霊園は直通のバスに揺られた先、山の裾野にある。 いつもは惣哉(そうや)の車でしか外出したことのない咲夜(さくや)だ。もちろん、学校への登下校も惣哉の付き添いが公然のものとなっている、小等部に入ったときからずっとだ。 クリーム地に明るいグリーンのラインが入った営団バスに乗れば、寄り道することもなく霊園まで連れて行ってくれる。最初にお金を払えば、後は何てこともない。初めての経験に戸惑いつつも、霊園行きのバスをターミナルの案内図で探してどうにか乗り込んだ。 遠目には分からないが、ふわふわとした起毛が生地の表面を覆っている。それが光の加減によって艶やかな光沢を見せる。髪はそのままたらし、オフホワイトのベレーを深めに被ってみた。 ―― 何処へいても、周囲の者たちの視線を集めてしまう。 咲夜本人は余り気付いていないが、彼女の憂いを帯びた美しさは柔らかな香りのように辺りに漂っていく。その「オーラ」とも言える存在感が、すれ違う者たちを引きつけるのだ。 「この間の一連のTV報道で、またお顔が世間に知れてしまいましたから。ご自分の置かれたお立場を良く心得て、極力目立たないように振る舞って下さい。私も登次郎様との面会が終わり次第、そちらに向かわせて頂きます」 惣哉のその時の眼差しが、バスの窓に映る気がした。 恋人と呼ぶには、いささか歳の離れすぎた優しい瞳の青年。彼はいつしか咲夜と共に歳を重ねて、気が付くと30を越えていた。もう「青年」という呼び名すらふさわしくない年代にさしかかっているのだ。穏やかな物腰と柔らかな顔立ちで実際の年齢よりはいくらか若く見えるとはいえ、そろそろ伴侶を迎えねばならないだろう。彼は咲夜の警護役をするだけでなく、「東城(とうじょう)家」の跡取りとしての役目も果たさなければならないのだ。 それが分からない咲夜ではない。しかし、正面切って彼に問いただすのは怖かった。 「……どうして……」 心の中で何度も反芻した想い。 惣哉がいくら優秀な人材とは言っても、一族以外の人間にグループ後継者の伴侶となられては他の親族が黙っていない。まだ高校生という立場にあるため具体的な話は出てきていないが、周囲がどのような腹づもりでいるのか考えるだけで気分が滅入った。 咲夜はバスのシートに身体を深く沈めたまま、小さなため息を付く。 ―― 私は、惣哉さんと一緒にいられれば、それだけでいいのに。 咲夜自身は兄たちや従兄たちとは異なり、確かな知識などは未だ何も持ち合わせてはいなかった。もちろんそう言う欲もない。自分が「後継者」と称されるのも、正直実感が湧かないばかりである。それなのに、何故。今よりもずっと幼いあの時に、将来を決められてしまったのだろうか。いつもは誰よりも大好きな祖父であったが、このことについては彼の真意が全く分からなかった。 バスは滑らかな走りで進む。窓の外はやわらかな日差しで満ちていた。3月に入った穏やかな日和―― 今日が月彦の四九日に当たる。
霊園の入り口でバスを降りると、目の前に大きな案内所がある。3階建ての建物で、葬儀や法要もここで営める様に造られているのだ。山の奥の方に火葬場も併設されている。先の法要の際も休憩所として親族が通された2階の大広間は真新しい青畳が敷かれ、迎え入れてくれた。 「これはこれは。いらっしゃいませ、咲夜様。お待ちしておりました」 「先だては……誠にご立派なご法要にございました。心配していたお天気の方もどうにか保って、一同安堵致しましたわ。―― 本日は、東城様よりお花を承っております。ただ今お持ち致しますので、少々お待ち下さいませ」 案内されたソファーの傍らに立ち、硝子越しに広がる公園墓地を見渡す。ゆったりと造られた静かな佇まいを何度も訪れていた。いつでも祖父・月彦と。 「こちらになります。本日は東城様はご一緒ではないのですね?」 「ええ、彼は用事があって遅れてくるの。そちらは頂くわ」 「このまま、お一人で大丈夫ですか? 誰か、係の者がご一緒した方が宜しいですね」 「平気よ、ありがとう」 ゆったりと造られた霊園であるから、月彦の眠る一籐木家の墓地の一角まではかなり歩かなくてはならない。こつこつとパンプスのかかとを鳴らして、咲夜はなだらかな坂道を登っていく。10分ほど歩くと、ようやく目の前がひらけた。 しかし、咲夜にはそんな必要もない。
沈丁花の枝が張り出して、ようやく人間一人が通れる幅になっている石段。そこを3段登ったところで、ふいに足を止める。 ―― 人影。 見たこともない背中であった。石畳の上にしゃがんで墓標と向き合っている。自分と同じくらい若い男であることはすぐに分かったが、親族にも思い当たる人物はいない。 「……誰?」 声を掛けた背中が、ぴくっと一瞬反応して、くるりとこちらに向き直る。その瞬間に、咲夜は目を見張った。 ふわりとぼやけそうなやわらかな白い輪郭、それを縁取る長めの髪も明るいブラウン。それが人の手に寄るものではないということは、彼の瞳が普通の人間と較べて薄いことで分かる。すっと鼻筋の通った彫りの深い顔立ち。絵画から出てきたようなすらりとした体躯で、ざっくり編まれた海色のセーターの上に黒い革のジャケットを着ていた。 花束を胸に抱いたまま呆然と立ち尽くす咲夜に、彼はじろりと冷たい視線を投げた。 「お前、一籐木咲夜、だよな?」 「え……?」 いきなりフルネームで呼ばれて、さらに気が動転する。そりゃ、自分が少しは有名人だと言うことは承知しているつもりではあった。だが、そうであってもこのようにぶしつけに声を掛けられたことなどない。考えてみれば、普段であればいつでも惣哉がそばにいて、咲夜自身が直接見知らぬ存在と対応することなどなかったのだ。 金色に近いブラウンの目に見入られて、しばし次の言葉も出ない。だが、このままでは良くないとかろうじて相手の無礼を咎める言葉を探した。 「あなたこそ、誰?」 「僕?」 「僕は後藤家、朔也(ごとうけ、さくや)」 「……さくや……?」 「そう、君の名前と同じ音。さ・く・や―― しっかりと覚えてくれよ?」 「その分じゃ、何も知らないんだね? もちろん、後藤家のことも全く知らなかったんでしょう……?」 微かな風が横に流れる。朔也の髪はやわらかなストレート。目にかかるほど長い前髪がふんわりと舞い上がる。遠い日に見た幻影のように。咲夜の心の奥にこの光景が、以前もあったように思えた。でもただの錯覚であるのだろう。今、思い当たることはひとつもない。 「知らないわよ、あなたのことも後藤家と言う名前も。私のこと、からかっているの? 人を呼ぶわよ!」 「僕は知っているよ、君のこと。そして、今日君がここに一人でやってくることも……」 「―― どういうこと?」 「教えて欲しい?」 ふんわりと目の前の笑顔が揺れたとき、異変が起こる。ふいに咲夜の背後から、枝を分けて歩み寄る第三者の物音がしたのだ。慌ててその方向を振り返る。 ―― ざく!! まるでまつげのすぐ向こうをかすめるような至近距離で、青光りするものが勢いよく流れ落ちた。両腕に強い振動が加わる。咄嗟に避けると背後の位置にいた先の少年とぶつかった。 「……あなたは」 「ふん、東城のボディーガードがいないと思ったら、ちゃっかりと若い男をたらし込んでいるんじゃないの。さすが大金持ちのお嬢様はこういうことにも抜け目がないのね」 攻撃を仕掛けるタイミングを伺っているのだろうか、獣のように光る目をしたその女性は他でもない、さっき咲夜に花束を渡してくれた顔なじみの案内係ではないか。改めて考えるまでもない、彼女が振り下ろした刃で抱えていた花束が犠牲になったのだった。 「すげえ……」 「超一流のお嬢って、こんな風にいきなり狙われちゃうんだなあ。これじゃあサスペンスだよ、そのまんま」 でも、今の咲夜にはそんな間の抜けた台詞に付き合っている暇もない。 「どうして……あなたが」 「まあっ、この期に及んで白々しい! まったく、あんたと来たら何人の男をたらし込めば気が済むのよ! あんたなんかがいるから、あの人は……あの人は、私との約束を果たしてくれない! こう繰り返しベッドの中で、別の女をモノにする方法を聞かれたら誰だってキレるわよ! ――覚悟しなさい!」 「……と、」 その刹那、ひらりと身体が浮き上がった。否、そのようなことが起こるわけもないのだが、どう考えても自分の身が空を飛んでいるようにしか思えない現象である。 次の瞬間。ざくっと、足が地面に着いて気付く。斬り込まれそうになったその時に、少年・朔也が自分を抱えて身をかわしたのだ。 「馬鹿! 呆然と突っ立っていたら、本当に刺されるぞ!?」 「……そんなこと言ったって――」 「そんな風に、迷っている場合かよ!? あの女、目がマジじゃないかっ!」 沈丁花の植え込みをかき分けて、血走った目の女がなおも突進してくる。 「逃げようと思ったって、そうはいかないんだからっ……!」 声の方向から相手の位置を推察して素早く身をかわす。さらに強い力で手を引かれ、転げるように傾斜を滑り降りたところで、今度は目の前に人間の足。呼吸を整える間もなく、新たなる障害が出現した。 「――この馬鹿が!!」 「ぎゃあああっ!!」 「あ、暁彦さん! ……一体、何したの!?」 「いえいえ何も。ただ、馬鹿な女に相応の仕打ちをしただけのこと。全く何を考えてるんだ、あの馬鹿は。咲夜を殺られたら、せっかくの計画がおじゃんじゃないかよ?」 「……計画?」 咲夜が訝しげに反芻すると、暁彦は嬉しそうな顔をじりりっと近づけてきた。強すぎる香水でも消しきれない体臭が鼻を突く。 「決まっているだろう……? あの邪魔くさい惣哉の奴がいない隙にあんたをモノにする計画だよ。女なんて言うのは何だかんだ言ったって、結局、関係持てば大人しくなるもんだからな?」 「……汚らわしい! 離れなさいよっ!」 「助けてやったのに、その態度はないだろう。大人しくしろってんだよ!!」 大きな拳が振り下ろされる。避ける間もなくぎゅっと目をつぶったとき、またも身体が反転した。 「ほんと……咲夜、君って、反射神経がないんじゃないの?」 「ぎゃ! ……何なんだ、お前は!?」 「ここ、マジでやばいよ、……ひとまず逃げよう!」 「え……?」 朔也はそう言うや否や、木の陰に止めてあったマウンテンバイクにまたがる。 「後ろに乗って! ……早く!」 自転車に二人乗り、と言うのも咲夜にとっては経験のないことだ。でも、暁彦が追って来ると思うと猶予はない。ぎこちなく荷台に座ると、朔也が叫んだ。 「しっかり、捕まっていてよ! 思いっきり、飛ばすから!!」 シャーッという音と共に、今までに体験したことのない直接的な風圧を感じる。朔也の身体の影になっていても吹き飛ばされそうな力。正面を切っている彼は大丈夫なのだろうか? 頭上を流れていく朔也の髪が何かを思い出させるうねりに思えた。
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