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 こうちゃんが約束を破った。

 携帯を切ると暫く、ショックでその体勢のまま動けなくなった。
 ――悔しい……。
 何に対して怒りをぶつけていいのか分からなかったが、ふるふると身体が震えだす。

 こうちゃんが約束を破った。

 この事実は私の中でじわじわと現実味を帯びてきた。
 そりゃ、私だって何年も社会人をやっているんだから、仕事がらみで急に飲み会が入るのだって分かる。子供じゃあるまいし、
「仕事と私とどっちが大事なの!?」
 なんて陳腐なセリフを言う気にもならない。

 でも、でもっ……!!

 今日は特別だったのだ、普通の、ただのデートじゃないんだから。少なくとも私はそのつもりだった。

 仕事を1時間早く上がらせてもらって、美容院で髪を綺麗にセットした。パッキリと「セットしました!」と言うのはおばさん臭いけど、プロの腕でシャンプーしてセットをしてもらうとナチュラルでも垢抜ける。今の髪型はラフなパーマで一見、寝癖かセットしているのか分からない感じ。背中半分までの髪にシャギーを入れてあり、髪の多い私でもふんわりと軽く仕上がっている。色を入れなくても元から明るい栗色。…学生の頃は先生にチクチクやられたけど、今ではこの髪で良かったと思う。高校ではマジで「幼稚園の頃の写真」を添付して天然色の証明を書かされたもんね。

 服だって、違うの!
 見た目はシンプルなカーディガンとセーターのアンサンブルだけど、このアイスブルーのモヘアはブランドものの稀少品。ネットでようやく手に入れた今日のための服だったのだ。合わせて細かいプリーツの花模様のスカートも購入。こっちだって高かったんだから。
 誰が見たって、気合いの入った勝負服だって事が分かると思う。コテコテのブランドものより、こういう一見普通の服の方が実はお高いし、コーディネイトも難しいんだから。

 なのに、こうちゃんは。

 待ち合わせの5分前になって、携帯が鳴った。

「ゴメン、水橋。急に隣町の監督と飲むことになっちゃって。今日はキャンセルにしてくれる?」

 本当に急に切り出した。呼吸が止まった。信じられなくて10秒は言葉が出なかった。

「……監督って、少年野球チームの? ねえ、それって、日をずらしてもらえないの?」

「うーん、それは無理。また、日を改めて、と言うことで」
 消え入りそうなこうちゃんの声。バックの雑踏の中で聞きとりにくい 。

「こうちゃん、だって――」
 さっさと電話を切ろうとするこうちゃんに、すがるように言葉を投げる。

「今日は、……」
 でも声が震えて、上手く言えない。

「だから、もう切るから。また今度ね」

「まって! こうちゃん? ……こうちゃん!?」
 相手が携帯だと知りつつも、つい側にいるように大声になってしまった。

 しかし。
 携帯はもうすでに切れていて、私の必死の叫びはこうちゃんに届かなかった。

「こう……ちゃん……」

 信じられない。

 今日は私の誕生日なんだよ。2人で過ごす、最初の誕生日なんだよ。
「金曜日だけど、この日だけは付き合いの用事は入れないから」
 って、言ってたじゃないの……?

 

 

 1ヶ月半前がこうちゃんの誕生日だった。

 私は自分のアパートにこうちゃんを呼んで、半日かかって作った手料理でおもてなしした。今までの人生の中でこんなに頑張ってご飯を作ったことはなかったと思う。

 そして。プレゼントは月並みだけど、手編みのセーター。10月だからちょっと時期的には合ってなかったけど、2ヶ月かかって真夏から編んでいたものだった。暑さとの戦いだったんだから。
 手っ取り早く、「私をどうぞ」でも私的には全然構わなかったけど――ここは女の方から言い出すのも情けないので自粛。

 こうちゃんは。

 セーターを握りしめたまま、5分くらい絶句していた。
 その間の沈黙と言ったら部屋中の空気が丸ごと凍り付いたようで、私の方まで硬直してしまった。

「うおおおおおおお〜〜〜〜〜っ!!!!」
 5分後、今度は材料費1万5千円のセーターに顔をうずめて、こうちゃんはうめいた。

 一体何が起こったのかと思っちゃった。

「……こ、こうちゃん? ……大丈夫? どうしたの!?」
 突っ伏した熊並に大きな背中をさすった。

「……嬉しい」

「え?」
 まさか、今のが喜びの反応!?

「み、水橋!!」
 おもむろにガバッと起きあがったこうちゃんは痛いほど私の両肩をわしづかみにした。

「――は、はい?」

「ありがとう、本当に嬉しいっ!! まさかこんな素晴らしいものを用意してくれていたなんて。俺、もう感激して――何て言ったらいいのか……」
 ゆさゆさゆさ。本当のところ、マジで肩の骨が歪むかと思った。

 こうちゃんは身長180センチ、体重85キロ。握力は確か片手65くらいあると言っていたような……。
 いつの間にか大の男が顔をくしゃくしゃにして男泣きに泣いている。けど、鼻水はいただけないなあ。

「水橋!! おれ、このセーターを死ぬまで大事にするからっ!! 死んだら棺桶に一緒に入れて焼いてもらうからっ!!」
 ようやく私の肩から手を離したこうちゃんはセーターをぎゅう〜っと抱きしめていた。

 ……あのね、こうちゃん。

 感激のこうちゃんに私は内心、冷たい視線を向けていた。
 こう言うときに、抱きしめるのはセーターじゃなくて彼女じゃないの!? 私の方は押し倒されたってオッケーなんだけど。どうしてこうして、セーター抱きしめて号泣するのよ〜〜〜〜〜っ!!!!!!

 

 

「あははははは〜っ!!」
 30分後。待ち合わせ場所からすぐのイタリアンテイストの居酒屋。
 ムール貝と大きなエビのどーんと乗ったサラダを目の前に、みどりちゃんがお腹を抱えて笑い転げていた。

「本当に……花菜美(かなみ)ってば……久しぶりに呼び出したと思ったら、思い切り楽しませてくれるじゃないの〜!!」
 ……泣いてるよ、マジで。失礼しゃうよ。

「あのねえ、みどりちゃん…私は愚痴を聞いて欲しくて呼んだのよ! そんなに大ウケして爆笑モードに入らないでくれない!?」

「そんなこと言ったって……」
 みどりちゃんは派手な花柄のハンカチを取りだして、涙を拭いつつ、笑いが止まらないようだ。

「こうちゃん――ええと大泉さんだっけ? 本当にいいキャラしているんだもん。ああ、面白いったら」

「もう〜ムール貝は私が取るよ?」
 ふくれっ面でフォークを伸ばす。

「ちょっと、待ったあ〜!!」
 素早い動きでみどりちゃんのフォークが貝を持ち去る。

「花菜美……分かっているんでしょうね? あんたが急に呼び出して、今日はたまたま卓司さんが出張中でいなかったからこうして出てきてあげたのよ? 本当は今日は習い事が2つもあるんだから、感謝しなさい」

「今日は、何のスクール?」

「アレンジフラワーと懐石料理」
 どんなもんだい、と胸を張る。

 みどりちゃんは短大時代の友達なんだけど、在学中からカルチャーオタクだった。彼氏の卓司さんは英会話教室でゲットした銀行マン。この不況にあって、業績が安定している外資系の銀行で保険分野にも参入し、飛ぶ鳥を落とす勢い。
 はっきり二重のエキゾチック美人のみどりちゃんは今時のヘアカラーなどせずに、ロングストレートな黒髪をしどけなく伸ばして、足を組む姿も色っぽい。卓司さんに会う前はもの凄い「オヤジ殺し」で貢ぎ物の嵐だったんだよね。私もおこぼれをちゃっかり頂いちゃったけど。

「……懐石料理。みどりちゃん、短大の頃は実習やってもお皿洗いしかしなかったじゃない」
 私たちは家政学部の出身だ。私の言葉にみどりちゃんは不服そうに口を尖らせた。

「あら、違うわよ。私はお皿ふき専門! 水仕事は手が荒れるから嫌だもん、爪だって禿げちゃうでしょう?」
 そう言うとラメの綺麗に入った爪を愛おしそうに眺める。こんなみどりちゃんだ。別に家政学を極めたくて学部を選んだのではない。付属高校出身の彼女は成績で振り分けられ、人気のある英文科や児童教育科ではなく、食物になってしまったという。私の方は地方出身で、ちゃんと受験して同じ学部に入った。何か情けない。

「でも、家政学部で良かったのよ」
 いつか感慨深く、彼女は言った。

「卓司さんのおうちにお呼ばれしてね。お母様に言ったら、ウケが良くてね〜良かったなあって思っちゃった。好感度50%上がったわね」

 ……なんか、間違えている気がする。

 チーズピザとチキンの香味焼きが運ばれてくる。ピザの一番大きいのをさっと取るみどりちゃん。
 その左薬指に燦然と輝く、ダイヤモンド。
 お店の白熱灯が蜂蜜色の光で照らし出し、尚も美しく輝いている。

「……いいなあ、それ」
 情けないから、普段は言わないことにしているのに。ワインがいい頃合いに回ってきたのか、舌は勝手に動いてしまう。

「でしょう? 日本では普通、手に入らない形なんだよ〜セミオーダーで作ったんだから」

 今夜、私たちは3ヶ月ぶりに会っていた。この間、みどりちゃんは卓司さんとめでたく結納を交わし、来年の3月に挙式する運びとなっていた。このことは電話で聞いて知っていたけど、婚約指輪を見せてもらうのは実は今日が初めてだ。
 きらきらきら――みどりちゃんの指が滑らかに動くと指輪も幸せそうな光を放つ。

「あら、花菜美だって、とーっくにもらっているんでしょう……?」
 きょとんとしてみどりちゃんが訊ねてくる。

「冗談! だって私たち、まだそんな……約束なんてしてないもん」
 幸せ光線を発散しているみどりちゃんを前に、何とも情けないやるせない気分になる。

「嫌〜だあ〜!!」
 私の言葉が可笑しくてたまらないと言うように、みどりちゃんは手をヒラヒラしてケラケラ笑い出す。

「そんな約束……って、あんたいつの人間よ? 花菜美さん。エンゲージリングじゃなくたって指輪はごく普通に買ってもらうものじゃないの?」

「そうなの……?」
 憮然としてしまう。

「当たりきよ〜卓司さんなんか最初のデートの時、いきなりデパートで、ショーケースの前に連れて行かれて。どれでも好きなのを買ってあげるよ、って。指輪なんてそんな特別なものじゃないって」

「……」
 ぐいっとワインを飲み干す。その私の姿を見ていたみどりちゃん、おそるおそる訊ねてくる。

「ごめっ……まさか。花菜美って……大泉さんから何も、もらって……ないの?」
 多分、私の形相がとてつもなく怖かったんだと思う。流石のみどりちゃんも神妙な表情になった。

「……もらうどころか」
 今度はみどりちゃんの白ワインも飲み干してしまう。もう、こうなったら、飲まずにいられますかって。

「みどりちゃん、覚えてる? 私が初めてのボーナスで自分に買った指輪」

「ああ、ピエール・カルダンの、可愛い奴ね。シンプルだけど石もはまっていて」

「あれが、この間から見あたらないの、なくしちゃったみたい」

「それは、残念ねえ」
 しょげてる目の前の友人に対して、みどりちゃんは一応の憐れみを込めた台詞を吐く。でも、彼女にとって、あのランクの指輪なんて、珍しくも何ともないことも知ってるんだ。きっと私がスカーフを一枚新調するよりも容易く手に入るんだろうな。まあ、ここで生活水準を比較しても仕方ないし。話を聞いてもらおう。

「……でね?」

 あああああ、こうして話していると、徐々に思い出して、さらにむかついてくる!

「こうちゃんに言ったんだよね。なんか、指輪がはまってないと落ち着かないって」

「まあ、花菜美にしては大胆だこと」
 みどりちゃんはとても感動したようだ。うきうきと身を乗り出してくる。

「で、そこまで言われたら。買ってくれるでしょ? ……普通は」

 キラキラ期待した視線が胸に痛い。――ああ、やっぱり話す相手を間違えたかなあ。

「こうちゃん、私がそう言ったら、黙って下を向いちゃったの。すごくばつが悪いみたいに。もうそれ以上は言えなくなってた」

 視線は自分の握りしめた両手を見ていた。
 みどりちゃんが何も言わないまま黙っていたので、暫くして顔を上げる。彼女はさっきまでとは一転して、とても悲しそうな顔をして私を見ていた。

「あのさ……花菜美」

 美人なみどりちゃんはマジな顔をするとその美しさが際だつ。テーブルに肘をついて顎の下で両手を組んだ。覚悟を決めたようにしゃべり出した。

「――いままで、大泉さんの話を聞いてきて。言いにくいんだけど、多分、彼の方は花菜美にそれほど特別な感情を持ってないんじゃないの? だっておかしいよ? あんた達、知り合ってから1年近くだし、デートって言うか、2人きりで出掛けるようになってもう半年ぐらいでしょう? その間、手も握らないなんて……大泉さんてもしかして、同性愛者か何か?」

 言ってることはギャグだけど、みどりちゃんの目はマジだ。本当に私のことを心配してくれているんだ。

「……」

「花菜美、私たち、もう24だよ。遊びで付き合う歳じゃない、脈がないなら辞めなよ。お互いのためにならないと思う。花菜美にはもっといい人が現れるって」

 ぎゅっと。唇を噛む。
 ……みどりちゃんの言うとおりなのかも知れない。

「確かに大泉さんはいい人だと思うよ。仕事だって県庁勤務の公務員。首を切られる危険性も少なくて安定しているし。地元の国立を出ているから出世コースも間違いナシよ。真面目な性格で花菜美にお似合いのひとだと思っていたよ、私……」

 遊び人に見えるけど、押さえるとこは押さえているのがさすが。

「このままさ、ずるずるといいお友達でいたらすぐに大台に乗っちゃうよ? 5年くらいあっという間なんだから」

 それから、みどりちゃんは私の両手をぎゅっと握りしめた。

「良く聞いて、花菜美」

「う、うん……」
 みどりちゃん相手になんでドキドキしているんだろう、私。周りの人が見たら、すごく危ない関係に思えるかも?

「卓司さんが出張から戻ったら、速攻で彼の友達の中から花菜美に会う人を選んでもらう。決まりね! ……期待してて、みんなすごくいい人だから」

「そ、そんなこと――急に言わないでよ」
 どうして話がこんなに飛躍するの!? 私は思い切り引いてしまった。

「駄目! 花菜美は人がいいんだから、もしかしたら男にしか興味のない大泉さんにいいように利用されちゃうかも知れないよ? 挙げ句に偽装結婚に突き進んで、形だけの夫婦なんてあんまりじゃないの」
 また、連ドラの影響かな……? こうちゃんはすっかり性癖を決定されている。みどりちゃんの顔がマジなまんまなのもとても怖い。

「私さ、花菜美には幸せになってもらいたい。どうせなら同じ頃に結婚して同じ歳の子供を産んで。おばあちゃんになるまで仲良くしたいんだよ。学校のみんなは私のことタカビーだの尻軽だのさんざん陰口叩いてくれたけどさ、花菜美はずっと友達でいてくれたじゃないの? 前の彼に振られたときだって、夜通し付き合ってくれたし……」

 ……ああ、あれね。みどりちゃんにしては珍しくインディーズのバンドのボーカルに熱を上げちゃって、さんざん貢いだあげく、付き合ったら二股どころか彼女が10人はいて……ひどい男だったよなあ。

「ね、花菜美。大泉さんのことは悪い夢を見たと思って忘れるんだよっ! 早く新しい恋に生きよう!!」
 ……すっかり、悪夢にされている。だから、こうちゃんとは、まだなんでもないんだけど。

 そのあと、みどりちゃんは白ワインを3本も開けて上機嫌で喋り続けた。大体は卓司さんとのノロケ話だった。

 

 

「じゃあねえ〜また電話、しゅるから〜〜〜」

「はいはい、気を付けてね。……運転手さん、緑が丘3丁目の郵便局の隣までお願いします。おうちのかたに連絡しておきましたから、門の前に立っていてくれると思います」

 大酔っぱらいのみどりちゃんをいつものようにタクシーに押し込んで(……そうなのだ、いつもみどりちゃんが潰れてお開き。電話口に出たお母さんが「いつもごめんなさいね」と申し訳なさそうに謝っていた)車が見えなくなるまで見送った。

 ひとりぼっちになると寂しい気持ちが再び押し寄せてきた。夕方のこうちゃんのドタキャンの後だって、こう言う気分に飲み込まれて、気が付いたらみどりちゃんを呼んでいたのだ。独り暮らしの私はあのまんま家に戻ったら、本当にどうなるか分からなかったから。どうせならせっかく着飾った姿で、おいしいものを食べて、気分転換した方がいい。

 ――夜の11時。

 県庁所在地のここは電車で郊外の新興住宅地から通勤通学してくるひとが多い。終電にはまだ早いし、金曜日なのだけど…この頃の不景気のせいか、ボーナス前のせいか…駅前の人通りも一息ついた感じだった。アパートはここから10分歩けばいい。帰ろうかな…どうしようかな…

 頭の中で考えながら携帯の着信履歴を見る。――こうちゃん、電話かけてくれてないんだ。

 こうちゃんは県庁の教育企画室、と言うところに勤めている。小学生向けの地元TV番組を企画して作成するところ。県内の遺跡を取材したり、長老さんを訪ねたりしている。熊みたいな体格だけど人なつっこい笑顔でビデオ片手に奮闘している姿が目に浮かぶ。
 地元の少年野球の監督をしていてアフターファイブは週2回、練習がある。大学まで野球部にいて、関東大会にも出たんだって。てっきりキャッチャーかと思ったら、ショートだというのでびっくり。結構、機敏に身体が動くみたいだ。
 隣町の監督さんと飲むんだったら、仕方なかったのかな? 少年野球の監督の中では若いから、年長者は立てなくちゃ行けないし。――まさか、監督さんだって私の誕生日を知って誘ってきたわけでもないだろうし。

 明日、会えるかな。でも――土曜日は、野球の練習があるかな?

 まだ飲んでいるかも知れない。だけど、とりあえず、留守録にでもメッセージを入れておこう。アドレス帳から番号を選択して――少しの間、考える。みどりちゃんの言葉が甦った。

「こうちゃんは、私のこと、何とも思ってないの……かな?」

 自分でも情けないぐらい、いつもこうちゃんが行動を起こしてくれないかと期待していた。こうちゃんが初めて映画に誘ってくれた時から……ううん、こうちゃんと初めて会ったときからかも知れない。
 

 

 小さな印刷会社に勤務している私は発注された仕事の伝票を持って、広い県庁の建物の中でものの見事に迷子になっていた。そこに、運良く通りかかったのがこうちゃんだった。

「すいません。広報の小菅さんに会いたいんですけど、広報部はどちらですか?」

 その時点で30分は迷っていたから、もう半泣きだったかも知れない。大きな山のような背中、のそっと振り向いた。そして、手短に、明確に説明してくれる。

「広報だったら、B棟の4階の奥ですよ。何だか随分、方向が違いますね」

「そうですか。実は……今どこにいるのかも分からなくて」
 知らない場所にぽつんといて、本当に心細かった。下を向いている私を可哀想に思ったのか、こうちゃんは私の頭をポンポンと叩いて上の方から優しく言った。

「これから、昼休みなんです。……送りますよ、広報まで」

 そっと顔を上げると、窓から降り注ぐ初冬の日差しの中で 目を細めて笑っている顔が見えた。綿のワイシャツは洗い晒しでアイロンが掛かってなかったけどこざっぱりしていて、ネクタイが丁寧に結ばれていた。

 ポツリポツリとおしゃべりしながら広報までの10分ぐらいの道のりを歩いた。部屋の前まで来ると、中を覗いて小菅さんを呼んでくれた。

「じゃあ、これで」
 こうちゃんは観音様のような笑顔でこう言った。助けてもらったからそんなふうに見えただけかも知れないけど。

「あ、ありがとうございました。本当に、何とお礼を申し上げたらいいのやら……大切な昼休みを減らしてしまって申し訳ございません」
 神妙に頭を下げた。顔を上げると、こうちゃんはまだそこにいて(じゃあ、これでと言った割には一歩も動いていなかった)私を見ていた。

「あの……何か?」
 何となく視線を感じて、私は訊ねていた。

「それ、頂けますか?」
 こうちゃんが指さしたのは、私の制服の胸ポケットにささった会社のボールペン。

「これ、ですか……?」
 いきなり、何を言い出すのかと思ってしまう。目をぱちくりしてる私に対して、こうちゃんはまっすぐに言った。

「午後から、会議があるんです。丁度、ボールペンのインクが切れてしまっていて」
 会社の名前と住所の入ったちゃちなペン、戻れば山のように箱にある。そりゃそうだけど、まあ、いいんだけど。

「……こんなので宜しければ」

「助かります、ありがとう」
 私の手からそれをさっと取ると、彼はそのまま今来た長い通路を戻っていった。

 それが丁度、1年前の今頃。

 

 

 半月たった年の瀬に、こうちゃんがふらりと会社までやってきた。
「小菅さんから、書類を預かってきました。後これ、この前のボールペンのお礼」
 どさっと机に置かれたのは近所の「行列の出来る和菓子屋さん」で看板商品の塩豆大福だった。

「俺、これが好物なんです」
 ……とは言っても、これがまた、すごく大きな箱。20個は入っているのではないだろうか? 告げられた瞬間、嬉しいと言うよりも、困惑の気持ちが強かった。

「……あの。お時間が宜しかったら、お茶を一杯、いかがですか? 今、他の者はみんな外回りで出払っていてシズカですし。――とは言ってもウチは5人しかいないんですけど、事務員と営業合わせても」
 20個の塩豆大福は、どう考えてもウチの社で消費できる量ではない。私以外の社員はみんな男性だし、食べても1人1個だ。それも夕方までは戻ってこない。生菓子はできたてが美味しいのに。

「……ご、ごちそうに、なりますっ!!」
 パイプのヤワな椅子を引くと、思い切り腰を下ろす。貴重な備品が、もう少しで壊れるところだった。

 

 それからもこうちゃんは半月に1度くらい「塩豆大福」を手にやってきた。社員の間では「塩豆大福の君」と呼ばれていた。この話もみどりちゃんに大受けした。

「どうして……くくく……いつも塩豆大福なんだろうね」

「うん、社長なんか、届くとノルマが3個だからって、よそで出されても食べないようにしているんだって」

 私の解説に、彼女は涙を流して息も絶え絶えに笑い続けていた。

 

 そんなこうちゃんが映画の試写会のチケットを片手にやってきたのは、県庁の迷子から半年がたった今年の5月だった。

「弟がラジオで当てたんです。でももう観たものだからって。宜しかったらいかがですか?」
 彼はわざわざ人目を避けて、みんなが出払った昼休みにやってきた。熊さんみたいな身体を小さくして心持ち、顔が紅潮している。……気がしたのは、私の思い過ごしだったのかも知れないけど。初夏の陽気と天気予報士が告げる暑い日だったし。

 こうちゃんは週に一度くらい誘ってくれるようになった。土日は少年野球があるので会えない。週の半ばだからほとんど夜のご飯を食べてお開きだ。私は家が近いけど、こうちゃんは電車に40分乗らないと帰れない。今時の中学生だってもっと進んでいるんじゃないかと思うくらいほのぼのとした関係だった。

「大泉さん」「水橋さん」と呼び合っていたのがいつか「こうちゃん」「水橋」に変わっていった。でも半年たってもそれ以上の進展はない。

 ふたりの時間を過ごして、夜の11時になると「そろそろ行こうか」と伝票を手にする。私をアパートの前まで送り届けてくれると「じゃあ、お休み」とさっさと背中を向ける。名残惜しいとか、もう少し一緒にいたいとか――そう言う気持ちは私しか抱いてないのだろうか? アパートに上がってくれたのだって、こうちゃんの誕生日、1回きりだ、先にも後にもそれっきり。

 こうちゃんは照れ屋さんなのかとも信じ込もうとした。確かに気の利いた言葉も言わないし、何かあるともごもごしちゃう。最初の時のまっすぐな声が幻だったのかと思っちゃうよ。「こうちゃん」と呼びだしたとき「花菜美」と呼び捨てにしていいよと言ったのに。「それは……ちょっと」と言ったまま、未だに私のことは「水橋」と呼ぶ。

 でもさ。ものには限界があるんだよね……。

 こうちゃんでも何かイベントがあれば、変わってくれるかもと思った。で、今日に賭けていたのだ。

 

「……私は、魅力ないのかなあ」
 誰にも聞こえないような声でポツリと呟くと、ようやくダイヤルボタンを押した。呼び出し音、背筋を伸ばす――そして。

「あ、こちら大泉高節(こうせつ)の携帯ですっ!」

「……は?」

 こうちゃんじゃ、ない。こうちゃんの携帯なのに。これで女の声がしたら緊迫した3角関係暴露シーンなんだけど相手はどう見てもおじさんだ。かなり緊迫した声がびんびんと耳元に響いてくる。人の携帯に出ちゃうなんて、よっぽどなんだと分かるけど、それにしても。

「わ、水橋、花菜美さん!? あなたが、花菜美さんですね! ――良かった〜っ! 近くなのかな? 出来ることならちょっと、ここまで来てくれる!?」
 向こうは着信画面を見たらしい、こうちゃんは私のナンバーをフルネームで登録してあるのね。

「ここって――どこです!? あなたは誰?」
 いきなりそんなことを言われても困っちゃうでしょう。それくらい、分からないの? 声のトーンは30代か40代の落ち着いたナイスミドル系。だけど、言ってることは滅茶苦茶。

「裏駅の…居酒屋『かすがい』、知っているでしょう? 駅を出て右側の路地を入ったところの半地下の!」

「ええ、それは――」

「頼むよお〜終電が出ちまうんだよ!!」

 電話の相手は相当に焦っているらしく、名乗ることも忘れている。まあ、終電が迫ってるならその気持ちも分かる。

 裏駅と言ったら駅の高架下を突っき抜ければいい。カツカツカツ…慣れないピンヒールを響かせてその店のある雑居ビルの前に進んでいく。すると、店に降りる階段の上で知らないおじさんがきょろきょろしていた。

「あ、水色のセーターに花柄のスカート!! ――水橋さん!! こっちです!」

 また、さらにびっくりしたんだけど。……何なの? どうしてこの人が私の今日の服装を知っているの?
 問いただす暇もなく、腕をがしっと掴まれると、そのままお店へと引っ張り込まれた。

「……これ、です」
 困り果てたおじさんが見下ろした先にいたのは、ぐってんぐてんに潰れた……こうちゃんだった。

「これは――?」
 みどりちゃんをようやく送り出したところに新規の酔っぱらいさんだ。でも……どういうこと!?

「見ての通り。潰れた、大泉君です」
 そんなのは言われなくても分かる。誰もがアルコールを帯びている飲み屋さんの店内であっても、ひときわ酒臭い。こうちゃん、お酒は弱くないはずなんだけど、どうしたのだろう……?

「あの、もしかして。あなたは今日、こうちゃんを呼び出した、隣町の監督さんでしょうか?」
 するとおじさんは、少しムッとした表情に変わった。

「隣町の監督、と言うのは当たってます。申し遅れました……私、中條と申します。大泉君と同じく県庁で、土木課に勤務してます」

「はあ、初めまして……大央印刷の水橋です」
 いきなり自己紹介だ。お互いにぺこぺこと頭を下げあった。一通りの挨拶がすむと、監督さんは話を戻す。

「でも。今日、誘ったのは――私じゃないですよ? 大泉君の方がいきなり電話してきたんです。で、勝手に飲んだくれて潰れたんです」
 憮然とした表情で監督さん、中條さんは続けた。

「え……だって。こうちゃんは、大泉さんは――あなたに誘われたから、って……」
 話が噛み合わない。私の中に、ごちゃごちゃと色とりどりの疑問符が湧き上がってきた。

 どういうこと!? 誘われたというのは口実だったの? よりによってこの大切な日に、こうちゃんは自分から逃げ出したの……!?

 中條さんは私に哀れみを含んだ表情で、それでもきっぱりと言った(そうだ、終電が出ちゃうんだった)。

「で……どうしましょう? 先ほど、自宅に電話したんですけど、今家には、高校生の弟さんしかいないんです。タクシーに突っ込んでしまってもいいんですけど。何しろこの身体でしょう、あっちで降ろして、運べるかどうか。それに、ここからタクシー使ったら万単位になっちゃいますよ?」

 こうちゃんの御両親はもう他界されている。家には弟さんがいてこうちゃんは面倒をみているんだと言っていた。話には何度か出てきたことがある。映画のチケットを譲ってくれたり、服を貸してくれたり。いきなり家に彼女を連れてきてびっくりしたって言うのも聞いたな。

 時間がなくてイライラいしている中條さんと、潰れているこうちゃん。交互に見つめて、しばし考える。こう言う場合、妥当なのは……そうだろうなあ。

 大きく、ひとつ深呼吸をした。

「あの、もし……もう少しだけお時間あったら。私の部屋、ここから10分なんです。運んで頂けないでしょうか」
 それこそ、タクシーに突っ込んで……と行きたいところだけど、こうちゃんを持ち上げるのは私じゃ無理だ。私の言いたいことは分かったのだろう。中條さんも大きく頷いて、立ち上がる。

「いいですよ、次の電車だと途中からタクシーになっちゃいますけど…乗りかかった船ですから。今度、奢らせましょう」
 そう言うと彼は、どっこいしょとかけ声をかけ、こうちゃんをどうにか背負った。少年野球の監督なんてボランティア精神がないと出来ないような事を引き受けてる方。やっぱりいい人だ。

 

 外に出ると、夜風が冷たかった。
 12月になったばかりの街の店頭では所々にクリスマスのイルミネーションが飾りつけられ、人気の消えた建物の中でも色とりどりの電球がきらめいている。

「……大泉君、あなたとの待ち合わせ場所までは行ったみたいですよ」

「そうなんですか?」

 中條さんがポツリとつぶやく。路地に響く足音2人分。私は3人分のカバンを持って、中條さんはこうちゃんを背負って。……そうか、だから今日の服装を知っていたのか。

「なら……どうして」
 私はもう、地底の底深く潜り込むほどに落ち込んでいた。自分から言い訳作って、約束を断ったこうちゃん……そんな回りくどいこと、してくれなくたって良かったのに。ひとこと「嫌だ」と言ってくれたら諦めたのに。

「そんなに、落ち込まないで下さいよ」
 中條さんは優しい声で微笑みかけてくれた。何処か、こうちゃんに似ている。ああ、そうか。野球が好きで子供が好きな人はみんな似ているのかも知れない。

 こうちゃんは、最初に出会ったとき、すごく自然に私の頭に手のひらを乗せた。あれって、ちっちゃい子供をなだめるときのそれだね。そんな優しさを私は勘違いしちゃったのかも。こうちゃんが私にくれるものは、私じゃないほかの全ての人がもらえるものと同じだったんだね。何も特別扱いされていた訳じゃなくて。

 ――どうして、そんなことにも気付かなかったんだろう。こんな風にこうちゃんを追いつめてしまうまで。

「明日は休みですから。本人から、聞いてください。私が喋ったら反則になりますからね」

「……そうですね」
 星も見えないほどの冴え冴えとした月が辺りを照らし出す。こうちゃんは中條さんの背中で何かごにょごにょ言い続けていた。

 

 

 ちゅんちゅんと小鳥の声。眩しい日差し。
 ベランダに出た私は思いきり伸びをした。本当に気持ちのいい週末だ。今日は久々に布団を干そう。洗濯も外に出せるし……。
 ケトルが湧いてピーッと鳴っている。火を止めるためにキッチンに戻った。同じ瞬間、奥の部屋からもの凄い声がする。

「わあああああああ〜〜〜〜〜〜っ!?」

「お早う、こうちゃん。……起きた?」
 キッチンの奥の部屋をぴょこっと覗く。私のアパートは1DK。ドアを開けるとすぐにキッチンで、奥にもう一部屋ある。お客用のお布団の上、金魚が酸欠になったみたいにパクパクしているこうちゃんと目が合った。

「え…? 俺、どうしてここにいるんだ? ……わああああ、頭が〜〜〜〜〜っ!」
 前屈みにうずくまって、こうちゃんはうめいた。

「ええと、昨日は。中條さんと飲んでいて……で……、記憶が、ない……」

 ……そりゃそうだろう、あれだけぐてぐてになっちゃったんならね。たまにしか見れないこうちゃんの慌てぶり。いつもだったらそれも楽しいなと思えるんだけど、今朝の私にはそんな余裕はない。

「中條さんに頼んで、ここまで送ってもらったの。こうちゃんの携帯に電話したら中條さんが出て……」

「そうかあ……悪いこと、しちゃったなあ……」
 頭を抱え込んだまま、こうちゃんは申し訳なさそうだ。私の声が沈んでいるのには、まだ気付いてないのかしら。いっぺんに色々と考えろと言うほうが酷かな。

 うん、いつもの、こうちゃんだ。私の大好きなこうちゃんだ。

「――で、こうちゃん?」

 ぎくり、としたようにうずくまった背中が緊張する。ようやく、自分の置かれた状況に気付いたらしい。

「私には何か……言うことはないのかしら?」
 努めて優しく、でも底知れない緊張を伴った私の声。これだけ言うので精一杯だった。もっともっと、たくさん言いたいことはあったけど、こうして直接こうちゃんを前にすると、やっぱ駄目みたい。

 固まっていたこうちゃんは、がばっと起きあがると膝で少し前に出る。そして、私の目の前にひれ伏した。

「ご、ごめんっ!! すまなかった、水橋っ! 申し訳ない!!」
 大きな体を最小限に縮ませてこうちゃんが言った。何て言って責め立てようと思ったのに……こういうこうちゃんを見ていると、何もなかったように笑みがこぼれてくる。

「お、俺……ちゃんと、行ったのに。駅前まで行って、水橋の姿を見たら……いきなり足がすくんで」

 まあ、失礼な! 私のドレスアップがお気に召さなかったのかしら? ――まあ、いいわ。

「いいよ、こうちゃん、気にしないで。私も悪かったと思うよ、ちょっと気負わせすぎちゃったんだね。気にしないで、本当に。こうちゃんに無理をさせたら可哀想だもん。私に会いたくないときは、はっきり言ってくれていいよ、その方が嬉しい」

 どうしてこんなにするすると言葉が出てくるんだろう? ――もしかして、今、私はすごく悲しいことを言っているんじゃないかしら?

「朝ご飯、出来てるよ。……って言っても食べられないかな? 私がいない方が良ければ、これから買い物にでも行ってくるから。具合が良くなったら、勝手に帰っていいよ?」

 ……まず。鼻の先がつんとした。 このままここにいると、泣いちゃうかも?

 そうだよ、勝負に出た誕生日に相手は恐れをなして逃げてしまった。私は情けなさこの上ない女だ。別に、これといって思い入れもなかった女に、勘違いされて、こうちゃんも迷惑だったんだね。
 もういい、終わりにしなくちゃ。これ以上、こうちゃんにひどいことしたくない。

「じゃあ、ご飯の準備、してくるから。もう少し、ゆっくりしていて?」
 顔を布団にうずめたままの姿勢のこうちゃんを後にしてさっさと台所へ行こうとした。……もう、限界。

「ち、違うっ!!」

「え!?」

 こうちゃんに背中を向けたところで、後ろから思い切り腕を引かれた。ぐるんと視界が反転する。
 一体なにが、起こったの? スキー場で大きく転んだときのように、自分のいる場所や体勢が全然分からなくなった。

「……こう……ちゃん?」
 気が付くとふかふかのお客布団に仰向けに倒れ込んでいた。すぐそばにこうちゃんの顔がある。端から見たら最高に危ないシーンだ。独り暮らし、布団の上という小道具もバッチリ。

「そうじゃないんだ……違うんだ」
 そう言ったあと、こうちゃんは私の右腕をしっかりと掴んだまま、俯いて小声になった。

「俺を待ってる水橋が、あんまり綺麗で自分が情けなくなって。やっぱ、俺じゃあまりにも不似合いかなって思い始めたら……どうしてもそれ以上足が前に進まなくなってしまって――」
 ごそごそごそ。こうちゃんは自分のカバンの中から何やら取り出すと、それを掴んでいた私の右手に置いた。

「これ、渡そうと思ってたから」
 そういうと、そのままくるりと背中を向けてしまった。

 私はゆっくりと起きあがると右手のものを見た。ちっちゃいリボンの付いた紙包み、袋の中にはビロードの手触りの小さな赤いケースがある。そう……その中には。気付いた瞬間に、右腕全体が、ずしっと重くなった。

「あの……こうちゃん」
 間抜けだと思いつつも突っ込んでしまう。

「……どうして私の指のサイズが分かるの?」

「う」
 痛いところを突かれた、と言うように。こうちゃんはうなだれたまま、もうひとつ包みを渡してきた。

「あ、これ……」
 この前から見えないと思っていた、――あの指輪!! ええっ、どうしてそれを、こうちゃんが持ってるのよっ!

「どうしても…直接聞けなくて…悪いとは思ったけど借りちゃったんだ。……だから」

 そうか、それでこれの話をしたときに、あんなにばつの悪い顔をしたのね? そんなの気付けるわけないじゃない、こうちゃんのすることって、分かりにくすぎ。

「俺、こういうのに疎くて。一緒に弟を連れて行って選んでもらったんだ。気に入るといいけど……」

「こうちゃん……」
 さっき、寸前のところで止まったはずの涙が、また溢れてきてしまう。ケースを開いて見ると、そこにあったのは綺麗に細工されたダイヤが3つ並んだ可愛らしいデザイン。

「これ、どの指に…はめていい?」

 とは言っても7号と言えば薬指にしか入らない。右か左の薬指。左の薬指にはまだ指輪をしたことがないんだ……。

「そ、それは……」
 こうちゃんは緊張のせいかすっかり汗ばんだ大きなごつい手で私の片手をそっと握りしめた。

「もちろん、こっち」
 慣れない手つきでケースから指輪をつまみ出すと、左手で私の手を支えて、右手ですうっと薬指に通してくれた。

「……嬉しい……」
 私は自分の右手で左手を握りしめた。みどりちゃんは「特別のものじゃない」と言ったけど、私にとってはやっぱり特別なんだよ。

「これ、こうちゃんの気持ちだって思って……いいんだよね?」

 うるうるした瞳でこうちゃんを見上げる。こうちゃんはすぐには言葉も出ないようで、そのかわりに大きく何度も頷いている。

「水橋……」

 こうちゃんは私の方にすっと手を伸ばしてくる。うわあ、顎に、指がかかって、これは、ひょっとして……ひょっとする!?

「あ、そうだ!」
 私がいきなり叫んだので、こうちゃんのせっかくの手が引っ込んでしまった。

「昨日の晩、おうちに電話しておいたからね。私、こうちゃんの携帯しか知らなかったから、中條さんに教えてもらったの。弟さんが出たよ。よろしくって」

「……ああ、千春ね。あいつに買い物手伝ってもらったんだ」

 こうちゃんはすぐに答えた。でも、私の方はきょとんとしちゃう。

「え……?」

 ……違うよ……。

「確か、雅志君って言っていたような?」

 弟の名前って普通、間違えないよなあ。どんなうっかりさんだって、それくらいはきちんとしてるはず。でも、私、確かに聞いたもん、雅志です、って。

「こうちゃん……?」

 ぴくり。素早く視線が逸らされる。私はすぐにこの謎が解けた。でも、こうちゃんの反応の方がちょっと大袈裟な気がする。何をそんなにうろたえてるの……?

「もしかして……弟さんて、2人いるの?」

「実は……違うんだ」
 こうちゃんはすっかり後ろを向いて背中を丸めた。可哀想なくらい、声がかすれてる。

「俺、5人兄弟で……一番上で……だから」

 そこで、一度大きく深呼吸する。そうしないと、もう声を出すことは出来ないくらい震えてたから。

「親父とお袋はもういないし、ヤローどもの中に入るのは辛いだろうなと。そう思ったらなあ、とても軽はずみなことは言えなかったんだよ」

 私が何も言わずにいたからだろう。こうちゃんは一度、ちらっとこちらを振り向いて、でもすぐにささっと向き直ってしまう。

「あの、もし嫌だったら……それ、取り消してもいいよ」

 うなだれた 熊さんみたいな背中が震えている。可哀想なのに可笑しくて、思わず笑ってしまった。こんな場面で笑うのは不謹慎だと思ったから、必死で堪えていたけど。でも、くくくっと声が漏れてしまう。

 そうかあ、そう言うことだったのか。そこまでは確かに思いつかなかったわ。

「いいよ、こうちゃん……」

「え…?」

 言葉の真意が掴めなかったらしく、こうちゃんが今度は身体ごと、全部振り向く。心持ち力のなくなった瞳に、にっこりと特上に微笑んだ。

「私の大好きなこうちゃんの弟さん達でしょう? ……こうちゃんがいるなら、私、頑張るよ。だから、心配しないで」

 そりゃあさ、ちょっとびっくりだよ。イマドキ、5人兄弟っていうのもびっくりだけど、こんなでっかいこうちゃんの血の繋がった弟さんが5人。一体どんな家なんだろう。お洗濯ものだけでも、毎日のご飯だけでも大変そう。
 だけど、こうちゃんの気持ちも分からない。そんな風に逃げ腰にならないでよ、私のこと、もっと信用して。どうして悲しかったのって、こうちゃんがこんなふうに私の気持ちを見くびっているからだよ。こうちゃんのこと、すごくすごく好きなの。誰にも負けないこの気持ちをきちんと受け止めて。

 こうちゃんは、もう一度、ごおおっと大きく息を吸って。口をぼんやりと開けたまま、ちっちゃい目を出来る限りの大きさに見開いた。

「水橋!!」

「きゃあ!!」
 突然。あまりにも勢いよくこうちゃんが抱きついてきたので、そのまま2人揃って倒れてしまった。

「わ、ごめんっ……つい、勢いで……」

 次の瞬間、こうちゃんはパッと離れる。何だよ〜いいのにさ、私は。

 やれやれ、といったかんじ。身を起こすと、髪の毛の乱れを一応整える。それから真っ赤になったこうちゃんを支えにして、立ち上がった。普段はなかなか見られないこうちゃんの頭のてっぺん、ぽんと手を置く。見かけよりも柔らかい髪の毛。

「さ、こうちゃん。二日酔いの薬もあるから…朝ご飯、食べよ」

 左の薬指、キラキラと輝くこうちゃんの気持ち。
 心まで躍り出しそうな気分で新しい1日が始まる。

 たったひとつのきっかけで、私の憂鬱は嘘のように晴れ渡っていた。

 

Fin(010926)

◇あとがき◇
本当はこのお話より1年ぐらい後の話が書きたくて作ったキャラ達です。花菜美の方は何も考えてません。1人称だし本当に自分のまんまで書きました。こうちゃんは「槇原敬之さん」の唄に出てくる男の人がモデル。決して格好良くはないけど、愛すべきキャラ…こうちゃんみたいな彼氏に力一杯愛されたら幸せでしょうね…(笑) でもって…こうちゃんって結局、プロポーズ…言ってないよね? ちょっとえっちぃ様でいて…全くそう言うシーンが出てこない…いやあ書いていて楽しかったです。宜しかったら、感想聞かせてくださいね!! お待ちしてます〜

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