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 西南の集落、その西方に位置するこの地を広く治めているのは「月の一族」と呼ばれる一派。

 遠く都の王族とも深い関わりを持つ西南の大臣家にも絶大な影響力を持ち、中でも月方の館を居住まいとする三番目の若君の評判は集落の外まで広く知れ渡っている。時の大臣・邇桜様の同腹の妹君を奥方に迎えたことからも、別格の扱いを受けていることは間違いない。

「そっ、……それでは……」

 その御名を直接口にすることなど畏れ多く到底できることではないが、確か「夏月(カゲツ)様」とか仰るその方なのだろうか。ああ、言われてみれば噂通りのお美しさと聡明さ。どうして最初にお目に掛かったときにすぐそのことに気づかなかったのか、今となっては不思議でならない。

 そうとは知らずに、今までどれだけの失態をしてきたか。そのひとつひとつを思い出すだけでも身のすくむ想いがする。

「おいおい入谷の主、何も知らぬ者をそのように怖がらせるのではない。あまり余計なことを言われては、今後のことがやりにくくなるではないか」

 月の御方は、仰々しく礼を尽くす入谷の主をおかしくて仕方ないとでも言いたげに見守っている。そうは言っても、ひと目そのお姿を拝見しただけでその場にひれ伏してしまいたくなるほどのお美しさ。彼の傍らに控える楸にも、主殿の気持ちがとてもよくわかった。

「……さて、藤崎の若君」

 は、と伏したままで漏らした返事が果たして相手まで届いたのか、それすらも判断できないほどに混乱していた。一体この先は、どうしたら良いのだろう。真実を知らなかった身とはいえ、自分はこの御方に対してとんでもない無礼な態度をとり続けてきたのだ。
  それを今この場で、ひとつひとつ詫びるべきなのか、それとも知らぬ振りで過ごすのが良いのか、それも判断が付かない。

「おやおや、急に大人しくなってしまって。これは困ったものだね」

 彼はふっと吐息を漏らし、手にした扇をひらひらと宙に泳がせる。

「お前が黙りを決め込んだところで、私にはすべてがわかっている。前々から藤崎の落ちぶれ方には何か裏があると思っていたが、まさかこのようなからくりが隠されていたとはね。それにしても、お前の父はとんでもないタヌキだ。あのような男に化かされる羽目になる被害者が我が領地に出なくて誠に良かったと思うよ」

 再び、背筋をじわりとぬるい汗が流れていく。一体、この先どれほどのお咎めが下るのだろう。こうして姿を変えたときに相応の制裁は受ける覚悟であったが、それにしても途方のないことだ。

「まあ、……良いだろう。ここで過ぎてしまったことをあれこれ論じ合ったところで埒があかぬ。大切なのはこの先をどうするか、だと私は思うのだが。―― お前自身はどう考えているのかな」

 そうは言われても、どのようにお返事を申し上げたら良いものか。楸はまた、拳を握り直していた。このように視線を直接感じる位置にいるのは何とも心地悪い。

「そ、それは……」

 この先は、男子として新しい人生を歩いていきたい。そう覚悟を決めたからこそ、偽りの姿を昨晩永遠に葬り去ったのだ。だが、……どうやって? それがわからない。

「では、これは私の方からの提案であるのだが。お前は大臣家への出仕などには興味があるかい? 今、あちらではちょうど欠員が出て、誰か適当な者はいないかと相談を受けているところでね」

 その思いがけない言葉に、楸は無礼も顧みずに面を上げていた。

 まさか、そのようなことがあるはずもないだろう。自分は担がれているに違いない、これも今まで無礼を続けたことへの手痛い報復なのだろうか。

「そっ、そのような……私のようなものが、まさかそのような大役を申しつけられるなどと……」

 すると貴人はすっと立ち上がる。その身のこなしの見事なこと、音もなく周囲に無限の輝きを放っていくようだ。

「もちろん、すぐにというのは無理だ。今のままで人前に出せば、世話をした私が恥をかくことになってしまうからな。だから、お前を短い間に仕込まなければならない。幸い、我が館には多方面に通じる腕自慢が数多く住まっている。その者たちに手分けをさせ、みっちりしごいてやるから覚悟しろ―― さあ、そうと決まれば早々に引き上げるぞ」

 

◇ ◇ ◇


 せめて夕餉の膳だけでも、という主のすすめを断って、月の御方は足早に入谷の館をあとにしようとする。
  驚いたことに、今日もこの御方は供のひとりも連れずに身軽な姿でお出でになっていた。高貴な身の上であるのに、何とも軽々しい一面のある方だと思う。

「……さて、藤崎の。確か、楸と申したな」

 手綱さばきも見事なもので、これならば相当に早く馬を駆ることができるだろう。今は慣れない楸のやり方に合わせてくださっているが、これではご本人も馬もたいそうやりにくいに違いない。

「私はお前がたいそう気に入った。あのような特殊な環境の中で、よくぞ自分を見失わずにきたものだと感心するぞ。だが、本当に大変なのはこれからだ。相当の覚悟がなければ、到底やり抜けるものではないぞ」

 すぐにお返事差し上げなければとは思うものの、手綱の方に気を取られてどうにもならない。皆、楽々と乗りこなしているように見えるのに、どうしてこうも上手くいかないのであろう。

「……その、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 どうやって切り出したら良いものか、かなり悩んだ。でも馬上のことでもあるし、さらにはここまで聡明な方に下手な小細工をしても無駄ではないかという諦めの気持ちもある。この御方の仰るとおり、過ぎてしまったことは仕方ない。大切なのはこれからをどうするか、なのだ。

「どうして、私などに……このようにお情けをくださるのでしょうか。それがどうしてもわかりません」

 すべて言い終えてしまってから、初めて「真正面から言い過ぎたか」と後悔する。しかし傍らで鮮やかに手綱を操る貴人は、些細なことなど気にも留めない様子だった。

「そのようなこと、改めて説明するまでもない。治める領地が末永く安泰であるこそが、我らが月の一族にとっての望み。父や兄に恥じることがないよう、私も誠心誠意与えられた務めをこなしたいと思う。それに、藤崎と言えば西へ向かう街道の要所。その土地が今のように荒れ果てていては、他所から来た者たちに示しが付かないだろう」

 西の山に明るく陽の残る刻限、連れだって進む二頭の馬に細く長い影が伸びている。街道の脇にどこまでも広がる芳醇な田畑には春採りの作物が豊かに実っていた。
  治める者の心がけ次第で、その土地が生きるか死ぬかも変わる。藤崎の農民たちには覇気がなく、努力して実りを多くしようとする気迫も感じ取れない。

 ―― それも……すべてが地主である我が館の責任だったというのか。

 何も知らぬまま、のうのうと過ごしていた自分が情けない。思うようにならない自らの立場に嘆きながらも、自らの手で道を切り開こうとしないままに今日までを過ごしてしまった。

「さあ、そろそろ到着だ」

 そう仰って指し示す方角には、こんもりと緑の木々が生い茂る高台。その片隅に、ちらりと物見櫓が見える。多分あの奥に屋敷があるのだろう。

 そこまで来て、楸は初めて後ろを振り返った。しかし遙か遠き故郷の山は、一体どのあたりになるのかいくら目をこらしても見当が付かなかった。

 

 館主の帰還に、待ちかまえていた使用人たちが我先にと飛び出してくる。表からはそれほどの大きさにも見えないその場所には、想像もできないほどのたくさんの者たちが仕えているらしい。
  そこで一番驚いたのは、様々な集落の民が見受けられることだ。月の御方も、そして楸もそうであるのだが、西南の集落の民と言えば朱色の髪に碧の瞳。今までそれが当たり前だと思って過ごしていただけに、見たこともない銀や金の髪、そしてさらに様々な色が掛け合った不思議な色合いのものまであって、物珍しくてならない。

「殿、お帰りなさいませ」

 そのとき、使用人たちの間を縫うように、ひときわ美しい女人が現れた。お召しになっている衣は落ち着いた色のものであるが、その身のこなしの優美さからすぐにただ人ではないことがわかる。
  今までお供してきた月の御方も、それはそれはお美しいお姿だった。だがしかし、今目の前にいらっしゃる御方の目映さと言ったら、どうにも形容のしようのない感じである。

 ―― 間違いない、この御方が西南の大臣家の……。

「ただいま戻りました、色々と面倒を掛けてすまなかったね」

 さらりと歩み寄った月の御方は、そのまま夕闇の気から女人を護るように袂を広げる。

「このように表まで出てくることもなかったのに。今が一番大事にしなければならない時なのだから」

 甘すぎるその光景に呆気にとられているのは楸ひとりだった。庭先に集まった他の者たちは、別に気に留めるまでもないと言った素振りである。きっと毎日のように見慣れていることなのだろう。

「あちらが、殿のお連れになった方ですか?」

 女人に大輪の花のような笑みを向けられ、まるで精気を抜かれたような気分になる。自分自身も女子の姿をしていた頃には、その美しさが噂となって広まっていたはず。しかし、この世には想像を超えるような御方が確かに存在するのだ。

「ふ、……藤崎の、楸と申します」

 その場に片膝をつき、かたちばかりの礼を尽くしてみた。だが、見よう見まねなのできちんとできているかはわからない。そんな情けない自分に対し、女人はさらに温かいお言葉を伝えてくれる。

「まあ……可愛らしい。いいのですよ、そのようにかしこまらなくても。こちらではご実家と同じようにくつろいでいただきたいわ。それに、聞いた話によれば、我が殿の悪ふざけが過ぎて大変な迷惑を掛けてしまったようですね」

 さらさらと衣擦れの音、柔らかく辺りに広がっていく朱色の帯。女子の髪というものは、こんなにも人となりを滲ませるものなのか。すべてが、まるで夢の世界の出来事のように見えてくる。一体ここは、どのような場所なのだろう。それすらも曖昧になっていく。

「あ、……いえっ、その……」

 返す言葉も思いつかず、ただうろたえるばかり。そんな情けない自分を、美しすぎるご夫婦が優しい眼差しで見守ってくださっている。

 ……ああ、一体。これからどうしたら良いのか。出足の地点からこのように緊張を強いられて、果たしてこの先やっていけるのだろうか。

「ややっ、御曹司! お戻りになったか、それは良かった良かった!」

 ―― そのとき。

 荒々しい草履の音がして、今度は山のような大柄な男が現れた。頭に撫でつけられた金の髪に赤ら顔。まるで子供の頃に絵物語で恐ろしく眺めていた凶悪な赤鬼のようである。

「おおっ、こちらが新しい若いのか! 何だお前っ、どうにもならないほど生っちろい奴だな!」

 いきなり上から力任せに頭を押さえ込まれ、慌ててしまう。だがしかし、楸がこのように窮地に追い込まれているというのに、周囲の者たちはやはりそう驚いた様子には見えない。

「あまり虐めるのは良くない、そちらは我が館のお客人だ。そのつもりで頼むよ、玄太」

 残念ながら、館主の忠告も大男にはあまり伝わっていない様子である。頭が割れるほどの大声を気の遠くなる思いでやり過ごしながら、楸はこれから自分に待ち受けている毎日に早くも大きな不安を抱いていた。

続く(100527)

 

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