昭和20年代後半は、アメリカの占領支配が終わり、日本が再び自分の力で動き出そうとしていたその時であった。 顔も見たことのない男の元に嫁ぐ。しかし当の梓本人にとってはごくごく当たり前のことで、何ら不満もなかった。時代は急速に近代化していて人々の感覚も戦前とは全く違ってきていたが、小さい頃から「お嬢様」として何不自由なく育ってきた梓には、親の決めた人の元へ嫁ぐことが「普通」だったのである。 しかし。彼女は出逢ってしまったのである。―― 月の化身のように美しい青年に。晩秋のとある晩餐会の夜、彼女の人生は全く違った道へと進み始めた。 「2月の終わりの大雪の夜、ふたりはここへ来たそうだよ。着の身着のまま……逃避行って奴だよね、笑っちゃうけどさ。その年の晩秋に、僕の母親は産まれている。となれば、何があったのか咲夜だって分かるだろう?」 朔也がこちらに身を乗り出してくる。顔は月の影になって暗いが、その全身を縁取る金色の輪郭がふわりと動く。咲夜は無意識のうちに少し、後ろに下がった。すぐに椅子の肘置きに背中がぶつかる。 暗がりには目が慣れているので、ごく近くに寄れば朔也の表情が感じ取れる。どこまでも冷たい視線。まるで獣が獲物を自分の糧のためではなく、ただなぶり殺すためだけに捕らえるときのように。この眼はここに来るまでに何回も見た。自分を通して背後にいるもう一人の人間を見ている、その人間を深く憎んでいることが肌で分かる。 「……後藤家梓は」 「本当に、純粋に人を信じるお嬢様だったんだよ。それを一籐木月彦は利用した。利用するだけ利用して、自分はさっさと梓を捨てて他の女と結婚した。梓が自分の子を産んだことも知らないでね」 「……きゃ!」 「一籐木の繁栄の影で梓がどんなに苦しんだか。父親のない子供を何の援助も受けないで育て上げることがどんなに大変だったか。あいつはそんなことも知らずに、ただ、事業拡大していったんだ。だけど……だけど、一番許せないのは……」 朔也は日頃、部活動で鍛えているだけあって、線の細い割りに力がある。 それでも朔也の視線から逃れることはどうしても出来ない。目をそらしたいのに、逃げようと思えばそれが出来ないこともないと思うのに、どうしてなんだろう。底知れぬ恐怖を越えて惹かれてしまう感覚。今までの人生の中で味わったことのない衝動が咲夜を支配する。 咲夜は震えたままの唇からかろうじて声を絞り出した。 「……梓さんの、朔也のお祖母様の気持ちでしょう?」 いつもよりかなり低く、それはかすれた音になった。対する彼の表情が少し歪む。応えるように咲夜の声は澄んだ響きを取り戻し始めた。 「あなたのお祖母様がお祖父様を、一籐木月彦を想って裏切られても捨てられても一生涯、想っていたのが気に入らないんでしょう?」 「な……」 咲夜の反撃に慌てた朔也の手が更に強い力を込める。怒りの全てがそこから溢れ出てくるようだ。 「それが、気に入るか気に入らないかは朔也の自由よ? でもお祖母様は朔也とは同じじゃないわ、お祖父様が人間として許されないことをしたというのならそうかも知れない。でも、お祖母様のお気持ちはお祖母様が決めるものだわ!? …朔也がいくら腹を立てたところでどうなることでもないでしょう…?」 「…知ったような口を叩いて!!」 「朔…」 「…いつだってそうだ、加害者は言い逃れを考える。自分が悪いことをした事実をひねり潰そうとする…いいように解釈するんだな? …あいつは…」 朔也の体重も加わっているので、咲夜の身体は大きくソファーに沈み込んでいる。怒りのあまり肩を震わせる朔也の上体が月明かりの中に黒く影になって浮かぶ。 暗い中で妙に明るく光る眼が一瞬、色を変えた。 「…そうか」 「あいつは、渓へ往けとは言ったけど…別に何をしては駄目だとか言わなかったよな?」 「朔也…何を…」 するりと左腕を解放した彼の右手が滑らかに動いて咲夜の顎を捕らえた。力を入れられると喉元に指が触れて呼吸が苦しい。 「生意気な口を叩きやがって…そんなことを言っていられるのも今のうちさ。いいよ…あいつがおばあさんにしたことを、今度は僕が咲夜にしてやる、あの世で悔しがらせてやる! …あいつなんか…!!」 「ちょっと、止めてよ! …離れなさいよ!!」 馬乗りになってくる身体から逃れようと身をよじる。でも彼も本気だ、力の差は歴然としていた。 「…て!」 荒い呼吸で見上げると、朔也は首に手を当てながらこちらを睨んでいた。 「…往生際が悪いな…」 「馬鹿ね、物わかりの悪い子供みたいよ、朔也は」 「私をどうしたところで、同じだわ! あなたの怒りがそんなことで収まるとも思えないもの…」 「この…っ!?」 咲夜は瞳を閉じると大きく深呼吸した。そして、自分の呼吸が穏やかになったことを感じ取ると、透き通った声で静かに言い放った。 「…そんなに欲しけりゃ、あげてもいいわよ? 自由にしたらいいわ。どうせ助けを呼ぼうにも無理なんだし。でも、そんなことしたって、あなたの気持ちは収まらないわ…」 「どういう…あ、そうか。そういうこと?」 朔也が自嘲気味に笑い声を上げる。 「そうだよな、咲夜はあの男と宜しくやっているんだろうから、今更、何でもないって? …今時のお嬢様は怖いよな…純な顔してやってることは…」 「止めてよ!!」 「そう言ういい方、許さない! …人を何だと思っているのよ!?」 自分でもどうしてこんなに腹が立つのか分からない。でも、感情が止まらない。 「人のこと馬鹿にするのもいい加減にしたら? じゃあ、試してみなさいよ! …あなたのお好きなようにしたらいいわ! でも、そんなことをしても…空しさから逃れることはないはずよ。自分だけが不幸を背負ったような言動は慎んで欲しいものだわ…」 「咲夜…?」 …朔也の姿がぼやける。でも慌てているのがよく分かる。 「…あなたが…お祖母様から受けていた愛情を疑っているのだとしたら…自分の後ろにいるもう一つの影をずっと愛していたと思うのなら、それが許せないのなら…それは私だって同じでしょう? 朔也のお祖母様があなたをすり抜けて、後ろにいる一籐木月彦を見ていたと思うのなら、…お祖父様だって…私じゃなくて…」 声がかすれて、次の言葉が吐き出せない。そうだ、自分は泣いていたのだと初めて気付いた。咲夜は朔也の怒りの中に自分の心の真実を見つけてしまった。 2人は…全く同じ立場にいた。 必要以上に、他人眼からも異常なほどにそれぞれの祖父、祖母に愛された。でも彼らは遠い昔に深く愛し合い、男の使っていた偽りの名を…それぞれの血を受け継いだものに付けた。
「さくや」 「さくや」 その言葉を。特別な言葉を発するときに…彼らは何を思い、何を感じていたのだろうか?
「…咲、夜…」 先ほどまでの怒りが朔也から消え去っているようだった。彼は目の前で泣き崩れているもう一人の「さくや」にゆっくりと言葉をかけた。 「咲夜…」 言葉と共に、やわらかいぬくもりが包み込む…自分じゃない…自分とは違う、もう一つの、全く別の命。 「ごめん…」 「…逃げないで…朔也…」 「最初は、そうだったのかもしれない…私たちは運命の子供だから。確かに私たちは…過去の彼らに似ていたのかも知れない。でも、そうじゃないよね? …代わりじゃないわよね…」 「そう…だな…」 「あのね、朔也」 「私、お祖父様が大好きだったわ。お祖父様に愛されて…とても幸せだったと思うの。だからその思い出を信じたい」 一度、言葉を切ると。視線を窓の方に向けた。外は相変わらず月の光に満ちあふれている。 ゆっくりと、朔也の方に向き直る。瞳の奥が青く光って見える…懐かしい色だ。でも、それは祖父のものではない、朔也の色だ。 「朔也のお祖母様も…朔也が好きだったはずよ…。もしも、朔也の中でお祖母様が特別の存在なのだとしたら…それと同じ重みで、きっと愛してくれていたと思うの…。だって、朔也は朔也だもの…」 青い光の奥に…自分の姿を捉えることが出来る。 「でも…」 そっと腕を伸ばして、ほのかに月の色を吸収した頬に自分の手を添えた。切ない感触が波を帯びて伝わる。自分の心も一緒に揺らぐ。 「それでも、違ったのよね。…私たちとは…全く違う存在として、あなたのお祖母様…梓さんとお祖父様…一籐木月彦は…繋がっていたのよ」 「繋がっていた…?」 「50年という長い歳月に…何を思っていたのか、何を信じていたのかは想像するしかないわ。でも、心の一番大切な場所に…存在するその人が支えになっていたと思うの。お祖父様は…私のお祖母様のこともきちんと大切にしていたわ。その心に偽りはない…でも、梓さんは特別の人間なのよ。どうしてなのかは分からない…でも、私、今、これだけは分かる…」 咲夜はにっこりと微笑んだ。朔也の肩越しに、彼女の顔に月の光が当たっていた。 朔也は相変わらず、飲み込み切れない不思議な顔をしている。 「あのね、私は…お祖父様の気持ちは分からない。どうして、大切な人を手放してしまったのか。守り通せなかったのか…。でもね、不思議なんだけど…梓さんの気持ちは分かるの…たとえばほんのわずかな時間でもいい、大切な人に愛されたいと思う気持ちは…嘘じゃない。だって、人を好きになる心は止められないのよ…?」 その視線に反応して。朔也の表情もゆっくりとほぐれていく。 頬に触れていた白い手に自分の手を添える。 「…僕も…」 「おばあさんの気持ちは分からないけど…あいつの、一籐木月彦の気持ちは、何となく…分かる気がする…」 「そう?」 「だって、もしも心から愛おしいと思える人に出会ってしまったら、目の前にそんな人が現れたら…愛さずにはいられないと思うから」 背中に回っていた腕がすっと首に巻き付いてくる。息のかかるぐらいの距離に咲夜は抱き寄せられた。 「…逃げないの?」 「どうして…? 逃げる必要なんて、ないじゃない?」 涙の乾いた頬が心なしか紅潮している。 誰か、自分以外の存在を慈しむ気持ち。包み込む様な愛が羽を広げて2人を歓迎していた。 咲夜が静かに目を閉じる。その唇に、朔也の唇がゆっくり重なる。すぐにそれに反応する。応えを得た嬉しさが更に朔也の心を解放する。 「…朔也…」 「うん?」 長い黒髪をかき分けて、白い首筋を探し当てる。宝物を見つけたようにそこにキスした。 そのとき耳に届いた…咲夜の吐息混じりの声に応えて、朔也はその瞳を覗き込んだ。 「…ごめんなさい、呼んでみただけ」 「咲夜…」 穏やかな、命を注ぎ合うような時間。 閉じた瞳の奥に…あるはずのない吹雪の森がくっきりと浮かび上がってきた。 |