辺りに立ちこめる朝霧。 それが自分の身体にぬめりとまとわり付く気がする。 1メートル向こうも判別できない白に少し戸惑った。 ―― でも。 肩から下げたショルダーバッグの持ち手に添えた手が心なしか汗ばむ。ざくり、ざくりと凍り付いたアスファルトが異様な足音を響かせる。自分のものなのに、どうして他人行儀な気がするのだろう? ふいにオレンジ色の光が向こうから走ってきた。一瞬の間合いのあと、慌てて避ける。 「……たまに、朝練にでも出ようと思ったら、これだもんなあ」 出かけに台所の時計を見たときはまだ6時前だった。珍しく早く目が覚めたので寒中稽古と称して行われる朝練習に出てみようと思い立ったら、こんな霧の道を歩く羽目になった。
ふと、足を止めた。 無理もない。目の前に忽然と、人間が現れたのだ。 先ほどの車と同様、霧の中で視界が悪かったので直前まで視界に捉えられなかったのかも知れない。でもその人間は次の瞬間、信じられない言葉を発した。 「―― 朔也(さくや)、だな?」 「え……?」 必死に目を凝らす。目の前の人間は自分と同じくらいの上背でがっちりとした体躯。ピンと伸ばした背筋に一瞬、惑わされたが、ようやく相手が白髪の老人であることを認めた。 「良かった、間に合ったようだな」 初めて見る、全く知らない人間。なのにどこかで出逢っている気がしてならない。それがさらに恐怖を募らせる。 「……誰だよ? あんた?」 すると目の前の老人はこちらをじっと見据えた。瞳の周りが濃い青味がかっている。 「朔也、赫い渓(あかいたに)へ往け」 「え?」 「お前は、分かるはずだ。赫い渓で、お前に見つけて貰うものがある」 老人は元々の色素が薄いのか、肌の色も白すぎるほどだった。その白が周囲を取り巻く霧の白に溶け込んでいく。 「何だよ、あんたは!? どうして、僕の名前を知っているんだよ……!?」 「赫い渓だ、……お前に、どうしても教えたいことがある」 白がますます立ちこめる。はっきりと目の前にいたはずの老人の存在がどんどん希薄になっていく。 「人を本気で愛することがどんなことか、お前に教えてやろう。赫い渓へ往け、朔也―― ただし出発は今じゃない。お前は7週間後に運命の相手と出逢うだろう。その時こそが始まりの瞬間だ」 その刹那。 男の姿が言葉と共に霧に溶けていく。そんなことがあるはずがないのに、それは朔也の目の前で確かに起こっていった。 「ちょっと! ……待てよ!? あんた、誰なんだよっ!」 自分の声までもが、霧に吸い込まれていく。
最後に。声が届いた。 「頼んだぞ……4438。それだけは、忘れないように――」
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