…4…

 

「ほら、やっぱりあった」
 伸び上がって向こうを確認した朔也(さくや)が、嬉しそうに叫ぶ。

 恐ろしく長い時間をかけてしまったが、ようやく谷底まで降りることが出来た。朔也の方は慣れた手つきでさっさと進むのだが、一方こんな経験は生まれて初めての咲夜(さくや)。何度も足を滑らせそうになりながら、半泣き状態でどうにか切り抜けた。

「ちょっと、待ってよ。そんなに急がないで、歩きにくいんだから」
 淡い色のコートはもはや泥だらけになっていた。暑いので脱いで片手に持つ。パンプスも脱げてどこかに行ってしまったから裸足になってしまった。これじゃあまるで野良猫みたいと情けなくなる。

「時間を見てくる」
 朔也は足を止めずに木造の駅舎の中に消えていった。

 どうしてこんな所に駅があるのか分からない、谷間。いや、この古びた建物が「駅舎」であることは、その向こうに線路がなかったら確認出来ないだろう。駅前は自販機が一台あるだけ。タクシー乗り場すらない。大体、車が入れるのかどうかも不安だ。自転車道路くらいの幅しかない道が一本伸びている。それが河原を伝って行く細道だ。

「良かった。15分で、上りも下りも来るよ?」
 駅舎までよろよろと辿り着くと、朔也が言った。屋内をきょろきょろする。そして気付く。

「何で、駅員さんがいないの?」

 辺りはしんと静まり返って、人の気配もない。「駅」と言えばたくさんの利用客が行き来する賑やかな場所だと認識していた。もちろん、実際に電車を利用してどこかに出掛けることは学校の行事でもない限り考えられないことであったが、一般常識として心得てはいる。

「無人駅なんだろ? この辺は過疎地域なんだよ。この奥にあった村はダムで沈んじゃったし、ほとんど住人もいないんじゃないかな?」

「切符、と言うのをどうやって買うの…?」

 矢継ぎばやに訊ねる咲夜のいい方がおかしかったのか、朔也はくすくす笑った。

「電車も、ひとりで乗ったことがないんでしょう?」

「……そうよ」
 馬鹿にされていると分かっても、反論は出来ない。全ては本当のことなのだから。

 

「どうする?」
 形ばかりの改札を通り抜け、そのまま朔也は線路に飛び降りた。真ん中の島のように作られたホームに「1」と「2」の看板が掛かっていた。電車に乗るためには、そこへ移らなくてはならないようだ。

「何やっているのよ!」

「だって、ホームの端まで歩いて、階段を使うの面倒じゃない、どうせ電車は来ないんだからさ。咲夜も、おいでよ」

「……いい」
 下を覗き込む…一面の砂利。一応、ストッキングも履いていたが、そんなものはとっくの昔に破れてしまった。このまま下に降りるには抵抗ある。

「あ、そうか」
 朔也は今、ようやく気付いたように叫んだ。惣哉さんだったらすぐに気付くのに! と、思わず心の中でぼやいてしまう。彼はどさっとスポーツバックをおろすと、中をごそごそ探った。

「かなり大きいだろうけど、バスケシューズ貸すよ。紐をきつく結べば大丈夫じゃないの?」

 

 今更、服の汚れるのを気にすることもない。咲夜はホームの縁に座ると靴を受け取った。

「紐をきつくしてやるよ」
 線路から見上げるように朔也はそう言うと、慣れた手つきでキュッキュッ、と締め上げる。それでも華奢な咲夜の足はシューズの中で泳いだ。

「何か、おかしいや。やっぱり君はお嬢なんだなあ…」

「―― え?」
 急に変なことを言われて、咲夜は聞き返した。朔也と目が合う。彼は笑顔で応えた。

「こうやって見上げていると、触っちゃいけない大切なもの、って感じがする」

 面と向かって、当たり前のように凄いことを言われて、咲夜は真っ赤になって俯いてしまった。

「ほら、電車が来るよ、渡っちゃって」
 自然な仕草で朔也が咲夜を抱き上げる。 

 ――言っていることと、やっていることが違うじゃない。

 朔也の行動が、とても不思議に思えた。惣哉ですら、咲夜に触れるときは一瞬ためらいの表情を見せる。それなのにどうしてこの男は、何もかもが当たり前のように出来るのだろう? そして、朔也の行動に自然に応えてしまう自分、理解の域を超えている。

「…こっち、下りだけど…?」

 程なくして。マッチ箱型の一両しかない電車がきしんだ音を立てながら、ホームの両側に着いた。単線なのでここで上下がすれ違うことになっているのだろう。当然のように朔也の後に付いてきた咲夜は、振り向いた彼に訊ねられる。

「君は、あっちで戻ればいいじゃないか。まさかあのガマガエル男だって都会の駅で手を下そうとはしないだろ? 駅員にでも頼んで連絡付けて、惣哉(そうや)って奴に迎えに来て貰えばいいじゃない」

 それは正論だった。全くその通りである。でも、咲夜はその言葉をかわして、逆に訊ねていた。

「朔也は? これから、何処に行くのよ?」

「赫い渓(あかいたに)」
 背中を向けた彼は短く言う。

「とりあえず頼まれたんだしさ、ちょっと探しに行ってくるよ」

「え……」
 一緒に行こうと。今度は言ってくれないの? そう思った瞬間に、突き放されたような寂しさが咲夜に襲いかかる。

「…なんかさ〜ちょっといわく付きらしいじゃない? カエル男はただ、君が目当てって気もするけど。君の家、今大変らしいし、色々嫌な予感がする。これ以上、君も危険な目に遭いたくないでしょう?」
 そこまで一気に言うと、朔也はくるりとこちらに向き直った。2人の視線が合う。

 朔也の瞳が揺れる。その瞬間、咲夜は電車の中へ飛び込んでいた。

 ばたん、と咲夜の背後で扉が閉まる。そのまま電車はさらに深い山道を上り始めていた。

 

「知らないよ、僕は」
 ボックス席に斜めに向き合って座り、朔也は困った表情で言った。たぶん、彼は本心から咲夜が都会へ戻る上り電車に乗るのだと信じ切っていたのだろう。

「聞いてなかった、話の続き」
 咲夜は膝に置いたコートを握りしめた。しっかりと朔也を見つめる。自分でもこんな行動に出るとは意外だった。上りの電車に乗って、そのまま惣哉に迎えに来てもらえば、安全な場所に戻れるのに。それが分かっていて、それで何が起こるか分からないこちらを選んでしまう自分。

「お祖父様のお名前を出されて、そのままには出来ないわ。それに私に危険だと言うことは、朔也だって危険だってことでしょう? 一人で行かせられないわよ」
 取って付けたような言い訳。でも半分くらいは本当だ。自分のせいで第三者が傷つくのはやはりいい気がしない。

「よく言うよ。半ベソかいて崖をずり落ちていた人間が」
 咲夜のお姉さんぶった話し方がおかしかったのか、朔也の表情が少しだけほころぶ。彼は額にかかった前髪をかき上げた。

「……時計」

「え?」

 目の前の人間を、ようやくじっくり見ることが出来た。墓地の前で初めて対面して、それ以来のような気がする。次々と色々なことが起こるので、気持ちばかりが焦っていたのだろうか。 

  肉付きの少ない顎の尖った輪郭、窓から差し込む午後の日差しに金色に透ける髪は無理に薬で色を落としたのではない、天然の柔らかさが感じられた。それはさらさらと素直に重力に従ってまっすぐに落ちている。
 咲夜は自分自身も色白の方だと思っていた。でも自分の肌は冷たい白さだ。一方目の前のこの少年は、光を放つような淡い色彩。まるで、太陽のぬくもりを集めたみたいな乳白色だ。
  黒いジャケットに包まれてもそのしなやかな肉体に平均に筋肉が程良く付いているのが分かる。骨格のはっきりした手、それの根本になる腕に時計がない。右にも、左にも。

「時計、付けないの?」
 そんなことは大したことではない、でも妙に引っかかった。だから、つい訊ねてしまう。

「うん、何でか分からないけど。時計そのものが好きじゃないんだ」
 明るい色の瞳が少し細くなる。作っているのではない、自然にこぼれた笑み。何となくそれを聞かれることを待っていたような気がする。たぶんこちらの思い過ごしなんだろうとは思うが。

 咲夜は心の奥に止まったまま、出てこないものをもどかしく思った。何だろう、この気持ちは。

 そして次の瞬間。

 電車が斜めに傾きながらカーブにさしかかった。朔也は正面から太陽の光線を受ける形になる。まぶしさに閉じかけた瞳が、ひとつの色を放ったのを咲夜は見逃せなかった。

「……朔也」
 言葉が続かない。彼の瞳の、そのごくごく周辺。ブラウンだとばかり思っていたが、陽に透けて分かった。

 それは――群青の青。

 そして。咲夜はようやく気付いた。大切なことをひとつも知らない自分を。……まさか? 自分の表情がにわかに変化したのを不思議そうに覗き込む朔也に、咲夜は細切れにこぼれた言葉を繋げる様に訊ねていた。

「……朔也。あなた、誰?」

 ようやく。目の前の少年のことを名前以外、何も知らなかったことを思い出した。朔也の丸い目が「え?」と言うように大きく見開いた。小首を傾げる。もう、その瞳から目を逸らせなくなっていた。吸い寄せられるように。

「じゃあ、驚くこと、教えてあげる」
 嬉しそうな笑顔。こちらのそれから起こる反応を心の中で想像して楽しんでいるみたいだ。

「何よ、それ?」
 信じられないほどに、不躾な言い方。普通、自分の周囲の人間はこんなしゃべり方はしない。皆、咲夜の心を波打たせないように、ゆっくり言葉を選んでくる。まあ、中には暁彦のような例外もいるが。

「後藤家朔也(ごとうけさくや)17歳、高校2年生。誕生日は2月29日」

「……え……?」

 電車は古き車体で、時折驚くほど大袈裟な音を出す。そんな中で消えそうになる台詞。ぽつり、ぽつりと途切れた言葉には咲夜を驚かせるすべてが詰まっていた。

「どう? 驚いたでしょう?」

 ―― 知っているのだ、彼は。だから、こんな挑発的ないい方をする。そう、咲夜は直感した。

 閏年にかかる学年に生まれた人間にとって、同級生にこの希少な日に生まれた人間が存在することは珍しいけどないことじゃない。それくらいなら、咲夜だってこんなに動揺しないだろう。

「何よ、冗談で言っているの?」
 咲夜は目をつり上げて言い返していた。心持ち、声が震える。

「本当だよ、そんなに疑うなら生徒手帳を見せようか?」
 くすくす笑い。頬杖を付いて咲夜を斜め下から覗き込む。―― と、朔也が急に真顔になった。彼は姿勢を正すと、右手を握手を求めるように差しだしてくる。

「ね、貴重でしょ? 同じ誕生日。よろしく、2月29日生まれの、咲夜」

 さくや、と言う響きが2人の真ん中で光のように漂っていた。聞き慣れているはずの自分の名前が不思議な音色に変化する。

 差し出された手。しばらくの間、咲夜はただ呆然と見つめていた。

「そりゃ、僕も最初は驚いたんだよね」
 咲夜の驚きが予想をはるかに超えていたので、差しだした右手を使うことなく引っ込めると。朔也は気を取り直したのか、話を続けた。

「あいつに会ってから。君のこと、調べさせてもらった。有名人なんだよな、ちょっと調べると誕生日から血液型から学歴から何でも出てくる。全くアイドル並だね」

 普通の人間ではそうはいかなかっただろう。日本を代表する総合企業のひとつ、一籐木グループの若き後継者。その肩書きを利用したい者は想像以上に多い。上流階級をターゲットにした雑誌からの取材も頻繁にあった。著名な染織家が施した着物を着て、巻頭グラビアに出たこともある。会社がらみの取引先の頼みもあり、断りにくい話も多くあった。
  それにどういうわけか祖父・月彦は咲夜がマスコミに登場するのを厭わなかったのである。自分の愛孫が人目に晒されるとあれば、毛嫌いする方が当然な気がするのに。これについては、他の家族も不思議に思っていた。
 肩書きだけでも十分に売り出せる上に純日本風の美少女。漆黒の髪は緩やかにウェーブしていて今風であったが、陶器のような白い肌もすんなり伸びてどこかハーフの様な体型。どんなアングルでも絵になる、と言われていた。

 そのような記事だと、短い紹介文が付いたりする。咲夜が2月29日という変わった誕生日だと知ると、そのことを取り上げたいという取材記者も少なくなかった。だから調べる気になれば、図書館でも調べることが出来る咲夜のプロフィール。そんなことは分かっていた。知らない男子生徒からいきなり誕生日に花束やプレゼントを贈られたこともある。その時は惣哉の手を介して、後腐れのないように相応のお返しを差し上げたが。

「……信じられない……」
 咲夜は声を絞り出した。しかしその言葉は震えて、半分くらいかすれて息になってしまう。

「名前が、同じで誕生日が同じなんて、出来すぎている。あなたは何者なの、やっぱり私をからかって楽しんでいるんでしょう……!?」

 しかし当の朔也の方は、そんな彼女の動揺を楽しむように余裕の笑顔で見つめていた。そして電車の揺れに合わせて、歌うように言葉を発する。

「もしも、仕組まれたとしたら? 誕生日は偶然かも知れないけど、同じ響きの名前は申し合わせれば出来ないことじゃない」

「申し合わせたら、って……」
 話の意図が飲み込めない。一体、目の前の男は何を言おうとしているのだろうか。

「あ、ちょっと違うかな? 名付ける人の心に特別な音として、深く心に組み込まれていたら。僕の名前、おばあさんが付けてくれたんだ」

 思わず息を呑む。……どういうこと? 咲夜は自分の名前を誰が付けたか知っていた。それは自分にとって、今は亡き最愛の人――。

 咲夜は何も言うことが出来なかった。二人の間を規則正しい振動が音となって流れる。電車は緩やかに山道を登っていった。やがて両脇に迫る山肌が電車にすれるくらい接近した、と思うと次の瞬間に目の前が真っ暗になった。

 トンネルだった。

 旧式の車体は暗がりの中でも乗客室に灯りを付けることが出来ないらしい。カタン、カタタンと言う響きだけが耳に辿り着き、脳の中に流れ、広がっていく。

 記憶の。

 自分の知らない記憶の深い深い所まで……沈んで行くような気がした。

 やがて光の中に再び飛び出していた。長いトンネルがようやく終わり、電車は今度は緩やかに坂を下り始めたのを体感する。目のくらむような明るさに、一瞬目眩が起こる。軽く額に手をやってからゆっくりと視線を戻すと、目に前にはさっきと少しも変わらない少年が座っていた。

「君は頭がいいもんね、もう分かったでしょう?」
 心を隠した不思議な微笑みをたたえたまま、朔也は咲夜の心の奥から言葉を取り出した。

「僕は、一籐木(いっとうぎ)月彦の、孫だよ」

 言葉のないまま、反応する。……そんなこと、すでに分かっていた。朔也の目の妖しい色は、祖父・月彦とそっくりだ。

 そして。

 時計を嫌うのも彼と同じ習性だ。側近にいくら言われようが、彼は腕時計をしなかった。月彦はある時、まだ幼かった咲夜にスイス製の腕時計をプレゼントしてくれた。そしてそっと耳打ちした。

「咲夜は私の時計だ。咲夜が私の時を刻んでいくんだよ」

「……違う」
 ようやく口を開いた咲夜はゆるゆると頭を横に振った。

「あなたは、お祖父様の孫ではないわ」

 そして。

 今度は反らすことなく、その少年の目を凝視した。

「あなたは、……お祖父様ご本人だわ」

 変わらずに2人を包む窓を揺らす程の振動の中、朔也の瞳が驚きの色で応えた。

続く(011129)

<<    >>


「赫い渓を往け」扉>4