-9-

 

 その日から、楸の生活は一変した。

 居候の身であるから、朝は夜明け前から起き出して使用人たちと共に様々仕事を手がける。いつの間にかあの大男が指導役になっていて、始終背後にぴったり寄り添っていた。それだけでもかなりの重圧感なのに、さらにこちらのやることなすことに文句をつけてくる。

「なんだお前、薪割りも満足にできないとは情けないな」

 まあ、その言い分は間違いなく正しいのだから大人しく従うほかない。大臣家への出仕を許されるためには、いわゆる「読み書きそろばん」の学術や剣や弓などの武術だけには留まらず、日々の暮らしのために必要なひととおりの雑学もくまなく身につけておく必要がある。

「どれ、貸してみろ。俺様がひとつ、手本を見せてやる」

 皆から玄太と呼ばれている大男は、その恐ろしい外見や態度からは想像がつかないほど面倒見のいい優しい一面もあった。ここに来るまでにありとあらゆる仕事を渡り歩いてきたと自らが豪語するだけあって、どんなことも器用にこなしてしまう。

「おい、若造。よそ見をするんじゃないぞ、こうして腰を使うんだ、腰を」

 軽々と斧を使うその姿を必死に脳裏に留め、その通りに再現してみる。でもやはり、思い通りの場所に振り下ろすことはおろか、両手で支えたそれを頭上まで持っていくことすら難しい。

「おらおら、腕を振り回すだけじゃ始まらないと言っただろ!」

 いちいち指摘され、時には罵倒されることへの恥ずかしさと情けなさ。それから実際に身体を動かすことによる疲労から、いくらも経たぬうちに身体中が汗まみれになってしまう。
  どうしてこのような単調な仕事を繰り返しているのだろう、これしきのこと、男子であれば誰でも簡単にこなせるはずのこと。なのに何故、ここまで手こずってしまうのか。

 ようやく一抱えほどの量をこなすと、今度は長い箒を手に庭の落ち葉を集めていく。この屋敷の庭は隅々まで手入れが行き届いており、このままでも十分な気がする。しかし実際に掃き集めてみると、出るわ出るわ、驚くほどの量が少しばかりの時間にそこここに山となってまとめられた。

「これらはすべて荷車に乗せ、裏山に運んでおけ。じゃ、俺は先に戻るぞ」

 この男は昼餉を済ませると一刻ほど横になりそのあとはまた夜更けまで働き続けるという。元からの家臣ではないことはその見た目からも分かるが、そんなことなどまったく関係ないとでも言わんばかりに御領主様と屋敷のために尽くしていた。

 ひとりで片付けるようにと与えられた荷車は大振りなもので、扱いを誤るとすぐに傾いてしまう。それでもどうにか操りながら進んでいくのであるが、裏山までの道すがらたくさんの者たちから声を掛けられた。
  皆、見慣れない顔の楸にも構えるところなどなく気さくに振る舞ってくれる。やはりこれも館主のお人柄が大きく影響しているのだろう。目先のことだけに囚われることなく遠く将来を見越した確かな眼を持ちながら、しかしその一方で驚くほどの懐の深さを見せつける。幾度お目に掛かろうとその感動は褪せるところもなく、むしろさらに色濃く感じられるようになっていった。

 あるとき、大男もこっそりと楸に打ち明けた。

「俺は御曹司に惚れ込んでるんだ。あの御方は本当にすごい、自分に刃を向けて真っ向から切り込んでくるような相手でも、あっという間に自分の懐に取り込んでしまう。今までいろんな御方に仕えてきたが、ここまで素晴らしい方はいなかった」

 月の御方はすらりと上品なお姿で、決して相手を力でねじ伏せるようなことはなさらない。それでも彼を慕い是非おそばに置いて欲しいと願い出る者があとを絶たず、館ではその選考の機会が定期的に設けられているという。

 ―― この広い世界には、あのような方がまだまだ大勢いらっしゃるのだろうか。

 何も知らないままであったら、自分のふがいなさを嘆くこともなかった。廃墟のような館で片手にも余る使用人たちの手を借り、その日の糧にも欠けるような生活を続けていく。ついこの間までの我が身であれば、天の高さを仰ぎ見る機会に恵まれることもなく惰性で生きていけた。

 ―― いくらこの先頑張ったところで、果たしてものになるかどうかもわからないのに。

 ゆくゆくは西南の大臣家への出仕を、と月の御方は仰ったが、それも今になれば単なる気休めにも思えなくはない。不甲斐ない地主の息子を少しは世間の風に当てようと思い、連れ出しただけのことではないか。そう考えた方が妥当だと思う。

 長い年月と深い愛情をかけて手入れされた庭木には、その枝が重みでしなるほどの見事な花が咲きほころぶ。今更付け焼き刃でどうにかかたち作ろうなど、あまりにも浅はかな考えではないか。何をしても上手く行かず、落ち込むことばかりが続いた。

 

 ◇ ◇ ◇


 月の御方とその奥方の間にはすでにふたりの御子がいらっしゃる。そしてまた、ただいまご懐妊中と館の中は明るい話題で溢れていた。姫君はまだよちよちと歩き始めたばかりの頃で、その愛らしさはたとえようのないほどである。
  大事を取らなくてはならない時期にあり奥の部屋に引き籠もっていることの多い奥方は、それでも勝手も分からずに戸惑う楸を気遣ってたびたび話し相手にと呼び寄せてくださった。
  もちろんこちらは縁の外に控えての面会になるが、互いを遮る御簾もなく開けっぴろげであるのには毎回驚かされる。

「殿などはどこにも輿入れさせたくないと今から意気込んでいらっしゃるのですよ。全く困ったものです」

 穏やかな笑顔でそうおっしゃる奥方は、姫君を膝の上に呼び寄せて愛おしそうにその御髪を整えた。その指先にすら隠しきれない優美さが漂っている。
「元々は竜王妃となることが決まっていた御方なのだ」―― 使用人たちがそう囁きあっているのをちらと耳にしたが、そうであったとしても当然と思えてしまう。

「まあ、この子ひとりであればわたくしでもどうやら面倒を見ていられるのです。されど―― 」

 そう仰ってから、ふと明るい中庭に視線を移した奥方は、次の瞬間に「あ」と小さく声を上げられた。

「……大変! 犀月(さいげつ)の姿がないわ。つい先ほどまで、そちらで砂遊びをしていたはずなのに」

 楸もすぐにその方向を確認したが、奥方のお言葉通りに遊び道具などはそのままで若君のお姿だけが忽然と消えている。

「すぐに捜して参ります。しばしお待ちを」

 迂闊であった、つい奥方様との話に夢中になって注意を怠っていたことを申し訳なく思う。
  子供の足であるから、そう遠くまではいらっしゃっていないはずだ。しかし趣向を凝らした御庭は大小様々な木々が植え込まれ、さらに遣り水や石像などもあって小さな身丈を隠してしまうには十分すぎる。

「若様、どちらに行かれましたか? お返事なさってください」

 辺りをぐるりと見渡していても埒があかず、仕方なく声を掛けてみる。しかし、こんなときに当のご本人はかくれんぼの遊びをしているおつもりになっているのだから始末に負えない。

「若君―― 」

 誤って水にでも落ちたら大変なことになる。そう心配しながら遣り水を辿っていくと、やがて向こうから小さな花びらがいくつもいくつも流れてきた。

「楸! 見て、皆で行列になって流れていくよ! 見事なものでしょう」

 春先に袴着を済ませたばかりの若君は、顎のところでふっつりと切りそろえられた髪を揺らしながら得意そうにそう仰った。

「他にもたくさん集めたんだ。ほらっ、今度は赤い花だよ……!」

 中庭をぐるりと巡る遣り水には、ところどころに朱色に塗られた丸い太鼓橋が架かっている。そのひとつに腹ばいになって、若君は小さな手を必死に水面に伸ばしていた。

「またこのように……せっかくのお召しものが汚れてしまうではありませんか」

 最近では大股で歩き回ることも躊躇なく出来るようになっていた。頭の後ろで束ねた髪が踊るのにはまだ慣れることが出来ないが、我ながらだいぶ男子の姿が様になってきたように思う。

「あっ、離せ! 無礼ではないかっ……!」

 おそばまで進んでひょいと持ち上げると、若君は手足をばたばたさせながら異を唱えた。

「なりません、このように危ないことをなさっては。さあ、お部屋に戻りましょう。奥方様がご心配なさっていますよ?」

 しかし、小さいながら敵も然る者。いくらわめき立てても自分の意が受け入れられないと悟った若君は、身体をくの字に曲げるとおもむろに楸の腕に噛みついた。

「……ひっ!」

 小さいながらも生えそろった凶器で不意打ちされてはたまらない。慌てた楸が束縛を解くと、若君はそれを待っていたかのように太鼓橋を越えて林の方へと走り出した。

「楸が鬼だからね! だけど、私は絶対に捕まらないよ!」

 若君は、お小さい頃の月の御方にその姿も身のこなしも何もかもがそっくりだと言われていた。このようにおそばにいると、本当にその通りかも知れないと思えてくる。無邪気にあどけないばかりだと思っていると、急にこちらの足下をすくわれるような鋭い言葉を返されてたりもするから侮れない。

「若君! お待ちくださいませ……!」

 細い若木の間をすり抜けて、奥へ奥へと進んでいく小さな背中。ちょうど花の頃、こぼれるばかりの花弁が芳しい香を放つ中をさまよっていると、何ともたとえようのない不思議な気持ちになった。

 ―― やはり、これは夢なのかも知れない。己の都合の良いように長い夢を見ているだけで、すべてが終わればまたあの薄暗い部屋の奥に戻っているのではなかろうか。

「楸! 捕まえたっ!」

 急に足下が温かくなる。いつの間に鬼の役が変わっていたのかはわからないが、振り向くと頬を花色に染めた若君が嬉しそうにこちらを見上げていた。

「ねえ、肩車をして! あの高い枝を母上へのお土産にしたいんだ」

 自分にもこのように無邪気な頃があったのだろうか。誰かが温かい腕で、この身を抱き上げてあやしてくれたことがあったのだろうか。
  指の間をすり抜けるように過ぎていった時間。その中にたくさんのものを見失ってしまったような気がする。もうすべてが遅すぎるのではないか、自分には何もかも足らないものばかりだ。

 

 忙しくしていれば、少しは気を紛らわすこともできた。だが、ふっと張り詰めた気持ちが緩んだときに、たとえようのない不安に押しつぶされそうになる。

「また、浮かない顔をしていますね」

 花枝を持って戻った若君は、そのままお昼寝に入ってしまわれた。その寝顔を愛おしそうに見つめながら、奥方様がぽつりと仰る。

「里のことを思い出していましたか」

 楸はそのお言葉に首を横に振った。

「いえ、……しかし」

 言いかけた言葉をそっと飲み込む。しかし、聡明な御方には何もかもがわかってしまうのだろうか。奥方様はお優しい眼差しを楸に向けられた。

「何ごとも、もう遅すぎると言うことはないのですよ。大丈夫、殿に任せておけばすべてが上手くいきます」

 驚いて空を切る唇、楸は言葉を発することも忘れていた。

「わたくしも、こちらに移り来るまでは色のない世界にいたのですよ。でも今では目に映るものが何もかも美しく見えます」

 中庭の木々を揺らしながら、細い気がするりと迷い込んでくる。それは奥方様の髪を美しく舞い上がらせたあとで、今活けたばかりの花枝に止まった。

 

続く(100602)

 

<<        >>


TopNovel Top鶸の誓い・扉>鶸の誓い・9