「楸さま……ご気分はいかがですか?」 どれくらいの時間が経ったのであろう、背後から恐る恐る近づいてきた足音がそっと立ち止まった。 「申し訳ございません、わたくしが至らないばかりに……」 その声にはこちらを諫めるような響きは微塵も感じられなかった。ああ、そうなのだと改めて納得する。そもそもこの娘が自分に不快感を与えるようなことをしでかすわけもない。なのにどうして、苛立ち紛れの感情を容赦なくぶつけ悲しませてしまったのだろう。 「いや、大丈夫だ。心配には及ばない」 首を軽く横に振ってから、後ろを振り返る。繭は手桶を下げていた。 「父上にひどいことを言われたのだろう、お前に罪などないのに」 短くそう告げただけなのに、娘の瞳にはまた新しい雫が溢れそうになっている。 「……可哀想なことをしたね」 無理に問いただして、ようやく落ち着いた心を再び乱すのは良くないと判断した。 あの父のことである、どんな言葉で弱い立場にある者を責め立てたのかはだいたい見当が付く。大方、このたびの縁談が思い通りに進まないことに腹を立て、どうしてもっと上手く立ち働けないのかと口汚く罵ったのだろう。 しかし、その父よりも自分の方がもっと始末に負えない。己の知らぬところで何が起こっているかを考えることもせず過ごしていたのだから。誠に……愚かにも程がある。 「こちらをお使いくださいませ」 楸は繭の差し出す手ぬぐいを受け取ると、まずは汚れた顔を拭いた。それから首筋、腕の肘から下。そろそろ役目を果たさぬほどに黒くなった頃には、ちょうど新しくすすいだものが準備されている。 「お召しものを改めなければなりませんね。まずは足を洗って部屋にお上がりください。すぐに新しい衣を準備いたします」 初めから喧嘩のできるような相手ではない。もしもこちらがそれを望んだとしても無理な話だと思う。自分たちは最初からそのような間柄なのだから、今更変えようがないのだ。 ―― だが、この空虚な気持ちはどこへ捨て去ればいいと言うのだろう。 それは、楸にとって生まれて初めて味わう本物の孤独であった。すぐ側に親身になって尽くしてくれる者がいても、決して分け合うことのできない感情。 「ああ、あとは自分でやるから、繭は先にお上がり。すまないね、余計な仕事を増やして」 闇の中に沈んだ中庭は、先刻に障子戸を開け放ったときと少しも変わらぬ静けさでそこにあった。木も草も、そして土も、あるがままを素直に受け入れていく。 「……つっ……!」 手桶に直接片足を浸すと、その先に鋭い痛みを覚えた。素足のままで暴れ回ったために、何かで指先を切っていたのだろうか。そんなことにも、今のこの瞬間までまったく気づかずにいた。 ―― このような場所で、朽ち果ててなるものか。 己を慕ってくれる者たちに守られて暮らすばかりでは、本当に望むべき場所には永遠にたどり着けない。だとしたら今ここで覚悟を決めなければ。もうこれ以上は先に延ばすことはできない。 「繭」 背後の障子戸は開いたままになっていた。静かに名を呼ぶと、衣を整えていた侍女がすぐに顔を覗かせる。 「今宵、私は生まれ変わる。それをお前に見届けて欲しい」 突然の申し出に戸惑いながらも、素直な娘は澄み切った瞳でこちらをうかがっている。しかしそれもわずかばかりのこと、すぐにその表情はさあっと青ざめた。 「ひっ、楸さま! ……一体、何をっ!?」 繭の狼狽ぶりにも無理はない。何故ならそのとき楸は、懐に隠していた小刀を手にしてそのさやを抜いたのである。艶やかに磨かれた刃先が、部屋奥から漏れ出でる明かりにゆらりと浮かび上がる。 「なりませんっ、そのようなこと! どうか、お止めくださいまし……!」 慌てて腕を伸ばす繭を振り切って、楸は縁をふわりと飛び降りた。そして庭に降り立つと後ろを振り向き、静かに口端を上げる。 「やめてっ、……楸さまっ……」 言葉の最後は細い悲鳴になっていた。だがどうして、ここで再び踏み留まることなどできるものか。 ―― はらり、と肩先で切りたての髪が踊る。長い間、自分自身を縛り上げてきた長く美しい輝きが、その瞬間に楸の手から滑り落ちていった。 「……わ、若様! 一体これは……!?」 騒ぎを聞きつけて飛んできたのは、やはり小瀬であった。 耳の遠い年寄りたちは、真夜中の中庭でよもやこのような惨事が起こっているとは夢にも思わずゆっくり眠り惚けているに違いない。使用人の数が極端に少なかったことも、今回の場合には幸運のひとつであったと言えよう。 「―― 馬を、用意してくれ。これからすぐに、入谷へと発つ」 夜明けにはまだ間がある。馬の扱いにはあまり自信がなかったが、これだけの時間が与えられていれば人目に付くことなく遠くまで進めるはずだ。 「で、でもそのような! あまりに危険すぎます、無謀です……! もしも、先方に急ぎお伝えすることがございますならば、俺が代理で参ります」 小瀬が難色を示すのは無理もなかった。今、この屋敷にはすぐに走れる状態の馬が一頭しかいない。これでは供をつとめることもできない。 「いや、ここは私が行かなくては話が通らないだろう」 本当のところ、自分自身が駆けつけたところでどうなる話ではないような気もしていた。これまでずっと女子として生きてきて周囲もそれを信じ切っていたのに、いきなり変わり果てた姿になってしまったのだ。これでは驚くなと言う方が無理である。物の怪にでも化かされたのかと思われてしまうかも知れない。突然刃を向けられたとしても、文句の言える立場ではない。 「それに、お前たちにはこの館を守ってもらわなければならない。何しろふたりの協力がなければ、奥にいる年寄りたちは食べるものすら見つからずに飢え死んでしまうだろうからな」
部屋に戻ると、隅の方で繭が泣いていた。一日のうちにこんなに何度も涙を流していては、今に身体の中の水分がすべてなくなってしまうのではないだろうか。その責任のほとんどが自分にあるだけに、どうしても不安になってしまう。 「恐ろしい……どうしてこのようなこと……」 しゃくり声を上げながら、震える声で繰り返している。たった今、目の前で起こったすべてがとても信じられないといった様子で、身体の震えも止まらない感じだ。 「繭、……大丈夫だから。もう何も心配しないで」 そう告げた自分の声も大きく震えている。嘘のように軽くなった頭で気持ちは軽くなったものの、やはりこれからのことを考えれば不安が大きく胸に広がってくる。 「でっ、でもっ。楸さまは、……楸さまはこれから一体、どうなってしまうのですか? ああっ、わたくしには何も考えられません! ……本当に、心に思い浮かぶことすべてが恐ろしくて」 ひとつ心残りがあるとすれば、繭とその兄をこの館に残していかなければならないということだ。先の保証が何もない身では、一緒に連れて行くことなどできない。今までさんざん苦労を掛けてきたのだ、少しでも安全な場所に留まらせたいと思う。 だが、どうして。今、繭を手放すことができるだろう。今までずっと一緒に生きてきた、この先も決して離れることなくいつまでも共に過ごすのだとそう信じていたのに。 「すまない、繭。君にはここに留まってもらわなくてはならない」 そっと触れる細い肩、その瞬間にぴくりと大きく波打った。 「わたくしを、……置いて行かれるのですか? どこまでもご一緒させていただけると、そう約束してくださったのに」 それを言われると胸が痛む。このような不甲斐ない主人に長年仕えてくれた恩を思えば、どうしてそのような不義理ができよう。 「でも、繭―― 」 続けようとした言葉は、思いがけない娘の行動で途切れた。繭が、あの大人しい繭が、いきなり楸の腕の中へと飛び込んで来たのである。 「わたくしは、嫌! 楸さまがどこかにお出でになるなら、そのときは必ずご一緒します。離れるのは嫌、もしもそれが楸さまのお言葉だとしても、従うことなどできません……!」 頼りない腕は、楸の背中に回りきれないほど心許ない。幼い頃はほとんど同じ身丈であったのに、気づけばこんなにも違うふたりになっていた。これも穏やかな時の流れが見せた奇跡なのだろうか。 「だからっ、……だからわたくしは、……わたくしはそのためなら、どんなことでもできたのに……」 あまりにも激しい訴えに、しばらくは返す言葉も見つからなかった。この身体は強く抱きしめたら壊れてしまいそうに脆いのに、どうしてここまで強靱な心を内側に隠し持っているのだろう。 「繭、すまない。約束を破ることは謝る、本当に申し訳ないと思う。……でも私は、もうこれ以上は我慢ならないんだ。偽りの自分でいるのはもうやめにしたい、この先はきちんと自分の足で大地に立てる人間になりたい。そのためには、今この瞬間から、前に進んで行かなくてはならないんだよ」 なだめるように、そっと髪を撫でる。普段、手入れを手伝うときに触れるのとは、まったく違う感情がそこにあった。 「だから、……繭にはこの館で待っていて欲しいんだ。必ず迎えに来る、時間は掛かるかも知れないけど約束する」 繭はまだ泣きじゃくっている。楸は胸の痛みに堪えながら、その腕を静かに解いた。 「……でも、……でも楸さまはこれから……」 綺麗な雫をこぼしながらも自分を見つめる瞳に、楸はそっと微笑みかけた。 「待っていてくれるね? ……信じているよ、繭」 互いの指を絡めてひとつの想いを分け合ったとき、それがふたりの新しい誓いになった。
続く(100514)
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