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「おや、繭はこちらではなかったのか」

 久々に明るい刻限に表に出ることに成功した。お目付役の侍女の姿がしばらく見えなかったので、その隙に衣を替え素早く障子戸をすり抜けたのである。もちろん、行き先も告げぬまま心配を掛ける気などない。だから、小言を言われるのも承知で、ここにいるだろうと思われる場所へと足を向けたのだ。
  いつまでもあんな場所に押し込められていては、気が滅入るばかりである。だが、人が通ってくるようになった今では文使いの者なども頻繁に訪れるようになり、不用意に顔など見られたら大変なことになってしまう。面倒ごとに巻き込まれることを考えれば、薄闇の中で耐えるしかなかった。

 声を掛けたとき、小瀬は逞しい上半身を露わにした姿で薪割りをしていた。汗のしみこんだ小袖は腰の辺りにまとわりついている。
  他の男手と言えば年老いて腰の曲がった者がひとりいるだけだったから、小瀬の仕事は驚くほど多方面に渡っていた。館主である楸の父が用事を言いつければ三つの山と谷を越えた場所にまで使いに出掛けたし、そうかと思えばこのような細々とした雑用もこなす。
  少しでも楽をさせてやりたいと思うが、今の状態でも食うに困るほどの貧窮ぶりなのである。ここでひとりでも余計に人を雇えば、館そのものが完全に潰れてしまうかも知れない。

「はい、ただいま妹は奥の間に呼ばれております」

 彼は斧を振り下ろしながら、短く答えた。

「何、またか」

 楸はその動きを惚れ惚れと見守りながら、ぽつりと言葉を落とした。

 奥の間の父がこのところ毎日のように繭を呼びつけていることは知っている。自分からは決して動こうとしない人であるから、些細なことでも周囲の者たちの手を平気で煩わせるのだ。
  一度に掛かる時間はそう長くないが、こうも度重なると何かと不都合が生じる。あえてそれを口にすることは大人げないと知りながらも、やはり面白くない気分だった。
  繭は自分に仕える侍女なのだ、たとえ館主である父であってもそれを覆す権利はない。身の回りの世話をする者が欲しければ、新しく雇えばいいだけのこと。

「多分……御館様も、このたびのことで相当に気が張り詰めておいでなのでしょう」

 一度手を止めて汗をぬぐった小瀬は、何気ない調子でそう続けた。

「ふん、そんなの自業自得じゃないか。直接矢面に立たされるのはこちらなのに、全くいい気なものだ」

 忌々しく吐き出された言葉には反応せず、小瀬はまた斧を手にした。

 すべての時が過去に置き去りにされたままになっているように思えるこの館にも、ゆっくりと刻み込まれる年月が存在する。子供は若者になり、若者はやがて老いていく。季節ごとに色を変える風景は幼い頃から少しも変わっていないから、永遠を錯覚してしまうだけだ。

 ―― いつまでも変わらぬものなど、この世には最初から存在しない。

 しばらく表の気に触れたら、それまでの苛立ちが嘘のように心が晴れた。小瀬も仕事が溜まっている様子だから、手合わせなど頼むわけにもいかない。そう思って、楸は今来たばかりの道を戻り始めた。

 羽振りの良かった先代からの名残で、中庭には遣り水なども巡らされている。今ではそこに溜まる水も淀んだ色を見せるばかりだが、その中にぽつりぽつりと伸びた水草が柔らかく気になびいていた。かたちよく整えられた庭木の枝も芽吹きの頃を迎えている。山間にあって春の遅い土地であるが、それでも心躍るような季節は着実に訪れているのだ。
  この庭もかつては隅々まで手入れが行き届き、見る者の心をときめかせた頃があった。その再来を望むのは許されないことなのだろうか。今の自分には何の力もない、己の手で何も掴むことが出来ぬのなら今の暮らしに甘んじているほかないのだ。

 せめて偽りのない姿で、堂々と日の中を歩けるならば。しかし、そうなったところで今更どうなることもない。何の後ろ盾も無いままでは一度途絶えてしまった大臣家への出仕が叶うはずもなく、結局はあの情けない父親と同じ道を辿ることになるのだ。

 でも……ならば、どうしたら。

「―― おや」

 戻るべき対とは目と鼻の先までたどり着いたとき、楸はふと足を止めた。

 ひさしのすぐ側の庭木の影に誰かが立っている。それに気づいたときには一瞬びくりとしたが、すぐに相手がわかった。何だ、繭か。衣の色目を見ればすぐに確認できるのだが、あいにく彼女はあまりに小柄なために太い幹にすっぽりと隠されていた。
  良かった、今日は少しは早く解放されたのか。この姿を見たらまた驚いて叫び声を上げるかも知れない。そう思ったら逆に面白くなってきた。ならば気づかれぬようにそっと近づいて、度肝を抜かせてやろう。

「ま―― 」

 音を立てぬように身を乗り出してそちらをうかがったとき、楸の声は喉の奥で止まってしまった。

「あ、……これは楸さま……」

 これはどういうことなのか、訳がわからない。

「繭、一体何が―― 」

 そう言いかけたとき、彼女の頬から顎へ、また一筋の雫が落ちていった。そしてまたひとつ、もうひとつ、堪えきれなくなった水の粒は必死に覆い隠そうとする主の気持ちを知ろうともせず流れていく。

「いっ、いえこれは。何でもございません……っ!」

 何でもないなんて、そんなはずないじゃないか。確かに繭は情に厚い女子ではある。可哀想な身の上の村人の話など聞いたときは、こちらがびっくりするくらい簡単に涙を流す。でも、だからといって……

「どうしたの、奥の間で父にひどいことを言われたのではないか」

 楸の追及を振り切って、繭はくるりと背を向ける。

「もっ、申し訳ございません。しばし、失礼いたします―― 」

 足早に走り去っていく小さな背中をしばらくは呆然と眺めていた彼も、ややあってハッと我に返った。とにかくは跡を追わなくては、そしてあの涙の理由を聞くのだ。もしも自分の父に関係があるなら、すぐに奥の間へと怒鳴り込んでやろう。本当にどういうつもりだ、誰に断って繭を悲しませるようなことをするのだ。
  自分が今、こうして心穏やかに暮らしていられるのはすべて繭のお陰である。彼女が心を砕き、惨めな生活を少しでも快適にしようと奔走してくれるから、日々の生活を維持することが出来るのだ。

「―― 若様」

 しかし、すぐに行く手は阻まれた。楸の前に立ちはだかったのは、繭の兄であるその人。普段は人情深く柔和な顔立ちをしている彼が、恐ろしいほど真面目な表情をしていた。

「何をするのだ、私は繭に話を聞かなくてはならない。ああ、こうしているうちにどこかに逃げられてしまうではないか……!」

 渡り鳥のように一度飛び立ったら次の季節まで二度と見ることが出来ないわけでもあるまいに、何故か必死になっていた。

「繭が父に何かされたのなら、それは私が原因に違いない。だったら、このまま黙って見逃すことなど出来ぬ」

 小瀬はしばらく唇をきつく噛みしめたままであった。しかしこのまま黙りを決め込むのもどうかと思ったのだろう、やがて意を決したように口を開く。

「このたびのお話がまとまってお輿入れと言うことになれば、俺は若様とお別れしなくてはなりません。出来ることならご一緒したいところですが、あいにくこちらの館には使用人の数が少なすぎて俺のような若造でも役立つことがたくさんあるのです」

 はっきりと言葉にされたのは初めてだが、それは以前から薄々感じていたことであった。幼き頃から兄のような存在で側にいてくれた小瀬であったが、彼にもまた彼なりの考えがあるのだ。

「しかし、ご安心くださいませ。妹は若様のおいでになるところ、どこへでもご一緒いたします」

 少しばかり表情を和らげて、彼は続けた。しかしその顔はまたふっと曇る。

「それが……どのような理由からか、若様にはおわかりになりますか」

 冬の凍える朝に手桶に汲みおいた水に手を浸したときのような、指がちぎれるほどの冷たさがそこにあった。

「何?」

 だが楸には、自分に仕える身である彼が一体何を言わんとしているのかがわからない。だからすぐに聞き返したのだが、それを見つめていた小瀬は顔を歪め自嘲気味に笑った。

「その昔、まだお生まれになったばかりの若様を前に、御館様はとんでもない提案をなさいました。せっかくお生まれになった跡目様をこともあろうに姫君とお育てすると。しかし、その言葉の裏には御館様なりの腹づもりがおありになったのです……」

 このような落ちぶれてしまった館に迎えることの出来る女子はたかが知れている。どんなにか策を練り高貴な身の上のご息女をいただこうとしても上手くいくわけはないのだ。ならば、その逆を考えればいい。もしも女子であれば―― その類い希なき美しさや教養の高さが世間で騒がれれば、こちらが願っても叶わぬような相手からも求婚されるかも知れないではないか。
  若い頃に少しばかりの出仕経験のある楸の父は、そこで見聞きした話を有効に活用した。赤子の頃からこのように整った顔立ちをしている、これならばそう苦労せずとも美しい姿に育つだろう。あとは一通りの手習いさえ身につければ話は早い。

「若様は―― そのときにすでに御館様が妹へとお与えになっていた役目というものを一度でもお考えになったことがありますか……?」

 

◇ ◇ ◇


 繭が部屋に戻ってきたのは、日が落ちてからのこと。そのときまで、楸は衣を元に改めることもせずに、寝所の奥に引き籠もっていた。

「ただいま戻りました、大変遅くなってしまい誠に申し訳ございません」

 その声は普段通りに明るいもので、先ほどの動揺した様子など微塵も感じられなかった。

「……楸さま、如何されました?」

 ふわり、と表の間が明るくなる。繭が燭台に火をともして回っているのだとわかった。柔らかい衣擦れの音が長く続いていく。

「まあ、……夕餉の膳もそのままで」

 半刻ほど前に、小瀬が運んできてくれた膳にも手をつけることができなかった。少しでも身体を動かすと吐き気がしてくる。どこか体調が悪いというわけではなく、それは心の動揺からくるものだった。

「繭」

 自分でも驚くほど、低い声が出た。こちらに向かって歩みを進めていた足音がその瞬間に止まる。

「はい」

 何か用事でも申しつけられるのかと思ったのだろうか、繭は短く答えると楸の次の言葉を待っている。

「お前は……いつまでも私の側にいてくれるのだと、そう申したな」

 静かに言葉を繋ぎながらも、彼女の方を振り向くことができない。

「え、ええ、もちろんにございます。楸さまのおいでになるところ、どこへでも付いて参ります」

 素直な返事のひとつひとつが、楸の胸に突き刺さる。それを引き抜くこともせずに、彼は唇を噛みしめた。

「それは、……私の形代になるがためか?」

 刹那、繭がハッと息をのむ。視線をそちらに向けずとも、長い時間を共に過ごしてきた楸にはその姿が手に取るようにわかった。

「ど、どうしてそれを……」

 その声はひどく震え、間近にいても良く聞き取れないほどであった。

「誠のことなのだな」

 そこで初めて、彼は哀れな侍女の方へと向き直った。射るような眼差しに捕らえられ、今度は繭の方が視線をそらす。長い髪が床に流れ、悲しみの輝きを揺らめかせた。袖からわずかに覗く小さな手は硬く握られている。

 ―― もしものときにはあの娘にすべての代役を務めさせれば良い。

 何と愚かなことだろう、自分はあの父の腹づもりなど全くわかっていなかった。どうしてあそこまで迷いもなく縁談を進めようとするのか、その要となるべき存在が繭だったのである。

 表向きのことはそつなくこなしたとしても、男の身体をした楸が閨で女子としての役目を果たすことは出来ない。そのときは夫となった者をどうにか言いくるめ、繭に相手をさせる。やがて子が生まれれば、その子を夫婦の実の子として育てればよい。

 初めからおかしいと疑って掛からねばならなかったのだ。それを、どうして―― このまま話が進んでいたらと思うと背筋がぞっとする。自分のために犠牲になる者がいる、そのようなこと許されることではない。

「どうしてこんな馬鹿げた話を受け入れたのだ。何故、私に打ち明けてくれなかった。それほどのあの父が怖いか、どうしても裏切れない相手だというのか。それとも―― 」

 堰を切ったようにあとからあとから怒りの言葉が溢れてくる。一番身近な存在だった繭に裏切られた、そんな気持ちでいっぱいだった。

「あの男に抱かれることが本望だと言いたいのか」

 その声に驚いて顔を上げた繭の目からは、今にも新しい雫がこぼれ落ちそうになっていた。

「ひっ、ひどい……わたくしはただ……楸さまのお役に立てるならと思って」

 何度も何度もかぶりを振るその頬からは、小さな水の粒がいくつもいくつもこぼれていった。だが、誰が同情などしてやるものか。この娘は自分のことを見くびっていたのだ。何も出来ない愚かな主人だと思ったからこそ、人の道から外れることも厭わなかったのだろう。

「ほう……私のためなら、どのようなことでも出来るというのだな」

 急に前に進み出た自分に、驚いた繭が後ろに下がる前に素早くその手を掴んでいた。

「ならば、私が求めても相手をするというのか」

 頼りない身体は少しばかりの力で呆気なく組み敷くことが出来る。突然のことに驚きの色を隠せない娘は、楸の下で身を固くした。だが、次の瞬間にはその頬にほんのりとした微笑みが戻ってくる。

「も……もしもお望みとあれば、お断りする理由などございません。わたくしはこの御館に仕える侍女、お情けをいただけるのは光栄なことにございます」

 その言葉に、今度は楸の方が顔色をなくす番であった。

 なんと言うことなのだろう、この娘はとっくの昔から腹をくくっている。なのに自分は、何も知らずにただいたずらに時を過ごしてしまった。もしも、このことにもっと早く気づいていれば、対処のしようもあったものを。

「……っくしょう……!」

 繭の上から飛び退いた彼は、次の瞬間には稽古用の木刀を手に庭へと飛び出していた。そして手当たり次第に庭木を叩き始める。墨色に沈んだその場所は物の怪が出そうに恐ろしかったが、そんなことは関係ない。
  飛んできた小枝で頬を切り、膝上まで泥だらけになる。しかし、どんなに滅茶苦茶に動いたところで、その感情は収まるところを知らなかった。
 
「……何でっ……」

 とうとう息が上がって、その場に膝から崩れ落ちていた。湿った土がひんやりと身体を冷ましていく。しかし胸の奥から湧き出る憎悪は、未だ耐え難いほどに楸の中で暴れ回っていた。

 

続く(100505)

 

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