…2…

 

 霊園は直通のバスに揺られた先、山の裾野にある。

 いつもは惣哉(そうや)の車でしか外出したことのない咲夜(さくや)だ。もちろん、学校への登下校も惣哉の付き添いが公然のものとなっている、小等部に入ったときからずっとだ。
 惣哉が別の仕事でいないときはその父親が代行することになっている。しかし、咲夜はそれがたまらなく恥ずかしくて出来ることならやめて欲しいと思っていた。惣哉の父親であるその人が嫌いなわけではない。むしろ祖父・月彦とどこか似ているその人が好きだった。「恥ずかしい」のは彼が咲夜の通う学園の理事長だからである。理事長自ら運転の車で登校では、やはり目立ちすぎるではないか。

 クリーム地に明るいグリーンのラインが入った営団バスに乗れば、寄り道することもなく霊園まで連れて行ってくれる。最初にお金を払えば、後は何てこともない。初めての経験に戸惑いつつも、霊園行きのバスをターミナルの案内図で探してどうにか乗り込んだ。

 咲夜は先ほどの黒いワンピースの上に春用のコートを着込んでいた。淡く桜色に染まったコートはこれから向かう霊園という場にはいささか華やかすぎる。しかし、咲夜はどうしてもこれを来て月彦に逢いに行きたいと思った。この服は「春が来たら着るといい」と祖父がパリから取り寄せてくれた、最後のプレゼントだったから。

 遠目には分からないが、ふわふわとした起毛が生地の表面を覆っている。それが光の加減によって艶やかな光沢を見せる。髪はそのままたらし、オフホワイトのベレーを深めに被ってみた。

 ―― 何処へいても、周囲の者たちの視線を集めてしまう。

 咲夜本人は余り気付いていないが、彼女の憂いを帯びた美しさは柔らかな香りのように辺りに漂っていく。その「オーラ」とも言える存在感が、すれ違う者たちを引きつけるのだ。

「この間の一連のTV報道で、またお顔が世間に知れてしまいましたから。ご自分の置かれたお立場を良く心得て、極力目立たないように振る舞って下さい。私も登次郎様との面会が終わり次第、そちらに向かわせて頂きます」
 惣哉は自然な手つきで咲夜にコートを羽織らせて、静かに言った。さりげなく握りしめられた手がするりと外れる。

 惣哉のその時の眼差しが、バスの窓に映る気がした。

 恋人と呼ぶには、いささか歳の離れすぎた優しい瞳の青年。彼はいつしか咲夜と共に歳を重ねて、気が付くと30を越えていた。もう「青年」という呼び名すらふさわしくない年代にさしかかっているのだ。穏やかな物腰と柔らかな顔立ちで実際の年齢よりはいくらか若く見えるとはいえ、そろそろ伴侶を迎えねばならないだろう。彼は咲夜の警護役をするだけでなく、「東城(とうじょう)家」の跡取りとしての役目も果たさなければならないのだ。

 それが分からない咲夜ではない。しかし、正面切って彼に問いただすのは怖かった。

「……どうして……」

 心の中で何度も反芻した想い。
 祖父の月彦は、何故自分を一籐木(いっとうぎ)グループの後継者としてしまったのだろう? もしも、その足枷がなければ、ふたりの関係も難なく許してもらえたのではないだろうか? 惣哉の父と自分の祖父は旧知の仲だ。祖父はそのことに関してひとことも告げずに、この世からいなくなってしまった。

 惣哉がいくら優秀な人材とは言っても、一族以外の人間にグループ後継者の伴侶となられては他の親族が黙っていない。まだ高校生という立場にあるため具体的な話は出てきていないが、周囲がどのような腹づもりでいるのか考えるだけで気分が滅入った。

 咲夜はバスのシートに身体を深く沈めたまま、小さなため息を付く。

 ―― 私は、惣哉さんと一緒にいられれば、それだけでいいのに。

 咲夜自身は兄たちや従兄たちとは異なり、確かな知識などは未だ何も持ち合わせてはいなかった。もちろんそう言う欲もない。自分が「後継者」と称されるのも、正直実感が湧かないばかりである。それなのに、何故。今よりもずっと幼いあの時に、将来を決められてしまったのだろうか。いつもは誰よりも大好きな祖父であったが、このことについては彼の真意が全く分からなかった。

 バスは滑らかな走りで進む。窓の外はやわらかな日差しで満ちていた。3月に入った穏やかな日和―― 今日が月彦の四九日に当たる。
 四九日の法要は先の休日に盛大なうちに済まされていた。もちろんその時にも墓参りは行われている。しかし、咲夜としては、どうしても本当の七七日(しちなのか)である今日この日に月彦に逢いたかった。

 

 霊園の入り口でバスを降りると、目の前に大きな案内所がある。3階建ての建物で、葬儀や法要もここで営める様に造られているのだ。山の奥の方に火葬場も併設されている。先の法要の際も休憩所として親族が通された2階の大広間は真新しい青畳が敷かれ、迎え入れてくれた。

「これはこれは。いらっしゃいませ、咲夜様。お待ちしておりました」
 顔なじみの案内係の女性がすぐに咲夜の姿に気が付いて、声を掛けてくれる。ほんの少しのひとり旅ではあったが、やはり緊張していたらしい。知っている顔を見た瞬間に、ほっと身体の力が抜けるのを感じた。

「先だては……誠にご立派なご法要にございました。心配していたお天気の方もどうにか保って、一同安堵致しましたわ。―― 本日は、東城様よりお花を承っております。ただ今お持ち致しますので、少々お待ち下さいませ」

 案内されたソファーの傍らに立ち、硝子越しに広がる公園墓地を見渡す。ゆったりと造られた静かな佇まいを何度も訪れていた。いつでも祖父・月彦と。
  祖父より10年も早く、その妻である咲夜の祖母・茉莉子は亡くなっていた。彼女は若い頃から体が弱く、入退院を繰り返しながらも、6人の子供を産みあげていた。小等部に上がった年に亡くなった彼女を咲夜は夢の中の住人のように思い出す。
  グループの頭取の椅子に座りながらも、晩年の祖父はグループ経営のほとんどを実質的に子供たちに任せて、自分は咲夜との時間を大切にしているようだった。彼は、天気のいい日によく咲夜の手を引いてこの地を訪れた。

「こちらになります。本日は東城様はご一緒ではないのですね?」
 一抱えもある花束を手に戻ってきた女性は、咲夜にかなりの重みのあるそれを渡していいものか迷っている様子だった。

「ええ、彼は用事があって遅れてくるの。そちらは頂くわ」
 職員の女性は躊躇したが、大丈夫と断ってる花の束を受け取る。

「このまま、お一人で大丈夫ですか? 誰か、係の者がご一緒した方が宜しいですね」

「平気よ、ありがとう」
 その心遣いだけを受け取って、咲夜はひとりで外に出た。

 ゆったりと造られた霊園であるから、月彦の眠る一籐木家の墓地の一角まではかなり歩かなくてはならない。こつこつとパンプスのかかとを鳴らして、咲夜はなだらかな坂道を登っていく。10分ほど歩くと、ようやく目の前がひらけた。 
 入り組んで細道が張り巡らされ、低めのブロック塀で区切られた入り口にはひとつひとつ番号が振ってある。墓地には区画ごとに住所のように通し番号がある。数え切れないほどのたくさんの墓地が立ち並ぶので、我が家の場所はその番号で探すしかないのだ。

 しかし、咲夜にはそんな必要もない。
 一籐木の墓地はひときわ高い所にゆったりと構えられている。普通の墓地の10倍の広さがある。祖母の好きだった沈丁花の低木がぐるりと囲んでいる一角はちょっとした公園のような趣で、さらに先の法要で山と飾られた花がまだ綺麗に咲き誇っている。目をつぶっていてもたどり着ける程の豊潤な香りだ。
  彼岸には今少し日のある3月の上旬で、辺りには人影もまばらである。咲夜はそこを目指して、迷うことなく歩みを続けた。

 

 沈丁花の枝が張り出して、ようやく人間一人が通れる幅になっている石段。そこを3段登ったところで、ふいに足を止める。

 ―― 人影。

 見たこともない背中であった。石畳の上にしゃがんで墓標と向き合っている。自分と同じくらい若い男であることはすぐに分かったが、親族にも思い当たる人物はいない。

「……誰?」
 咲夜はとうとう我慢が出来なくなり、恐る恐る声を掛けた。これ以上見守っていたら、恐怖で心臓が飛び出してきそうである。誰もいるはずがないと思った。今日ならば、祖父と静かに話が出来ると考えたのに。

 声を掛けた背中が、ぴくっと一瞬反応して、くるりとこちらに向き直る。その瞬間に、咲夜は目を見張った。

 ふわりとぼやけそうなやわらかな白い輪郭、それを縁取る長めの髪も明るいブラウン。それが人の手に寄るものではないということは、彼の瞳が普通の人間と較べて薄いことで分かる。すっと鼻筋の通った彫りの深い顔立ち。絵画から出てきたようなすらりとした体躯で、ざっくり編まれた海色のセーターの上に黒い革のジャケットを着ていた。

 花束を胸に抱いたまま呆然と立ち尽くす咲夜に、彼はじろりと冷たい視線を投げた。

「お前、一籐木咲夜、だよな?」

「え……?」

 いきなりフルネームで呼ばれて、さらに気が動転する。そりゃ、自分が少しは有名人だと言うことは承知しているつもりではあった。だが、そうであってもこのようにぶしつけに声を掛けられたことなどない。考えてみれば、普段であればいつでも惣哉がそばにいて、咲夜自身が直接見知らぬ存在と対応することなどなかったのだ。

 金色に近いブラウンの目に見入られて、しばし次の言葉も出ない。だが、このままでは良くないとかろうじて相手の無礼を咎める言葉を探した。

「あなたこそ、誰?」
 まずは自分が名乗るべきじゃないの? と叫びたかったが、そこまでは声にならず。口惜しさの分、ぎりっと唇を噛んでいた。

「僕?」
 彼の口元が少し上がった。まるで、こちらを全てを見透かしたような微笑み。

「僕は後藤家、朔也(ごとうけ、さくや)」

「……さくや……?」
 こちらの驚きが瞬時に伝わったのだろう。彼は嬉しそうにさらに続ける。

「そう、君の名前と同じ音。さ・く・や―― しっかりと覚えてくれよ?」
 歌うようにそう言うと、彼―― 朔也はこの上なく可笑しいと言わんばかりにくすくす笑った。

「その分じゃ、何も知らないんだね? もちろん、後藤家のことも全く知らなかったんでしょう……?」

 微かな風が横に流れる。朔也の髪はやわらかなストレート。目にかかるほど長い前髪がふんわりと舞い上がる。遠い日に見た幻影のように。咲夜の心の奥にこの光景が、以前もあったように思えた。でもただの錯覚であるのだろう。今、思い当たることはひとつもない。

「知らないわよ、あなたのことも後藤家と言う名前も。私のこと、からかっているの? 人を呼ぶわよ!」
 
 こんな風に一対一でこうして見知らぬ人間と向き合っているだけで、たまらなく恐怖なのだ。でも目の前で不敵に笑う少年にそれを悟られるのは口惜しい。必死に威嚇しようと試みる自分が滑稽に思えて仕方なかった。一体どこまで何を知っているというのだろう。彼は微笑みの口元のまま、真っ直ぐにこちらを見据えている。

「僕は知っているよ、君のこと。そして、今日君がここに一人でやってくることも……」

「―― どういうこと?」
 今の自分は恐怖に引きつった表情で、顔色もかなり青ざめているに違いない。そして、目の前のこの少年はそんな自分を面白そうに見入っているのだ。

「教えて欲しい?」

 ふんわりと目の前の笑顔が揺れたとき、異変が起こる。ふいに咲夜の背後から、枝を分けて歩み寄る第三者の物音がしたのだ。慌ててその方向を振り返る。

 ―― ざく!!

 まるでまつげのすぐ向こうをかすめるような至近距離で、青光りするものが勢いよく流れ落ちた。両腕に強い振動が加わる。咄嗟に避けると背後の位置にいた先の少年とぶつかった。
 しっかり抱えていたはずの花束がバラバラと腕から落ちる。首だけを切られた白い百合やバラが足下に散乱した。

「……あなたは」
 咲夜は、大きく肩で息をしながらこちらに向かいナイフをかざしている女性を見た。

「ふん、東城のボディーガードがいないと思ったら、ちゃっかりと若い男をたらし込んでいるんじゃないの。さすが大金持ちのお嬢様はこういうことにも抜け目がないのね」

 攻撃を仕掛けるタイミングを伺っているのだろうか、獣のように光る目をしたその女性は他でもない、さっき咲夜に花束を渡してくれた顔なじみの案内係ではないか。改めて考えるまでもない、彼女が振り下ろした刃で抱えていた花束が犠牲になったのだった。

「すげえ……」
 後ろから、間の抜けたように感心する声がした。

「超一流のお嬢って、こんな風にいきなり狙われちゃうんだなあ。これじゃあサスペンスだよ、そのまんま」

 でも、今の咲夜にはそんな間の抜けた台詞に付き合っている暇もない。

「どうして……あなたが」
 咲夜は大きく目を見開いて、恐怖のために白く血の気の引いた唇を震わせた。

「まあっ、この期に及んで白々しい! まったく、あんたと来たら何人の男をたらし込めば気が済むのよ! あんたなんかがいるから、あの人は……あの人は、私との約束を果たしてくれない! こう繰り返しベッドの中で、別の女をモノにする方法を聞かれたら誰だってキレるわよ! ――覚悟しなさい!」
 一体、何を言っているのかさっぱり分からない。女は大声でわめき続けながら、咲夜に再びナイフを振り下ろした。

「……と、」

 その刹那、ひらりと身体が浮き上がった。否、そのようなことが起こるわけもないのだが、どう考えても自分の身が空を飛んでいるようにしか思えない現象である。

 次の瞬間。ざくっと、足が地面に着いて気付く。斬り込まれそうになったその時に、少年・朔也が自分を抱えて身をかわしたのだ。

「馬鹿! 呆然と突っ立っていたら、本当に刺されるぞ!?」

「……そんなこと言ったって――」
 咲夜はもう何が何だか、分からなくなっていた。ついさっきまで知り合いだと心を許していた者に刃を向けられている、そしてどこから見ても礼儀知らずの不審者と思った人間に助けられる。

「そんな風に、迷っている場合かよ!? あの女、目がマジじゃないかっ!」

 沈丁花の植え込みをかき分けて、血走った目の女がなおも突進してくる。

「逃げようと思ったって、そうはいかないんだからっ……!」

 声の方向から相手の位置を推察して素早く身をかわす。さらに強い力で手を引かれ、転げるように傾斜を滑り降りたところで、今度は目の前に人間の足。呼吸を整える間もなく、新たなる障害が出現した。

「――この馬鹿が!!」
 黒塗りの革靴の主はドスのきいた声を轟かせて、何かを放った。ひゅん、という音が頭上を走り抜ける。

「ぎゃあああっ!!」
 辺りに響き渡る、つんざくような叫び声。慌てて振り向くと、あの女は顔を覆って、のたうち回っている。指の隙間から、鮮血が溢れ出た。

「あ、暁彦さん! ……一体、何したの!?」
 ゆっくりと身を起こし仰ぎ見て、咲夜は再び仰天した。見上げた先には登次郎の息子、あの暁彦がいやらしい笑みを浮かべている。

「いえいえ何も。ただ、馬鹿な女に相応の仕打ちをしただけのこと。全く何を考えてるんだ、あの馬鹿は。咲夜を殺られたら、せっかくの計画がおじゃんじゃないかよ?」

「……計画?」

 咲夜が訝しげに反芻すると、暁彦は嬉しそうな顔をじりりっと近づけてきた。強すぎる香水でも消しきれない体臭が鼻を突く。

「決まっているだろう……? あの邪魔くさい惣哉の奴がいない隙にあんたをモノにする計画だよ。女なんて言うのは何だかんだ言ったって、結局、関係持てば大人しくなるもんだからな?」

「……汚らわしい! 離れなさいよっ!」
 自分の顔に触れそうになった手を必死で払いのけた。一体、何がどうなっているのか。先ほどの女もものすごい形相でこの世の者とは思えない雰囲気であったが、こちらの男はそれよりももっと気色悪い。

「助けてやったのに、その態度はないだろう。大人しくしろってんだよ!!」

 大きな拳が振り下ろされる。避ける間もなくぎゅっと目をつぶったとき、またも身体が反転した。
 暁彦の拳が直前まで咲夜のいた茂みにめり込む。朔也に腕を引っ張られて勢い余ってその腕の中に転がり込んでいた。

「ほんと……咲夜、君って、反射神経がないんじゃないの?」
 呆れた声でそう言いつつ、朔也は一掴みの土を暁彦の顔面に投げつけた。

「ぎゃ! ……何なんだ、お前は!?」
 起きあがろうとした瞬間の不意打ちに尻餅を付いた暁彦は、自分の顔を泥だらけの両手で押さえて呻く。

「ここ、マジでやばいよ、……ひとまず逃げよう!」

「え……?」

 朔也はそう言うや否や、木の陰に止めてあったマウンテンバイクにまたがる。

「後ろに乗って! ……早く!」

 自転車に二人乗り、と言うのも咲夜にとっては経験のないことだ。でも、暁彦が追って来ると思うと猶予はない。ぎこちなく荷台に座ると、朔也が叫んだ。

「しっかり、捕まっていてよ! 思いっきり、飛ばすから!!」

 シャーッという音と共に、今までに体験したことのない直接的な風圧を感じる。朔也の身体の影になっていても吹き飛ばされそうな力。正面を切っている彼は大丈夫なのだろうか?

 頭上を流れていく朔也の髪が何かを思い出させるうねりに思えた。

 

 

続く(011125)

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「赫い渓を往け」扉>2