「そりゃあ、ちょっと物騒だなあ」 「本当に、何も聞いていないの? あいつが何かとんでもないものをどこかに隠したんだとしたら、ヒントになるような言葉を君に残したんじゃないかと思っていたんだけど。それって、……もしかしてかなりヤバいものなのかなあ」 さすがに朔也も今の追撃には意表を付かれたらしい。本当に轢き殺しても構わないと言うような走りだった。会社がどうのと言われても、すぐさま説明が出来る咲夜ではない。そもそも、まだ学生の身分だからと難しいことはあまり聞かされずに来てしまった。 誰かが、自分を狙ってる? 「そんな馬鹿な」と笑い飛ばしたい。でもそんなことはもはや出来なかった。遊歩道の様な山道を分けるように車が入ってくる。尋常じゃない。墓地での恐怖が甦る。ただの痴話喧嘩だったのだろうか、あれは……。 「私の行き先も、すでに分かっているのかしら?」 「さすがにそれはないと思うけど。だって、渓のことは咲夜ですら知らなかったんでしょう? 多分、あいつは誰にも話していないはずだよ」 そこでいったん言葉を切った朔也が、少し間をおいてから再び話し出す。 「この山道の先に、さっき乗っていた路線の着く観光地があるんだ、温泉地なんだけどね。多分、あの車はそこに向かったんだと思う。……君を捜すために」 「どうして――」 見ず知らずの人間に追われるならまだ分かる。でも内部の人間が、どうしてこんな風に自分を。咲夜は言葉を続けることが出来ずに、朔也のセーターに顔を埋めた。唇の震えと共に、涙が再び浮かんでくる。でもさっきの悲しみが乗じたそれとはどこか違う。朔也の背中に回した自分の両腕もガクガクと音を立てている。 辺りには次第に静寂が戻ってきた。 暫く、お互いに言葉を発さずにいた。「抱きつく」と言うよりは「しがみつく」と言う感じ、咲夜の行動は怖い夢を見た子供のようだった。どれくらいそんな風にしていたのだろう。きつく巻き付いていた腕がようやくふわりと力をなくしたとき、朔也の静かに話しかけてきた。 「社内で、何かトラブルがあったりしたの?」 咲夜は朔也のセーターの胸の辺りを掴んだまま、ゆっくりとその身をはがした。俯いて下を見たまま、静かにかぶりを振る。 「よく……分からないの」 「去年の暮れに、脱税の疑いで監査が入るという話があって。それで内部調査をしたら、複数の資産流用が見つかって。でもお金の流れが全く分からない、そうおっしゃっていたわ、お祖父様。そう言うことが何よりもお嫌いな方だったから、かなりショックを受けていらしたわ」 「―― ま、そんなこと大企業にはありがちだろう? 全く、汚い話だね」 「家族のみんなにも聞こえないように、ご自分の書斎でよく電話をなさっていたわ。怒って声を荒げているのが廊下まで聞こえる時もあった。でも結局、うやむやのまま、亡くなってしまったから」 その後のことは、咲夜も本当に分からないままだ。祖父があんな風に亡くなったショックもあったし、皆が腫れ物に触るように遠巻きに咲夜を見守っていた。あの惣哉ですら、何か隠していることがあった気もする。 他人事のように見守っていたこと。それが走馬燈のように甦る。 祖父・月彦は、一体自分に何を託したのだろう? 彼の孫だと名乗る朔也をよこして、ふたりで何を捜せと言うのだろうか。ひとことでも何かを告げてくれていたら。もう少し、心の準備が出来ていたら。自分を取り巻いていた支えがすべて外れた。―― 初めから、意図されていたかのように。 上も下も、右も左も。手に届くものが何もない無の空間に浮遊する。今の咲夜の心境はそんな感じだった。肩にあった手がふいに外れる。がさがさと落ち葉を踏みしめる音、朔也はゆっくりと立ち上がった。 「とりあえず、行こう。これ以上暗くなると、灯りなしで歩くには辛い道なんだ」 その声に導かれて立ち上がる。顔を上げると、困ったように微笑む朔也と目があった。辺りに立ちこめたもやはその表情を包み込んでよく分からない。 「一体……私たちが見つけるものって、何かしら?」 答えはない。彼は咲夜の手を取ると、ゆっくり林の中へ進み始めた。
「僕、あいつの考えが少し分かった」 「え……?」 「どうしてなのか、ずっと考えてた。捜し物なら何も僕じゃなくて、もっと咲夜の気心の知れた人間をパートナーに選べばいいのにって。でも内密に事を運ぶためには、内部の人間じゃ、まずかったんだ」 道が下り坂になる。とりあえず、山歩きがしやすいように道らしきものは作られていた。丸太を埋め込んだ階段になっている。手を引いて誘導してもらっても、見えにくい足元は怖い。 「あいつは…僕に挑戦してきた」 咲夜の歩みがまた止まる。 「こんな無理難題を一方的に突きつけて。僕が約束を守れる人間か、見定めるつもりなんだ」 ぱしっと、咲夜の手が朔也の手から外れた。 「朔也? どうしたの?」 また、だ。 朔也は月彦の存在を思い出すと、途端に気が荒れる。闘争心を剥き出しにした獣のような鋭い視線に変わる。それが……その瞳の輝きが、とても恐ろしかった。 「自分はおばあさんを幸せに出来なかったくせに。そんな人間が、僕にものを言いつけるなんて……」 じろりと。朔也の視線が咲夜を捉える。いつの間にか、緩やかに上り始めた月のように、青白い冷たい光を放つ。 「あいつの会社が……一籐木のグループがどうなろうが、僕の知ったことじゃない。全部崩れてしまえばいいんだ! そんなもの、たかが偽りの城じゃないか!?」 「……」 彼女は朔也より3段ほど高い場所にいた。攻撃的な瞳をゆっくりと捉える。不思議と恐ろしさは消え去ってていた。 それでも見つめずにはいられない。その怒りの心ごと、全部をぶつけられても構わない気がする。 「じゃあ、ここで私を放り出す? そうよ、朔也の方こそ一人で帰れば? 今ならあなたに危険はないはずよ」 「これは一籐木の一族内部の問題だもの」 「きゃっ!」 咲夜は小さく叫んだ。自らが外した朔也の手が空を切り、また捉えられていた。足元が滑って、ずり落ちるように朔也と同じ場所に引き寄せられ、右の二の腕を鷲掴みにされる。グッと引かれて、鼻先がぶつかるほど近くまで顔が寄せられた。至近距離で暗がりの中でも朔也の表情がはっきり確認できる。 「受けて立とうじゃないか」 獲物を手に入れた獣の瞳、なめるように咲夜を見つめる。腕は掴んだまま、くるりと背を向けた。 「その挑戦、受けてやる! 絶対に、負けるものか!」 「あの、朔也っ?」 「どこにいるんだか知らないが、見せてやろうじゃないか? 僕はあいつとは違うんだ。守ってみせる、最後まで」 「……朔也?」 「僕は一籐木月彦じゃない! あんな奴とは違う! 違うんだ!!」 そっと見上げると、後ろ向きで進んでいく朔也の頬が濡れていた。
「……わあ」 「あまりに年代物で驚いただろう? 何しろ、建てられてから百年近くが経過しているらしいから。後藤家は君の家の足下にも及ばない有様だよ。一籐木グループには国内外を問わず、リゾートホテル並の別荘がいくつもあるそうだもんね」 「いえ、そんなことはないわ」 「素敵よ、ドラマに出てくる洋館そのものじゃないの」 赤い瓦屋根、ツタの絡まったベージュの壁。硝子をはめ込んだ格子の窓は両開きのデザインで、桟を白に塗られている。こぢんまりとした可愛らしい洋館だった。 「このまま、門の外をもう少し右に行くと渓に辿り着く。さっき通っていた山道との間に長い吊り橋が渡っているよ。それを通らないとこっちには渡ってこられない。もちろん、車は無理だから徒歩なんだ」 朔也の視線の先には黒々とした闇がベールを引いているだけだ。その先にあるはずの風景はぴっちりと閉ざされている。 「いつも避暑に来ていたから、今の季節はあちら側の道がどうなっているか分からない。以前はいくつか近所に建物があったらしいんだけど、車が入れないとなるとやはり不便なんだろうね。今も使われているのはこの界隈ではこの建物くらいで、あとは全て廃屋になっているよ」 そう言いつつ、古めかしい鍵を大きな木製のドアの鍵穴にさして、くるりと回した。カシャン、と鈍い音がする。 「どうぞ、入って」 思ったより天井が高い。外観は総二階に見えたが、屋根裏程度のものがあるだけなのだろう。窓から明るい月の光が射し込んで、薄暗い屋内を照らし出していた。広いリビングには、年代を感じさせる控えめなデザインの家具が置かれている。 「あ、そうか」 「電気をつけると渓の向こう側から見えるな。ここは普段は灯りのないところだから、不審に思われるかも知れない」 その言葉に、少し上向きになった心が引っ込んでしまう。結局、部屋はそれ以上明るくなることなく、相変わらず月明かりで青白い不思議な空間になっていた。 「どうしたの?」 「あの……何も、しないでしょうね? 私に」 「え?」 「もしかして、期待してるの?」 「ちっ、違うわよ! 非常事態だったから、成り行きでついて来てしまったけど。よく考えたら、あなただって十分危ないわ。……ううん、一番危ないかも知れない。今、凶器でも出されたら逃げられないもの」 馬鹿にしたような笑い方にムッとしてしまう。じろりと上目遣いに睨むと、朔也の楽しそうな笑顔にぶつかった。 「そう言う思考回路がちゃんと働くのに、どうしてのこのこ付いて来ちゃうかな。全くお嬢様はこれだから、困るよ?」 「―― ああ、今の質問の答えは分からないな」 「え?」 「ここで、50年前に何があったか、知りたい?」 その時。咲夜は気付いた。 彼の背後に掛かった、一枚の肖像画。黒髪の少女がこちらに微笑みかけている。 朔也は咲夜の視線を分かっているように、窓に掛かっていたレースの薄いカーテンをゆっくりと引いた。部屋にはますます明るい月の光が注ぎ込む。彼の表情が妖しく縁取られると共に、絵の中の少女が浮き出てくるような気がした。 |