…1…

 

「―― 大変申し訳ございません」
 目の前の青年が深々と頭を下げた。

 天然の日差しがたっぷりと差し込むように設計された高層ビルのエントランス。都心の空間を贅沢に使った吹き抜けで天井が肉眼で確認できないほど遠い。

「ちょっと、いいのよ。そんな風に謝らないで、急な仕事なら仕方ないじゃないの。惣哉(そうや)さん、本当に気にしないで。私は大丈夫、行き方も教えてもらったしひとりでも行けるわ」

 そう告げて取りなしているのが、すらりとした細身の少女。見た感じは清楚な女子高生、と言った感じだ。陶器のような白いきめの細かい肌に長い黒髪。緩やかにウェーブしている。彼女がにっこり微笑んで軽くかぶりを振ると、ふわふわとその髪が優雅に揺れる。
 大人びて見えるのはその整った日本人形風の顔立ちだけのせいではない。シンプルな黒いワンピースが彼女の美しさを引き立たせつつ、年齢より少し大人っぽく見せているらしい。

 惣哉、と呼ばれた青年の方はすっきりとした上品なスーツを着こなし、髪を緩く後ろに流していた。安っぽい茶髪などという言葉では言い表すことが出来ない天然の色。存在感のない淡いフレームの眼鏡の奥の優しげな瞳。固くなり過ぎないリクルートスタイルだ。

「お嬢様、どうか日を改めて頂けませんか? そうしたら私もご一緒できます。おひとりでいらっしゃるのは、やはりあれこれと難しいと思われます。とはいえ、今の時期に私か私の父以外の人間にお嬢様のお世話をお任せするのは、なお不安ですし……」
 惣哉の方は、なおも食い下がる。口調こそは穏やかであるが、そこには毅然としたものが込められていた。

「……でも」
 少女はとうとう俯いてしまった。長いまつげが瞳にかかる。

「今日じゃなくちゃ、駄目なんですもの……」

「咲夜(さくや)様」
 青年には少女の言葉の意味が分かりすぎていた。それだけに押し出す声も悲痛な音色になる。

「本当に大丈夫よ。惣哉さんの車じゃなければ何処にも行けないなんて、そんなに子供じゃないわ。バスも分かるし、ちゃんと目的地までたどり着けるはずよ。それも社会経験でしょう?」

「そうですか」
  とうとう。仕方ない、と言うように惣哉は長いため息を付いた。そして、まだ未練がましく言葉を添える。

「―― でも、どうして登次郎様は今日に限って」

 

 ここにいる少女、咲夜が今日、特別に外出すると言うことは関係者なら誰もが知っていたことだ。そうなれば、彼女の身辺警備を任されている惣哉が車を出して付き添うのは当然のことである。
 先日亡くなった一籐木(いっとうぎ)グループの頭取・一籐木月彦氏の事実上の後任者とされている咲夜。それは祖父である月彦自らが公言してきたことである。まあ、月彦の跡取りである長男は咲夜の父親。内孫である咲夜がグループの指揮者の椅子を任されることはそれほど特異なことでもない。咲夜の兄を始め、月彦には10数名の孫がいたが、「鷹の采配」と称された彼の人選の眼が射たのが、ここにいる少女だったのだ。

 国内でも広く名を知られる一籐木の中核の人間であれば、それだけで危険とは隣り合わせだ。そう思った月彦が旧知の親友の子である惣哉を選び、咲夜の警護を申しつけた。当時、咲夜が7つで惣哉が22。それから10年間、2人の主従関係は続いている。

「こんな時ですもの、仕方ないわ。登次郎叔父様もきっとお急ぎのご用がおありなのよ」
 咲夜の父である幹彦のすぐ下の弟が登次郎。多くの分野に進出している一籐木のリゾート部門を受け持っている。「一籐木リゾート」の 現社長だ。
 自分の跡取りは咲夜の父に譲ったが、祖父は登次郎叔父にも目をかけていた。それだけに先の月彦の葬儀の際にも50歳と言う歳に似合わず、登次郎が人目を憚ることなく号泣していたのは有名な話である。

 

 葬儀の日は朝から、さらさらと降る霙混じりの雨。差している傘に重みが加わる。正月飾りを降ろして間もない本社ビル併設の公会堂に何万もの人間が出入りした。恐ろしいほど壮大な会社葬になった。

 まだ悪い夢を見ているようだ。不思議なほどの現実感のなさに、咲夜は足元もおぼつかずにいた。

「さあ、しっかりなさってください、咲夜さま。出棺が済まされたら、私が車を出しましょう。その時に少しお休み下さい、今しばらくのご辛抱ですよ」
 背後に控える惣哉が他の者には聞こえないようなごくごく小声で囁いた。

「……ごめんなさい、助かるわ」
 咲夜は半歩後ろに下がった。そうすれば背中に惣哉の体温を感じることが出来る。

 公共の場であからさまに寄り添うことなど出来ないが、込み合った会場ではこんな風に惣哉を感じることが出来る。惣哉も咲夜をさりげなく支えるようにして立っていた。

「―― 咲夜、あなたも一緒に皆様にご挨拶を」
 参列者の中から細身の女性が一歩出て、こちらに声をかける。咲夜の母親、祖父の亡き今はその肩書きも「頭取夫人」である。彼女は喪主の妻らしくしっとりとした墨色の喪服に身を包んでいた。

「はい」

 咲夜は軽く眼で合図してから、そちらに向かう。残された惣哉の方はそっと胸元のものを確認した。彼は護身銃を密かに携帯している。もちろん、現代の日本では一般人の銃の所持は法的に許されることではない。だが、咲夜にもしものことがあれば命懸けで守らなければならないのだ。そのためには自分の手を血に染めることすら彼は躊躇することはないだろう。

「相変わらず、仲のいいことだな」

 列に加わると、ふいに隣から声がした。咲夜は顔を上げて、その人物を確認する。

「暁彦さん」

 彼は登次郎叔父の長男。咲夜よりは10歳年上の男で、従兄に当たる。このふてぶてしい男が咲夜は好きではなかった。父親の登次郎の方には「品」があったが、息子の方は見るからに成金風。今も脂ぎった顔をハンカチで拭っている。しかも場違いな薄笑い。そのハンカチが場違いの派手なものだったのにも咲夜は嫌悪の表情を浮かべた。

「あいつも懲りないよな。いくらお祖父様の親友の子とは言ったって、結局はただの使用人じゃないか。身分をわきまえろって言うんだ」

 その言葉に、咲夜は眉をひそめた。

「……こんな時に不謹慎よ」

 今は口汚く誰かを罵っているときではない。そう諭したつもりであったが、当の本人には全く伝わっていない。彼はわざと咲夜に身体をすり寄せながら、耳元で囁いた。

「こんな時だからこそ、言うんじゃないか。お祖父様が亡くなられたんだから、部外者は部外者らしく振る舞って貰わないと」

 もうこれ以上は会話を続ける気にもならず、咲夜は口をつぐんでしまう。ここにいる男が自分と惣哉の仲を快く思っていないことは以前から知っていた。

 暁彦も、他の従兄たちも腹の内では咲夜を狙っているのだ。将来は一籐木グループの頂点に立つ娘であるのだから、その伴侶に収まればグループ内での立場も全く違ってくる。その上、咲夜本人も目を見張るほどの美少女だ。相手としてこれ以上最高の者は望めないだろう。

 ―― 早く……終わらないかしら。

 大好きな祖父を送る大切な式なのに、この場を一刻も早く立ち去りたいとそればかりを願ってしまう。身内の多い社内にいても、咲夜は始終心が安まることはなかった。

 

 彼女が安らげる人間は、祖父である月彦とそして惣哉。惣哉の父親もそこに入れてもいいかも知れない。両親は仕事で忙しくしていることもあり一人娘のことばかりを構っていられなかったし、兄たちもそれぞれ傘下の企業の中核として海外に赴任していた。

 ―― そして。祖父のいない今、命を張って咲夜を守ってくれる人間はとうとう惣哉一人になってしまったのだ。少なくとも、咲夜はそう思っている。親類の者たちも決して嫌いではない。しかし皆、腹で何を考えているのか分からないところがあり、心を許す対象とは思えなかった。

 月彦の葬儀は各局のTV局のカメラも入る大がかりのものになってしまった。彼が一籐木グループの頭取だから、確かにそれも大きい。だが、それだけではないのだ。

 一籐木月彦は、自らが運転していた車で海へ転落したのである。その車を調べたところ、油圧が切られていた。

 

 あれから1ヶ月以上の時が流れた今でも、混乱の余波は社内外に残りすぎている。惣哉は今日の午後、イギリス出張から戻る登次郎から、緊急の呼び出しを受けたのだ。

「惣哉さんは私のお守りをするだけじゃもったいないほどの優れた人材だもの、仕方ないわ。それに登次郎叔父様も何か特別の腹づもりがあってのことかも知れないし。ここは惣哉さんお得意の『偵察』が始まりそうね」
 彼があまりにも申し訳なさそうな態度なので、茶目っ気を込めて咲夜はにっこりと微笑んだ。

「でも、私のお守りをやめて叔父様の秘書に抜擢されちゃったら……困るわ、私」

 軽く下唇を噛みしめて、拗ねるような仕草。彼女が17歳の誕生日を迎えたばかりの少女だと言うことを垣間見ることが出来る、貴重な瞬間だ。

「……お嬢様」
  彼は自分の胸にそっと顔を埋めた少女を愛おしそうに抱きしめる。ここはエントランスでありながら高い柱に隠された死角になっており、人目を気にすることはない。そのことを最初から彼らは承知していた。

「その呼び方は、辞めてって言っているでしょう」

 甘えるように囁く声に戸惑いながら、深くため息を付く。

「……咲夜さま」

 本当は敬称も捨てて欲しいのにな、と咲夜はいつも思っていた。でもそこまで惣哉に求めるのは酷というもの。ふたりの間を流れる埋めようのない溝が口惜しくてならない。

「好きよ、惣哉さん」

 惣哉はその言葉に答えなかった。しかし、こうしてぬくもりを感じることが出来るだけで十分だと思う。こんな風に躊躇いながらも寄り添ってくれる今だけ、祖父の死によって千切れかけた心がゆっくりと癒えていくのだ。

 

 温かい硝子越しの日溜まりが頬をくすぐる。次の瞬間、2人の唇が重なった。どこかでカサカサと木の葉のすり合う音がする。長い長い一瞬をふたりは過ごしていた。

 

 

続く(011120)

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