春霞に滲んだ青がどこまでも続いている。誘い合わせたかのように一斉に咲き乱れた花々で、野も山も埋め尽くされようとしていた。芳しい香を運びながら、緩やかな気が南から流れ込んでくる。 にわかに表の方が騒がしくなったことに気づき、繭は針仕事の手を止めると静かにそちらを伺った。 「おう、便りが届いたから早速やってきたぞ。こちらは御曹司と奥方様からお預かりした祝いの品だ」 懐かしい声が門の向こうから聞こえ、慌てて立ち上がる。しかしちょうどそのときに奥に敷いた布団の上で赤子がむずかりだしたので、まずはそちらへと足を向けた。 「ようこそ、お待ち申し上げておりました。ご無沙汰しておりますが、皆様はお変わりありませんか?」 あいにく皆が出払っていて世話を頼む者も見あたらない。繭は必死に腕を伸ばす赤子を抱き上げると、先ほどまで仕事をしていた上がり縁まで戻ってきた。その頃にはもう、使用人に案内をされながら威勢のいい大男が館の前まで到着している。 「もちろんだ、お前たちもたまには皆で訪ねてきたらいい。これからが一番いい季節になるからな」 もとより遠慮というものがない男である。こちらが席を調えるのも待ちきれないのか、手頃な庭石のひとつにどかっと腰を下ろす。 まあ、無理もないことだ。この辺りで南峰の金の髪を見ることは本当に珍しい。この数年でずいぶんと色々な経験をしてきたと思うが、自分もそれより前は彼女と似たようなものだった。 「そちらがこの正月にお生まれになった跡目殿か。どれ、ひとつその顔を拝んでやろう。これで御館へのいい土産話になる」 繭が進み出て赤子を大男に差し出す様子を、下女がはらはらしながら見守っている。何も知らないのだから仕方ない、でもこの者は見た目は恐ろしく鬼のように思えるが実はとても気さくで人の良い男なのだ。 「ほう、たいそう美しい面差しではないか。これでは先が思いやられるな、またここのご隠居が良からぬことを画策しようとしているのではないだろうな」 いきなり突飛なことを言われて、繭は大きく目を見開いていた。 「まあっ、そのようなこと! 玄太さん、冗談でも止めて下さい」 大男は赤子を高く抱き上げたまま、身体を揺らして豪快に笑った。もちろん、突然そんなことをされたらいつも静かに過ごしている幼子はたまらない。今まで置かれたことのないほどの高い場所から不安げにこちらを見つめつつ、今にも泣き出しそうだ。 「ところで、お前の亭主はどこへ行った。せっかくはるばる来てやったんだぞ、すぐに呼んでこい」 まったく、手の掛かる客人である。繭は小さく首をすくめると、ようやく腕に戻ってきた赤子を隣で震えている下女に手渡した。 「たぶん、裏山の方ではないかと。今、人を行かせましたから、すぐに戻って来るでしょう」 到着は昼過ぎだと聞いていたので、まだ出迎えの支度も終わっていなかった。とにかくこの者はよく飲みよく食べる。台所の方の進み具合も心配だ。 「どれ、ではひとつこちらか出向いてみるか。しばらくぶりに来たが、ずいぶんと庭の手入れも進んでいるな。こちらに到着するまでの道中でも、里の田畑の様子が以前とは見違えるようだったぞ」 大股で奥へと進んでいく男のあとを、繭は慌てて追いかける。 「左様にございますか、それも我が殿のお骨折りの成果でしょう。初めの頃など、こちらの話に真面目に耳を傾ける者もおりませんでしたから」 日頃から心に留めておいた想いではあったが、こうして改めて口にするのは緊張する。言い終えたあとにハッとして俯いてしまった繭を振り返り、玄太は「お前もだいぶ口が達者になったな」と目を細めた。 「ま、あいつも相当に苦労しただろう。何しろ、西南の大臣家と言えば魔物ばかりが住まう恐ろしい場所だ。ちょっとでも気を抜けばすぐに足下をすくわれる、倒れるか倒されるか一瞬ごとが戦場のような有様だからな。にわか仕込みの官人がよくぞここまで出世したものだ」 裏山に続く道からは、領地の様子が一望できた。よく手入れされびっしりと作物の苗が植わっている様は圧巻である。自分たちの努力次第では未来が拓けると知った農民たちにはもう迷いはなかった。 「恐れ入ります」 気づけば、館の女主人となり使用人をもまとめる立場になっていた。あまりにも様変わりしてしまった自分に戸惑いつつも、どうにか毎日を過ごしている。あの兄も今では妻を娶りその者と共に館の繁栄を支えてくれていた。このような日々を一体誰が想像できただろう。 「それにしても、あれからもう四年。こちらの姫君もめでたく袴着を迎えられるとは驚くばかりだな。久しくお目に掛かってないが、さぞかし可愛らしく育っただろう―― 」 男がそう言って空を仰いだそのとき、遠くから声が聞こえてきた。 「こら、またそのような場所に! 何をしているのだ、早く下りなさい」 驚いたのは繭も同様、ふたりは示し合わせたように同じ動作を取る。振り向いたその先に見えたのは、崖に大きくせり出した大木の下で仁王立ちになる青年の姿だった。 「まっ、まあ。如何なさいました?」 普段はあまり声を荒げたりしない人なので、いったいどうしたことかと思う。ようやくその木の元まで駆け寄ると、上の方から無邪気な声がした。 「あっ、母上! 姫はここです!」 まさかと思って見上げれば、艶やかなおかっぱ頭を揺らす幼子が大人でも手が届かぬほどの高い場所にしがみついている。 「これはこれは、とんだ跳ねっ返りがいたものだ」 あまりのことに声を上げることすらできずに立ちつくしている繭をすり抜けて、玄太は興味深そうにその場所に歩み寄った。 「あっ、大きなおじちゃん! すごいでしょう、姫ひとりで登れるんだよ!」 くっきりと太い眉の大男に覗き込まれても、臆するどころか元気いっぱいに声を張り上げる。まったく物怖じしないその姿には、驚かされるばかりだ。ちらと隣を見ると、今は自分の夫となったその人も困り果てた顔でこちらを振り返っている。 「よしよし、俺が下ろしてやろう。ほれ、せっかくの晴れ着が台無しではないか」 さすがの玄太も呆れ顔、太い腕をぬっと出して、小さな姫君を木の幹から引きはがす。またひとつ大きな歓声を上げた彼女は、足の裏が地に着くのも待ちきれないように飛び降りて、館に向かって走り出していた。 「こっちはこっちで威勢が良すぎるって奴だ。何だァ、まさか昔の父君のように余計なものがくっついているんじゃないだろうな。それだけは勘弁してくれよ、我が御館様だってそう何度もお助け下さらないぞ」 何故このような風に育ってしまったのか、聞きたいのはこっちの方だ。ごくごく普通に女子としての一通りの教養を身につけさせようと思っていたのに、物心が付いた頃にはもう手のつけられない状態になっていた。 「まあ……本人の意に染まぬことを強要してもいつか大きく反動がきますから。今は姫がやりたいようにやらせておくのが一番だと思うんです。きっとそのときが来れば、落ち着いてくれることでしょう」 願いが半分、残りは祈りに近い気持ちで。足下ばかりを見ていても前には進めない、遙か先を見通す心があればこそ道は拓ける。今までがそうであったように、きっとこの先も。 「さあ、そろそろお戻り下さいませ。そろそろ宴の準備も出来た頃でしょう。せっかくおいで下さったのですから、玄太さんにも姫の晴れ舞台に是非立ち会っていただかなくては」 その言葉に、楸も振り向いてにっこりと微笑む。支え合って過ごした日々、その確かな積み重ねがあったから今日がある。ふたりはその想いをしっかり胸に刻みつけていた。 転げるように走っていく幼子のあとを追って、皆も緩やかな坂道を戻っていく。あとにはどこまでも広がる天と、静かな花の園が残った。 了(100711)
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