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 最初に妻問いの話を父から聞かされたときは、そんな馬鹿げた話があるものかと突っぱねていた。我が身を女子と偽ったまま男の元に嫁ぐなど、尋常じゃない。もしも周囲の皆がそれを望んでいたとしても、首を縦に振ることなど出来なかった。

 ―― しかし、このたびは話が違う。

 ここに住まうようになったときに与えられたのは、使用人たちに与えられた部屋の一角。単身向けに作られたその場所は、荷物を置いて横になれば埋まってしまうほどのわずかばかりの広さであったが、そもそも寝るだけの空間なのだからこれで十分だ。

 ひとりきりに戻って、そっと手を広げてみる。

 故郷での最後の夜に、誓ったあの約束を思い出していた。繭が待っていてくれるのなら、あの場所に帰りたい。でもそのときに他の女子を連れて行くことなど、今まで一度も考えたことはなかった。

 ―― この感情は、一体どういうことなのだろう。

 繭が傍にいてくれることは、物心つく前から当然だった。どこへ行くのも何をするのも一緒だったし、何でも受け入れてくれる存在。いつか互いが離れて暮らすことになるとは夢にも思っていなかった。
  むしろ今置かれているこの状況の方が信じられない。ひとりで過ごす時間を楽しむよりも、何気ない会話を交わしたいと思う。相手の存在を煩わしく思うこと自体、彼女と自分の間には存在しない感情だった。

 だが、時はこんなにも長く流れてしまった。消息を知らせぬままに過ごしてしまい、あの者たちはどうしているだろうか。もしかしたら今頃は、思いやりのない主人を情けなく思っているかも知れない。いや、彼等に限ってそれはない。でも、もしかすると。
  もちろん、この館に居候をすることに決めたのは自分の意思だ。どう考えてもこれ以外に道はない。最後に残されたたったひとつの希望と思ってもいいだろう。
  でも、もしこれで上手くいかなかったら? そのときは館再建の希望など全く考えられなくなってしまう。
  女子として生きることを余儀なくされ無駄な時間を長く過ごしてしまった自分だから、急ぎ足で全てを取り戻すためにもここでどうしても踏ん張らなければならない。でも、ひとりでこうしていることが辛すぎる。弱音など吐いてはならぬといくら自分を戒めても、すぐに臆病心が顔を覗かせる。

 ―― いや、駄目だ。ここで全てを投げ出してしまったら、今までの半年間の努力が全て無駄になってしまう。何より、世話を掛けた人たちをがっかりさせることだけはしたくなかった。

 

◇ ◇ ◇


「楸、楸はこちらか?」

 足早にこちらにやって来る草履の音にハッと我に返る。昨夜はあのまま寝入ってしまったらしい。辺りはもう、朝靄に包まれた頃であった。

「はい、ここにおります」

 未だに障子戸から顔を覗かせるときには、一瞬戸惑ってしまう。やって来たのは夜営の当番となっている男で、楸よりはいくらか年長の者だった。夜の闇にも似た髪の色は、はるか北にある集落の民のものだと聞いている。

「表にお前を訪ねてきた者が待っている。すぐに参られよ」

 初めは人違いではないかと思った。自分を名指しで訪ねてくる者など見当もつかず、名前の似た誰かと聞き違えたのではないだろうか。
  しかしそう言って断ろうにも、先ほどの者は自分の用事は済んだとでもいうようにさっさと持ち場に戻ってしまっている。こうなっては仕方ない、こちらから出向いてその旨を伝えるほかないだろう。

 衣を羽織り直すと、楸は渡りに出た。使用人の部屋は本館の目と鼻の先にあったから、目的の場所にはすぐにたどり着くことが出来る。

 しかし、表口へと通じる木戸に手を掛けてそろりと開いたそのとき、楸は息をのんだ。

 ―― まさか、このようなことが起こるわけもないはずなのに。

 それまでは前へ前へと進んでいた歩みもそこでぴたりと止まってしまったが、上がり口にいた者たちはその小さな物音に気づいてこちらを振り返る。顔なじみとなった侍女たちのいくつもの眼差しを向けられても、しばらくはどのような言葉を発していいのかすらわからない。

「……楸さま……!」

 懐かしい響きが夜の気に乗ってゆうるりと届く。

「……繭っ、どうして……!?」

 粗末な衣に身を包んだ痩せた女子は、楸の姿をひと目見るなり心の糸が途切れてしまったかのようにその場に崩れ落ちてしまった。

 

 館係の侍女たちのはからいで、使用人たちが家族で住むために用意された居室(いむろ)のひとつに繭は運ばれた。目立った外傷などもなくただの旅疲れではないかという薬師の言葉にホッと胸をなで下ろす。それでも娘が再び目覚めるまでは落ち着かない心地で過ごしていた。

「……ここは?」

 ほとんど喉を通らなかった昼餉の膳が下げられてからほどなく、繭が目を開ける。この半年の間に細くなった輪郭は、年頃の女子とは思えぬほどに肉が落ちていた。
  すぐに声を掛けてやろうと思っていたのに、そのやつれた様子に一体どんな言葉を用いたらよいのかわからないまま。そのうちに娘の方がハッと何かに打たれたかのように上体を起こした。

「楸さまっ、こうしてはおれません。あのっ、……御館様が、御館様が倒れられて……すぐにお戻り下さいませ……!」

 意識は戻ったとはいえ、まだだいぶ辛そうな感じであった。馬を使っても一日ではたどり着けぬほどの距離、もしもこちらの想像通りに女子の足で歩いたのだとしたら、それは途方もない時間である。何故このような無茶をしたのか、楸は理解に苦しんでいた。

「ほら、無理をしては駄目だよ。まだ気分が良くないだろう、もうしばらく横になっていなくては。でもその前にこちらの薬湯をいただいた方がいい」

 そして、なおも不安げな眼差しを向ける娘を安心させるように無理に微笑んだ。

「父の館には早馬の文使いを行かせた。ほどなくあちらの様子がわかるだろう。だから繭は何も心配することはないのだよ」

 酒浸りになっていたあの父が病に倒れたとしても、それは自業自得と言うものである。長年積み重ねられた不審の念は未だに解かれておらず、彼に対しては何の感情も湧いてこなかった。でもそのことをありのままに口にすれば、心優しい目の前の娘はひどく落胆するだろう。そう思えば喉まで出かかった言葉も呑み込むしかない。

「でっ、でも……」

 それでもまだこちらを強く促そうとする繭に、楸は静かに首を横に振った。

「すまなかったね、こんなになるまで無理をさせて。もういい、しばらくはゆっくりと休みなさい」

 記憶の中に留めていた繭は、もう少しふっくらとして生気に溢れていたように思える。どんな状況にあっても物事を明るく受け止めて「大丈夫ですよ」と笑ってみせるその姿に、どれくらい慰められてきただろう。障子戸の奥で過ごしていた日々も、この娘がそばにいたからこそ乗り越えることが出来た。

 こちらの強い口調に観念したのだろう、薬湯を飲み干した繭は再び身を横たえる。急に倒れ込まないようにと手を添えてやると、痩せすぎた背中の一本一本の骨の位置までを確かめることが出来てしまう。

「楸さま、よくぞご無事で……お元気なお姿を拝見して、わたくしも安堵いたしました」

 この者の心を痛めつけた心労のそのほとんどが自分に関係する事柄ではないかと思うと、胸が痛い。共に過ごしていた日々も心配ばかりを掛けてきたが、あのように何も言わずに身を隠してしまえば尚更である。こちらはその日を生きるだけで精一杯であったが、そのような言い訳は聞き苦しいだけだ。

「ごめん、これからはもう黙って置いていったりはしないよ。お前が元気になったら、父の館にはふたりで戻ろう」

 その言葉に、娘の頬が少しだけ血の気を取り戻した。

「誠に……ございますか?」

 取るもとりあえず飛び出しては来たものの、その後のことには一抹の不安があったのだろうか。長い道中もそのことばかりを気に病んでいたのかと思うと申し訳ないばかりだ。

「ああ、必ず。だから、早く良くなりなさい」

 額に手を置いてそう告げると、胸の奥がまた鈍く痛んだ。

 

◇ ◇ ◇


「自分は頑丈にできているから」と言って譲らない繭は、翌日にはもう里へ戻りましょうと楸を急き立てた。こういうところは昔と少しも変わらないと思う。が、その言葉を聞き入れることなどできるはずもなく、他の侍女の手も借りてどうにか説得に成功した。
  数日後には里からの様子を伝える文も戻ってくる。あの父は酒を過ごしただけではなく、おぼつかなくなった足下を踏み外して庭に転がり落ちたらしい。そのときの怪我で片腕は多少不自由であるものの、薬湯の他にのど越しの良い食事なども受け付けるようになっていた。

「腕の良い薬師にお目付役をお願いしてあるからね。あの父にとっては私たちがうるさく言うよりもよほど効果的だと思うよ」

 この幾日かで、自分がとても話し好きであったことに改めて驚かされる。繭の前だと、自分の気持ちを楽に表すことができた。何の構えもなく、心のままに伝えることができる。そんな当たり前のことを、どうして長い間忘れていられたのだろう。

「まあ、それでは御館様もだいぶ気詰まりなことでしょう」

 そう応えつつも、繭の方も容易にその光景が想像できるらしい。わざと隠した口元が笑いを噛み殺しているのはすぐにわかった。

「それにしても本当に見事なばかりの品々ですね。このようなお支度、誠によろしいのでしょうか?」

 出仕用に準備されたものたちを改めつつ、繭は半ば呆然としたように言った。数日前には楸もまったく同じような心地になっていたのだから、その心内は手に取るようにわかる。

「ああ、どれも月の御方のお下がりを拝借したものだからね。こうして何もかも支度していただくのも心苦しいが、かといってろくな衣装も揃えられずあの方に恥をかかせては申し訳ない。とはいえ、早く私もこれくらいの支度を自分でできるまでになりたいものだ」

 障子戸を開け放ったその向こうに広がるのは「白虎」と呼ばれる秋の庭。今が盛りの花々が大きく張り出した枝にこぼれんばかりに咲き誇っていた。この館には他にも季節になぞらえた見事な御庭がある。どの場所も甲乙をつけがたいほどに趣向を凝らされ、見る者の心にその姿を深く刻み込んでいく。

「楸さまは……変わられましたね」

 その言葉にハッとして振り向くと、繭は「申し訳ございません」と小さく言い添えて俯いてしまった。
  彼女はまだ戸惑っているのだ、過去の姿を捨て男子として生きる決意をした主にとてもついて行けぬと思っているのかも知れない。確かに乱暴な方法だったとは思う、だが楸自身は今の自分を少しも後悔してはいなかった。

「繭は、今の私は嫌いかな」

 目線は床に向けたまま、静かに首を横に振る。その仕草がたまらなく愛らしいと楸は思っていた。

   

続く(100628)

 

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