って常人の思考が困難になっているかの人はいつでもまともに話の出来る状況になかった。

「いいえ、もしも楸さまが真正面から向き合うお気持ちになれば、必ずや道は拓けましょう」

 繭は背も低く手のひらも小さい。その外見は女の童でも通用するくらいの幼さであった。しかし両親を亡くし戻る実家もない身の上では、気丈になるしかない。この者にも、そしてその兄にも、ただ人としての覚悟を感じる瞬間はたくさんあった。
  情けない主人を見限ることが出来なかった優しい心根を持つ者たちは、己の気持ちをあからさまに口にすることはない。だが、だからといって甘えてばかりでは駄目だ。領地から上がる禄高も西南の大臣家から申し渡されている半分にも満たないほど。このままではお家取り潰しの憂き目を見ることになるのは想像に容易い。

「……繭は本当に頼もしいね」

 思わず口をついて出てきた言葉に、娘はぽっと頬を赤らめる。

「そ、そのようなことはございません! わたくしなど、楸さまの足下にも及ばぬ存在ですから」

 いつの間にか、年頃の色香までを滲ませている。ささやかに芽吹いた花芽は、これからゆっくりと時間をかけて膨らんでいくのだ。

「ふふ、私たちの間に今更そのような隔てなどいらないだろう。この館で、私のことを心から思ってくれるのはお前たちふたりだけだから。心から感謝しているよ」

 もしも我が身ひとつであれば、このまま人目に付かずに生涯を終えることも難しくはない。それが己の運命であれば、甘んじて受けよう。だがしかし、自分にはまだ護るべきものがある。

「さあ、気は進まぬがそろそろ出向くとするかな」

 久々に顔を合わせたからといって、何の代わり映えもないだろう。またいつも通りに行き場のない愚痴を長々と聞かされ、無駄な時間を過ごすのみ。それもあのような父を持ってしまった子の苦行だと受け入れるしかない。

 しかし渡りの奥で彼を待っていたのは、そんな予想とは全く違う事実だった。

 

◇ ◇ ◇


「え、縁談……? それは、真の話にございますか……!?」

 悠々と上座を陣取って楸を迎え入れた館主はいつになく上機嫌であった。それでもいくらかの酒は回っているのだろう。その眼差しは焦点が定まらずどこかおぼつかないところがある。

「ああ、冗談でこのようなことが言えるか。入谷(イリヤ)と言えば、近頃では飛ぶ鳥を落とす勢いの一族。西南の大臣様にも覚えめでたく、この上ないお相手だ。そこの跡目殿がお前の噂を聞きつけて、是非お目通りをと仰るのだ」

 あまりの驚きにしばらくは声も無くしていたが、こうして佇んでいれば自分もただの姫君に見えてしまう。しかし、どうしてこのような話をまともに聞くことが出来よう。全く、馬鹿馬鹿しすぎてやっていられない。

「な、何を寝言のようなことを仰っているのです。父上もご承知の通り、私はれっきとした男子にございます。どうしてそのようなお話を受けることが出来ましょう……!」

 確かに世の中には、そのような道を好む輩もいると聞く。だが、名家の跡目ともなれば、それ相応の役目を負っているのだ。男同士では子をなすことなど不可能、そのことをどうやって説明すればいいと言うのだろう。

「おやおや、そのようなことを心配するまでもないだろう」

 しかし、すっかり舞い上がってしまっている館主には、哀れな息子の言葉など届くはずもない。

「お前はこの通り、どこに出しても恥ずかしくないほどの美しさだ。しかも女子として一通りの教養を身につけている。飾り置くのにこれ以上の者はあるまい。相手の男の心さえ掴んでしまえば、あとはいかようにでも言いくるめることが出来るはずだ。いくら世間知らずとは言っても、それくらいの知恵は持ち合わせているだろう」

 そう言って、目の前に差し出される文。美しい薄紙に鮮やかな紐が結ばれている。相手の男はなかなかの風流人とみたが、今はそのようなことを問題にしている場合ではない。

「この文にはわしから返事を出しておいた。早速にでも明日の夜にお忍びで訪れるそうだから、相応の支度をするように」

 やはり、まともな話などが出来る相手ではなかった。酒の相手を求められたが、何故そのような馬鹿げたことが出来よう。哀れな若君は愁いを含めた眼差しを磨き残しのある板間に向けながら、早々に席を立った。

 

◇ ◇ ◇


「まあまあ、それは急なお話でございますこと! これからですべてのお支度が調いますでしょうか、早速兄に相談しなくては……!」

 しかし、自分の帰りを今か今かと待ってくれていた侍女は、誰もが度肝を抜かれるほどの新事実にもこちらが拍子抜けをするくらい当たり前に対処していた。

「お酒やつまみなども品の良いものを揃えなくてはなりません。お相手の方は普段から贅沢をなさっているのでしょうから、あまりにも田舎っぽくしては笑われてしまいます」

 忙しく辺りを片付け始める姿にも、うきうきとした様子が表れている。これにはさすがの楸も呆れてしまった。まともな話の通じない父親が夢のような馬鹿げた話をするのはまだ頷ける。だが直接とばっちりを受けるのは自分たちなのだ。そのことが分からぬわけではあるまいに、どうしてこのように平然としていられるのだ。

「楸さま、どうなさいましたか?」

 いつまでも部屋の真ん中に突っ立っていたからだろうか、しばらくはその周りをせわしなく整えていた繭がとうとう口を開く。

「大変申し訳ございませんが、正直人手が足りません。とりあえずはお召し替えをすませて、そのあとはいろいろとお手伝いいただかなくてはなりませんわ。ああ、忙しい。困りましたね、兄上はまだ出先から戻らないのでしょうか? ええと、そうですね。まずはお酒の調達から始めてもらって―― 」

 ひとつひとつ指を折りながら段取りを確認している様は真剣そのものである。だが、楸は自分が何かを間違えているとは到底思えなかった。そんなはずはない、繭やその兄ならば一緒になって父上のあり得ない思いつきに必ずや異を唱えてくれると考えていたのに。

「だ、だけど。繭、君は本当にわかっているの?」

 すっかりと女のなりをしながら、言葉はどちらつかずになる。そのちぐはぐな有様も、この侍女なら当然のように受け入れてくれていた。

「こんなの、どう考えたってまともじゃない。そもそも私に婿が取れるわけがないじゃないか、根本的なところから間違っているのに何故そのまま話を進めようとする? こんな風にしていてもしも真実が分かってしまったときには、繭だってお咎めを受けることになるんだよ」

 自分は正しいことを言っているはずだ、それなのに心のどこかで不安になる。あまりにも普通にしている侍女が、こちらの想いを惑わせようとするのだ。この者は本当に、自分がいつも信頼している本人なのか。まさか狐か何かが乗り移っているのではあるまい。

「あら、楸さま」

 それなのに、繭はこちらの真剣な面差しが可笑しくてならないと言わんばかりの様子で応える。

「嫌ですわ、いくら情熱的な殿方がお相手でも、初めての晩にそこまで深入りはなさらないでしょう。物事には順序というものがあります。きちんとわきまえた方でいらっしゃれば、明晩からしばらくはお通いくださっても御簾越しに対面なさるだけに留まるはずです。それならば、何も問題はございません」

 あまりにもきっぱりと言い切られてしまうと、こちらの方がうろたえてしまう。

「もしものことがあれば、そのときはわたくしが断固阻止してみせます。いえ、ご心配には及びません。一通りのことは亡き母から十分に叩き込まれておりますから」

 この館を訪れる者など、そう数も多くない。身分を隠し辺りをうろつくには悪目立ちしすぎるため、どうしても人目を避けて過ごすしかなかった。決まり切った人間との付き合いしかしてこなかった自分には、外の世界のことがほとんどわからない。自分が「大臣家の姫君に引けを取らぬほど美しい」と評判になっていると聞いても、それが本当にことであるかどうか確かめるすべもないのだ。
「箱入り娘」という言葉があるが、自分などまさにその部類であろう。性別はどうであれ、館の狭い対に押し込められて過ごしてきたのだ。そうならない方がむしろおかしい。

「でも、やはり……」

 話を進めてしまったあとでは、ややこしいことになってしまう。ここは先手を打っておいた方が、身のためではないだろうか。

「何を弱気になっていらっしゃるのです。楸さまならば大丈夫です、必ずやお相手の殿方が夢中になられますよ。そのようにして評判が評判を呼べば、もしもこのたびのお話が上手くまとまらなかったとしても、すぐに次の縁談が舞い込みますでしょう。そうなれば、こちらも賑やかになってよろしいではございませんか」

 繭があまりに嬉しそうに話を続けるので、とうとう言葉が続かなくなってしまった。どうしたことか、こんなことがあるわけない。一緒になって憤ってくれるとばかり思っていたのに、とんだ予想違いだった。

「あちらの方は笛の名手と聞きました。打ち解けられたら、楸さまの琴とお合わせいただくのもよろしいかと。春のお庭におふたりの音色が響くところを想像しただけで、胸が躍る想いです」

 ときどき、繭がひどく遠く感じられる瞬間がある。いつのときも一番近くにいてくれたはずなのに、この頃では時折彼女が何を考えているのかわからなくなることがある。

「また、……そのような戯れ言を」

 それでも、やはり繭は繭であった。彼女に、そしてその兄に頼るしか今の自分が生き延びる道はない。この者たちが正しいと決めた選択ならば、従う他ないだろう。

 何とも煮え切らない思いで障子戸の隙間から見上げた天は、昨日よりもまたさらに春の色が濃くなっていた。

 

続く(100421)

 

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