春とは言っても、山間部の夜ともなればかなり冷え込んできている。屋内にあっても、吐く息が白く自分の回りを漂う。 「知りたくない訳じゃ、ないのだけど、このままでは寒くない?」 「そうだね」
「実は僕の家族も、ここには夏にしか来たことないんだ。だから、暖房器具が何もないんだよね」 せっかく暁彦の追跡から逃れたというのに、ここで凍え死んでは何にもならない。電気を付けないまでも、何かで暖をとる必要にふたりは気付いた。食料庫や戸棚を探し回った末、使い切りのコーヒーのドリップパックが出てくる。お湯を注いで抽出するものだ。1杯ずつのパックになっている。 「ここはへんぴなところだから、ガス会社に電話してもすぐにはプロパンを届けて貰えないんだ。真夜中に困るといけないって、これを用意してあったんだよ」 カチンカチンと何度かスイッチを回すと、青白い光がポッと花開いた。火力のないカセットコンロはなかなかお湯が沸かない。ふたりはどちらからとなく、コンロに手をかざして凍えた手を温め始めた。 「後藤家…の家はね、今ではこの通りなんだけど戦前は華族だったって聞いてる。皇族とも繋がりがあった名門だった。おばあさんは昭和ひとケタ生まれだから、戦時中はそれなりに苦労したらしいけど……それでも恵まれた娘時代を過ごしたらしいよ。この別荘はおばあさんが子供の頃から一番のお気に入りだったところで、戦時中は疎開先にも使ったんだって。そして高校生だった彼女は、卒業と同時に親の決めた家に嫁ぐことに決まっていた」 咲夜は息を呑む。目の前の炎を見つめたまま、次の言葉を待った。 「50年前の秋、後藤家の出資した百貨店の落成記念パーティーで、彼女は運命の出会いをしてしまったんだ」 ふたりは今、床に置かれたコンロを挟んで向かい合わせてかがんでいる。腰を下ろしても構わないのだが、板張りの床が冷たそうで躊躇いがある。やかんの向こう、青白い炎に照らし出された輪郭。双の瞳が冷たくこちらを見据える。 「いろいろと、詳しいのね。お祖母様からは何も聞いていないんじゃなかったの?」 「調べたって、言っただろう? 当時のことを知っている人間も少なくなっていたけど、色々聞いていくうちに後藤家に仕えていた使用人の子供と言う人に出会って。―― と、言ってももう70過ぎの人なんだけど。その人がかなり詳しく教えてくれた」 その言葉に、咲夜は勇気づけられていた。胸がドキドキして痛いくらいの現状ではあるが、思い切って反論を繰り出す。 「それじゃあ、胡散臭いわ。やっぱり、口から出任せを言っているんじゃないでしょうね?」 「でも、その人は一籐木月彦とも親しい人間だと言っていたよ? もちろん、僕のことも知っていたし。当時は気付かなかったけど、おばあさんの葬儀にも来てくれてたんだって」 「―― え、それって誰なの? 名前だって分かってるんでしょう、もったいぶってないで教えなさいよ」 「秘密」 「そんなっ! やっぱり、信用が出来ないじゃない!?」 「じゃあ、……僕もこれ以上は何も話さない。そんな風に嘘つき呼ばわりされるのは面白くないからね。 やかんの中にかすかにうごめく蒸気の音だけが、辺りを支配している。やがて、朔也がくすくすと笑い出した。 「……なによっ」 「気になっているでしょう? 実のところ」 その時2人の間に、ようやく、白い湯気が勢いよく立ち上り始めた。ささやかな熱気が、冷え冷えとした空気にあっという間に溶けていく。それでも何もないよりはこうしていた方がまだマシだと思った。 「じゃあ、これが君のじいさんの話だと思わなければいい。暇つぶしに聞く、ただの作り話だと思えば」 「……なら、聞いてあげても、いいわ」 「そう?」 「あれ?」 「どうしたの?」 「ここには食器しか入れないことになっていたんだけど、奥に何か入っているんだ」 朔也が取り出したのは、一抱えほどの紙袋だった。そのままこちらに投げてよこす。中を開けた途端、咲夜は吹き出していた。不思議そうな顔で振り返る朔也に袋の中身を広げてみせる。 「ほら、クラッカーとかチョコレートとか入っているけど? まるで遠足のおやつみたいだわ」 「あ、あと。瓶みたいなのが……ジャムかなあ? ―― う、うわああっ!?」 その言葉通り、丁度ジャムが入っているくらいのコルク栓の瓶。つまみ上げて明るいところにかざした朔也は、次の瞬間、叫び声をあげてそれを放り投げた。瓶は窓際まで転がっていって止まったが、幸い割れはしなかったようである。 「嫌だ、何してるのよ……っ!?」 「やだっ……何よこれ! この別荘って、一体どうなってるのっ……!?」 非難がましくそう訴えるが、朔也の方も負けずに応戦する。 「そ、そんなことないよ、僕だってこんなの初めて見たんだよ!」 誰にも拾い上げて貰えない瓶が月明かりがひんやりと差し込む窓際に転がっている。コルク栓を横にして転がっているその中身を、今はっきりと確認できた。 ―― 入っていたのは。根本から切断されたような、2本の人間の指。それが何かの透明な液体に浸かった状態になっている。 「やだ! もう! これで、バスルームに行ったら、バラバラに切断された死体が転がっているんじゃないでしょうね!?」 恐怖のあまりそれから少しでも離れたくて、じりじりと後ずさりした咲夜は、急に何かに躓いて転倒した。 「いたた……」 「あれ?」 躓いたのはさっきの紙袋。そう言えば中身を確認している最中だった。踏みつけてしまった袋の中身をかき集める。その中に咲夜は意外なものを発見した。 「大丈夫? ……どうしたの」 「これ」 「―― おばあさんの字だ」 『ようこそ朔也。 「……何なんだよ、これは。どういうことなんだよ……」 淡々と書かれた短い1枚の手紙。何度、読み返したところで字が増えることもない。すべてを見透かされている様だった。自分たちが今日、ここへ辿り着くことまでが、初めから予想されていた出来事なのだろうか。 「……もう一枚、紙が入っている」 きっちりと4つ折りにされた新たなる1枚は、咲夜によって開かれた。 「お祖父様の、字」 「え?」 『明日の朝、夜明けと共に渓へ往け。 それから、例の所にこれを頼む。月彦』 「また、命令して来やがった」 「ねえ、朔也? もしかして、お祖父様とあなたのお祖母様は……最近、ここに来たのかしら?」 「あ……」 「去年の11月15日だわ」 「それって、僕が修学旅行に行っているときだ」 「来たのか? ここに……それもあいつと。どうして……」 「あの、朔也。私、日付までははっきりしないんだけど。お祖父様は左手にずっと包帯を巻いていらっしゃったの。それで、司法解剖したときになかったのよね、小指が」 「え……?」 「それ、おばあさんも同じだ。変だなあと思っていたんだ。でも止血をきちんとしていたのか、身体にさわりもなかった感じだったな。遺体を見て、指がないのは初めて気付いた。それまではただ怪我をしているのかと思っていた」 「……と言うことは……」 ふたりはどちらともなく互いの顔を見合わせると、床に転がったままの先の瓶に視線を移した。あれは、切り落とされた2人の?そうは思っても、気持ち悪いものは気持ち悪い。咲夜にはどうしても凝視することが出来なかった。 「でも……何ヶ月も前のものが、どうして綺麗な形で残っているのかしら?」 「ホルマリンか何かの特殊な溶液に浸けてあるんだろうな。でも、わざわざ何のために」 咲夜の祖父と朔也の祖母。2人には新たな接点があったことになる。でも、それ以上のことはいくら考えても分からなかった。 「とりあえずコーヒーをいれましょう。カップを出してくれる?」 「この洋館は、おばあさんの父親が亡くなったとき、形見分けでもらったものなんだって。おばあさんは後藤家を勘当されていたから、父親の生前は再び家の門をくぐることもなかった」 それは、朔也の母親を身籠もったから。最後まで中絶に応じることもなく、相手の男の名も白状しない。親に楯を突いたと言うことで追い出されたのだろう。そう説明された。 「……そう……」 「朔也はお祖父様が嫌いなのね? そりゃ分かるわ、あなたのお祖母様を捨てて、他の女と結婚してしまったんですもの。でも、それには何か、仕方のない理由もあったんじゃないのかしら?」 「よく言うよ、あいつはそんなヤワな男じゃない。何しろ、おばあさんを最初から欺くつもりで近づいたんだからな」 窓に垂直な形でソファーが置かれている。咲夜から見ると朔也の横顔越しに、格子の大きな掃き出し窓が見える。彼の横顔は影になっていてよく分からないが、前髪やまつげの先が金色に透けて見える。 「何それ、どういうことよ?」 「あいつは『一籐木月彦』として、おばあさんに近づいた訳ではないよ。偽名を使って、おばあさんから後藤家の内部情報を聞き出すために近づいたんだ」 「……え……?」 「そう、『一条、咲耶(いちじょうさくや)』と言う名前でね」 その一言に、咲夜の表情が凍り付いた。しかし、次の瞬間に気付く。この事実に遭遇したとき、朔也も自分と同じようにショックを受けたのだと言うことを。 3人目の「さくや」が、突然現れる。月の光すら、瞬時に凍り付いた気がした。 |