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 三つの祝いを迎える頃には、すでに女子として過ごしていたように思う。その傍らにはいつでも繭がいて、だから少しも寂しくはなかった。記憶のほとんど最初からそうであったのだから、何を迷うことなどあるだろう。身体を拘束するずっしりとした装束も、当然のものとして受け入れていた。

「楸さま、どちらへ」

 少し大きくなって野山を駆け回ることが出来るようになっても、その暮らしは変わらなかった。相応の家柄の姫君でも、裳着を終え大人となるまでは比較的自由に過ごすことが出来る。とはいえ「実は男子」という秘密を持っていた楸は、領地の子供たちと自由に遊ぶことなど許されない。繭の兄はさっさと遊び仲間と出かけてしまうから、結局はふたりだけで取り残されることになった。

 障子戸を開けて草履に足を突っ込むと、慌てた足音が後ろから響いてくる。こんなときに優しい口調でたしなめてくれた乳母、つまり繭たちの母親はこの頃には病から伏せっていることが多くなり色々なことに行き届かなくなっていた。

「どちらもこちらもないだろう。私の行くあてなんて、決まり切ったものじゃないか」

 乱暴な言葉遣いをしてはならないと言われていたが、苛立ちを隠しきれぬときなどはついつい口を突いて出てきてしまう。手本となるのは繭の兄の話しぶり。彼は毎日のように新しい情報を仕入れて来ては、楸たちに教えてくれた。

―― 近く山向こうの村長様の館で婚礼の宴が執り行われるそうだ。祝い餅が振る舞われるから、近所の子らは皆いただきに行くんだ――

 自慢げにそんな話を聞かされても、ただ黙って下を向くしかなかった。ほっぺたが落ちるくらい美味いと言われる餅を自分も食べてみたい。だが、そんなことを口にするのはみっともなくて出来なかった。

「ならば、わたくしも。お供いたします」

 繭は素直な娘であった。自分の行くところ、どこでも文句ひとつ言わずについてくる。母親から厳しく言いつけられているという理由からであったが、それでも楸には嬉しくてならなかった。

「今日は丘の方へ行ってみようと思うんだ」

 肩の辺りでふっつりと揃えられた髪もふたりで同じ。楸の方がいくらか体格が良いから、遠目には実の姉妹のように映るだろう。藍の衣を揺らしながら歩いていくと、程なくして一面の花畑が現れた。ちまちまとした足取りであとから追いかけてくる繭がまとうのは、薄紅の小花模様。

「すごい、見事なものですね……!」

 片時も離れず自分の側にいてくれる。だから、この娘も一日のほとんどを暗い部屋の内で過ごさねばならなかった。そのことを不平に思うような素振りは微塵も見せないが、可哀想でならない。

 ―― 今は大人の言いなりになるしかない。だが、いずれは……。

 自らのわがままのように振る舞って強引に外に連れ出してやることが、当時繭に対して楸が出来るすべてだった。

「どれも、とても美しいです。ああ、どうしましょう。どれから摘んだらいいのか、迷ってしまいます……!」

 明るい日差しに照らし出される繭の笑顔は、咲き乱れる花々よりももっと美しくキラキラと輝いて見えた。しばらくはふたりとも夢中で花摘みをしていたが、やがてすぐ下の山道ががやがやと騒がしくなったのに気づく。

「あっ、楸さま! もしや、あれは村長様の館に向かう花嫁行列では……」

 まずは先導の者たちが大きな旗を掲げて進み、そのあとに徒歩(かち)で続く男や女、そしてきらびやかな荷を乗せた車が続いた。次々に通り過ぎていくその人数は、のべどれくらいになるのだろう。
  一度にこれだけの人間を見たことすらなく、ただただ珍しいばかり。だから飽きることなどなく、ずっと見守っていた。

「わぁっ、……お嫁さま……! すごい、とても綺麗……」

 やがて。

 行列も半ばにさしかかる頃、左右の御簾を開けはなった輿が進んできた。美しい色布で飾り立てられたその場所には真っ白な花嫁衣装を身につけた若い娘が座っている。その姿をひと目見ようと詰めかけたあまたの村人の視線にさらされた彼女は緊張のあまりに始終俯いてはいたが、それでも美しく化粧を施された横顔をしっかり目に焼き付けることができた。

「素敵……きっと楸さまもいつか、あのようにお輿入れをなさるのですね」

 もう少しで崖から転げ落ちるほどに身を乗り出して、繭はいつまでも遠ざかっていく輿を見送っている。しかしそのとき、楸は己の胸に湧いた全く違う感情を持てあましていた。

 繭はそんな主の戸惑いに全く気づいていない様子。興奮のあまりに色づいたバラ色の頬で、こちらを覗き込んでくる。

「楸さまならば、どんなにお美しいお嫁さまになられることでしょう! そのときは、わたくしも是非行列のひとりに加えさせていただきます。だって、わたくしはこの先もずっと楸さまと一緒にいますから。お輿入れ先にも絶対連れて行ってくださいね、約束ですよ」 

 慌てて頷きながら、たとえようのない違和感の行方を辿る。何故自分が輿入れなどしなくてはならないのだ、そんなことがあるわけはない。

 ―― 私は……むしろ、あんな美しい妻を迎えたいと思う。

 今は仕方なく女子の真似をしている、だがそれがいつまでも続くわけはない。早く大人になろう、そして大切な人をしっかり守れるだけの力を手に入れなくては。

「もちろん、繭にはいつまでもそばにいてもらうよ。そのことは、私からお願いしなくてはならないことだね」

 両手に抱えきれぬほどの花を抱えた繭は、とても嬉しそうに微笑んだ。天から降り注ぐ明るい光、花嫁行列が運んできた幸せの欠片が、今も辺りに漂っているように思えた。

 

「……あら、困りましたね。まだお支度を終えていらっしゃらなかったのですか?」

 いつの間にか、すっかり日も暮れていた。ひんやりとした気が、障子戸の隙間からひっそりと流れ込んでくる。それが、傍らの燭台の炎をゆらゆらと揺らめかせ、部屋奥のふすまに映るふたつの影の角度を変えた。

「そろそろ、入谷の跡目殿がご到着する刻限です。きっと今宵も楽しいお話をたくさん聞かせてくださることでしょう」

 何気ない繭の言葉が、鋭い欠片になって楸の胸に突き刺さる。どういうことだろう、この娘が自分を傷つけるはずなどないのに。客人の出迎えの支度を嬉しそうに続けていく姿を見ていると、胸の奥からふつふつとどす黒いものが涌き上がってくる。

「そうか、繭はあの男が好きか」

 思わず口を突いて出てきてしまった言葉。対する繭は一体何を言われたのか、その意味を全く理解していないとでも言いたげな表情になる。

「まあ……何を仰いますやら。あの御方はわたくしのことなど、道端に転がる小石のようにしか考えていらっしゃいませんわ。楸さまのお心を手に入れようと、それだけを願ってお通いになっているのです。ものの数にも入らぬわたくしのことなど、ご心配いただくことはございません」

 脱ぎ散らかしたままになっていた衣を片付け、もう一度念入りに表の縁を拭き清める。普段と変わるところのない眩しいほどの仕事ぶりであるが、どうしてもあの男の訪問を喜んでいるように思えてならない。

「全く心にもないことを。あの者だって、気の利いた受け答えも出来ない私よりも繭の方を気に入って当然だろう」

 こんな風に言えば、繭が困り果ててしまうことはわかっている。それでも、言わずにはいられなかった。

「―― 楸さま」

 ややあって、彼女は震える唇をかすかに動かした。客人を迎えるために普段よりも品の良い衣に着替えたその姿は、さすがに垢抜けて見える。

「わたくしは、どこまでも楸さまとご一緒いたします。入谷でも、他のどこかでも、楸さまのおいでになる場所に必ずついて参ります。それ以上のことも、それ以下のこともございません」

 それはまるで、意を介せぬ言葉を投げかけた主に対し放った反撃のようにも思えた。だから、さらなる苛立ちが胸を覆う。

「何を言う、本気で私を輿入れさせる気なのか。そんなことが出来ぬことくらい、お前が一番わかっているはずなのに」

 どうしてこの期に及んで、あの父に付き従おうとする。そんなの、おかしいじゃないか。

「ご心配には及びません、楸さまなら大丈夫。すべてが上手くいきます」

 まさにこれが狐につままれたような心地、というものだろうか。誰がどう考えてもまともじゃないことなのに、繭はその他の道など思いつかぬように言う。

「わたくしは楸さまを信じております」

 そう告げた彼女の口元は、花の色の紅に美しく染め上げられていた。

 

◇ ◇ ◇


 男はその後も三日にあげず足繁く通ってきた。多少の荒れなどもろともせず、いつも颯爽と馬を飛ばしてくる。

「姫君にこちらを。途中の山道で見つけたものです、誠に見事な枝でしたので」

 そう言って柔らかくしなる花枝を御簾の下から忍ばせてくる仕草も心憎い。これは一体、何という名の花であろう。外の世界のことなどほとんど知らない身の上では、それを判断することも難しかった。

「そろそろ、里では田植えの時期となりました。毎日大勢が田畑に出て、それは賑やかなものですよ」

 男の話すそのすべてが、ただただ眩しいばかりだった。忌々しいばかりの相手だと思っていたが、あれこれ言葉を交わしているうちに次第に打ち解けてくる。楸にはそんな自分の心の変化がにわかには理解できなかった。

「早く姫君をこちらから連れ出したいものですね。ご一緒に様々な土地を回りましょう、きっと楽しんでいただけるに違いありません」

 優美な外見からは想像も付かぬほどに気さくな人柄の男は、対する人間をすべて虜にする不思議な力を持ち合わせていた。きっとこの者の周りには、知らぬ間にたくさんの人々が集まってくるのだろう。

「さ、されど、……私は」

 一瞬心に浮かんだ願いを、慌てて打ち消していた。この男と共に馬を駆り、野山を走り回れたらどんなに楽しいだろう。まだ見たことのない遠き土地まで行き着くことが出来たなら、そこにはどのような風景が広がっているのか。

「そのように臆することなどございませんよ。姫様が強く願ってくだされば、必ず道は拓けます。気を強く持って、ご自分を信じてください」

 またどこからか、つうっと夜の気が忍び込んでくる。それが床の上に流れる楸の長い髪をふわりと舞い上がらせた。 

 

続く(100501)

 

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