…9…

 

 昭和20年代後半は、アメリカの占領支配が終わり、日本が再び自分の力で動き出そうとしていたその時であった。
  朔也の祖母である「後藤家梓」は当時18歳の高校3年生。家は大戦の後、華族としての称号は剥奪されてしまったが、梓の父や兄は培った財力を元手に財界への事業拡大を進めていた。
 彼女には卒業と同時に婚約者との婚礼が控えていた。もちろん、それも父親が財界とのパイプを確実にしようと画策して取り決めたもので、相手は若手の青年実業家。相手は梓の実家の家柄や財力が欲しかった。相互の利害関係がぴったり一致していたと言っていいだろう。

 顔も見たことのない男の元に嫁ぐ。しかし当の梓本人にとってはごくごく当たり前のことで、何ら不満もなかった。時代は急速に近代化していて人々の感覚も戦前とは全く違ってきていたが、小さい頃から「お嬢様」として何不自由なく育ってきた梓には、親の決めた人の元へ嫁ぐことが「普通」だったのである。

 しかし。彼女は出逢ってしまったのである。―― 月の化身のように美しい青年に。晩秋のとある晩餐会の夜、彼女の人生は全く違った道へと進み始めた。

「2月の終わりの大雪の夜、ふたりはここへ来たそうだよ。着の身着のまま……逃避行って奴だよね、笑っちゃうけどさ。その年の晩秋に、僕の母親は産まれている。となれば、何があったのか咲夜だって分かるだろう?」

 朔也がこちらに身を乗り出してくる。顔は月の影になって暗いが、その全身を縁取る金色の輪郭がふわりと動く。咲夜は無意識のうちに少し、後ろに下がった。すぐに椅子の肘置きに背中がぶつかる。

 暗がりには目が慣れているので、ごく近くに寄れば朔也の表情が感じ取れる。どこまでも冷たい視線。まるで獣が獲物を自分の糧のためではなく、ただなぶり殺すためだけに捕らえるときのように。この眼はここに来るまでに何回も見た。自分を通して背後にいるもう一人の人間を見ている、その人間を深く憎んでいることが肌で分かる。

「……後藤家梓は」
 ぱさり、と朔也の肩から毛布が床に落ちる。獣の亡骸のような姿で横たわるそれを奇妙に感じた。

「本当に、純粋に人を信じるお嬢様だったんだよ。それを一籐木月彦は利用した。利用するだけ利用して、自分はさっさと梓を捨てて他の女と結婚した。梓が自分の子を産んだことも知らないでね」

「……きゃ!」
 大鷲が獲物を捕らえるように、朔也の両手が毛布の上から咲夜の肩をがっしり掴む。咲夜は小さく悲鳴を上げた。
 冷たく覗き込む視線を、怯えた眼で見つめ返す。

「一籐木の繁栄の影で梓がどんなに苦しんだか。父親のない子供を何の援助も受けないで育て上げることがどんなに大変だったか。あいつはそんなことも知らずに、ただ、事業拡大していったんだ。だけど……だけど、一番許せないのは……」

 朔也は日頃、部活動で鍛えているだけあって、線の細い割りに力がある。
  咲夜は彼の指がめりめりと肩の骨にめり込んで来るような錯覚を覚えた。限度を超えた痛みに感覚が次第に麻痺してくる。

 それでも朔也の視線から逃れることはどうしても出来ない。目をそらしたいのに、逃げようと思えばそれが出来ないこともないと思うのに、どうしてなんだろう。底知れぬ恐怖を越えて惹かれてしまう感覚。今までの人生の中で味わったことのない衝動が咲夜を支配する。

 咲夜は震えたままの唇からかろうじて声を絞り出した。

「……梓さんの、朔也のお祖母様の気持ちでしょう?」

 いつもよりかなり低く、それはかすれた音になった。対する彼の表情が少し歪む。応えるように咲夜の声は澄んだ響きを取り戻し始めた。

「あなたのお祖母様がお祖父様を、一籐木月彦を想って裏切られても捨てられても一生涯、想っていたのが気に入らないんでしょう?」

「な……」

 咲夜の反撃に慌てた朔也の手が更に強い力を込める。怒りの全てがそこから溢れ出てくるようだ。
 わなわなと全身も震えていた。額にかかった柔らかな髪も大きく揺れている。

「それが、気に入るか気に入らないかは朔也の自由よ? でもお祖母様は朔也とは同じじゃないわ、お祖父様が人間として許されないことをしたというのならそうかも知れない。でも、お祖母様のお気持ちはお祖母様が決めるものだわ!? …朔也がいくら腹を立てたところでどうなることでもないでしょう…?」

「…知ったような口を叩いて!!」
 ばん! と音を立てて、咲夜の身体はソファーの肘掛けに打ち付けられた。背中に激痛が走る。

「朔…」
 咲夜に覆い被さるように朔也が彼女の二の腕を両側から掴んだ。体の自由がなくなる。彼は咲夜の鼻先まで顔を近づけた。荒い吐息が顔にかかる。肌からじんわりと全身に広がっていく、朔也の心。怒り、苛立ち…でもそれだけでは収まらない…憂いを含んだ相反する感情も混ざっている。

「…いつだってそうだ、加害者は言い逃れを考える。自分が悪いことをした事実をひねり潰そうとする…いいように解釈するんだな? …あいつは…」

 朔也の体重も加わっているので、咲夜の身体は大きくソファーに沈み込んでいる。怒りのあまり肩を震わせる朔也の上体が月明かりの中に黒く影になって浮かぶ。

 暗い中で妙に明るく光る眼が一瞬、色を変えた。

「…そうか」
 にわかに口元が卑劣な形に歪む…ゆっくりと上向きに。それはいつか微笑みの形に変化した。背筋が凍り付くほど完成された恐怖の色に咲夜は思わず息を呑む。

「あいつは、渓へ往けとは言ったけど…別に何をしては駄目だとか言わなかったよな?」

「朔也…何を…」

 するりと左腕を解放した彼の右手が滑らかに動いて咲夜の顎を捕らえた。力を入れられると喉元に指が触れて呼吸が苦しい。

「生意気な口を叩きやがって…そんなことを言っていられるのも今のうちさ。いいよ…あいつがおばあさんにしたことを、今度は僕が咲夜にしてやる、あの世で悔しがらせてやる! …あいつなんか…!!」

「ちょっと、止めてよ! …離れなさいよ!!」

 馬乗りになってくる身体から逃れようと身をよじる。でも彼も本気だ、力の差は歴然としていた。
 耳の付け根に生暖かいものが触る。かろうじて動いた片手で思い切り朔也の首筋に爪を立てた。

「…て!」
 朔也の身体が一瞬浮いたとき、咲夜はソファーから床へと転がるように逃れた。

 荒い呼吸で見上げると、朔也は首に手を当てながらこちらを睨んでいた。

「…往生際が悪いな…」

「馬鹿ね、物わかりの悪い子供みたいよ、朔也は」
 わざと挑発するように睨み返す。だんだん恐怖の心は消えてきた。

「私をどうしたところで、同じだわ! あなたの怒りがそんなことで収まるとも思えないもの…」

「この…っ!?」
 朔也の方はまだ怒りに満ちている。咲夜の言葉に敏感に反応した彼は、再び彼女の片腕を掴んだ。5本の指がそれぞれ跡が付くほどめり込んでくる。

 咲夜は瞳を閉じると大きく深呼吸した。そして、自分の呼吸が穏やかになったことを感じ取ると、透き通った声で静かに言い放った。

「…そんなに欲しけりゃ、あげてもいいわよ? 自由にしたらいいわ。どうせ助けを呼ぼうにも無理なんだし。でも、そんなことしたって、あなたの気持ちは収まらないわ…」
 身をよじり、片手で毛布の合わせ目を握りしめる。その手が自分の意志に関係なく大きく震えている。

「どういう…あ、そうか。そういうこと?」

 朔也が自嘲気味に笑い声を上げる。

「そうだよな、咲夜はあの男と宜しくやっているんだろうから、今更、何でもないって? …今時のお嬢様は怖いよな…純な顔してやってることは…」

「止めてよ!!」
 朔也の言葉に、咲夜の全身から怒りがこみ上げてきた。掴まれた片手を力一杯振りほどき、くるりと振り返る。
 バラバラに乱れた漆黒の髪が彼女に従うように緩やかにうねって広がった。

「そう言ういい方、許さない! …人を何だと思っているのよ!?」

 自分でもどうしてこんなに腹が立つのか分からない。でも、感情が止まらない。
 視線の先にいる朔也の表情も、咄嗟のことに戸惑いすら浮かべているようだ。
 
 さらに畳みかける。

「人のこと馬鹿にするのもいい加減にしたら? じゃあ、試してみなさいよ! …あなたのお好きなようにしたらいいわ! でも、そんなことをしても…空しさから逃れることはないはずよ。自分だけが不幸を背負ったような言動は慎んで欲しいものだわ…」

「咲夜…?」

 …朔也の姿がぼやける。でも慌てているのがよく分かる。

「…あなたが…お祖母様から受けていた愛情を疑っているのだとしたら…自分の後ろにいるもう一つの影をずっと愛していたと思うのなら、それが許せないのなら…それは私だって同じでしょう? 朔也のお祖母様があなたをすり抜けて、後ろにいる一籐木月彦を見ていたと思うのなら、…お祖父様だって…私じゃなくて…」

 声がかすれて、次の言葉が吐き出せない。そうだ、自分は泣いていたのだと初めて気付いた。咲夜は朔也の怒りの中に自分の心の真実を見つけてしまった。

 2人は…全く同じ立場にいた。

 必要以上に、他人眼からも異常なほどにそれぞれの祖父、祖母に愛された。でも彼らは遠い昔に深く愛し合い、男の使っていた偽りの名を…それぞれの血を受け継いだものに付けた。

 

「さくや」
 自分の心に響く懐かしい声。暖かく降り注ぐ…優しい日差し。

「さくや」
 頭に置かれた大きな手。慈しむようなぬくもり。

 その言葉を。特別な言葉を発するときに…彼らは何を思い、何を感じていたのだろうか?

 

「…咲、夜…」

 先ほどまでの怒りが朔也から消え去っているようだった。彼は目の前で泣き崩れているもう一人の「さくや」にゆっくりと言葉をかけた。

「咲夜…」

 言葉と共に、やわらかいぬくもりが包み込む…自分じゃない…自分とは違う、もう一つの、全く別の命。

「ごめん…」
 朔也が自分の胸に咲夜を抱き寄せた。ふんわりと2人の匂いが混じり合う。彼の胸の中で、咲夜が小さく嗚咽を上げる。すすり泣く声が胸元に響く。

「…逃げないで…朔也…」
 かすれながらもどうにか言葉を発する。同時に自分の心にも言い含めるように。

「最初は、そうだったのかもしれない…私たちは運命の子供だから。確かに私たちは…過去の彼らに似ていたのかも知れない。でも、そうじゃないよね? …代わりじゃないわよね…」

「そう…だな…」
 背中に回された手に力がこもる。でもそれは、怒り任せの先ほどまでのものとは違う。
 大切なものを包み込むような手のひらが、咲夜の髪の毛を優しく握りしめる。

「あのね、朔也」
 そう言いながら咲夜は顔を上げた。涙に濡れた黒目がちの瞳が揺らめきながら朔也を見つめる。

「私、お祖父様が大好きだったわ。お祖父様に愛されて…とても幸せだったと思うの。だからその思い出を信じたい」

 一度、言葉を切ると。視線を窓の方に向けた。外は相変わらず月の光に満ちあふれている。
 窓の格子の影が長く伸びて2人にかかっている。手を伸ばせば届きそうな光の源…でもそれは永遠に手が届かないほど遠いのだ。

 ゆっくりと、朔也の方に向き直る。瞳の奥が青く光って見える…懐かしい色だ。でも、それは祖父のものではない、朔也の色だ。

「朔也のお祖母様も…朔也が好きだったはずよ…。もしも、朔也の中でお祖母様が特別の存在なのだとしたら…それと同じ重みで、きっと愛してくれていたと思うの…。だって、朔也は朔也だもの…」

 青い光の奥に…自分の姿を捉えることが出来る。
 自分も、自分だと思う。いくら後藤家梓に似ていたとしても…自分は自分だ。一籐木咲夜として、この世に生を受け、生きてきた。

「でも…」

 そっと腕を伸ばして、ほのかに月の色を吸収した頬に自分の手を添えた。切ない感触が波を帯びて伝わる。自分の心も一緒に揺らぐ。

「それでも、違ったのよね。…私たちとは…全く違う存在として、あなたのお祖母様…梓さんとお祖父様…一籐木月彦は…繋がっていたのよ」

「繋がっていた…?」
 不思議な言葉を飲み込めないように、朔也が反芻する。

「50年という長い歳月に…何を思っていたのか、何を信じていたのかは想像するしかないわ。でも、心の一番大切な場所に…存在するその人が支えになっていたと思うの。お祖父様は…私のお祖母様のこともきちんと大切にしていたわ。その心に偽りはない…でも、梓さんは特別の人間なのよ。どうしてなのかは分からない…でも、私、今、これだけは分かる…」

 咲夜はにっこりと微笑んだ。朔也の肩越しに、彼女の顔に月の光が当たっていた。

 朔也は相変わらず、飲み込み切れない不思議な顔をしている。
 その表情が咲夜の心をゆっくりとほころばせる。

「あのね、私は…お祖父様の気持ちは分からない。どうして、大切な人を手放してしまったのか。守り通せなかったのか…。でもね、不思議なんだけど…梓さんの気持ちは分かるの…たとえばほんのわずかな時間でもいい、大切な人に愛されたいと思う気持ちは…嘘じゃない。だって、人を好きになる心は止められないのよ…?」

 その視線に反応して。朔也の表情もゆっくりとほぐれていく。
 何とも言えない瞳が自分の胸の中の咲夜を見つめ返した。

 頬に触れていた白い手に自分の手を添える。
 そっと握りしめて、口元まで持っていき、指先に唇を当てた。

「…僕も…」
 照れたような笑顔がまぶしそうに、咲夜を見つめる。

「おばあさんの気持ちは分からないけど…あいつの、一籐木月彦の気持ちは、何となく…分かる気がする…」

「そう?」
 咲夜は嬉しそうに応えた。その眼はまっすぐに目の前のもう一人の存在を見つめる。

「だって、もしも心から愛おしいと思える人に出会ってしまったら、目の前にそんな人が現れたら…愛さずにはいられないと思うから」

 背中に回っていた腕がすっと首に巻き付いてくる。息のかかるぐらいの距離に咲夜は抱き寄せられた。

「…逃げないの?」
 どこまでも、穏やかな瞳が優しく語りかける。

「どうして…? 逃げる必要なんて、ないじゃない?」

 涙の乾いた頬が心なしか紅潮している。

 誰か、自分以外の存在を慈しむ気持ち。包み込む様な愛が羽を広げて2人を歓迎していた。

 咲夜が静かに目を閉じる。その唇に、朔也の唇がゆっくり重なる。すぐにそれに反応する。応えを得た嬉しさが更に朔也の心を解放する。

「…朔也…」

「うん?」

 長い黒髪をかき分けて、白い首筋を探し当てる。宝物を見つけたようにそこにキスした。

 そのとき耳に届いた…咲夜の吐息混じりの声に応えて、朔也はその瞳を覗き込んだ。

「…ごめんなさい、呼んでみただけ」
 くすぐったそうな笑顔がすまなそうに答える。

「咲夜…」
 我が名を呼んだ愛おしい唇に重ね合わせられる、全ての想いと共に…。

 穏やかな、命を注ぎ合うような時間。
 

 閉じた瞳の奥に…あるはずのない吹雪の森がくっきりと浮かび上がってきた。

続く(011229)

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「赫い渓を往け」扉>9