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「では、明朝に出立するというのだな?」

 前もってお願いしてあったおいとまの話を切り出すと、月の御方はよくわかったと仰るようにあっさり頷かれた。

「もうしばらくこちらで精進して欲しいところではあったがな、そのような事情では致し方がない。それにあの父君ではもはや地主としての役目は満足にこなせまい。これからは楸、お前に頑張ってもらわねばならぬぞ」

 その言葉には深く頭を下げるほかない。情けない限りではあるが、それも真実であればしかと受け止めるしかなかった。何もできないからと立ち止まっていては無駄な時間を過ごすだけ、思い切って一歩踏み出さなければ道は拓けない。

「今までのご恩は生涯忘れません。これからも御領主様のために誠心誠意務めたいと存じます」

 この半年余りの間に学んだことは、それまでの人生で培った全ての数倍もありそうだった。見るもの聞くものすべてが珍しく目新しく、そのひとつとして取りこぼしたくないとただただ必死に過ごしてきた気がする。本当に寝る間も惜しんで努力したと言い切ってしまっても大袈裟ではないだろう。
  だがしかし、それが自分としての精一杯だったとしても、成果がどれくらいあったかはわからない。まだまだ何もかもが心許ない限りで、先行きの不安も大きかった。

「西南の大臣家への出仕は半月後だ。そのときは途中の辻で待ち合わせをすることにしよう、それまでも日々精進することを忘れないように、気持ちが揺らげばすぐ態度に表れるのだからな。何、案ずることはない。この先は何ごとも習うより慣れろ、だ」

 軽い笑いを含みつつそう仰る姿を拝見するにつけ、この御方の越えてきたあまたの試練をかいま見ることができる気がする。順風なばかりの人生ではなかったからこそ、ここまでの器を持った方に成長されたのだ。

「まあ、明朝とは急なことですね。まだ支度も残っていますのに……」

 ―― と、そこに。ふわりと花の香が漂ってきた。

 活け終えたばかりの花器を手にした侍女を伴って奥方様がおいでになる。衣を幾枚も重ねた冬装束をしっかりと着込まれていてもその足取りは少しも乱れたところがなく、これもまた訓練のたまものと言えるだろう。

「仕方がないだろう、お家の大事なのだから」

 そう諫める主殿の瞳はお優しい。おふたりの間にはいつでも甘い雰囲気が漂っていた。

「それならば、せめて心づくしをさせていただきたいわ。半年ぶりのご実家ですもの、恥ずかしくない支度でお帰りになってもらいましょう。お連れの方にも以前わたくしが身につけていた衣の中から似合いそうなものを見繕って差し上げましょうね」

 そこまでしていただく義理などないのだが、無碍に断るのも申し訳ない気がする。これほどまでしていただいて、一体この先どのような方法でご恩をお返しすれば良いものか。今はまだその方法も全く思いつかない。

 しかも驚くのはそれだけではなかった。
  ご挨拶を終えて部屋に戻ると、繭の姿が見えない。どうしたことだろうと首を傾げていると、馴染みの侍女が教えてくれた。

「先ほど、奥方様のお部屋にお仕えする者がお迎えに参りましたよ」

 前もっての心構えもなく突然呼び出されては、さぞ肝を冷やしているに違いない。これまでの数日、繭は養生のためにこの部屋で大人しく過ごしていて、数名の者としか顔を合わせていなかった。急に華やかな場所に連れて行かれては、たまらないだろう。
  そうは思っても、自分までが訪ねていくのも大袈裟な気がしてできない。奥方様がお呼びになったのなら、先ほど仰った衣のことだろう。それならば女子同士の話、余計な口出しは良くない。

 そうこうしているうちに夕暮れとなり、使用人たちにあてがわれた対も賑やかになる。ここで過ごした日々ですっかりと親しくなった者たちと言葉を交わしながら、それでも心の隅で繭のことを気に掛けていた。
  いくら何でも時間が掛かりすぎではないか、明朝早くの出立であるから今夜は早めに休まねばならない。そのことを先方もご承知下さっているはずなのに。

 荷造りはすっかり終わっていて、他に何もやることがない。運ばれてきた膳にも手をつけることができず、ただぼんやりと過ごしていた。

「楸さま、こちらにいらっしゃいますか?」

 渡りから進んできた侍女にそう呼びかけられたのは、またしばらくの間が空いてからだった。見るとその者は、奥方様の部屋でよく見かける顔である。

「今宵は中の間でお過ごしになるようにとの奥方様よりのお申し出です。お膳は私が運びましょう、用意したお部屋にご案内致します」

 これは一体どうしたことか。中の間と言えば、館にお出でになったお客様が宿とされる場所。そのような部屋をあてがわれるなど、使用人の立場としてはあってはならないことだ。しかし先を行く者は、それを少しも疑問に考えていない様子。あまりにも平然と過ごされると、こちらも口を挟むことができなくなる。

「さあ、こちらです。中の御庭に面して、とても落ち着いた良いお部屋にございますよ」

 入り口に控えていた別の者から、文を手渡される。それは間違いなく奥方様のお手蹟(て)、流れるような優美な筆遣いは常人が真似のできるところではない。

 ―― 今までの働きに心よりの感謝を込めて。燈花

 その墨文字の向こうに華やかな笑顔が見えるような気がした。しばらくぼんやりと佇んでいると、いつの間にか案内の侍女が姿を消している。目の前には貼り替えたばかりと思われる障子戸、その向こうに蜂蜜色の空間が浮かび上がっていた。 

 さて、どうしたものだろう。

 いつまでも渡りの真ん中で立ち往生していても仕方ない。それは承知しているものの、やはり分不相応な待遇に黙って従うことができなかった。臣下の者としての立場はわきまえていなければならない。この世は全てにおいて正しい規律の中で進んでいるのだ。
  しかしその一方で、主である御方の言葉には忠実に従うこともまた道理である。これが新しい人生へのはなむけであるのならば、有り難く受け取ることもまた忠義を尽くすということになるのか。

 迷いに迷った末、楸は障子戸に手を掛けた。そして、静かに開いてその中を覗く。華美な装飾を一切省いた、しっとりと落ち着いた空間がそこにあった。

「―― 繭?」

 初めは全く人の気配が感じられなかった。だが、注意深く隅々まで見渡してみると、次の間との境に置かれた几帳の影からちらりと覗く袖に気づく。どうしてそれを彼女のものと思ったのかは自分でもわからない。

「……え、ええと……楸さま?」

 すぐに姿を見せて出迎えればいいのに、どうしてそんなところに隠れているのだろう。しばらくは辛抱強く待ってはみたが、いつまでもこうしていても埒があかない。
  とうとう思いあまって、その場所まで進み出て几帳の向こうを覗いたとき、楸はようやく全てを悟った。

「あっ、あの……」

 哀れな侍女は可哀想なくらいに隅の方に縮こまっている。こちらの視線に気づいていても顔を上げることすらできない有様。そうだ、繭はいつもこのような女子であった。少しばかりの間を離れて暮らしていたといっても、その長年培ってきた性格が簡単に変わるはずもない。

「ずいぶん可愛らしく飾っていただいたんだね。どれ、そのようなところにいつまでも隠れていないで明るい場所で良く見せておくれ」

 楸の言葉に、繭はまるで頼りない野の花のようにゆらゆらと首を横に振る。膝の上で固く握りしめられた両の手は大きく震えていた。

「わ、わたくしは、このようなことはお止め下さいと何度も申し上げたのです。でも、どうしても聞き届けてくださらなくて……」

 一歩間違えば、子供っぽく軽々しく見えてしまう明るい色目も、かの方の見立てでこの上なく上品な仕上がりになっていた。髪も念入りに手入れしていただいたのだろう、長旅でやつれていたそれが見違えるように様変わりしている。

「も、もう……このようなこと、耐えられません。あまりに恥ずかしくて、このまま消えてしまいたい心地です」

 繭が奥の間でどのような待遇を受けたのかは、楸にも容易に見当が付いた。

 以前、月の御方が仰ったことがある。元は大臣家の末姫様であった奥方様はご自分よりも年若い者を見つけては妹のように可愛がり世話を妬くのが好きで、余りにも熱が入ると行き過ぎてしまうことも少なくないらしい。このたびもその悪い癖が出てしまったのだろう。

「何を言うの、少しも恥ずかしいことなどないだろう。せっかく素晴らしく調えていただいたのに、どうして隠そうとするの。以前は良く、ふたりで髪を手入れしあったり衣を取り替えたりと楽しく過ごしたではないか」

 あのような日々が二度と戻らないのは、正直辛くもある。繭と自分はいつもどんなときにも本物の姉妹のように一緒にいた。でもこれからは、お互いの立場が大きく違ってきてしまうのだ。

「……でっ、でも」

 このままではせっかくの夕餉の膳も冷め切ってしまう。そう思って少し強引に小さな手を取ってこちらへと引くと、楸はようやく繭の戸惑いがどこにあるのかをはっきりと知ることができた。

「これは―― 」

 月の御方の御館で過ごす最後の夜、どうしてこのような待遇を受けることになったのか。奥方様のお考えになっていることが、ようやくわかった気がした。

「わたくしは、何度も違うと申し上げたのです。でもっ、どうしてもわかっていただけなくて、このように……」

 花色の愛らしい重ねの下に身につけていたのは、純白の装束であった。それの意味することは改めて口にするまでもない。女子として生涯一度の特別の日にまとう約束の衣は永遠の契りを結ぶために用いられる。

「繭」

 記憶の中にあるよりも細く痩せた腕をしっかりと握りしめたまま、楸はその名を己の心に強く刻みつけるように呼んだ。

「繭は……私とでは嫌か? もしもお前がどうしても望まぬと言うのなら、無理強いはしない。だけど私は、この先もずっと繭と共に生きていきたいと思う」

 自分でも驚くほどすらすらと言葉が溢れ出てきた。ようやく自分の中の想いがかたちになったことがとても嬉しい。
  そろそろ妻を迎えては……との話を切り出されたときに、新鮮な驚きがあった。そうなのだ、男子として生まれ変わった自分にはそう言う道が拓けている。地方豪族の跡目として預かり受けた土地と民にしっかりと目を配り、その上で一族の繁栄のためにも尽くしていかねばならない。
  そうなったときに、ふさわしい相手はひとりしかいない。生涯を共にすごそうと誓い合ったその人と、今度こそ永遠の契りを結ぶことが叶うのだ。

「で、でもっ……わたくしと楸さまでは身分が釣り合いません。楸さまにはもっとふさわしい方が他にたくさんいらっしゃるはずです。それなのに、わたくしなどが……」

 どこから入り込んだのか、細い気の流れが燭台の炎をゆうらりと揺らす。壁に映るふたりの影、今のふたりの心をそのまま表すかのように曖昧な距離を保っている。

「だけど、私とずっと一緒にいてくれると約束してくれたのは繭だよ。あのときの言葉、忘れてはいないよね。私は、繭と共にいつまでも生きられるのなら、それが一番嬉しい」

 ようやく顔を上げた繭の頬は涙で濡れていた。

「楸さま、わたくしは本当に……?」

 その身体に未だに残る戸惑いや迷いまでも、その全てをしっかりと抱き留める。互いの中にある新しい熱い想いに気づいたとき、新たなる道が目の前に拓けていく。

 幼い頃に見た花嫁行列、あのときに脳裏によぎった予感が今、確かなかたちとなって楸の心に消えない激しさを運んできた。

 

続く(100708)

 

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