不思議なほど、自然にその行為を受け止める。 それが幾度繰り返されたのだろう。ふいに、気付いたように彼の腕がぱっと外された。 「……あ、ごめん」 一瞬、目が合うと慌てたように朔也が顔を背ける。身体ひとつ分くらい、後ずさって。そんな風にされると、急にじわじわと恥ずかしくなるではないか。 「朔也って……誰にでもこんなこと、平気でしちゃうの?」 「……そ、そんなこともないんだけど」 「嘘」 慌てた朔也を見ていると、意地悪い声がすんなり出てきた。コートを手に、すっくりと立ち上がる。 「あなた、私が何も知らない様な小娘だと思って、馬鹿にしているんでしょう?」 その言葉に反応して、朔也がこちらに視線を戻す。少し眉がつり上がっている。内心ではそれ以上に立腹している様子だ。 「―― それを言うなら」 カサカサと二人の間に風が吹き抜けた。春浅い山合いに足早に時間が流れていく。太陽が目に見えるようにどんどん赤みを増していくのを照らし出された頬で感じ取った。 「咲夜だってだいぶ慣れているじゃないか、とても素人じゃないよね?」 「……ま!」 「まあ、いいよ、あんな風に彼氏もいるんだし。それくらい、当然だよな」 「え……?」 「東城惣哉(とうじょうそうや)、君のボディーガード。随分、親密な仲なんでしょう。でもあんまりからかうとやばいかな? 向こうは飛び道具も所持してるんだし」 「そんなこと……どうして」 「言ったでしょう?」 「君のことは何でも調査済みだって」 「……」 「ようやく、帰る気になった? もうすぐ上りが来るよ。これに乗らないと、今日中に帰れなくなる」 じりじりと。咲夜の足の下の土が音を立てた。一瞬、駅の方に視線を移す。でも次の瞬間に、彼女の視線はしっかりと朔也に向き直っていた。 「帰らないわよ」 「え」 「……マジ?」 「だって、お祖父様はあなたに、私の捜し物を手伝うように言ったんでしょう? それは、あなたひとりで捜せるものではないはずよ。そうだったら、私を一緒に行かせようとするはずはないもの」 頭の中が、急にクリアになった。そう、……もう後戻りなど出来ない。想いが真っ直ぐに言葉に変わる。 「連れて行ってよ、『赫い渓』へ」 じっと目の前の少年を見つめる。自分と同じ音の名前を持つ、自分と同じ日にこの世に生を受けたその人を。 朔也はゆっくりと前髪をかき上げた。その手からこぼれた髪がさらさらと彼の輪郭に沿って落ちてゆく。瞳が陽に照らされて、青く輝いた。 「……じゃあ、付いてきて」 ざり、と靴底が土を踏みしめて音を立てた。その瞬間。一籐木咲夜という人間が消滅する。自分の存在がただの咲夜になり、自分の意志で一歩を踏み出していることを彼女は感じていた。
「…父親の海外赴任が決まったとき、本当は僕も付いていく様に言われたんだ」 あちこちから伸びた枝だらけの林の中に、一本通った細道。一面に敷き詰められた落ち葉をかさかさと踏みしめながら歩いていく。山肌から軽快に反響する音が戻って来て、まるで大勢の行進のような騒々しさだ。 「でも、行く気がしなかった。なぜだか知らないけど、小さい頃から僕だけがおばあさんの家で育てられていたんだ。姉貴がふたりいて、そっちはちゃんと両親と暮らしているのにね」 他愛のない世間話だった。学校のこと、家族のこと。お互いのことは知らないことだらけだったから、些細なひと言すら新鮮に受け止めてしまう。 「朔也のお祖母様は、きっと朔也のことが特別に可愛かったんでしょうね?」 「やっぱりそう思う?」 かさかさと規則正しい乾いた音。もうどれくらい歩いたんだろう? 気付けばいつか陽は落ちて、辺りは夕日の名残りの明るさ。かろうじて暗闇に包まれずにいた。 自分のことを考えれば分かる。今までの約17年の歳月で一番多くの時間を共有してきたのは間違いなく祖父だ。総合企業グループの長たる仕事がそれほど容易く済まされることはない。表向きは隠居の身分だとはいえ雑用はあとからあとから湧いてきて、むしろ多忙きわまりないと言った方がいいだろう。それでも彼は無理をしてでも時間を作っては咲夜との時を楽しんでいた。 「私も、お祖父様には一番可愛がっていただいてたの。他の従兄弟たちとは明らかに待遇が違ったし。内孫で兄が2人続いたあとの女の子、と言うことも大きかったのだとは思う。でもちゃんと他にも従姉妹はいるのよ。それでも、家族同伴で行ける場所には必ず連れて行って頂いていたわ。そのせいだと思うの、次期後継者とか言われちゃったのは」 ―― まるで手のひらの上で珠を転がすようだ。 祖父・月彦の咲夜への溺愛振りはかなり有名だった。目に余るほどの行動に「まさか、隠し子では?」と言う噂すらあったそうだ。もっとも月彦を恐れて、誰も面と向かって問いただす者などはなかったが。 「おばあさんはきちんとした人で、厳しかったけど……その反面、とても温かい人だったよ。大変なことも多かったと思うのに、愚痴のひとつもこぼさなかった。いいとこのお嬢さんで苦労なく育った人が、結婚もしないでひとりで母を育てたんだ。いつも笑顔で、あるものをあるように受け入れる人だった」 その言葉には、何も答えられなかった。朔也のおばあさんは祖父の子供を女手ひとつで育てたのだろうか? …現代ならともかく、当時はそう言う行為を貫くことも大変だっただろう。 「口癖みたいに言ってた、一番大切なことって。『約束を必ず、守ること』―― それを忘れちゃいけないって」 咲夜は俯いて唇を噛みしめた。責められている訳ではない、彼はそんな意地の悪い気持ちでこの話を切り出したわけではないのだと信じたい。……でも。靴の先に引っかかった落ち葉が蹴り上がるように飛んだ。 「暗くなってきたけど、渓はまだ遠いの?」 気付けば。辺りにはうっすらと、薄紫のもやが立ちこめ始めていた。山肌が影になり、薄暗い。ひとりではちょっと歩きたくない様な場所だった。そんな道を今日初めて出会ったばかりの人間とふたりきりでは、ひとりきりでいるの同じくらい危険な気もしてくる。それでも、咲夜は不思議なほど落ち着いていた。 「渓は足場が悪くて、特に今は雪解けの時期だからぬかるんでいるんだ。こうして暗くなってから歩くのは危ないよ」 「じゃあ、どうするのよ、これから」 夜が明けてから、向かうべきだと言いたいのだろう。だが、口で言うのは簡単だが、実際を考えると身が凍る想いがする。春になったばかりとは言っても、陽が落ちれば途端に地表から冷え込んでくる。春用のコートは心許ない。まさか、このまま野宿でもするつもりだとか言い出すのではないだろうか。 咲夜は不安な表情で朔也を見る。それに応えて、彼は少し微笑んで見せてから、ポケットの中をまさぐった。 「別荘の鍵、持ってきた」 「別荘……あなたの家の?」 「一籐木の別荘には遠く及ばないとは思うけどさ、それでも雨露くらいはしのげると思うよ。あいつは渓に往け、としか言ってない。とにかく、夜明けと共に行動するしかないだろう」 「こっち、付いてきて」 「え?」 「別荘への近道なんだ、おばあさんともいつも通っていた」 「あのさ……これ、言おうか迷ったんだけど」 え、と言うように咲夜が小首を傾げてみせた。その姿を朔也はまっすぐに見つめる。 「君は、僕があいつに、一籐木月彦に似ているって言ったよね?」 「ええ」 「じゃあ、言うけど」 「君は、似ているんだ」 咲夜は視界が一瞬ぐらりと揺れた気がした。どうしたのだろう、知らないうちに目眩を覚えたのか。 「……似ている?」 「君は―― 僕のおばあさんに似ているんだ」 どこかで、バサバサと鳥が飛び立つ音がした。 「……そんなことが、あるわけないじゃない」 「あなたとお祖父様が似ているというのは、本当にあなたがお祖父様の孫だと言う話が本当であれば合点がいくわ。でも、私と朔也のお祖母様は何の関係もないじゃないの」 目の前で静かにこちらを見つめていた朔也が、咲夜の言葉をひとつひとつ汲み取っていく。そして、彼は小さく頷いてからゆっくりと話し出した。 「だから、僕たちは『運命の子供』なんだよ。僕が一籐木月彦に繋がるように、君は後藤家梓(ごとうけあずさ)に繋がっていく。血の繋がりがどうこう言うことじゃなくて……時の繋がりで再び重なり合う」 「嫌、そんなこと……信じられない。そうだとしたら、お祖父様は……」 咲夜は自分の腕で、自分を抱きしめていた。汚れてはいるが、ないよりはいいだろうと羽織ったコートから、自分の二の腕の感触が伝わってくる。祖父・月彦との関係が、どんどん混乱していく。自分を誰よりも愛してくれた祖父。でもそれが自分に誰かの面影を重ねていただけなのだとしたら――。 「それは、僕だって同じことだよ」 「とりあえず、暗くなってしまう前に別荘まで行こう。夜風は身体に触るから」 がさがさと落ち葉が風に捲かれていく。どこかで、また鳥たちの羽ばたく音がする。 「……妙だな」 「え?」 「さっきも思ったけど。こんなに日が暮れて鳥たちが騒ぐのは、ちょっと不自然かなって」 朔也の言葉がそこで途切れた。闇の向こうを伺って、軽く舌打ちをする。 「どうしたの?」 「ちょっと、黙って」 「―― あ!」 「……!」 山肌に反響するものすごいエンジン音が息巻くようにこちらへ近づいてくる。それは瞬く間に二人の目の前、ついさっきまで立っていた山道を走り抜けていった。 暫く、声が出なかった。咲夜は朔也のセーターをグッと握りしめた。その手が震えている。肩に手が回されるのが分かっても、すでに抵抗する気力もなかった。 「さっきの、ガマガエルの車じゃなかったのか」 「ううん」 「あれ、ウチの会社の……公用車なの」 「公用車?」 「上役の人間なら、届けを出せば誰でも使える車。本社に何台かあるんだけど、今は運転手の顔までは確認が出来なかったわ」 朔也の心臓の音がする。そう思うと、少しだけ気分が落ち着いた。 |