月日はそのあとも、ゆるやかに流れていった。 うだるような夏の暑さを乗り越えれば、いつのまにか実りの季節。その頃には馬の扱いもかなり達者になっていたから、夏の御方にお供して領地のあちこちを回ることが日課となっていた。 「犀月にずいぶん文句を言われてしまったよ、この頃ではお前が奥に全く顔を見せなくなったと言ってね」 どこまでも黄金に続くススキ野原に降り立ち、しばし休息する。屋敷のある丘の上から見下ろしているのと、こうして間近で眺めるのとでは、同じ風景が全く違って見えた。金色の光の粒がススキの穂の先に明るく灯っている。 「いえ、……そのような」 このようなお言葉もいつものことであったが、未だに上手く受け止められない自分がいた。なかなか人慣れしない楸のことを気遣ってのことだとわかっていても、そのお気持ちに応えられない。 「そのようにかしこまることはないのだよ、ふたりのときには無礼講でいいと申しているだろう」 決してこちらを責め立てることはない柔らかな響き。無駄な装飾を一切省いた野歩き用の装束に身を包んでいても、この御方のしっとりと深く豊かな立ち振る舞いは周囲の風景に鮮やかな色を加える。 「おや」 休ませておいた馬の手綱を再び手にした彼が、ふと何かに気づいたように声を上げた。 「あれは辻の庄屋だな。ちょっと話をしてくる、お前はここでもう少し休んでいなさい」 二頭の馬は草原の脇に生えている大木の根元に繋がれていた。一度は浮かせかけた腰を元通りに木陰に収め、足早に進んでいく御方の背を見つめる。ゆうるりと揺れる袖、真っ直ぐに伸びた背筋に領主としての風格が溢れていた。
思いがけない成り行きで不甲斐ない我が身を拾っていただき、瞬く間に半年ほどが過ぎ去っていった。目の前に突き出されるものをただひたすらにこなしていくだけの日々。何もかもがこれまでの生活とは違うことばかりで、「もう駄目だ」と絶望感に打ちひしがれることも多々あった。 ―― しかし、こうして季節は巡ってゆくのだ。 それにしても、何と見事な実りであろう。今にもその重みで倒れそうなほどにたっぷりと実をつけた稲穂は、その一本の太さが楸の知っていたそれの数倍もありそうな気がする。 そしてまた、楸は故郷へと思いをはせていた。 すでに過ぎ去ってしまった時間をいくら嘆いても仕方ないと言われた。大切なのは、これから先をどう生きていくか。どんなことをするのにも「もう遅い」ということはない。思い立ったその日から、一歩ずつ着実に歩みを続けるほかない。 ―― だが、そうは言っても。自分はこの先どうすれば良いのだろう。 一体どこから手を着けたらいいのかわからぬほどに、事態は貧窮していた。この頃では枯れ果てた土地を捨てて、逃げ出す民も少なくないと聞いている。今や何も期待されていない名前ばかりの地主が何を言おうと、耳を貸す者などひとりもいないのではあるまいか。 着の身着のままで館を飛び出したあの夜以来、実家との連絡は途絶えていた。せめて文のひとつもしたためたいと思いつつも、実際に硯に向かえばひとつの言葉を浮かばない。繭は、そして小瀬は無事に過ごしているだろうか。ひと目その姿を見たいと願っても、何の報告も出来ないままではどうにも足がそちらに向かない。 ―― もしも、今度こそ不甲斐ない主人と見限ってくれたのだったら……。 寂しいが、それでも良いのではないかと思う。彼等は長い間、自分のために必死で働き続けてくれていた。館が傾き、いよいよ今夜の食い扶持にも困るような有様になっても、決して全てを投げ出すことはしなかった。
「……どうした、ひどく沈んでいる様子であるな」 その声にハッとして振り向くと、いつの間にか月の御方がお戻りになっていた。すぐに姿勢を正しかしこまると、彼は喉の奥でくすっと笑う。 「そのようにのんびりしていられるのも今のうちだ。どうであろう、次の出仕の際にはお前を同行させようと考えているのだが」 思いがけないお言葉に、楸は自分の耳を疑っていた。出仕……まさか、それは西南の大臣様の御館への? いや、それ以外にはあるまい。 「そっ、それは……でも、しかし……」 突然のことに考えがまとまらない。有り難い話には違いないが、未だに日々のお務めさえ上手くこなせない自分が果たしてそのような大役を任されて良いものだろうか。 「確かに今は半端な時期であるから、途中から人に加わるのは何かと気苦労が多いかも知れぬ。だが、この先は新年を迎えるに当たって何かと仕事が増え、臨時の者を雇い入れる機会も多くなる。そのような者に混ざってしまえば、いつの間にか馴染むことが出来るだろう。それに―― 」 夕焼け色に染まる大地に立つ麗人は、そこで一度言葉を止める。 「我が妻が、お前の出仕の支度を引き受けたいと言い出してね。この先は腹も膨らんで自由がきかなくなるから、今ぐらいがちょうど良いと譲らないんだ。まあ、しばらくは奥のわがままに付き合ってやってはくれまいか」 静かに微笑むその人の遙か向こうを、鳥の群れが飛んでいく。南に行く渡り鳥だろうか、皆同じ方向を向いて大きく羽を広げている。 楸はしばらくの間、その行方を呆然と見守っていた。
◇ ◇ ◇
「こちらの藍と合わせるのであれば、もう少し深みのある色の方がいいですね。袴の色は紺や黒と決まっているのですから、上に合わせるもので個性を出さなくては。……そうですね、やはり先ほどの薄物を重ねた方が顔が明るくなるかしら?」 高貴な方へのお目通りなど正式な場で身につける衣には織り文様の優美な一枚が選ばれた。しかし、ほんの数日の出仕であってもその他にたくさんの着替えが必要になる。そうは言ってもやみくもに何枚も持ち合わせれば済む話ではなく、少ない枚数を幾通りにも着こなす知恵を持ち合わせてなければならない。 「さあ、直接当ててみなければわからないではないですか。そのようにぼんやりしていてはなりませんよ、一枚の衣であっても合わせる人間によっていかようにも変わってくるのですからね」 部屋には他にもお世話係の侍女たちがあまたといて、それは賑やかであった。外が暮れてくれば灯りをともし、それでも女子たちのおしゃべりは留まるところを知らない。 「楸は人気者ね。あなたのお支度をすると言ったら、こんなにたくさん集まってしまったわ」 奥方様のお言葉に、一同からどっと笑いが起こる。そのさざめきが通り過ぎるのをお待ちになってから、彼女は再び口を開いた。 「このまま兄の館に上がったら、大変なことになりそうね。やはりここは、早いうちに身を固めた方がよろしいのではないかしら」 「……は?」 またもや思いもよらないひとことを投げかけられ、楸の表情が固まる。その姿を奥方様はしっとりとした微笑みで見守っていらした。 「別に急に思い立った話ではないのよ。以前から、殿にも内々に申し上げていたことなの。あなたもそろそろ妻を娶ってもいい年頃ではないかしら、月の一族にはあなたと年回りもちょうど良い女子が幾人もいますよ。これからのことを思えば、確かな後ろ盾のある女子はどうしても必要ではないかと思うの」 仰っている言葉の内容は理解できても、それが自分に対してのものだとは到底思えない。確かに、無事に出仕が叶ったあとには、そのような話が出ても当然だと思う。 「でも……私はまだ、そのような……」 有り難いお申し出には違いない、しかしそのお言葉に素直に頷くことはどうしても出来なかった。 「まあ、……そちらの話はまだ気が早かったかしら」 そこでまた女子たちの間で口々に言葉がかわされ、ひとしきりのさざめきが続いていく。その中でひとり取り残された気分になりながら、楸はまた遠き故郷を懐かしんでいた。
続く(100621)
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