〜こうちゃんと花菜美・2〜

 

 

「今日は、水橋にどうしても見せたいものがあるんだ」

 じっと立っていても汗ばんで来るような真夏の太陽が、こうして日陰にいても容赦なく照り返してくる。

 私はアイボリーのざっくりしたノースリーブのツインニットを着てきた。ぼこぼこと手の込んだ編み模様。裾のところが花びらのようにひらひらしている。チューリップのようなスカートは歩くたびにふわふわと風を含んで揺らめく。ボーナスが出た日に駅前のデパートで衝動買いしてしまった。
 女の子はおしゃれが好き…それはほとんどの人が頷くと思う。好みの差はあるにせよ、鏡と人目に相談して「自分が一番きれいに見える装い」を目指す。

 …ただひとつの理由のために。

 こうちゃんは仕事のときと変わらない綿のワイシャツとスラックス。それも上はアイスブルーのストライプで下は濃いグレイ。ボタンダウンのワイシャツはさすがに第一ボタンを外してノーネクタイだったけど、このまま仕事に出かけても支障がない感じだ。
 傍らの定位置に立つと洗い立ての洗剤の匂いがした。

 汗っかきのこうちゃんにとって、夏は厳しいものがあるらしい。ハンカチは3枚常備、セカンドバッグの中にタオルも欠かせない。ついでに洗顔剤も入っているんだって。相変わらずの巨体は日陰を作ってくれるのは有難いのだけど…この「日よけ」…熱気を帯びているんだよね。

 今日も汗を拭き拭き、待ち合わせの改札口まで歩いてきたこうちゃんは…開口一番、こう言った。

「どうしても見せたいもの…??」

 うーん、何だろう? 言葉の少ないこうちゃんは言わなくちゃいけないことまで省略するから、こちらは名探偵の推理が必要になる。

 …きれいな景色、とか? でも外をふらふらするのは今の時期、こうちゃんにとっては辛いはずだ。

「…どこまで切符を買うの?」

「葛西(かさい)」

「葛西…って、言うのは」

 …もしかして…水族館? 葛西臨海公園の? ここから行くなら何も水族館じゃなくて、シーパラ(横浜八景島シーパラダイス)とかの方がいいんじゃないかしら? ちょっと遠くなるけどさ。デートスポットとしてはいいと思う。

 たしか春に特大観覧車がオープンしたとTVで紹介していたけど…それ以外は…そうだよ、水族館ぐらいしかない。

「私、あそこ、学校の遠足で行ったきりだよ」

 …何が悲しくて水族館なんだ、あそこで涼しいのは泳いでる魚たちでこっちは「おあずけ」気分だ。きっと屋外にある池で泳がされているペンギンたちはうだってクラクラしているに違いない。瀕死状態のペンギンは見たくないぞ。

「この前、視察で行ったんだ」
 そう言いながらこうちゃんは券売機にがちゃがちゃとコインを入れる。

 こうちゃんの家はここからもっと郊外にある。定期はこの駅までしかないから、もっと都心に行くには切符を買わなくちゃいけない。私の方もアパートがこの駅の近くにある。だから出かける時には切符を買うことになる。

「…私鉄を…乗り継いでいった方が、安いよね」

 私はもともと関東の田舎育ちだ。都会生活にはいまだに慣れてない(実家の方にはJRしか通っていない、だいたい車がないと生活できない土地だ)…こういうときはこうちゃんの采配に頼るしかない。

 こうちゃんは「俺について来い!」というタイプではないのだけど、こうして私と会うときには一応の行き先を決めているらしい。

「何処へ行こうか?」
と、聞いてくることもあるけど、心の中に一応の答えを持っていて、それでとりあえず聞いてくるのだということを何回かのデート(?)で学んだ。

 

「んまあ! 女性の方に決定権を持たせない男って、はっきりいって時代錯誤なんじゃないの?」

 この話をしたときに電話の向こうのみどりちゃんはすっとんきょうな声を上げた。

「駄目だよ〜花菜美(かなみ)、男性はスマートにエスコートしてくれなくちゃ!」

「う…」

 言葉に詰まる。みどりちゃんのように妖艶な美女だったら、男性陣は彼女の気を引こうと必死になってるからそうなるだろう。何しろ、お姫様のご機嫌を損ねたら大変だ(みどりちゃんは友人代表の私から見てもおへそが曲がりやすい)。
 私のように十人並みの容姿ではそんなにお高く止まったところで猿芝居だ。
 

 さらにこうちゃんは彼氏でもなんでもない。
 こうして2人で出掛けることも何度目かになったが、よく考えたら「付き合ってください」とか「好きだ」とか…ドラマでよく見るような胸キュンの場面には出くわしたことがない。

 改めてその事実に気づいたときは愕然とした。

 多分それは…私の方にそういう期待があるからだと思う。

 

 今日もこうちゃんは相も変わらず、しろくまさんのような巨体の上に乗っかった顔の表情から何も読み取ることが出来ない。穏やかなこうちゃんの顔そのものだ。

 電車に揺られてドアの近くに2人で立ち、外の風景を眺めながらポツリポツリと会話する。こうちゃんは仕事先の取材で訪ねたばかりの面白いおばちゃんの話をしてくれた。こうちゃんの話が面白いというよりは、おばちゃんのキャラの勝利のような気もするが、とにかく楽しく会話する。

 傍から見たら…恋人同士なんだろうな…なんとも複雑な気分だ。

 こうちゃんはこんな私に、全然気づいてくれない。

 

 私鉄の駅からバスを乗り継いで、JRの「葛西臨海公園」の駅前に着く。
 クーラーの効いていた車内から一歩出ると、こうちゃんは「うっ…」っとかすれる声でうめいた。

 …そんなに辛いなら、こんなとこ、来なくたっていいのに。

 横目でチラッと覗く。私の視線に気づいたこうちゃんは照れたように笑った。そして、するりと視線を外す。

 いつもそうだ。

 そうだから、私は不安になるのだ。

 駅からまっすぐに長い道がのびている。車道の両端に申し訳程度に街路樹を植えた石畳の歩道がある。たっぷりと大きな葉を茂らせた木の下と、それが切れたひなたを交互に歩きながら私はちょっとメロウだった。

「大きな…観覧車、だねえ…」

 駐車場の向こう、右手の奥に大観覧車が見える。

「せっかく、来たんだから…乗っていく?」

 どきり。

 こうちゃんの何気ない言葉に過剰反応をする私。…こうちゃん、観覧車って…密室。きれいな風景を眺めながらの最高の状況で…

「この前も課長たちと乗ったんだよ、見晴らしが良くて…水橋も気に入ると思うけど」

 がくり。

 …こうちゃんのことだ、他意があるわけないと思ったけどさ…ぶつぶつ。

 左右に分かれた分岐のところに看板が出ていた。

「…待ち時間が…90分」

「ディズニーランドみたい…」

 観覧車って、乗ってみるとあっという間なんだよね。待ち時間が辛そう…

「…帰りに寄る?」

「そうね…」

 結構、諦めのいい私たち。この性格は似ている。迷うことなく左の道を進んだ。道なりに行けばそのまま水族館だ。じゃばじゃばと水を噴き上げる噴水の前で立ち止まる。

「…こうちゃん、今度、泳ぎに行く?」

 水を見ながら、ふと呟く。言ってしまってから、恥ずかしくなる…女の方から、こういうのはまずったかなあ…ドキドキしながら、またこうちゃんを盗み見る。

「あ、駄目。俺、泳げないんだ」

 横顔のままのこうちゃんは顔色を変えずに淡々と告げる。…せめて、想像して赤くなるとか出来ないのかい?(…もちろん、想像するのは私の水着姿!)

「…泳げなくたって…プールは行けるのに…」

 私の呟きは小さくて、こうちゃんには伝わらない。じゃばじゃばという噴水の音がかき消す。

チケットを買って、長いエントランスを行くと、水族館はまず目玉の「マグロが泳ぐドーナツ型水槽」から始まる。

水槽で飼育するのは難しいと言われたマグロを、葛西臨海水族園では世界ではじめて海水2200トンのドーナツ型大水槽で飼育している…というのがウリで、世界ではじめてクロマグロの水槽内での産卵に成功したそうだ。2階分の吹き抜けになった部屋は上下を螺旋階段でつないで水槽を360度からぐるりと観ることが出来る。大きくてつやつやした人間の子供くらいあるマグロがぐるぐると泳ぎまわっている。

 ここに来て、たいていの人間は「きれい」と言うより「おいしそう」と思うそうであるが。

『全長4mにもなる大型の外洋性回遊魚で、マグロはエラ呼吸が出来ないので泳ぎながら海水を口へ取りいれて呼吸します、一生の間休むことなく広い海を泳ぎつづけるのです、寝ながら泳ぐともいわれています。 日本の南方域で生まれ、若魚の一部は太平洋を横断してアメリカ西海岸にまで到着し、成長しながら再び日本の近海にもどって産卵します。高速で泳ぐのに適した紡錘形の体と疲れを知らない強力な筋肉をもち、最高速度は時速80kmにも達します。』 

 そんな解説を目で追いながら、傍らのこうちゃんを見る。いつも見上げる形になる。横顔のこうちゃんはマグロの群集を見ながら、「きれい」と思っているのか、「おいしそう、夕飯に食べたい」と思っているのか分からない。

 水族館は暗がりだから、注意していないとはぐれてしまう。服の色も青い水槽の光の中でよく分からなくなる。それもあってか、カップルは館内でははばかることなく手をつなぎ、腕を組み、…肩に手を回して、いちゃついてるようにしか見えない人たちまでいる。

「…そろそろ、先、行こうか」

 私はこうちゃんの斜め後ろを歩く。いつ、こうちゃんの左手が私の右手に触れてくれるのか、ちょっと期待してしまう。…おい、こうちゃん。周りの状況が見えていないのか? …カップルはみんなどうしてるの!?

 すたすたすた。大股に歩いて、こうちゃんは黙々と進む。何かを考えているように、…何も考えていないように。

 私が、はあっと…こうちゃんに聞こえないようにため息をついたとき、こうちゃんが一瞬、私のセーターの肩口を引っ張った(普通は上袖を引っ張るもんだけど、今日の私はノースリーブだ。だったら、直に腕を引っ張ればいいのに…。

「…そう、そこの角を曲がったとこ」

「…?」

 巨大マグロを見た後は気抜けするようなちっちゃい水槽に、これまたちっちゃい熱帯魚が泳ぐのが左右に延々と続いていく。照明をギリギリまで落とした館内、水槽から青白い光が漏れてくる。深海魚のコーナーなどはその生態に合わせて暗くしてあるから、顔を近づけても…よく見えない。ただの海草の寄せ植えに見える。

 家庭用水槽の様なコンパクトな水槽のひとつの前で、こうちゃんはぴたりと足を止めた。

「…あった」

 水槽に顔を近づけて覗き見ていたこうちゃんがくるりと振り向いた。

 こうちゃんの優しい視線が私を見る…暗がりでよく表情が見えないのがもどかしい。

「これ、この魚、見せたかったんだ」

 指さした向こうに他の水槽と少しも変わらない水草の群集が見える。ちらちらと何かが動いているのが分かった。

「……」

 傍に寄って、水槽におでこをくっつけるようにして覗き見る。動いていたのは…やはり魚だった。爪の先ほどの本当に小さなピンク色の魚が群れになって泳いでいた。身体に似合わないひらひらした尻尾がライトアップされる。彼らはたおやかな水草の中を行ったり来たりしながら、こちらの視線には気づかずに悠然と泳ぎ回っている。

 …きれいな魚だとは…思うけど、他の熱帯魚たちと変わらない気がする。どうしてこれを見るために1時間半も電車を乗り継いでここまで来たんだろう?

「…似てるでしょう?」

「え…?」

「水橋に、似てると思ったんだ」

 その言葉にびっくりしてこうちゃんの方に振り向く。明るいところから急に暗い方を見たので、ぜんぜんこうちゃんがどんな顔をしているのか分からない。

 もう一度、水槽を見る。茜色に近いピンクの魚たちは、無表情に泳いでいる、目も死んでるみたいに虚ろだ。だいたいあまりに小さくてよく分からない。

 …どうして…これを、私だと思うんだろう。

 どうせなら、愛らしいミニバラか何かを私にたとえて欲しい。どうして魚なのかしら? こんなに小さな魚なのかしら(…かと言って、さっきのクロマグロはもっと嫌だけど)。

 呆然と水槽に吸い寄せられるように見つめていると、背後に熱気を感じた。

 …こうちゃんだ。

 水槽のすぐ横の壁に手を置いて、私のすぐ後ろで同じ水槽を見ている。ちょっと、視線が下に向いているのだろう、耳元の辺りに気配が感じられる。

「…きれいでしょう? ひらひらしていて。この前の視察でこれを見たとき、水橋が歩いているみたいだと思った」

 内緒話をしているように耳元にこうちゃんの声が届く。こうちゃんの声が体中に響くみたいで足がガクガク震える。

 …どうしよう、この体勢…身体が動かせない。振り向いたら、こうちゃんにぶつかっちゃう。

「…視察の前に…急に練習試合が入って、映画に行けなくなったでしょう? 電話したときの水橋の声が何だか、耳から離れなくて…ここまで来たら、あ、いたって」

「……」

 なんて答えたらいいんだろう? この姿勢を保っているだけで精一杯で頭が真っ白だ。いつもこうちゃんの方から、何かしてくれないかと思っているのに…いざとなると…。

「さ、行こうか」

 背中の熱気と圧迫感がすいっと消えた。慌てて振り向くと、こうちゃんはさっさと次のコーナーへと歩いている。

 …え? おしまい?

 がくっと脱力する。何なんだ、今のは。

 

 角を曲がると出口に近いらしく、急に白い光が漏れ出てきた。一瞬、クラッと来る。

 額に手をかざしてみるとこうちゃんの大きな背中が揺れながら遠ざかっていくところだった。走りよって、背中に抱きつきたい衝動にかられる。でも足が動かない。

 …思い出した。

 こうちゃんから、あの断りの電話が来たとき…私は取引先からのクレームの処理をしていてとても落ち込んでいた。だから、こうちゃんのすまなそうな声を聞いた瞬間に、ちょっと涙が滲んだんだった。気づかれないようにしたつもりだったのに…伝わっていたんだな。

 あの時は…ほんとうに、ものすごく、こうちゃんに会いたかった。
 こうちゃんの隣りにいるとホッとする。穏やかな声を聞いていると心が安らぐ。…こうちゃんのそばに行きたかった。

 はるか向こうを歩いていた背中が振り向く。私が付いて来てないことに気づいたらしい。
 どうしたの、というようにこちらを見る。

 こうちゃんが、私を見ている。私のことを心配している。

 何だか、心がポッと温かくなる気がした。急いで、こうちゃんのところまで駆け寄る。

「…どうしたの?」

 心配そうな顔が覗き込む。私は微笑み返す。

「…急に、明るくなったから。目がくらんだだけ」

 私の声を聞いて、ホッとしたように一瞬、微笑んでから、こうちゃんの視線はまた進行方向を向いた。私はさっきまでと同じように斜め後ろを歩く。こうちゃんの左手には汗ばんだハンカチが握られていた。

 

 予想通り夏バテして呆然としているペンギンたちの前を通り過ぎ、観覧車を真正面に見ながらさっきの分岐点に戻ってきた。

「…待ち時間…180分」

「…夜になっちゃうね」

 立て看板を前に2人で立ち尽くす。こうちゃんはくるりと足を駅の方に向けた。

「戻ろうか。水橋の部屋の近くのどこかで、ご飯を食べよう」

「そうだね」

 観覧車は私たちを見守るようにゆったりと回っている。…今日は観覧車の危ない密室状態は…お預け、だね。

 がっかりしたような、ホッとしたような複雑な気分で大きく回るそれに照れ笑いを返す。

 それから、駅に向かって歩く背中に視線を移した。

 こうちゃんは今日もきっと、晩御飯を食べたら私をアパートまで送って…「じゃあ、おやすみ」と戻っていくんだろう。いつもと同じように。今までがそうだったように。

 …でも。

 あと4時間は一緒にいられる。お休みの日にこうちゃんが世話をしている少年野球のチームの雑用がないのは本当に稀なのだから。

 こうちゃんと一緒にいられれば…今はよし、としよう。

「こうちゃん〜、ちょっと待ってよ〜!」

 照れ笑いの顔が振り向くのが分かっていて、私はわざわざこう叫んで駆け出した。

Fin(011012)

◇あとがき◇
…前作の「さかなの憂鬱」、どうしてこんなタイトルになったのかどなたも突っ込んでくれませんでしたが…実はこのエピソードをどっかに入れようと思っていて、ついつい暴走して忘れてしまったのでした。このピンクの魚をこうちゃんが花菜美と似ている、と言ったところから、この「さかな」シリーズが始まったわけです。
葛西の水族館は地元ですし、何度も行ってるんですが…この2年、行ってない。観覧車も高速からしか見たことがないんです。ちょっと、乗ってみたいですよね。
このシリーズはまだまだ書くつもりです。残念ながら、前作よりも時間が戻ってしまいましたので…さらに健全な2人になってしまいました。「こうちゃん〜あんたいくつだよ〜、男ならバシッと行け!」と突っ込みつつも、何もさせるわけに行かず…はあああっ。次回はもっと(?)進展させてみたいです。

Novel indexさかなシリーズ扉>さかなの国

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