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 夜明け前の暗闇の中では馬が嫌がってなかなか前に進まず、さらに慣れない手綱さばきでは埒もあかない。 いくらも行かないうちに夜明けを迎え、その後も延々と続く一本道を進んでいく。 ようやく入谷の館にたどり着いたのは、もう日も西に傾き始めた刻限であった。

 

「何だ、貴様は」

 転げるように馬を下りた姿を見て、門を守る者たちが怪訝そうな顔をしたのも当然のこと。そのときの楸は全身が泥だらけの状態、何度も馬から落ち地に叩きつけられた末の目も当てられぬような有様であった。

「藤崎の館から参った、こちらの跡目殿にお目通り願いたい」

 それでも、ここまで来たのだからもうあとには引けぬ。相手の目を真っ直ぐに見て、はっきりとした口調でそう言いきることに成功した。しかしこれだけのことで、もう全身から汗が噴き出してきそうである。人慣れしてない我が身が、あまりに惨めであった。

「何」

 ふたりの門番はまるでこちらの言葉が意を介せぬとでも言わんばかりに顔を見合わせた。

「藤崎の者が、一体何用で参った。だいたい、先駆けの文もなしにあまりにも無礼ではないか」

 軽々しくあしらわれて、さすがに腹が立った。ここ入谷と楸の実家とではさほど格が違うわけではない。確かにこちらの方がいくらか階級は上かも知れないが、それでも今少しまともな扱いを受けてもいいと思う。

 ―― しかし、ここは堪えるしかない。

 これも跡目殿にお目に掛かるまでの辛抱、そう思って楸は唇を噛みしめた。しかし、そんなこちらの胸の内を知ってか知らずか、門番たちはさらにとんでもないことを言い出した。

「それに……跡目殿は今宵こちらにはお戻りにならない。半月ほどは奥方様のご実家に滞在される予定になっている、本日のところはいったんお戻りになり、頃合いを見て出直されたらどうか」 

「……は?」

 最初は聞き違いかと我が耳を疑った。奥方様? それは一体、何のことだ。入谷の跡目殿は我が館へと夜な夜な通って来ていたではないか。まさか、そのような……。

「何をぼんやりしている。まさか知らぬ訳ではないだろうな、先だって奥方様が宿下がりされて無事若君のご誕生と相成った。その祝いに参ったというならばわかるが、祝いの品なども持たずにどういうわけだ」

 慣れない長旅の疲れからか、楸は軽い目眩を感じていた。……いや、違う。やはり何かの行き違いだ。入谷の跡目殿がそのような……この門番たちは揃って私をからかっているのだろうか?

「ほらほら、いつまでもこのようなところをうろうろされては邪魔だ! さっさと戻った、戻った!」

 急ぎのことで衣の支度も間に合わず、小瀬の晴れ着を借りるしかなかった。彼にとっては一張羅であるこれも、やはり使用人のしつらえだけあってそれなりにしか見えない。安っぽい衣をまとえば、中の人間までが安っぽく見えてくる。これも当然のことである。

「いや、でもしかし―― 」

 せっかくここまでやってきたのだ、門前払いをされてはたまらない。とはいえ、肝心の跡目殿がご不在とあってはどうにもならない。

 一体どうしたものかと途方に暮れていたそのとき、館の方からやってくる今ひとりの人影が見えた。その者は慌てる素振りも見せず、ゆったりとした足取りでこちらに歩いてくる。

「おや、何を騒いでおる。そのように声を荒げては見苦しいではないか」

 その悠然とした態度、そして身につける衣の優美さから考えれば、この人が相当の地位にある者だと判断できる。一体どのような身分の方なのだろうと考えているうちに、門番たちは先を競うように地に片膝を着き、かしこまって答えた。

「いえ、それが御館様。こやつが、なにやら訳のわからぬことを申して」 

 やはりその者は館主であった。その眼差しがこちらに向いたとき、思わずさっと顔を背けてしまう。顔見知りである跡目殿ならいざ知らず、急にお目に掛かっていい相手ではないことぐらいわかっている。名のある家同士の付き合いは、いつでも面倒な手順を踏まねばならないのだ。

「何? 藤崎の……」

 一通りの話を門番たちから聞いた館主は、改めて楸の方を向き直った。

「まあ良い、遠方よりはるばるお出でになったのだ。不在の息子の代わりに私が話を聞こう。さあ、まずはこちらへ。すぐに湯桶など持たせましょう、替えの衣も急ぎご用意せねば」

 

 いきなり待遇が変わり、あれよあれよという間に客室らしい場所に案内される。そして程なくしてやってきた数名の侍女たちに着ていた衣を脱がされ、肌着までを新しいものに改められてしまう。
  一体これはどういうことかと思う間に、元の姿からは想像もできないほどの立派な支度が終わり、その頃合いを見計らったように先ほどの館主がやってきた。

「……さて、藤崎の御方」

 人払いをしたのちに、館主は声を潜めて話し出した。楸を上席に据えて、客人として対応してくれるのも不思議なことである。

「そちら、御名は何と仰る?」

 はらりと開いた扇で口元を隠す仕草も優美である。この御方は大臣家への出仕も頻繁であるのだろう。それにこの居住まい。隅々まで手入れの行き届いた館には、人の声や足音が絶えることもなく、何とも勝手が違って緊張する。

「え、……あ、その……」

 果たしてこの場で真実の名を告げて良いものなのか咄嗟に判断が付かず、見苦しく言葉を濁してしまった。このように曖昧な態度を取っては、素性を怪しまれても無理はない。しかし対する館主の方は、そのような楸の姿を見ても顔色ひとつ変えなかった。

「さて……確か藤崎の若い方は楸殿、と仰るのではなかったかな?」

 刹那。ざり、と胸がえぐり取られた気がした。俯いたまま床に視線を向けてはいたが、この動揺を隠し切れた自信はない。

 一体どういうことなのだ、自分は今まで女子として扱われてきたはずだ。男子のなりをした「楸」という者が、そもそも存在することはないはずなのに。いやしかし、……だがどうして。

 焦りが熱い息になって喉の奥からこみ上げている。膝の上で作る握り拳がみるみる白くなっていった。この姿を見られているのか、と思うとさらなる焦りが生まれてくる。

「ご心配には及びませんよ。先刻使いの者を出しましたから、そろそろお出ましになる頃ではないでしょうか」

 ゆったりとした態度で静かに眼を細めるその姿からは、この者が敵なのか味方なのか、それも判断が付かなかった。しかし、確かに目の前の館主は何かを知っている。だからこそ、素性もわからぬような自分を館に迎え入れ、もてなしてくれるのだ。

「さあ、そろそろ夕餉の支度も整いますでしょう。しばしお待ちを。今、奥を見て参ります」

 

 すべての戸を開け放った明るい部屋にひとり残された。

 御簾もない丸見えの部屋に座していると、何とも落ち着かない気持ちになる。もちろん、上から下までを男装束でまとめた今では、部屋奥に身を隠す必要もない。そうは思っても、長年重ねてきた習慣をそう簡単に差し替えることなど無理だ。

「おや、愛しの君はこちらであったかな?」

 ―― と。

 透き通った気がつい、と流れ過ぎた。その方向を振り向くと、そこには月明かりの下で幾度も見たその人の姿がある。

「……あ」

 その瞬間、楸はすべてを悟っていた。この者は、入谷の跡目殿などではない、あの館主とは背格好も面差しもまったく異なっているではないか。そしてその全身から醸し出されるものも全くの別物。しかし何故、……どうしてそのようなことが。

「数日見ないうちに、ずいぶんと様変わりしたものだな。いやはや、恐れ入ったよ」

 一体、なんと言って受け答えをしたらよいものか、まったく見当も付かない状態であった。この館の跡目殿ではない、となればこの御方はどなたであるのか。自分は何も知らされていない、それどころか藤崎の実家に残してきた使用人たちも、そして館主である父親すらもこの驚愕の事実にまったく気づいてはいないのだ。

「ど、……どうして」

 貴人は優美に扇を広げると、それをふわりと口元に添えた。未だ立ち姿のまま、しどけなく柱にもたれかかっている。

「まあ良い、お前の方から動いてくれれば、話は早い。本当に助かったよ、この先どうしたものかとこちらとしても様々に思いあぐねていたのだからね」

 まだ、まったく話が見えてこない。わざわざ一芝居を打ってまで、この御方がしでかそうとしていたこととは何なのだ。

「やや、これは……! ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」

 そこへ足早に戻ってきた館主が、新たなる人影を見つけたとたんに慌ててひれ伏していた。

「このたびは、このようにお呼び立てをして大変失礼いたしました。心よりお詫び申し上げます」

 縁から内へ一歩も足を踏み入れることもなく、彼は延々と挨拶を続けている。そのうちに貴人の方がくすりと小さく笑い声を漏らし、その言葉に割って入っていった。

「いや、良いのだよ。このたびは世話になったな。お陰で首尾良くことが運んだ、お前には礼を申すぞ」

 この状況を見れば、さすがの楸でも何かおかしいと気づく。どう見ても親子ほどの年の差がある双方、しかしその立場はあとからやってきた年若い貴人の方が格段に上であると判断できる。

「その……こちらの御方は……?」

 ここで話に加わっても構わないものなのだろうか。まったく勝手がわからずにいた楸であったが、このまま話がまったく見えぬまま呆然と過ごしているわけにもいかないと判断した。意を決して声を上げると、向かい合っていたふたりがそろってこちらを振り向く。

「あ、……ああ、藤崎の。ほら、ちとこちらにお寄りなさい」

 そう言って助け船を出してくれたのは、縁に控えた館主であった。彼は言われるがままに歩み出た楸の袖を手早く引くと、自分と同じ場所に向き直るようにと促す。

「こちらの御方は、月方の御領主様だ。特殊な立場にあったそなたが今まで存じ上げなかったのも無理はないが、この先は無礼な態度など決して許されることではないぞ」

 

続く(100519)

 

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