…3…

 

「……何処まで行くの?」

 霊園の細道を走り下ると、閑静な住宅地の中を縫って走った。それからまた、山道へと向かう。人家がまばらになってくると、咲夜(さくや)はだんだん不安になってきた。言われるがままに付いてきたのはいいが、果たしてこれが得策であったのだろうか。よくよく考えれば、今一緒にいる男が一番胡散臭い気もする。

 そう言えば、惣哉(そうや)が迎えに来てくれると言っていた。今頃、霊園の惨事を見て何事かと思っているかも知れない。自分が黙っていなくなったら、彼はどんなに心配するだろう。

「あの……どこかで降ろして貰えば、迎えを呼ぶから」

 キッと、ふいにブレーキがかかる。赤信号で停止した朔也(さくや)は不思議そうにそう呟くと、自転車に乗り出してから初めて振り向いた。

「本当に、聞いてないの? 何も?」

 こちらを小馬鹿にするような口調に、ムッとしてしまう。何よ、この男。チャラチャラしていて、全然信用出来ないじゃないの。だいたい、一体何者なのか。

「さっきから、何なの? 私、あなたのことも何も知らないわよ? 助けて貰ったことには感謝するわ。でも――」

「僕、君のじいさんに頼まれたんだけど」
 信号が変わって、また朔也はペダルをこぎ出す。咲夜の重みが加わっているのだから、相当に大変なはずなのに一時間近く走っても全く速度は落ちない。

「……お祖父様に?」
 朔也の口からこぼれ落ちた祖父の名。そfれは咲夜を驚かせるに十分だった。

「うん、そうだよ。君の、捜し物を手伝えって」

「捜し物?」
 これも初耳だ。生前、祖父にそんな話を聞いたことはない。

「何よ、捜し物って。そんなこと、いつ聞いたのよ? だいたいお祖父様は、あなたの様な人と面識があったの?」
 今日は何が何だか分からないことだらけだ。だが、次の朔也の言葉は彼女をさらに混乱させた。

「君のじいさんとは一度しか、逢ってない。7週間前の、霧の深い朝。その捜し物っていうのも本当は何なのか、実は知らないんだ」

「ああ、もう! あなたの言うことって、訳が分からないわ!」
 咲夜は吐き捨てるように叫んだ。ぐらっと、車輪がきしむ。

「おいおい」
 朔也はペダルから足を離して、ブレーキを緩く掛けた。徐々に減速する。

「ただ座ってる君の方は楽チンだろうけどね、これで結構なスピードなんだから。荒っぽいことされるとバランスが取れないよ」

「そっ、そんなこと言ったって、あなたが悪いんじゃないの! そうよ、だいたいあなたが、理解できないことばかり言うんだから……!」
 のろのろスピードになったところで、咲夜は荷台から飛び降りた。漆黒の髪がゆるやかに揺れる。

 黒目がちの瞳に睨み付けられた朔也の方は、そう慌てている様子もない。ゆっくりとした仕草でマウンテンバイクを降りた。

「もしかして、咲夜。君は腹減ってる?」

「……は?」
 こっちは必死の攻撃を仕掛けたつもりだったのに、するりとかわされてしまった感じ。気の抜けた風船のように力なく聞き返してしまう。

「だって、怒りっぽくなるのは空腹が原因だったりするって言うじゃない」

「あなたに、そんなことを言われたくもないわ…」

 そう言いつつも、どうしたことか急に足の力が抜けていく。自分の意志とは関係なく、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
 これは断じて空腹のせいなどではない―― と、咲夜は信じたかった。そりゃ、初めての一人旅(咲夜にとってはそう思えた)に緊張して昼食を摂るのをすっかり忘れていた自分である。案内所の食堂で軽く頂こうと考えていたのに、あの場では思いつかなかった。

「腹が減っては何とやら……でしょう。僕の昼飯ならあるんだけど、分ける?」

 そのまま、朔也も咲夜の隣りに腰を下ろした。アスファルトが途切れた道端の草むらは気の早いシロツメクサが大きく葉を広げている。

「ほら、コレ。ああ、さすがに疲れたなあ。久し振りに、いいトレーニングだったけど……」

 彼はコンビニの袋からサンドイッチを取り出して、手渡してくる。それを手にしたまま、咲夜はぽつりと言った。

「あなたのお昼なんでしょう? 頂いたりしたら、悪いわ」
 そう言いつつ、手の中で三角のパックをもてあそぶ。

「そっちが嫌なら、菓子パンもあるけど。それと……あなたじゃなくて、ちゃんと名前で呼んでくれない? 名乗ったんだしさ」
 目があった瞬間に、いたずらっぽそうな笑顔が向けられる。ばつが悪くなって、また俯いてしまった。

「だって……自分の名前と同じなんて、嫌だわ。後藤家(ごとうけ)さん、でいい?」

「駄目」
 朔也の目がくりくりと動く。まるで犬みたいだ。

「名前で呼んでよ。あと本当にパン、交換する? 好きな方を選んでいいよ?」

「あの……」
 咲夜はとても言いにくそうに口を開いた。

「これ、どうやったら開けられるの、朔也?」
 やはり、不思議な気がする。自分に自分で問いかけているような妙な感覚。どうして朔也は自分のことをためらいもなく呼んでくるんだろう?

 一方、朔也の方は咲夜の言葉の方に面食らっていた。

「開けられないの? もしかして、コンビニのサンドイッチ、食べたことない、とか?」

 呆れかえった声ではあったが、しぶしぶ頷く。このままでは袋入りのサンドイッチを開けることは永遠に無理な気がしてしまう。

「うわぁ、信じられない。よく今まで生きて来れたよなあ……」
 朔也は咲夜から包みを受け取ると器用にするするとパッケージを開いた。

「ここの開いたところから、一個ずつ取り出すんだよ? 分かった?」

 何気ない仕草であるのかも知れないが、咲夜にとっては高等なマジック・ショーでも見ているようである。言われたとおりに一切れ取り出すと、申し訳程度に薄く挟まれた卵サンドを一口食べてみた。

「……おいしい」

「だろ?」
 朔也はホッとしたように、自分も菓子パンを頬張る。顔に似合わずその食べ方は豪快で、咲夜は目を見張った。そんな風に食事する人間は咲夜の周囲に今まで存在しなかったのである。

 一切れかじったサンドイッチを手にしたまま、咲夜は小さいため息を付いた。

「あなたの……朔也、の話を詳しく聞かせてちょうだい。本当にお祖父様は朔也に頼んだの? ……どうして朔也なの?」

 今更ながら脳裏に、自分に向かって振り下ろされたナイフのきらめきが甦ってきた。

 幼い頃から誘拐には気を付けるようにと言われている。惣哉の保護のもとでそんな心配も皆無だったが、見た目よりずっと血なまぐさい世界に生きていることは分かっていたつもりだ。
 でも、今日のように直接危険にさらされたことはない。あの場に惣哉が居合わせなかったから、と言うこともある。初めての経験は咲夜をとても不安にさせていた。

 そんな思いが心を埋め尽くしていくと、早く帰りたくなる。誰よりも、惣哉の元に。咲夜がそっと腕を伸ばせば、惣哉は必ず応えてくれる。彼が使い続けるやわらかな甘い香りのコロンは咲夜が初めて彼にプレゼントしたものだった。

 でも。一方でもう一つの声がする――「逃げてはいけない」、と。

 初対面にして人なつっこい少年は咲夜をいつもとは別人のように饒舌にさせた。彼女の通う学園は共学であったが、あまり咲夜に声を掛けてくる者はなかったのだ。かといって無視されているわけではなく、絶えず周囲からの無数の視線を感じていた。女生徒たちとも必要な日常会話のみだった。それは当然のことだったし、寂しいと感じたこともなかった。

 咲夜にとって、周囲の人たちはあまり重要ではなかったのだ。家族…特に祖父・月彦と……そして惣哉。その存在が確かめられればあとは空気も同然。いてもいなくても大差なかった。

 しかし。

 さっき、朔也は祖父の名を語った。それを聞いてしまったら後には引けない。咲夜にとって…祖父の存在は絶対なのだ。
 初対面の素性も知れない少年に、助けて貰ったとはいえ、のこのこ付いてきてしまったのは軽率だった。あとでやんわりと惣哉に諭されることになるだろう。それでも知らない人間を目の前にした恐怖より…祖父の情報を知りたい気持ちの方が勝った。だから、次の言葉を咲夜は心待ちにしてしまう。

「赫い渓(あかいたに)へ、行けって」

「……赫い、渓?」
 初めて聞く地名だった。全く心当たりがない。

「それは、紅葉の観光名所かなにか? どこにあるの?」

「うわあ……」
 今度は朔也の方が驚きの声をあげた。

「それも聞いてないの? こりゃ、重傷だな。困ったな、どこから話せばいいのか分からないよ」

「じゃあ、朔也は知っているの!?」
 些細な言葉にすら、苛立ってしまう。こんな見ず知らずの人間にも分かる祖父の言葉が自分の意味が自分には理解できないこと。大好きな祖父が自分に秘密の部分を持っていたかも知れないこと……。

「知ってるも何も」
 朔也が咲夜の勢いにたじろぎながらも、どうにか話を再開したその時――

 

 彼方から、辺りをふたつに切り裂くほどの金属音。猛突進の外車が遥か下の方の道に見えた。ふたりは山道をいくらか登った所の路肩にいた。そうでなかったら迫り来る車を確認できなかっただろう。

「あれ」
 咲夜の表情が凍り付く。

「暁彦さんの……車だわ。変わったかたちだもの」

 朔也の顔色もすっと引いていく。

「ええと、暁彦って、さっきのスケベ親父だろ? それって、まずいよ! もしかしなくても、君のこと追ってきたのかい?」
 朔也は反射的にぱっと立ち上がると、一瞬、マウンテンバイクに手を掛けた。

「駄目だ! 走っても、すぐに捕まるな」
 そう言った瞬間、彼は片手にハンドル、もう片手に咲夜の腕を持って、道の下に続く切り立った崖を転がり下りた。

「きゃあ! ちょっと」
 咲夜は突然の行動に驚いて大声を上げた。彼女の視線の先を、マウンテンバイクはがらがらと音を立てて谷底へとがらんがらんと小さな岩が後を追うように転がっていく。

「ちょっと……何のつもりよ? 朔也!?」

「そこの茂み! 腕を伸ばして掴んで!」

 ふたりが崖の途中に生えた茂みに転げ込んだその時。山肌を揺らすエンジン音が風のような速さで頭上の道を走り抜けていった。

「とりあえず、行ったかな?」
 俊敏な行動だったが、咄嗟の判断だったのだろう。何気ないように装いながらも、朔也は肩で大きく息をしている。しかし、見事なものだ。絶壁に近い急な斜面でかろうじて足場を確保し、片手で咲夜の背を抱えている。もう片手は茂みの枝を掴んでいた。

「どうして、私がこちらの方向にいるって分かったのかしら」
 咲夜の脳裏には、墓地での血走った暁彦の眼がありありと浮かんでいた。あの様子なら相当に逆上しているだろう、見つかったら何をされるか分からない。あの男は地位や名誉が何よりも好物なプライドの固まりの奴だ。その手のタイプは自尊心を傷つけられたときが一番怖い。そう悟ったとき、枝を掴んだ手が震えた。

「咲夜、何か持っているんじゃない? 発信器みたいなものとか」

「え、いくらなんでもそんなものないわ」
 肩から下げたポシェットを片手で開けて確認する。

「手帳とお財布と……あと、いつも持っているように言われているので携帯とPHS、両方を」

「―― それだ!」
 次の瞬間、朔也は咲夜のポシェットを鷲掴みにした。

「電信機器は、ちょっと調べれば所持者の所在が分かるんだと聞いたことがある。素人じゃ簡単にはいかないけど、君の家ぐらいになれば、それ専用の部署があったりするんじゃない?」

「えっ、待って! 何するのよ!!」

 咲夜が叫ぶのも聞かず、朔也は腕を高く振り上げるとそのまま谷底に向かって投げ入れた。

「どうするのよ! 見えなくなっちゃったじゃないの!! 私の荷物が……!」
 信じられない行為に咲夜は動揺した。すぐさま、朔也に食ってかかる。

「この下は川が流れている」
 朔也は白いポシェットが花びらのように落ちていった方向を静かに眺めていた。

「上手くいけば僕たちの進路と反対方向に流れてくれる、ただの時間稼ぎかも知れないけど」

「どういうことよ! 訳の分からないことを言わないで、あれは私の所持品のすべてよ! なくなったら……」

 家に帰れないじゃないの! ―― そう続けようとしたが、声は遮られた。

 かなりの至近距離にいた、それは確かだ。身体も動かせる状態じゃない、少し身をよじればバランスを崩して真っ逆さまに谷底だ。ただ転がり落ちるだけならいいが、そこらじゅうにごつごつと岩がせり出している。頭でも打ったら、即座にあの世行きだ。

 ……だからと言って。

 咲夜には今、自分の身に起こっていることが信じられなかった。 口を塞がれている、しかも塞いでいるものが朔也の……。

「……う……」
 余りの息苦しさに咲夜が微かに呻いたとき、ようやく解放された。咲夜からその唇を離したばかりの朔也は、悪びれる様子もなく鼻先の至近距離のままで低く言った。

「全く、君はどうにもならないね。そんなに大声で叫んだら、居場所を教えてるようなものだよ。―― 死にたいのかよ?」
 双の瞳が妖しい光を放っている気がする。綺麗な顔立ちは凄むとその美しさが際だつとは言うが、明るいブラウンの瞳に射抜かれると咲夜は何も言えなくなった。

「ぎゃあぎゃあ、騒ぐな。本当に殺られたいなら、ここに放って行ってやるけど。……どうする? 君のご希望通りにしてやるけど」
 逆光になった朔也の顔は本当に人形のように完成された美しさだった。

 どうする? と、聞かれたところで即座に返答出来るものではない。でも、心に浮かぶ言葉はひとつだ。

「……惣哉さんのところに、帰して」

 朔也の表情がぴくりと動く。咲夜は、今起こったばかりの一連の出来事のショックがようやく現実のものとなって、心に注ぎ込んでくるのを感じていた。

「……咲夜」
 朔也は少し顔を歪めた。思えば、自分といくらも変わらない少年が咄嗟に取った行動だったのだろう。押し寄せる後悔が彼を包み込んでいるのが感じ取れる。咲夜は鼻をすすった。こらえようとしても、涙が溢れ出てくる。惣哉の名前を口にした途端に、今まで緊張して張りつめていたものが一気に解けてしまった。

「……惣哉さんに、会いたい」

 彼の、惣哉の。大きく広げた羽のような腕でしっかりと包んで欲しい。暁彦なんて蹴散らして欲しい。他の誰も信用出来ない。でも惣哉なら、いつの時も変わらずに優しく守ってくれる。

「……ごめん」
 朔也がすまなそうにそう告げて、咲夜を片手でそっと抱き寄せた。咲夜は彼の胸に顔を埋める姿勢になる。

 昼下がりの明るい日差しは春の色。あれきり一台の車も通らない上の道路。辺りは静まりかえったままだ。しばらく、咲夜が落ち着くのを待っている様に黙っていた朔也が、いくらかの時間を過ぎてようやく口を開いた。

「電車の音がする」

「え?」
 咲夜も耳をすましてみた。言われるとおりである、カタタン、カタタン…と言うかすかな響きが山肌に沿って流れてくる。

「多分谷底に沿って、路線が通っているんだな。行ってみる?」

「行くって……」
 咲夜は顔を上げた。朔也のぎこちない笑顔が視界に飛び込んでくる。泣くだけ泣いたら、すっきりしてしまった。新しい気分になっている自分に気付く。

「こんな斜面を、どうやって降りるのよ」
 茂みの枝を掴んだ腕がまた震える、このまま離したら転げ降りそうだ。

「ロッククライミングの要領で行けばどうにかなるよ、誘導はするから。実のところ降りるのは難しいんだけど、でも道を行くよりは安全だと思うよ?」

「で、でも……」

 なおも躊躇する咲夜に、朔也はにっこりと微笑んでこう言った。

「その、惣哉って奴には敵わないかも知れないけどさ。とりあえず、さっきのカエル男と僕と、どっちがいい? そのことを考えて、上に行くか下に行くか決めて欲しいな」

 咲夜は思わず吹き出した。そんなこと、答えるまでもない。自然な仕草で、朔也へと片手を差しだしていた。

続く(011127)

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