「何を言い出すのかと思ったら」 「だって私、見たことがあるの、お祖父様のお若い頃の写真。あなたとそっくりだった、着ているものは違うけど。顔立ちも、背丈も体格も……」 「面白いこと、言うんだね。咲夜は」 「死んだ人間が、若い姿に戻って、君の前に現れたのだとでも言うの?」 「だって似ているのよ。笑い方も、手の仕草まで。あなたに初めて逢ったときから、何だかおかしいと思ったわよ。だって、初めてなのに凄く懐かしくて……」 そんなはずがあるわけない、心の一方がそう叫ぶ。なのにもう一方から、そうに違いないという声がする。咲夜の心の中は完全に混乱していた。 「一籐木の孫の中にも、こんなにお祖父様に似ている人はいないわ。あなたはあまりに際だっている」 咲夜の態度に穏やかに微笑み返して、朔也はカバンの中から今度は500mlのペットボトルを取り出した。キリキリと蓋を開けたあと、手渡してくる。 「お嬢様には、あまりお勧めできないけど。直接、飲んで」 青地に白で英文字の入ったボトルを受け取って、まじまじと見つめる。さっき崖に落ちた時から、何も口にしてなかった。そう言えば、喉がカラカラだ。 「ありがとう」 「僕の母が、あいつにそっくりなんだよ。どうもロシアの血が入っているらしいね、詳しいことは知らないけど」 「……そう、なの?」 「あ、……でも」 「それならば、お祖父様はあなたのお祖母様と―― どういうこと? 私のお祖母様以外に女性がいたの? そんなこと聞いたこともないし、……それに」 祖父は祖母を心から愛していた、咲夜はそう信じていた。信じたかった。身体の弱い祖母ではあったが、2人の間には牧歌的な温かさが存在していたと思う。祖母を裏切るようなことを大好きな祖父がしていたとはとても考えられない。確かに見目かたちは似ている。でも、それだけでは確証できない。 そんな思いに揺れる咲夜を、自分の立場からは複雑な心境で眺めていた朔也。彼はふいに彼女の手からペットボトルを奪い取った。 「もらうよ」 「はあ」 「……どうしたの?」 「あ、もっと飲みたかった? まだ残っているから、あとはあげるよ」 手渡されて受け取りはしたが、どうしても口が付けられない。心の中に信じられないほどの羞恥心が溢れてきた。でも、よく考えたら、さっき。 「話の続きになるけど」 「誤解を招く言い方をして悪かった、君のじいさんと僕のおばあさんが知り合ったのは彼がずっと若い頃だよ。まだ結婚する前だったんじゃないかな? 詳しいことは知らないんだ、おばあさんもあまり話してはくれなくて。僕どころか、母もあまり教えられてないんだって。だから……」 気にしないで、と言葉を続けようとしたのだろうか? 朔也が一瞬、視線を戻すと、咲夜はペットボトルを両手で包みながら身体を震わしていた。 「……お祖父様があなたのお祖母様を……裏切ったの?」 信じたくなかった、どこまでも優しかった祖父。あの包み込むような優しい表情の裏にそんな裏切りの過去が隠されていたというのだろうか。 「ま、結果としてはそう言うことになるね」 「僕は、あいつを許さないよ」 そう言うと彼は再び、窓の外に視線を逸らした。咲夜は黙っていた。しかし頭の中はぐるぐると色々な思いが巡っていた。 陽が傾き始める。オレンジ色の光が朔也の横顔を縁取っていく。それを黙って見ていた。 電車は気持ちとは関係なく、進行方向をひたすらに進んでいく。今の咲夜を包んでいるのは、だんだん自分が何か深くてあてどないものに吸い込まれていく、という予感だけだった。 いつか目の前の少年は目を閉じていた。……寝ているのだろうか。口をきゅっと結んだまま、微動だにしない。咲夜は、本当に不思議な気分でそれを見つめていた。 過疎地のローカル線は学校帰りの高校生や用足しに出掛けた老人がふらりと乗り込んできて、2,3駅で降りていく。窓の外は山肌が迫ったり、遠のいたり。それは薄茶色の冬装束からわずかな芽吹きを見せたところで、木々の立ち姿には生命力がみなぎっていた。 ガタンと電車がきしむと、朔也の髪がふわっと波打つ。……でも動かない。 途中の駅で降りて引き返すことも出来た。どこかで電話を借りれば、すぐに迎えを頼めるだろう。そう言う選択肢がありながら、ここに座り続けている自分。一番信じられないのはそれだった。 「次、降りるよ」 急に声を掛けられて、ハッとする。いつの間にか自分は眠っていたのか? 気付くと窓の外はすっかり夕方になっていた。時計を見ると、電車に乗ってから2時間半が経過していた。
「どうしよう、何か申し訳ないわ」 改札を出て。何歩か歩いたあとに、立ち止まって振り向いてしまう。 「いいじゃない、別に」 「でも……」 乗り込んだ無人駅には券売機がなかった。乗車札を持って来る。改札に置いてある、木の札だ。大きな字で駅名が書かれていた。その後、車掌が通りかかれば精算してくれただろう。でもそれもなかった。そして、今降り立った駅も無人駅。咲夜たちはお金を払わずに済ませてしまったのだ。無銭乗車をしてしまった後ろめたさが足にまとわりつく。 「多分、ほとんどは常連さんでみんな定期か無料チケットで乗っているんだよ。紅葉狩りなんかのシーズン中でもなければ、旅行客が来ることも稀だからね」 「ここから、どれくらい歩いたら、いいの? このまま赫い渓、と言うところに行けるの?」 「君の足だと、2、3時間。真っ暗になるまでには着くと思うんだけど」 ―― え? 咲夜の足が再び止まった。 「嘘……まだ歩くの?」 「やめる? ここから、帰ったっていいんだよ?」 「朔也は、その赫い渓と言うところに行ったことがあるのね? とても詳しいもの」 「渓の近くに後藤家の別荘があるんだ、良くおばあさんと避暑に来ていたんだよ。去年の夏休みも来たんだ」 先ほど、電車の中でぎこちなく会話が途切れたときの嫌な余韻はまだこめかみの辺りに残っている気がしたが、それでも普通に言葉が戻ってきて良かったと思う。 「―― ねえ」 「朔也、大丈夫? 遅くなるとそのお祖母様がご心配なさるでしょう……?」 しかし。咲夜の言葉に朔也の足は完全に止まった。 「心配できないよ、もう死んでるもん」 「今日は実はおばあさんの四九日で、あそこにお参りに来たんだ」 思わず、息を止める。 「え、……それでは最初から私を待っていたんじゃ……なかったの?」 「ちょっと待って。四九日って……まさか、亡くなった日が同じなの?」 その言葉に。 朔也の表情が不思議な色を見せた。泣いているではなく、笑っているではなく。咲夜はゆっくりと息を飲んだ。 「僕は7週間前の霧の朝、あいつに逢った。本当に一瞬の出来事だった。すぐに霧の中にあいつは溶けていったんだから」 「……」 何を、馬鹿なことを言っているんだろう? そう思えない自分が分からない。ただ視線を一カ所に固定したまま、朔也の唇が次に動くのを待っていた。 「夢でも見たのかと思った。で、ポケットに手を入れたら定期を忘れたことに気付いて。慌てて取りに戻ったんだ。そうしたら……」 「待って」 「霧の朝って……1月の。それって、変だわ!」 咲夜の反論に、しかし朔也は動揺することなく双の目で静かに応えた。 「だって……」 「お祖父様は、その前に夜に亡くなったのよ! 深夜に車が海に落ちてしまったの。幸い、近くで作業していた漁師さんがそれを見ていたからすぐに捜索作業が行われて、2時間後に発見されたときにはもう ――。次の朝は今まで観測史上にない濃霧だったわ。じゃあ、あなたが見たのは……?」 「そんな、怪奇小説みたいなこと。自分でも信じたくないんだけど……実はこの話には、まだ続きがあるんだ」 咲夜と朔也。2人の間には数歩の距離があった。 夕まぐれの風がそこを分けるように吹き抜ける。2人の髪が同じ形で揺らめいた。山から渓へ何かを誘うように、ゆるやかな波。それに反応して、カサカサと身を転がす名残の落ち葉。 お互いに視線を逸らせず、じっと相手の存在を見つめ続けていた。 「僕は、定期を取りに家に戻った。声を掛けようとおばあさんの姿を探したら、彼女は寝室で倒れていた。そして、とっくに事切れていたんだ」 「……でも、それだけじゃ、なかったんだ」 「……それだけじゃ、ない……って?」 「その朝、確かにおばあさんは僕を送り出してくれた。朝練で早く家を出る僕を起こして、簡単な朝食を作って。あ、僕はおばあさんと2人暮らしだったんだ。両親と姉たちは父の仕事の関係で海外赴任していて。それなのに、遺体を解剖したら、もう夜半に亡くなっていたと言われて」 「嘘……」 「慌てて、赴任地から一時帰国をした家族も、僕がショックのあまりに記憶を混同しているのだと言った。でもそうじゃないんだ、確かに。葬儀の前後、辺りが騒がしくなっている間も、体中の力が抜けたように呆然としたままだった。その時、TVにあいつの、君のじいさんの顔が映し出された。ニュース番組の訃報で」 がくんと膝の力が抜けていく。咲夜は立っていることが出来なくなり、土の上に座り込んでしまった。冷たい感触が薄いスカートの布地を通して伝わってくる。倒れ込みそうな上体を地に着いた手でかろうじて支えていた。自分の身に付けていたワンピースの黒が久しぶりに視界に入る。俯いたまま、言葉を発した。 「……それで、調べたのね?」 「あいつのこと、初対面だったし何も知らないし。でもあいつは当然のように僕を知っていた。しゃくだった、それで調べているうちに、とうとう母の父親があいつなんだって気付いて。おばあさんは本当に何も教えてくれなかったから。一人で持って行っちゃったから、なら僕がどうにかしてやろうと。でも君にはどうしたら逢えるのか、分からなかった。試しに家や会社に足を向けてみたけど、見ず知らずの人間は顔を見ることすら出来ない感じ。いつでもボディーガードにぴったり付き添われて、異様に重々しい感じだった」 咲夜は顔を再び上げる。少年の不思議な色の瞳を捉えた。 「……お祖父様は、あなたに会いに行ったのね」 次の瞬間、朔也がひるんだのが分かる。咲夜は、自分でも気付かないうちに涙で頬を濡らしていた。 「……咲夜?」 「お祖父様は……私でなく、朔也に会いに……。どうして? 何故最後に私に会いに来てくれなかったの……?」 目前の端正な表情が歪んでいく。彼が自ら歪ませているのではない、咲夜自身の視界が潤んでいるのだ。 ―― それはとてつもない衝撃。 祖父がこの世の人でなくなった瞬間、彼女は自らの心に大きな鉛を抱いていた。何かが胸につかえて、思考を遮る。自分を庇護していた確かな腕が瞬時に消えたことは、やはり信じがたかった。盛大な葬儀や法要が行われて、それが公になったあとも、彼の身体が焼かれて骨になったの確認しても―― 未だに悪い夢を見ているような気がしてならなかったのである。 「お祖父様は亡くなった」 いくら心の中でそう反芻しても、事実として受け入れられない。咲夜は祖父の死後からこの数週間、混乱の中に包み込まれていた。一時は全ての食べ物を身体が受け付けなくなり、カウンセリングが必要になったほどである。ようやく普段通りの生活が送れるまでに回復したが、表面上は以前と変わらないように見えても心にはやはり深い傷を負ったままであった。 今日、祖父の墓前に向かったのも、そんな自分の弱さを吹っ切りたいと思ったからだ。四九日で死者の霊は現世を離れ、あの世へと旅立つという。祖父の死を自分の力で乗り越えなければ先に進めないのだから。しかし今、必死に押さえつけていた哀しみが、新たな事実により一気に堰を切って溢れ出してくる。 「私だって、最後にお祖父様とお話がしたかったわ。なのにどうして……」 咲夜はとうとう両手で顔を覆って、その場に泣き崩れた。 「……咲夜」 自分の回りの空気が圧縮される。気付くと、朔也の腕が自分をしっかりと抱きしめていた。かすれる声が耳をくすぐる。刹那。顔を覆っていた両手で握り拳を作ると、自由の利かない体勢でようやく少しだけ腕を泳がせ朔也の胸を思い切り叩いた。びっくりした彼が腕を緩める。 「……ずるい」 ゆっくりと顔を上げる。緩められたといっても、朔也の腕はまだ咲夜を包んだままだ。右手が首の後ろに回っている。左手は背を支えていた。 朔也の顔はすぐ目の前。見上げたときに咲夜の鼻先が彼の顎をかすった。視線がぴったりと重なる。朔也の瞳に自分が映っているのが確認できた。 次の瞬間。 朔也の腕が咲夜を再び強く抱きしめる。抵抗する暇もなく。咲夜は再び彼に唇を奪われていた。 |