こうちゃんが約束を破った。 携帯を切ると暫く、ショックでその体勢のまま動けなくなった。 こうちゃんが約束を破った。 この事実は私の中でじわじわと現実味を帯びてきた。 でも、でもっ……!! 今日は特別だったのだ、普通の、ただのデートじゃないんだから。少なくとも私はそのつもりだった。 服だって、違うの! なのに、こうちゃんは。 待ち合わせの5分前になって、携帯が鳴った。 「ゴメン、水橋。急に隣町の監督と飲むことになっちゃって。今日はキャンセルにしてくれる?」 本当に急に切り出した。呼吸が止まった。信じられなくて10秒は言葉が出なかった。 「……監督って、少年野球チームの? ねえ、それって、日をずらしてもらえないの?」 「こうちゃん、だって――」 「今日は、……」 「だから、もう切るから。また今度ね」 「まって! こうちゃん? ……こうちゃん!?」 しかし。 「こう……ちゃん……」 信じられない。 今日は私の誕生日なんだよ。2人で過ごす、最初の誕生日なんだよ。
1ヶ月半前がこうちゃんの誕生日だった。 私は自分のアパートにこうちゃんを呼んで、半日かかって作った手料理でおもてなしした。今までの人生の中でこんなに頑張ってご飯を作ったことはなかったと思う。 そして。プレゼントは月並みだけど、手編みのセーター。10月だからちょっと時期的には合ってなかったけど、2ヶ月かかって真夏から編んでいたものだった。暑さとの戦いだったんだから。 こうちゃんは。 セーターを握りしめたまま、5分くらい絶句していた。 「うおおおおおおお〜〜〜〜〜っ!!!!」 一体何が起こったのかと思っちゃった。 「……こ、こうちゃん? ……大丈夫? どうしたの!?」 「……嬉しい」 「え?」 「み、水橋!!」 「――は、はい?」 「ありがとう、本当に嬉しいっ!! まさかこんな素晴らしいものを用意してくれていたなんて。俺、もう感激して――何て言ったらいいのか……」 こうちゃんは身長180センチ、体重85キロ。握力は確か片手65くらいあると言っていたような……。 「水橋!! おれ、このセーターを死ぬまで大事にするからっ!! 死んだら棺桶に一緒に入れて焼いてもらうからっ!!」 ……あのね、こうちゃん。 感激のこうちゃんに私は内心、冷たい視線を向けていた。
「あははははは〜っ!!」 「本当に……花菜美(かなみ)ってば……久しぶりに呼び出したと思ったら、思い切り楽しませてくれるじゃないの〜!!」 「あのねえ、みどりちゃん…私は愚痴を聞いて欲しくて呼んだのよ! そんなに大ウケして爆笑モードに入らないでくれない!?」 「そんなこと言ったって……」 「こうちゃん――ええと大泉さんだっけ? 本当にいいキャラしているんだもん。ああ、面白いったら」 「もう〜ムール貝は私が取るよ?」 「ちょっと、待ったあ〜!!」 「花菜美……分かっているんでしょうね? あんたが急に呼び出して、今日はたまたま卓司さんが出張中でいなかったからこうして出てきてあげたのよ? 本当は今日は習い事が2つもあるんだから、感謝しなさい」 「今日は、何のスクール?」 「アレンジフラワーと懐石料理」 みどりちゃんは短大時代の友達なんだけど、在学中からカルチャーオタクだった。彼氏の卓司さんは英会話教室でゲットした銀行マン。この不況にあって、業績が安定している外資系の銀行で保険分野にも参入し、飛ぶ鳥を落とす勢い。 「……懐石料理。みどりちゃん、短大の頃は実習やってもお皿洗いしかしなかったじゃない」 「あら、違うわよ。私はお皿ふき専門! 水仕事は手が荒れるから嫌だもん、爪だって禿げちゃうでしょう?」 「でも、家政学部で良かったのよ」 「卓司さんのおうちにお呼ばれしてね。お母様に言ったら、ウケが良くてね〜良かったなあって思っちゃった。好感度50%上がったわね」 ……なんか、間違えている気がする。 チーズピザとチキンの香味焼きが運ばれてくる。ピザの一番大きいのをさっと取るみどりちゃん。 「……いいなあ、それ」 「でしょう? 日本では普通、手に入らない形なんだよ〜セミオーダーで作ったんだから」 今夜、私たちは3ヶ月ぶりに会っていた。この間、みどりちゃんは卓司さんとめでたく結納を交わし、来年の3月に挙式する運びとなっていた。このことは電話で聞いて知っていたけど、婚約指輪を見せてもらうのは実は今日が初めてだ。 「あら、花菜美だって、とーっくにもらっているんでしょう……?」 「冗談! だって私たち、まだそんな……約束なんてしてないもん」 「嫌〜だあ〜!!」 「そんな約束……って、あんたいつの人間よ? 花菜美さん。エンゲージリングじゃなくたって指輪はごく普通に買ってもらうものじゃないの?」 「そうなの……?」 「当たりきよ〜卓司さんなんか最初のデートの時、いきなりデパートで、ショーケースの前に連れて行かれて。どれでも好きなのを買ってあげるよ、って。指輪なんてそんな特別なものじゃないって」 「……」 「ごめっ……まさか。花菜美って……大泉さんから何も、もらって……ないの?」 「……もらうどころか」 「みどりちゃん、覚えてる? 私が初めてのボーナスで自分に買った指輪」 「ああ、ピエール・カルダンの、可愛い奴ね。シンプルだけど石もはまっていて」 「あれが、この間から見あたらないの、なくしちゃったみたい」 「それは、残念ねえ」 「……でね?」 あああああ、こうして話していると、徐々に思い出して、さらにむかついてくる! 「こうちゃんに言ったんだよね。なんか、指輪がはまってないと落ち着かないって」 「まあ、花菜美にしては大胆だこと」 「で、そこまで言われたら。買ってくれるでしょ? ……普通は」 キラキラ期待した視線が胸に痛い。――ああ、やっぱり話す相手を間違えたかなあ。 「こうちゃん、私がそう言ったら、黙って下を向いちゃったの。すごくばつが悪いみたいに。もうそれ以上は言えなくなってた」 視線は自分の握りしめた両手を見ていた。 「あのさ……花菜美」 美人なみどりちゃんはマジな顔をするとその美しさが際だつ。テーブルに肘をついて顎の下で両手を組んだ。覚悟を決めたようにしゃべり出した。 「――いままで、大泉さんの話を聞いてきて。言いにくいんだけど、多分、彼の方は花菜美にそれほど特別な感情を持ってないんじゃないの? だっておかしいよ? あんた達、知り合ってから1年近くだし、デートって言うか、2人きりで出掛けるようになってもう半年ぐらいでしょう? その間、手も握らないなんて……大泉さんてもしかして、同性愛者か何か?」 言ってることはギャグだけど、みどりちゃんの目はマジだ。本当に私のことを心配してくれているんだ。 「……」 「花菜美、私たち、もう24だよ。遊びで付き合う歳じゃない、脈がないなら辞めなよ。お互いのためにならないと思う。花菜美にはもっといい人が現れるって」 ぎゅっと。唇を噛む。 「確かに大泉さんはいい人だと思うよ。仕事だって県庁勤務の公務員。首を切られる危険性も少なくて安定しているし。地元の国立を出ているから出世コースも間違いナシよ。真面目な性格で花菜美にお似合いのひとだと思っていたよ、私……」 遊び人に見えるけど、押さえるとこは押さえているのがさすが。 「このままさ、ずるずるといいお友達でいたらすぐに大台に乗っちゃうよ? 5年くらいあっという間なんだから」 それから、みどりちゃんは私の両手をぎゅっと握りしめた。 「良く聞いて、花菜美」 「う、うん……」 「卓司さんが出張から戻ったら、速攻で彼の友達の中から花菜美に会う人を選んでもらう。決まりね! ……期待してて、みんなすごくいい人だから」 「そ、そんなこと――急に言わないでよ」 「駄目! 花菜美は人がいいんだから、もしかしたら男にしか興味のない大泉さんにいいように利用されちゃうかも知れないよ? 挙げ句に偽装結婚に突き進んで、形だけの夫婦なんてあんまりじゃないの」 「私さ、花菜美には幸せになってもらいたい。どうせなら同じ頃に結婚して同じ歳の子供を産んで。おばあちゃんになるまで仲良くしたいんだよ。学校のみんなは私のことタカビーだの尻軽だのさんざん陰口叩いてくれたけどさ、花菜美はずっと友達でいてくれたじゃないの? 前の彼に振られたときだって、夜通し付き合ってくれたし……」 ……ああ、あれね。みどりちゃんにしては珍しくインディーズのバンドのボーカルに熱を上げちゃって、さんざん貢いだあげく、付き合ったら二股どころか彼女が10人はいて……ひどい男だったよなあ。 「ね、花菜美。大泉さんのことは悪い夢を見たと思って忘れるんだよっ! 早く新しい恋に生きよう!!」 そのあと、みどりちゃんは白ワインを3本も開けて上機嫌で喋り続けた。大体は卓司さんとのノロケ話だった。
「じゃあねえ〜また電話、しゅるから〜〜〜」 「はいはい、気を付けてね。……運転手さん、緑が丘3丁目の郵便局の隣までお願いします。おうちのかたに連絡しておきましたから、門の前に立っていてくれると思います」 大酔っぱらいのみどりちゃんをいつものようにタクシーに押し込んで(……そうなのだ、いつもみどりちゃんが潰れてお開き。電話口に出たお母さんが「いつもごめんなさいね」と申し訳なさそうに謝っていた)車が見えなくなるまで見送った。 ひとりぼっちになると寂しい気持ちが再び押し寄せてきた。夕方のこうちゃんのドタキャンの後だって、こう言う気分に飲み込まれて、気が付いたらみどりちゃんを呼んでいたのだ。独り暮らしの私はあのまんま家に戻ったら、本当にどうなるか分からなかったから。どうせならせっかく着飾った姿で、おいしいものを食べて、気分転換した方がいい。 ――夜の11時。 県庁所在地のここは電車で郊外の新興住宅地から通勤通学してくるひとが多い。終電にはまだ早いし、金曜日なのだけど…この頃の不景気のせいか、ボーナス前のせいか…駅前の人通りも一息ついた感じだった。アパートはここから10分歩けばいい。帰ろうかな…どうしようかな… 頭の中で考えながら携帯の着信履歴を見る。――こうちゃん、電話かけてくれてないんだ。 こうちゃんは県庁の教育企画室、と言うところに勤めている。小学生向けの地元TV番組を企画して作成するところ。県内の遺跡を取材したり、長老さんを訪ねたりしている。熊みたいな体格だけど人なつっこい笑顔でビデオ片手に奮闘している姿が目に浮かぶ。 明日、会えるかな。でも――土曜日は、野球の練習があるかな? まだ飲んでいるかも知れない。だけど、とりあえず、留守録にでもメッセージを入れておこう。アドレス帳から番号を選択して――少しの間、考える。みどりちゃんの言葉が甦った。 「こうちゃんは、私のこと、何とも思ってないの……かな?」 自分でも情けないぐらい、いつもこうちゃんが行動を起こしてくれないかと期待していた。こうちゃんが初めて映画に誘ってくれた時から……ううん、こうちゃんと初めて会ったときからかも知れない。
小さな印刷会社に勤務している私は発注された仕事の伝票を持って、広い県庁の建物の中でものの見事に迷子になっていた。そこに、運良く通りかかったのがこうちゃんだった。 「すいません。広報の小菅さんに会いたいんですけど、広報部はどちらですか?」 その時点で30分は迷っていたから、もう半泣きだったかも知れない。大きな山のような背中、のそっと振り向いた。そして、手短に、明確に説明してくれる。 「広報だったら、B棟の4階の奥ですよ。何だか随分、方向が違いますね」 「そうですか。実は……今どこにいるのかも分からなくて」 「これから、昼休みなんです。……送りますよ、広報まで」 そっと顔を上げると、窓から降り注ぐ初冬の日差しの中で 目を細めて笑っている顔が見えた。綿のワイシャツは洗い晒しでアイロンが掛かってなかったけどこざっぱりしていて、ネクタイが丁寧に結ばれていた。 ポツリポツリとおしゃべりしながら広報までの10分ぐらいの道のりを歩いた。部屋の前まで来ると、中を覗いて小菅さんを呼んでくれた。 「じゃあ、これで」 「あ、ありがとうございました。本当に、何とお礼を申し上げたらいいのやら……大切な昼休みを減らしてしまって申し訳ございません」 「あの……何か?」 「それ、頂けますか?」 「これ、ですか……?」 「午後から、会議があるんです。丁度、ボールペンのインクが切れてしまっていて」 「……こんなので宜しければ」 「助かります、ありがとう」 それが丁度、1年前の今頃。
半月たった年の瀬に、こうちゃんがふらりと会社までやってきた。 「俺、これが好物なんです」 「……あの。お時間が宜しかったら、お茶を一杯、いかがですか? 今、他の者はみんな外回りで出払っていてシズカですし。――とは言ってもウチは5人しかいないんですけど、事務員と営業合わせても」 「……ご、ごちそうに、なりますっ!!」
それからもこうちゃんは半月に1度くらい「塩豆大福」を手にやってきた。社員の間では「塩豆大福の君」と呼ばれていた。この話もみどりちゃんに大受けした。 「どうして……くくく……いつも塩豆大福なんだろうね」 「うん、社長なんか、届くとノルマが3個だからって、よそで出されても食べないようにしているんだって」 私の解説に、彼女は涙を流して息も絶え絶えに笑い続けていた。
そんなこうちゃんが映画の試写会のチケットを片手にやってきたのは、県庁の迷子から半年がたった今年の5月だった。 「弟がラジオで当てたんです。でももう観たものだからって。宜しかったらいかがですか?」 こうちゃんは週に一度くらい誘ってくれるようになった。土日は少年野球があるので会えない。週の半ばだからほとんど夜のご飯を食べてお開きだ。私は家が近いけど、こうちゃんは電車に40分乗らないと帰れない。今時の中学生だってもっと進んでいるんじゃないかと思うくらいほのぼのとした関係だった。 「大泉さん」「水橋さん」と呼び合っていたのがいつか「こうちゃん」「水橋」に変わっていった。でも半年たってもそれ以上の進展はない。 ふたりの時間を過ごして、夜の11時になると「そろそろ行こうか」と伝票を手にする。私をアパートの前まで送り届けてくれると「じゃあ、お休み」とさっさと背中を向ける。名残惜しいとか、もう少し一緒にいたいとか――そう言う気持ちは私しか抱いてないのだろうか? アパートに上がってくれたのだって、こうちゃんの誕生日、1回きりだ、先にも後にもそれっきり。 こうちゃんは照れ屋さんなのかとも信じ込もうとした。確かに気の利いた言葉も言わないし、何かあるともごもごしちゃう。最初の時のまっすぐな声が幻だったのかと思っちゃうよ。「こうちゃん」と呼びだしたとき「花菜美」と呼び捨てにしていいよと言ったのに。「それは……ちょっと」と言ったまま、未だに私のことは「水橋」と呼ぶ。 でもさ。ものには限界があるんだよね……。 こうちゃんでも何かイベントがあれば、変わってくれるかもと思った。で、今日に賭けていたのだ。
「……私は、魅力ないのかなあ」 「あ、こちら大泉高節(こうせつ)の携帯ですっ!」 「……は?」 こうちゃんじゃ、ない。こうちゃんの携帯なのに。これで女の声がしたら緊迫した3角関係暴露シーンなんだけど相手はどう見てもおじさんだ。かなり緊迫した声がびんびんと耳元に響いてくる。人の携帯に出ちゃうなんて、よっぽどなんだと分かるけど、それにしても。 「わ、水橋、花菜美さん!? あなたが、花菜美さんですね! ――良かった〜っ! 近くなのかな? 出来ることならちょっと、ここまで来てくれる!?」 「ここって――どこです!? あなたは誰?」 「裏駅の…居酒屋『かすがい』、知っているでしょう? 駅を出て右側の路地を入ったところの半地下の!」 「ええ、それは――」 「頼むよお〜終電が出ちまうんだよ!!」 電話の相手は相当に焦っているらしく、名乗ることも忘れている。まあ、終電が迫ってるならその気持ちも分かる。 「あ、水色のセーターに花柄のスカート!! ――水橋さん!! こっちです!」 また、さらにびっくりしたんだけど。……何なの? どうしてこの人が私の今日の服装を知っているの? 「……これ、です」 「これは――?」 「見ての通り。潰れた、大泉君です」 「あの、もしかして。あなたは今日、こうちゃんを呼び出した、隣町の監督さんでしょうか?」 「隣町の監督、と言うのは当たってます。申し遅れました……私、中條と申します。大泉君と同じく県庁で、土木課に勤務してます」 「はあ、初めまして……大央印刷の水橋です」 「でも。今日、誘ったのは――私じゃないですよ? 大泉君の方がいきなり電話してきたんです。で、勝手に飲んだくれて潰れたんです」 「え……だって。こうちゃんは、大泉さんは――あなたに誘われたから、って……」 どういうこと!? 誘われたというのは口実だったの? よりによってこの大切な日に、こうちゃんは自分から逃げ出したの……!? 中條さんは私に哀れみを含んだ表情で、それでもきっぱりと言った(そうだ、終電が出ちゃうんだった)。 「で……どうしましょう? 先ほど、自宅に電話したんですけど、今家には、高校生の弟さんしかいないんです。タクシーに突っ込んでしまってもいいんですけど。何しろこの身体でしょう、あっちで降ろして、運べるかどうか。それに、ここからタクシー使ったら万単位になっちゃいますよ?」 こうちゃんの御両親はもう他界されている。家には弟さんがいてこうちゃんは面倒をみているんだと言っていた。話には何度か出てきたことがある。映画のチケットを譲ってくれたり、服を貸してくれたり。いきなり家に彼女を連れてきてびっくりしたって言うのも聞いたな。 時間がなくてイライラいしている中條さんと、潰れているこうちゃん。交互に見つめて、しばし考える。こう言う場合、妥当なのは……そうだろうなあ。 大きく、ひとつ深呼吸をした。 「あの、もし……もう少しだけお時間あったら。私の部屋、ここから10分なんです。運んで頂けないでしょうか」 「いいですよ、次の電車だと途中からタクシーになっちゃいますけど…乗りかかった船ですから。今度、奢らせましょう」
外に出ると、夜風が冷たかった。 「……大泉君、あなたとの待ち合わせ場所までは行ったみたいですよ」 「そうなんですか?」 中條さんがポツリとつぶやく。路地に響く足音2人分。私は3人分のカバンを持って、中條さんはこうちゃんを背負って。……そうか、だから今日の服装を知っていたのか。 「なら……どうして」 「そんなに、落ち込まないで下さいよ」 こうちゃんは、最初に出会ったとき、すごく自然に私の頭に手のひらを乗せた。あれって、ちっちゃい子供をなだめるときのそれだね。そんな優しさを私は勘違いしちゃったのかも。こうちゃんが私にくれるものは、私じゃないほかの全ての人がもらえるものと同じだったんだね。何も特別扱いされていた訳じゃなくて。 ――どうして、そんなことにも気付かなかったんだろう。こんな風にこうちゃんを追いつめてしまうまで。 「明日は休みですから。本人から、聞いてください。私が喋ったら反則になりますからね」 「……そうですね」
ちゅんちゅんと小鳥の声。眩しい日差し。 「わあああああああ〜〜〜〜〜〜っ!?」 「お早う、こうちゃん。……起きた?」 「え…? 俺、どうしてここにいるんだ? ……わああああ、頭が〜〜〜〜〜っ!」 「ええと、昨日は。中條さんと飲んでいて……で……、記憶が、ない……」 ……そりゃそうだろう、あれだけぐてぐてになっちゃったんならね。たまにしか見れないこうちゃんの慌てぶり。いつもだったらそれも楽しいなと思えるんだけど、今朝の私にはそんな余裕はない。 「中條さんに頼んで、ここまで送ってもらったの。こうちゃんの携帯に電話したら中條さんが出て……」 「そうかあ……悪いこと、しちゃったなあ……」 うん、いつもの、こうちゃんだ。私の大好きなこうちゃんだ。 「――で、こうちゃん?」 ぎくり、としたようにうずくまった背中が緊張する。ようやく、自分の置かれた状況に気付いたらしい。 「私には何か……言うことはないのかしら?」 固まっていたこうちゃんは、がばっと起きあがると膝で少し前に出る。そして、私の目の前にひれ伏した。 「ご、ごめんっ!! すまなかった、水橋っ! 申し訳ない!!」 「お、俺……ちゃんと、行ったのに。駅前まで行って、水橋の姿を見たら……いきなり足がすくんで」 まあ、失礼な! 私のドレスアップがお気に召さなかったのかしら? ――まあ、いいわ。 「いいよ、こうちゃん、気にしないで。私も悪かったと思うよ、ちょっと気負わせすぎちゃったんだね。気にしないで、本当に。こうちゃんに無理をさせたら可哀想だもん。私に会いたくないときは、はっきり言ってくれていいよ、その方が嬉しい」 どうしてこんなにするすると言葉が出てくるんだろう? ――もしかして、今、私はすごく悲しいことを言っているんじゃないかしら? 「朝ご飯、出来てるよ。……って言っても食べられないかな? 私がいない方が良ければ、これから買い物にでも行ってくるから。具合が良くなったら、勝手に帰っていいよ?」 ……まず。鼻の先がつんとした。 このままここにいると、泣いちゃうかも? 「じゃあ、ご飯の準備、してくるから。もう少し、ゆっくりしていて?」 「ち、違うっ!!」 「え!?」 こうちゃんに背中を向けたところで、後ろから思い切り腕を引かれた。ぐるんと視界が反転する。 「……こう……ちゃん?」 「そうじゃないんだ……違うんだ」 「俺を待ってる水橋が、あんまり綺麗で自分が情けなくなって。やっぱ、俺じゃあまりにも不似合いかなって思い始めたら……どうしてもそれ以上足が前に進まなくなってしまって――」 「これ、渡そうと思ってたから」 私はゆっくりと起きあがると右手のものを見た。ちっちゃいリボンの付いた紙包み、袋の中にはビロードの手触りの小さな赤いケースがある。そう……その中には。気付いた瞬間に、右腕全体が、ずしっと重くなった。 「あの……こうちゃん」 「……どうして私の指のサイズが分かるの?」 「う」 「あ、これ……」 「どうしても…直接聞けなくて…悪いとは思ったけど借りちゃったんだ。……だから」 そうか、それでこれの話をしたときに、あんなにばつの悪い顔をしたのね? そんなの気付けるわけないじゃない、こうちゃんのすることって、分かりにくすぎ。 「俺、こういうのに疎くて。一緒に弟を連れて行って選んでもらったんだ。気に入るといいけど……」 「こうちゃん……」 「これ、どの指に…はめていい?」 とは言っても7号と言えば薬指にしか入らない。右か左の薬指。左の薬指にはまだ指輪をしたことがないんだ……。 「そ、それは……」 「もちろん、こっち」 「……嬉しい……」 「これ、こうちゃんの気持ちだって思って……いいんだよね?」 うるうるした瞳でこうちゃんを見上げる。こうちゃんはすぐには言葉も出ないようで、そのかわりに大きく何度も頷いている。 「水橋……」 こうちゃんは私の方にすっと手を伸ばしてくる。うわあ、顎に、指がかかって、これは、ひょっとして……ひょっとする!? 「あ、そうだ!」 「昨日の晩、おうちに電話しておいたからね。私、こうちゃんの携帯しか知らなかったから、中條さんに教えてもらったの。弟さんが出たよ。よろしくって」 「……ああ、千春ね。あいつに買い物手伝ってもらったんだ」 こうちゃんはすぐに答えた。でも、私の方はきょとんとしちゃう。 「え……?」 ……違うよ……。 「確か、雅志君って言っていたような?」 弟の名前って普通、間違えないよなあ。どんなうっかりさんだって、それくらいはきちんとしてるはず。でも、私、確かに聞いたもん、雅志です、って。 「こうちゃん……?」 ぴくり。素早く視線が逸らされる。私はすぐにこの謎が解けた。でも、こうちゃんの反応の方がちょっと大袈裟な気がする。何をそんなにうろたえてるの……? 「もしかして……弟さんて、2人いるの?」 「実は……違うんだ」 「俺、5人兄弟で……一番上で……だから」 そこで、一度大きく深呼吸する。そうしないと、もう声を出すことは出来ないくらい震えてたから。 「親父とお袋はもういないし、ヤローどもの中に入るのは辛いだろうなと。そう思ったらなあ、とても軽はずみなことは言えなかったんだよ」 私が何も言わずにいたからだろう。こうちゃんは一度、ちらっとこちらを振り向いて、でもすぐにささっと向き直ってしまう。 「あの、もし嫌だったら……それ、取り消してもいいよ」 うなだれた 熊さんみたいな背中が震えている。可哀想なのに可笑しくて、思わず笑ってしまった。こんな場面で笑うのは不謹慎だと思ったから、必死で堪えていたけど。でも、くくくっと声が漏れてしまう。 そうかあ、そう言うことだったのか。そこまでは確かに思いつかなかったわ。 「いいよ、こうちゃん……」 「え…?」 言葉の真意が掴めなかったらしく、こうちゃんが今度は身体ごと、全部振り向く。心持ち力のなくなった瞳に、にっこりと特上に微笑んだ。 「私の大好きなこうちゃんの弟さん達でしょう? ……こうちゃんがいるなら、私、頑張るよ。だから、心配しないで」 そりゃあさ、ちょっとびっくりだよ。イマドキ、5人兄弟っていうのもびっくりだけど、こんなでっかいこうちゃんの血の繋がった弟さんが5人。一体どんな家なんだろう。お洗濯ものだけでも、毎日のご飯だけでも大変そう。 こうちゃんは、もう一度、ごおおっと大きく息を吸って。口をぼんやりと開けたまま、ちっちゃい目を出来る限りの大きさに見開いた。 「水橋!!」 「きゃあ!!」 「わ、ごめんっ……つい、勢いで……」 次の瞬間、こうちゃんはパッと離れる。何だよ〜いいのにさ、私は。 やれやれ、といったかんじ。身を起こすと、髪の毛の乱れを一応整える。それから真っ赤になったこうちゃんを支えにして、立ち上がった。普段はなかなか見られないこうちゃんの頭のてっぺん、ぽんと手を置く。見かけよりも柔らかい髪の毛。 「さ、こうちゃん。二日酔いの薬もあるから…朝ご飯、食べよ」 左の薬指、キラキラと輝くこうちゃんの気持ち。 たったひとつのきっかけで、私の憂鬱は嘘のように晴れ渡っていた。
Fin(010926)
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