ピーカンの上天気。冬の晴天。 私はニットスーツの上に一張羅のカシミアコートを着込んだ。これはママが「10年は着なさいよ」と言って買ってくれたものすごい値段のもの。就職祝いだった。
「…こうちゃん!」 9時ジャスト。改札際に駆け込むとこうちゃんがフェンスの向こうでゆっくりと微笑んだ。 「…なあに? それ…」 どうしたの? こうちゃんはいつものセカンドバッグじゃない。修学旅行にでも行くようなでっかいスポーツバッグを肩から提げている。 「あ、これ? 今日の、勝負に使うもの」 「ゴンちゃんと青山先輩は…10時に寺島さんちでお待ちしてますって。…こうちゃん、一体、どうするつもりなの? でもって…その大きいの…何?」 まるで百科事典を12巻セットで売り歩く訪問販売のおじさんのようだ。込んだ電車の中ではどんなに邪魔だろう。持ち込みはオッケーの大きさだけど…。 「…内緒」
JR高円寺の駅から徒歩15分。ちょっと路地を入った住宅地に寺島さんの家はあった。 こうちゃんの身長くらいある木製の重々しい塀でぐるりと囲われた、森のような庭。あっちにちらっとだけ見えるお寺みたいな屋根が…もしかしてお家? 武家屋敷のような瓦屋根付きの門には…インターホンが場違いにちょこんと付いているのが可笑しい。 「水橋の家の者です」と告げると、お手伝いさんが出てきて門を開けてくれた。…ここ、新宿御苑の続きじゃ…ないよね?? 3メートルくらいある椿の木が両脇でお出迎え。
「花菜美〜おお、昨日のことを今、聞いとったところじゃ、…上がれ、上がれ…青山さんもお待ちかねじゃ」 石畳の上を歩いていくと玄関でゴンちゃんが両手を広げて待っていた。 この玄関だけで、ウチのアパートのワンルームぐらいあるわ…頂き物のシンビジュームやらシクラメンやら胡蝶蘭やら…温室のように並べられている。 「…こんにちは。昨日は失礼いたしました、水橋さん」 「なんじゃ、あんたは来んでいい、…邪魔だ、帰りなさい」 「そうは、参りません」 「水橋の…花菜美さんの、相手として…水橋さんに認めて頂くために参りましたので」 「…馬鹿馬鹿しい…青山くんはお前さんなどが太刀打ちできるお相手じゃないぞ。親族集めて採決したって、結果は見えている…これ以上食い下がったって、あんたが惨めになるだけじゃ。…悪いことは言わん、金輪際、花菜美には関わらないで欲しい」 「いいえ」 「…親族の皆さんどうこうより…私は、あなたに、水橋さんご本人に認めてもらいたいんです」
黙って2人のやりとりを聞いていた私。 凄いじゃん…こうちゃん!! 格好良すぎ!! 私、東京タワーか日本武道館のてっぺんから「好きだ〜〜〜〜!!」と叫ばれた位、嬉しいよ。 …いけない、いけない…カシミアコートに鼻水が垂れちゃう。
「あんたも…見かけに寄らず強情だな…自分が全く馬鹿馬鹿しいことをしていることが分からないのか?」 ゴンちゃんがこうちゃんに睨みをきかせたとき…奥の方からぱたぱたとスリッパの音がした。 「やあ、嬉しいな。花菜美ちゃん…今日も会えるなんて…」 先輩はこうちゃんを見ると、一瞬、ふふっと不敵に笑ってから…友好的に会釈した。なめまわすようにこうちゃんを見る。…自分の方がすべてにおいて勝っていると言わんばかりだ。 「凄い自信ですね、まさかそちらからいらっしゃってくださるとは。…俺はあなたと花菜美ちゃんがどういうお付き合いをなさっているかなんて、過去のことは全然、気にも留めませんから…これから、花菜美ちゃんをあなた以上に愛して、幸せにしてあげればいいんです。俺にはその自信があります」 先輩の整った顔が勝ち気に微笑む。通った鼻筋…大きな目が燃えるような自信でこうちゃんと私を交互に見る。 私は背筋がガチガチに凍り付いて、こうちゃんのスーツの裾をぎゅっと掴んだ…これは見るからに一張羅だろうけど…しわになったらごめん 。 そうだよ! …こうちゃんっ、この際、駆け落ちだっていいじゃないの。こんなところでガン付けあわなくたって…。 「そうは言われても…引き下がれませんね」 あああ、私の心の叫びが伝わらない…どど、どうしよう…。 「あなたと私が…どちらが花菜美さんにふさわしいか…ここで水橋さんと寺島さんを審判として、勝負しませんか?」 …こ、こうちゃん!! 撤回、撤回! 今の言葉…まずいよう〜何考えてるのよ! 止めてよ〜! 対する青山先輩は、おやおや…と言うように眉毛を動かした。 「まさか、今年のセンター試験の問題を解いてみようとでもおっしゃるんじゃないでしょうね?」 …そんな馬鹿な!! 今はどうか分からないけど…現役だったら、先輩の方がどう見ても偏差値高いぞ! ちょっと、やばいよ〜! 「…それは…フェアじゃないでしょう? 学力だけでは人間は測れません」 「かと言って…あなたは見るからに、スポーツ万能の様ですが…そっちの方向で勝負されるのもフェアじゃないですよ。そのバッグ、まさかボクシングのグローブでも入っているんじゃないでしょうね?」 「…まさか」 これでは参議院予算委員会のようだ…ううん、それよりも高級なやりとり。 「…聞くところによると…青山さんは将棋がお好きなようですね?」 「おお、そうじゃ、…こちらの青山くんは何と言っても東京都学生アマチュア大会の優勝経験がおありじゃ。プロに誘われたことも1度や2度ではないんだよ…」 「…でしたら、その、青山さんがお得意な将棋で…勝負しませんか?」
…こ、こ、こ、…こうちゃん!? 一体何を言い出すのよ!?
「…よろしいんですか? …でも俺は、アマが相手で負けたことが無いんですけど…嬉しいなあ、もしかしてあなたは最初から、花菜美ちゃんから手を引いてくれるおつもりだったんですか? でもなあ、惜しい。今日は無理です。寺島さんのお宅には将棋盤が無くて…」 「いやはや…申し訳ないねえ。この前、遊びに来た孫が欲しがったので持って行かせてしまったんじゃ。今、青山くんと水橋さんがやりたいと言い出して…謝っていた所なんです…」 このメンツで一番困っているのがこの人じゃないだろうか。ゴンちゃんに言われるままにお見合いをセッティングしたのはいいけど…私の方は彼氏持ち。でもって、彼氏が乗り込んできたのだ。はらはらしてことの推移を見守っていただろう…。 「…そう言うこともあるのかと…」 「道具は持参で参りました」 …こうちゃん!? なんでこんなにぐるぐると包んで持ってきたの? だもん、バッグが膨らむはずだよ。 こうちゃんが将棋盤を取り出すと…ゴンちゃんががばっと近寄ってきた。 「こ、これは!?」 「私の家に代々伝わる…将棋盤でして…。どうも江戸時代の後期の頃のものだとか? ちょっと真相は分からないんですけど」 つやつやと光り輝いた飴色の物体にゴンちゃんが見入っている。 「形から入ろうとされるのはご立派ですね…でも私は負けませんよ…」 「お手柔らかに…お願いいたします」
日当たりの良い南の縁側で『対局』が始まった。 もう、私の心臓は爆発しそうだった。今まで、こうちゃんが将棋の話をしたことなんて無い…それどころか、ウチの会社に遊びに来て社長に誘われても、『自分は、ちょっと…』とか言って、断っていたくらいだ。 …どうしちゃったんだよ〜こうちゃん… 対局を目の当たりにすることも出来なくて、私は部屋の隅っこでうなだれていた。見るに見かねたのか…すすすっと、寺島のおじいさんが近寄ってきた。 「ご覧にならないんですか?」 「…私、将棋は分からないんです。ゴンちゃんは、家では打たないので…うちの家族はゴンちゃんが将棋狂いだった反動で…誰もやらなくって…」 ゴンちゃんの奥さんの豊子さんは、将棋を毛嫌いしていた。ゴンちゃんが賭け将棋ばかりしていたせいだろう…家にお給料も入れずに遊び歩いていたのだから無理もない。 「…実は、私も良くは分からないんです」
「でも、若いとはいいですなあ…」 「は?」 ポカポカと硝子越しに冬の日差しが降り注ぐ。お庭の遣り水が綺麗だ。 「あなたのことで…若者があんなに真剣に…それだけ、あなたさんが魅力的なお嬢さんだと言うことでしょう…」 目の前の老人がうっとりと陶酔している。そんなこと、どうでもいいのよ〜私は、こうちゃんだけ、いればいいのに…。
ぴしゃり、ぴしゃり、と…将棋の駒が進む音がする。 相手が一手打つとじっくりと考える青山先輩に対して、こうちゃんには迷いがない。先輩が駒を進めるとほとんど同時に、自分の駒を動かしてしまう。 まあ、ルールくらいは分かっているんだろう。でも… いつもけたたましいゴンちゃんが真剣に見入っている。…私には盤を見たところでどちらが優位かも分からない。ああ、もどかしい…。 「王手」 「…え…?」 「どうして…ええと…」 「…え? …え? …ちょっと、待った…」
「…大泉…さんとやら?」 「はい、何でしょうか?」 「お前さん…本当に、素人?」 「はい、もちろんです」 「…叔父が…将棋好きで…良く相手をさせられております、それだけですよ」 「叔父…?」 ゴンちゃんと先輩が顔を見合わせた。やがて二人はぎょっとしたように同時にこうちゃんに向き直った。 「大泉って…もしかして、あのアマチュア界の帝王…『荒らしの鷹』の大泉才雅!?」 「そういえば…手が似ている…」 「では…よろしいでしょうか?」 「…も、もう…帰るのかね!?」 「…今度はご自宅の方にお伺いします。さ、行こうか…水橋?」 「う、うん!」 すたすたと玄関に消えていくこうちゃんを私は慌てて追いかけた。 「…こ、こうちゃん!?」 「お疲れさま、さ、昼飯でも食いに行こうか?」 「ど、どうして…初めに言ってくれなかったの!? 私、よく分からないんだけど…滅茶苦茶に強かったんでしょ?」 そうだよ、だって…本当に心配したんだから!! 死ぬほど心配したんだから!! 「…だって…自分がどれくらいの実力か、何て知らなかったし。もし、負けたら恥ずかしいでしょう? まあ、大丈夫だとは思っていたんだけど」 やだ! どうしてそんなに平然とすごいこと言うのよ!? 「どうして…この前、社長に誘われて断ったの? 将棋が出来ないのかと思ってたよ?」 「…う〜ん…」 「子供の頃から…叔父さんの相手しかしたことなくて…実は手加減が出来ないんだ。本気でやっちゃうと目上の方を怒らせちゃうんだよ」 「…そうだったの?」 「でも、良かったよ。これが囲碁だったら…完全に負けてただろうからな〜」 「…そうだね」 全くである…本当に助かったわ。でも、こうちゃんて…もしかして、すんごい強運の持ち主だったりする!? 斜め上のこうちゃんの表情を覗き込む。あいかわらずのクマさんの顔。顔だけだったら…実のとこ、先輩の方が…好みだったりするんだけど…ふふふ、内緒、内緒。
「それにしても…これ重いな…そうだ、」 「これから…ウチに来る? 弟たちに紹介するから…」 「え…?」 それって…それって、もしかして…家族に紹介、その1!? がばっと、こうちゃんを見上げる。 ちょっと照れた大好きな笑顔の向こうで、本物のお日様も一緒に笑っていた。
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