昨日の余韻を空気に溶かしだしたように暖かな風景。 昼下がり。カウンター越しに窓の外をぼんやりと見つめていた私は、大きくため息を付いた。…ちょっと胃が痛い。 大央印刷…名前は立派なんだけど、実は街の小さな印刷屋さん。版下づくりから印刷、製本まで手がけている。事務所の裏手にある印刷所もささやかなものなので、大口の注文は受けられない。会議用に少部数だけ必要な冊子や議事録など、一般企業やお役所の部署からちまちまと注文が入る。 カランカラン。 仰々しい音を立てて、ドアが開く。音の原因は社長が先日スイス旅行で買ってきたカウベルだ。ドアを乱暴に開くとまるで神社の鈴のような音が響く。 「いらっしゃいませ…あら」 …いいんだ、気付かれたって。 「…は、…は、水橋さん…こんにちは…」 通りを全力疾走してきたんだろうか? 最初の言葉が息も絶え絶えなのはそのせいであって、この人が変質者なのではない(…多分)。山のような大きな体を折り曲げて、肩で大きく息をしている。 「…どうしたんですか? 大泉さん…」 「あのっ…今、ようやく昼休みに入って…それで、2時半から企画会議があって…ええと…」 もしも今ここで、呼吸困難で倒れられたら大変だなあ。救急車騒ぎになったら会社の評判が悪くなるかも知れないし、大体、85キロもある巨体を担ぎ上げる救急隊員さんは災難だ。…とと、まずは水分補給かしら? 「あ、待ってください…今、お茶でも…」くるりと背中を向けた私は、制服になっているアクアブルーのスーツの袖を思いきり引っ張られた。 「…いいんです…」 「あの、今日は手みやげがないんです…少し、ここを留守にしても良いなら…ちょっと外に出ませんか?」 「はあ?」
この大泉さんと初めて会ったのは去年の12月の初め、県庁の中。伝票を広報に届けに行ったのに迷子になっちゃって、声を掛けた相手が彼だった。 「すいません…広報の小菅さんに…会いたいんですけど…広報はどちらですか?」 その時点で30分は迷っていたから、もう半泣きだったかも知れない。彼は、のそっと振り向いた。 「広報だったら…B棟の4階の奥で…何だか随分、方向が違いますね…」 昼休みを返上して、道案内をしてくれた優しい人。
それきりだと思っていたのに、半月後、「好物なんです」と塩豆大福を手にここへやって来た。それから気が付くと半月に一度くらいのペースで来ている。塩豆大福を大量に持って。 最初は勤務時間中に良いのかと不安になったのだが、どうも外回りのついでで支障ないらしい。
「彼は、花菜美ちゃんに気があるんだよ」 何故なら。 大泉さんの手みやげがいつも塩豆大福、しかも大量。彼自身が消費してくれても、15個余る。それをウチの会社では一人3個のノルマで平らげることになっている。 「甘さを控えた上質の餡を包んだ豆もちの絶妙なバランス」…そうは言っても、いくら行列が出来る和菓子屋さんの看板商品であっても、いつも同じでは困ってしまう。糖尿病の気のある社長は血糖値が上がったそうで、悩んでいるし。 みんな、外回りから戻っての第一声が「…今日は、ないだろうね、塩豆大福」である。 もしも出張中だったとしても、ノルマからは逃れられない。 和菓子はきちんと密閉してあれば冷凍保存が可能なのだ。コチコチに固められて、給湯室のフリーザーに入っている。食べるときは自然解凍。 私だって、一人暮らしだから自分の胃に収まる以上の量を消費することは出来ない。 「…私が、まりものように太ってしまったら、我が社の営業に差し支えるんじゃないですか?」 …大泉さんが、私に気がある…? でも、そんな風には見えないんだよな。ただ、塩豆大福が食べたいだけの様な気がする。
「…う〜ん…」 その時、私は腕組みをして…眉間にしわを寄せていた。 何度めかのため息を付いて、私が見下ろしているのは「愛のバレンタイン」と言うとてつもなく恥ずかしいキャッチに飾られている駅前デパートのチラシであった。赤とピンクのハートがそこら中を飛びまくったチラシは正視するのも困難だ。 しかし、これは大切な年中行事。 自社社員と工場の従業員さん、お得意先の担当者さん…ピックアップした人数は15人。彼らに妥当なチョコレートを見つけなければならない。 安月給(…何だよな〜社長! 「バレンタイン手当」を支給して欲しい)の中から私がはじき出した金額が一人500円。こういうときに同じ立場の女子社員がいてくれると心強いんだけど…いないものは仕方ない。とりあえず、社内の人間は一人ずつ品を変えて、お得意さんは一括にしちゃおうっと。 ぐるり。手にした自社名入りのボールペンで600円のチョコに丸を付ける。 買い物のめどが付いて、ホッとする。 さて、そろそろお湯を沸かしておこうかな? 社長が戻ってくる時間だ。
給湯室に入ってやかんを火に掛ける…とと、なんだか表の方で物音。 「いらっしゃいませ…」 「へえ、…これって3000円もするんだ。すごい…」 「…大泉さん!!」 ぱし!! 慌てて、彼が持っていたチラシを奪い取る。 「駄目ですよ、企業秘密です! …男の方は見てはなりません!」 「はあ、そうですか…」 「去年、そのチョコを弟がもらってきたので…小さなのがいくつも入ってないのに、高いんですね。…水橋さんも、渡す方がいらっしゃるんですか? とても熱心に見入っていたようでしたが…」 「…え?」 どういうこと? それって… 「さっきから、ここに入ろうと思っていたんですが…なにやら取り込み中の様で申し訳なくて」 「…見てたんですか?」 「はい、5分ほど」 があああん!! 義理チョコを真剣に選んでいる顔が、通りから丸見えだったのね…情けない。 「ぎ、義理チョコですよ〜一応期待されているので、配らないと…。おじさんたちはわざわざ14日を目指してこちらにいらっしゃったりするし。少し余分も用意しないと困るんです…」 な、何なの? 大泉さん相手にこんなに詳しく言い訳して…慌てる自分に戸惑って、自然と顔が赤くなってしまう。 「…じゃあ。来週の14日にこちらに来れば、誰でもチョコを頂けるんですか?」 …はあ? 見上げると大泉さんは相変わらずクマさんの様な笑顔でニコニコしている。 「実はウチの課、去年からバレンタインはナシになっちゃって。手ぶらで帰るのも弟の手前、恥ずかしいんですよね…あ、いいです。言ってみただけ」 そう言いつつ、はい、と渡される塩豆大福の包み。ずしり、20個入り。
結局、私は大泉さんの勢いに負けて、駅前の公園に来ていた。一応、携帯は持ってきたから、30分ぐらいなら大丈夫だろう。そのくらいだったらお使いに出ることもあるし。 それにしても。 何か飲み物を、と買いに行ってくれた大泉さんを待ちながら、考える。 2時半から会議がある人が、何のために来たんだろう? 今はもう1時45分…また電話番でお昼休みが遅れたのかな…。 「お、お待たせしました…どうぞ」 それから彼は、ふうと一息ついて、私の隣りに腰を下ろした。目の前にじゃばじゃばと噴水が湧いている。 缶ココアをせっかくなので開けて、一口、頂く。二口、頂く。 その後、噴水を見ていた自分の視線を…そっと左に移した。 「お、大泉さん…?」 思わず、声を掛けてしまった。 だって、缶コーヒーを膝に置いたまんま…ぼーっと固まっているではないか。 「あの…大丈夫ですか…?」 ぽん、と肩を軽く叩いてみた。 「わあっ!! …すみません!!」 ものすごい、リアクション。膝の上の缶コーヒーが滑り落ちて、ごろごろと地を転がっていく。…蓋が開いていなくて、良かった。 自分の缶をベンチに置いて、拾いに行く。…ああ、もうこんなに砂が付いちゃって…。 「…すみません…あの、何にも考えないでここに来ちゃったから…言葉が浮かんでこなくて」 「…残ってます?」 「はい?」 大泉さんの悪いところ。主語を省いた話し方をすることだ。聞いてる方は何が何だか分からなくて混乱する。 「…ココアだったら、残ってますけど…?」 「…違います…あの…昨日の…その…」 ははん、分かったぞ。何が言いたいか。でも、言ってやらないもん〜。 「昨日のって…何ですか?」 「う…」 「…水橋…さん…」 ぱしっと、眼があったので…私は少し真顔に戻って、じっと見返してあげた。それから、ゆっくりと言う。 「…残ってません、昨日は思ったよりもお客様が多くて…夕方買い足しに行った分も売れちゃいました、義理チョコやさんは、完売です!」 「そう…」 「昨日…急の出張が入って…来られなかったんです。別に…何でもないことなのに…心残りだったから…いいんです、じゃあ」 そのまま、視線を逸らして立ち上がる。 「俺…本当なら、チョコレートよりも塩豆大福の方が好きなんですけど…水橋さんが手渡してくれるものなら、食べてみたい気がしたんです…」 …え…? 今度は私の顔が赤くなる番だ。ぽーっと顔に血が上っていくのが分かる気がする。 でも、背中を向けた大泉さんにはそんな私の事は見えないだろう。 「お忙しいところ、お呼び立てしてすみませんでした…失礼します!」 「わ、…ちょっと待ってください!!」 ほおおんとに、唐突なんだもん。いじめた私も悪かったけど、話を終わらせるのがいきなりなんだよな…。 このままだと走り去りそうな背中。この前と同じ、グレイのジャケットをぐいっと引っ張った。 「…水橋さん…?」 158センチと180センチ。私が手を伸ばして引っ張るのは彼の背中の半分ぐらいの所だ。のけぞるように振り向いた視線をつむじの辺りで感じる。…顔が、上げられない…。 右手で上着を握りしめながら、左手でポケットを探る。指の先に当たる、冷たい感触。それを握りしめるとひとつ、深呼吸した。 「…義理チョコは…残ってないんですけど…」 「これで良かったら…」 「…え…?」 丁度タバコの箱くらいの大きさ。お店の人はシガレットケースになると言った。そしてタバコを吸わない人なら、名刺入れにしても良いって…。さりげなく、誰でも知っているライターの会社のロゴが入っている。 「いいんですか?」 よく分からない、と言った感じで…大泉さんが缶を受け取ったのが感触で分かる。私の手のひらから重みが消えたから。 カラカラ、と缶の中で音がする。彼が蓋を開けた瞬間に、上着を握りしめていた手がしっとりとした気がした。 「…あの…水橋さん?」 「…はい…」 「どうして…中身がひとつしか残っていないんです?」 彼がつまみ上げた金色の包み。両端をよじったキャンディー型。 私の右手がするりと外れた。 「…食べちゃいました」 「…は?」 「大泉さん、来なかったから。本当は、全部食べちゃおうと思ったんですけど…食べきれなかったから…」 地面を見ながら、ようやっと言葉を絞り出す。両手は身体の脇で、ぐっと握り拳を作って。
ぐるぐると。昨日の事が頭を回っていく。 買ったときは大した思い入れはなかった気がする。確かに他のチョコと較べると金額も張り込んだけど、今までの「塩豆大福」代と思えば安いものだと思う。 でも…来なかったじゃない。 仕事が終わってから来るのかなあと、2時間も残業してしまった。
アパートに戻る途中で、お弁当を買って(…もう、食事を作る気力もなかった)それをちまちまつついた後で、あのチョコの包みが思い出された。 TVでは事もあろうにバレンタインにちなんだ、ベタなドラマが放映されていた。いよいよ悲しくなってくる。 …こういうときは、おなかがいっぱいになればいいのね… 包みを開けて、ひとつ食べてみた。…悔しいけど、やっぱり高級品はおいしいのだ。 口の中に広がるほろ苦さ。…どうして私はこんなものを買ったんだろう。大泉さんはただの社交辞令のようにああ言っただけだったのかも知れない。それを真に受けるなんて…。 もうひとつ…もうひとつ。食べているうちに、味なんて分からなくなっていた。 そして。 私は今日、朝からものすごい胃痛に苦しめられる羽目になったのだ。
「水橋さん」 恐る恐る、顔を上げた。上目遣いにそっと覗くと、大泉さんがにっこりと笑っている。 「…おいしいですよ、とっても」 きゅいん、と胸が締め付けられた気がした。どうして、どうして…この人は、こういう台詞を言いながらさわやかに笑うのだろう…? 「…私もそう…思いました」 すっかり立場は逆転している。きっと私は今、情けないくらい真っ赤な顔をしているはずだ。 「来年は…半分ずつにして下さいね、もっと味わいたいですから」
春の日差しが金色の粉になって、目の前に振り注ぐ…そんな幻覚までが見えた気がした。
Fin(020112)
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