「出張…?」 「…うん」 「そう…」 2月最初の夜更けは寒い。
週半ばの晩ご飯デート、今日はお給料日からまだあまりたってないから、奮発してくれていつもより千円高いコースの定食をご馳走になった。生ガキの握りなんて初めてだった。牡蠣のフライは子供の頃から平気だけど、目をつぶって食べてる。あのグロさはやっぱり怖い。酢の物はこの頃ようやくクリアした。大人になったんだと思う(…24だったら、当然か)。
私は自分ではそんなに我が儘な方じゃないと思ってる。そりゃ、カチンとくることもあるけど、大抵のことはぐっと飲み込んで忘れることにしてる。だって、人間関係が壊れるのは嫌だもん。 でも、こうちゃんは別格でいいと思う。そう簡単に壊れないと信じてるから。結構、言いたいこと言ってる気がする。
「取材先が県境だからなあ。車で行くことになるけど、山を迂回して遠回りになるらしい。定時にはとても戻れないと思うよ…悪いね」 この「悪いね」には「仕事だから、仕方ないでしょ?」と言う意味が含まれている。すまなそうにしながらもこうちゃんには余裕がある。 「じゃあ、会えないんだ。…あああ、今年も一人でバレンタインか〜つまんないの…」 去年は。まだ付き合っていた訳じゃないけど。こうちゃんはウチの会社に時々「塩豆大福」持参で訪ねてきてくれる顔なじみだった。 こうちゃんより前をとぼとぼ歩く。人気のなくなってきた、私のアパートへの道。11時56分の快速までに駅に戻らないと、こうちゃんは途中の駅からタクシーになっちゃう。だからお店は11時に出て、駅前からたった10分のアパートへの道のりを名残惜しく歩く。 今週末はこうちゃんが指導している少年野球チームの遠征があると言ってた。だから次に会うのは来週の今日、バレンタインだと思ってた。もちろん、チョコは買ったし…そのほかにもプレゼントを考えてる。 「水橋」 …え? こうちゃんの足音を背中で聞いていた。すごく近くに来たなあと思った瞬間、後ろから、ぎゅっと抱きしめられる。2人の身長差で、私はこうちゃんの顎の下に入っちゃう。右手が肩の下、鎖骨の辺り、左手はおなかの辺り…こうちゃんの太いコートの腕が回る。力一杯、って感じじゃなくて…そっとようやく触れるくらいの感触なんだけど、背中からこうちゃんの匂いがして、腕からこうちゃんのぬくもりが伝わって。もう全身がこうちゃんになっちゃった感じがする。 人気がないからって、ちょっと大胆なこうちゃん。 「…遅くなっても、絶対に戻ってくる。そうしたら連絡する…、待っていて」 「うん…」 「じゃあ、時間だから」 「気を付けてね」 「うん」 「水橋、冷たい」 「…こうちゃんが、あっついんだよ…」 人差し指と中指で私の耳たぶを挟む。ちょっとくすぐったい。白い息の向こう、そっと近づいてくるこうちゃんの顔。少し背伸びして目を閉じると、ナイスタイミングで優しいキス。回数こなしてきたから、少し上達したかな。後ろに回った手が髪の毛の間に入り込んでゆっくりと梳いてくれるのが気持ちいい。こうちゃんだから良いなあと思う。 「…おやすみ」 何度か振り返りながら去っていくこうちゃんを階段の下でずっと見送る。3つ目の信号まで行くとまた振り返って、もう入りなさいと手で合図する。だから私もひらひらと手を振った。 こうちゃんに分けてもらった熱が私の心を温めてくれる。ずっとずっと一緒にいたいなあと思う。毎日、一緒にいたいのに…私は少しずつ、欲張りになっているみたいだ。
「花菜美ちゃん〜明日は何の日かな〜?」 「…森田君…何だか、おじさん入ってるよ…」 「だってさ〜花菜美ちゃん、今年はフリーじゃないから。くれないと困るから、そのためにわざわざここまで戻ってきたんだからね!」 「もう…」 「あ〜あ、来年はどうだろうなあ。花菜美ちゃん、もしかして寿退社する? 来年はチョコナシかも知れないな」 この台詞は向こうのデスクの橘さん。35歳、2児の父。後の2人(一人は社長)は今日はこのまま戻らないと言う。 「え? 花菜美ちゃん、とうとう決めちゃったの? 彼に…」 「はあ? …そんな話、まだありませんけど〜やだなあ、失業させないでください」 「へえ、相変わらずおっとりしてるんだなあ、塩豆大福の君。ここは花菜美ちゃんの方から積極的に出るしかないんじゃないの?」 「アパートに引っ張り込んで、迫っちゃえば? こうなったら既成事実を作ってしまうんだよ」 「あのね〜」 「じゃあ、私、上がりますね…戸締まり宜しく〜」
さーてと。 こうちゃんは明日はどんなに遅くなっても会いに来てくれると言った。 じゃあ、これから戻って、念入りに洋服をコーディネートしなくちゃ。
そんなことを考えてると、この前の電話でみどりちゃんが息巻いていたのを思い出しちゃう。 「花菜美〜何が何でも進展見せなさいよね!!」 「…何が何でもって…」 「ちょっとはだけた感じの服でも着てさ〜谷間見せれば、いちころじゃないの? 大泉さんって、一気に走り出すタイプだと思うなあ〜」 この頃のみどりちゃんは愚痴が多い。マリッジブルーと言う奴らしい。婚約者の卓司さんは次男さんだけど、そのお母さんがものすごいみたい。何でも年子のお兄さんはバツイチだと言うし…どうもいびり出されたらしいのね。次男だから一緒に住むこともないだろうとたかをくくっていたら、目と鼻の先に住むことになっちゃったんだって。 「今から、内孫、内孫って…うるさいの。そのくせ、私が顔色悪かったりすると、嫁入り前に孕むのは世間様に恥ずかしいから気を付けろって…何様なのかしら〜〜〜!!」 結婚式は1ヶ月後だ。つい最近までは結婚式の披露宴の招待客でもめていたと言うし、本当に大変そうだ。 「花菜美も一緒に戦って欲しいのよ〜一人は嫌なの〜」 「そんなこと言ったって、みどりちゃん。こうちゃんにはご両親いないんだよ、嫁姑の戦いもないからね?」 「大丈夫、親がなくても親戚がうるさかったりするんだから!! とにかく、悩殺してね! 絶対よ!」 …お手本を見せてください、みどりさん…。片手に菜箸、片手に切れた電話を持ちながらため息を付いた。
この前までクリスマスだったと思ったら、もうバレンタイン。本当に季節の過ぎるのは早い。すぐに春が来る。お店の中を覗いて思う。去年の今頃はこうちゃんとこんな風にお付き合いするなんて思ってなかった。そうなったら良いかなあとは思っていたけど、不透明な未来だった。 こうちゃんのこと。会うたびに好きになる。声を聞くたびに切なくなる…笑顔を見ると離れたくなくなる。 こうちゃんも、そうだといいんだけどな。私と同じ気持ちでいてくれるといいんだけど。
…来年の今頃、どうしてるかな?
そう思ったとき、携帯が鳴った。私の着信音は「桜坂」…福山は好きなんだけど、この曲は特に好き。みどりちゃんは暗いと言うけど…。表示画面に目をやる…こうちゃん? 「はい、もしもし…どうしたの?」 「あの、水橋…後ろ」 「…へ?」 「こうちゃん、…どうしたの…?」 「明日、もし来られないといけないと思って…今日は早めに上がったから…1日早くもらいに来ちゃった…」 「ええ〜!?」 よく考えたら、気合いの入らない服装にぼさぼさの髪の毛。…で、いつから見てたの? 「水橋、すたすたと歩いて行っちゃうから…焦った。いつ声を掛けようかと悩んだよ」 まさか…私がにやけたり、ため息付いたりするのを見ていたの?? 夕暮れの町並みが楽しそうにさざめいている。恥ずかしくなって俯いた私の所まで辿り着いたこうちゃんは、耳元で小さく囁いた。 「だって…水橋。もらいに来ないと…また自分で食べちゃうでしょう?」 …は? 「こ、こうちゃん!!」 「…嘘。夕ご飯、食べに行こう?」 …もう。 等間隔で並んでる街路樹。枝にぷちぷちと春の気配。まだ固い木の芽ももうちょっとしたらほぐれてくる。 すたすたと先を歩くこうちゃんに駆け寄ると、腕にしがみついた。 「…水橋?」 「…あの、これはちょっと…」 「大丈夫だよ、こうちゃん。冬だもん…」 もういいや、ぼさぼさ頭でも。コーディネートに気合いが足りなくても。
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