「…お願い…?」 窓の外は季節を春へと移す、刹那の吹雪。 白いシーツがまぶしい。 必要以上にそれが無垢に輝くのは、雪明かりの見せる幻影か。 「そうよ、私たちが…これからちゃんと生きて行けるように…約束をしたいの。私のためにも、あなたのためにも…」 これが、昨日の夕方に自分の胸に飛び込んできたのと同じ娘だろうか? そんな気持ちが青年の心をよぎっていく。たった、1日という短い時間に彼女は全てを知り尽くした大人の顔に変わっている。 そう。彼はまだ、迷っている。 口では彼女の懇願に応じて、別れを告げているが、どうしてこの愛おしい存在を離すことが出来るのだろう…? 恋愛なんて、仕事の邪魔だと思っていた。出世のために縁組みを受けるのは当たり前だと思っていた…人を純粋に愛する気持ちなんて、自分の中にあると思えなかった。 それを、その閉じこめた感情を開いてしまったのがこの小さな身体に包まれた宝石のような心だ。確かに見目も美しい。最初に見たときは花の精かと思ったぐらいだ。この手に抱いて、テラスの手すりを超えた瞬間に、心までが飛び出していた。好きになるのに時間はいらなかった。 様々な想いが交錯する。そんな表情をくすくすと笑い声が包み込む。 「…50年たったら…ここにもう一度来ましょう。その頃なら、皆さんも私たちのことを笑って見逃してくださると思うわ」 「50年…? ちょっと、待ってくれよ? 僕はいくつになっていると思うんだい?」 「今、25なら…75歳でしょう? 私は…68歳かしら」 歌うように計算する。どこまでが正気でどこからが冗談なのだろう…? くすくすと笑い声に混じった湿り気のある声。彼女自身がどんなに悲しい決心で別れを切り出したのか、分かっている。 彼女の結婚する相手は、女性関係に今から周囲を騒がせている人間だという。彼女は愛されることはないかも知れない。自分だったら…大切にするのに。どんなことがあっても、悲しませたりしないのに。それでも彼女はその場所を選んだ。自分の腕から旅立とうとしている。 「君はともかく…僕は無理だよ。平均寿命を遙かに超えている、そんなに長くは身体が保たない…」 「駄目よ」 「生きていてちょうだい、私のこと、少しでも好きなら。…どこかで、あなたが生きていてくれると思えば、頑張れる気がする…でも、もう2度と会わない。50年後まで会わない…だから…」 そう言いながら、新しい涙が彼女の頬を伝う。思わず固く抱き寄せて、その濡れた頬に唇を押し当てる。生暖かい塩辛さが舌に触る。彼女は抵抗しない、されるがままに身体を委ねている。 「月彦様…」 「なんだか。その名前で呼ばれると…別人になった気分がする…」 「あら、嫌だ。こちらが本当のお名前なんでしょう? …忘れたの?」 泣き笑いの愛おしい笑顔がキラキラと輝く。離したくない、何よりも大切な人… 「何だか咲耶、と呼ばれた方が自分らしい気がする…君といた時間が、本当に生きていた時間だから」 「そう」 「では…咲耶、さま…好きよ、大好きよ…」 しっとりとしたぬくもりが身体に巻き付いてくる。こうなることが当然のように唇が触れ合う。舌を入れて探るとぎこちなく反応してくる…たった1日、でもこの人を永遠に知っているような気がする…ずっと前から、ずっと未来まで。どんな恋人同士も自分たちほどは激しく愛し合えないだろう。 もう。 吹雪の泣きわめく音も耳に入らない。ここにあるのは愛おしい人と自分の吐息だけ。愛を語る言葉だけ。
「さくや、さま…」 この言葉を、どうやって封印しよう…? どこまで隠し通せるだろう? いつか、誰かをこの名で愛おしく呼ぶことが出来たなら…
白の色が強くまぶしくなる。 眼を開けていられない輝く色…全てが無に還る…全てがそこから産まれる…
ゆっくりと。瞼が開く。まだまだ、薄暗い室内に凍った空気が浮遊する。うっすらと青白い帯になって空間を漂う闇。 咲夜は、軽く身じろぎして目をこすった。 もうひとつのほんのりとした体温が身体に寄り添っている。薄茶の髪が肩にもたれかかっていた。長いまつげが固く閉じている。 でも目覚める直前…なんだかとても…美しい夢を見ていた気がする。 毛布から身体を出すと、空気が身体に刺してくる。薄手の黒いワンピースの上はコートを着たまま。2人ともとりあえず着られるものは全て着ていた。凍えないように。 布地の上から伝わってくる…冷たい、というよりは痛い、と言う感覚。自分の発する白い息。身体を震わせながら、淡い光の差してくる窓際まで歩いていった。
大地から白い空気がわき上がっている。向こうにある渓からそれは産まれてくる。 「…まだ夜が明けなかった?」 背後からの声に振り返る。乱れた髪が彼女の回りをまとわりつきながら踊る。背中の半分くらいまで伸ばされたそれは好き勝手に色々な方向を向いている。 「朔也…」 うっすらと笑みを浮かべて見つめると、彼はくすぐったそうに微笑んだ。それから、ぼそりと呟く。 「…僕…、あいつに自慢してやりたい。自分の鉄の心臓に感動しているよ…」 「…え?」 頬を染めてぷいと横を向く。額にかかった前髪を無造作にかき上げる。17歳の彼の表情は年相応にあどけない。 「勝手に…先に寝ちゃうんだもんな〜。こっちは全然、眠れなくって…本当にどうしようかと思ったよ」 「そうなの…?」 「そうなの、って…咲夜…」 「あの状況で。何もかもが手に届くところにあって。で、相手が結構好みだったりしたら…やりたくなるもんなの、男は」 「ふうん…」 「…何だよ?」 「朔也って…一晩中、そんなこと考えてたんだ?」 彼はまっすぐに向けられてくる視線から逃れるように横を向いた。それから何ともばつが悪いように、言う。 「…お前って…、もしかして、生娘?」 「え?」 「な、何を言い出すのよ? あなた、女性の身体に触っただけでそう言うことが分かるの…?」 「…馬鹿。男の生態を知らなすぎ、ってこと…」 惣哉って奴に、心から同情する…そう言葉を続けようとしたが、止めた。その言葉を今、言いたくなかった。 くいくい、と…髪が引っ張られる。振り向くと、目の前で少女が笑っていた。花のような笑顔。昨日まで本当に別々に生きていたのだろうか? 「…キス、していい?」 そう訊ねると、何でそんなことを聞くの? と言うように眼が細くなる。長くて黒いまつげに覆われた瞳は細くなってもその輝きを失わない。 朔也は彼女をそっと抱き寄せた。目的の場所を唇の感覚で探る。吐息の漏れる場所…自分が行き着く場所。閉じた瞼の裏に白い空間が浮かぶ。雪の白…? それとも、月明かりの白? 「…咲夜…」 「試してみろって…言われたよな、何だか惜しいことをした」 胸に包み込むぬくもり。髪の香りも心地よい。咲夜の髪は漆黒なんだけど、どこかに甘い艶がある。艶めかしく誘う、赫い…。 「…時間よ」 「え?」 「私たちには、時間があるから。お祖父様たちには時間がなかったけど…私たちにはこれから先に時間があるの。きっとそれがあの人たちとの違いだと思うわ」 「時間、ねえ…」 胸の中に収まる咲夜にはその表情が見えなかった。ぼんやりと反芻しながら…ふっと、曇ったその瞬間を。 その時によぎったものを振り払うように、彼はかぶりを振った。 「…行こうか? 赫い…渓へ…」 目の前のガラス戸は外界との接点。じっとその先を見据える。 「そうね…」
「どこにいるんだか…見せてやろうじゃないか? 僕はあいつとは違うんだ…守ってみせる、最後まで」 昨日の夕まぐれ。林の中で聞いた言葉が、もう一度繰り返される。
「外、寒いわね…」 ふわふわと浮いた土を盛り上げる霜柱。落ち葉の堆積で柔らかな土壌になっているため、そこら中に白い輝きが見え隠れしている。東京暮らしではこうして霜柱を踏みつける機会も少ない。 咲夜は昨日のまま、朔也のバスケットシューズを借りていたが、その靴底であちこちに足跡を残していた。 「靴…汚れる…」 低く立ちこめたもやは白い固まりから、やがて帯へと変化して、それが解けて糸状になって2人の回りを漂う。 二人は別荘の建物を出て、渓沿いの細い道をゆっくりと右手に歩いていった。白い蒸気の向こうに谷底が見える。
「赫い…渓って、河の流れが赤いの? 何だか怖いわ…」 「赫い渓、というのは俗称なんだ。地元の猟師たちが使っている…ここは狩猟が盛んで…獲物の血で河の水も染まったんだって…」 「嘘…」 咲夜の怯えたような瞳に、朔也はおかしくてたまらないように笑った。 「嘘、冗談だよ…見てごらん? 河の水が赤いんじゃなくて…水底の岩が赤いんだよ。何だか有名な鉱石らしいよ…金銭的な価値はないんだけど、考古学的には何か重要な手がかりになるんだって。夏休みには色々な大学の学生が来ているよ?」 「なんだ…脅かさないでよ…」 「私、紅葉か何かが、舞い散って、赤いのかと思ってた」 その姿が朔也の心をほころばせた。自然に笑みがこぼれてくる。 「それじゃあ、夏に来たときには、赫い渓とは呼べないじゃないか」 「あ、そうか…」
…夜明けと共に渓へ往け。
遙か向こうに連なる山々の向こう側に赤く燃える空がある。頂きから麓に伸びる山肌が重なり合った場所…朝日がもっとも早く見られる地点。 「…ここ…」 「…どうしたの?」 その大きく見開いた眼に、頷いて合図する。 「ここ、朝日が一番きれいに見える場所なんだ。細い一本杉の根元…よく早起きしておばあさんと見に来た。あいつが言っていた言葉の…自分が立つべき場所はここじゃないかって、ずっと考えてたんだ」 「で…朝日は、あそこね…」 そのまっすぐに伸びた対角線上に…左右を横切る一本の道が存在した。 「あの吊り橋…」 「そうだな…真ん中より…いくらかあっち岸寄り…。どっちかがここに立ってないと正確な距離は掴めないな…」 「じゃあ、私が行くわ」 「でも…」 「私の捜し物でしょう? だったら先に行ってる。場所が確認できたら、後から追いかけてきて? 誘導してね!」 朝日が昇り始める…猶予はない。朔也が制するよりも早く、咲夜は走り出していた。 彼は仕方なくその場所に残った。 200メートルくらい先に行くと、吊り橋の渡り口がある。淡いピンクのコートがほぼ白く目に映った。太くて頑丈とは言えロープを張っただけの頼りない橋。その中央付近で雪ウサギのように軽やかな姿がゆっくり静止した。 「…朔也〜、この辺り?」 「もうちょっと…もう少し、前に出て…ええと…あと少し…」 朔也の元にキラキラ輝くオレンジ色の光の帯が差し込んできた。その帯が橋を渡る咲夜と自分とを一直線に繋ぐ。 「そこ、止まって! …何かある!?」 朔也の声に、彼女がきょろきょろと辺りを見渡す。…見つからないようだ。 一方、咲夜も揺れる吊り橋の上で格闘していた。ロープを絡ませた手すりにも、板を連ねた足場にもそれらしいものはない…大体が、どんなものかも知らされてないのだが…。 とりあえず、見える場所には何も変わったものはない。ふと思いついて、かがみ込んだ。 渓底までは目算で、ビルの五階建てくらいの高さがある。落ちたらまずは助からない。高いところが苦手な方ではないが、揺れる足場と相まって恐怖の心が高まる。四つん這いになって、下を見ないように橋板の下を探る。左手はしっかりとロープを押さえながら…。 がさり。 ようやく異質物が手に当たった。裏側からすくい取るように、橋板をきちんとくくったロープの間に挟み込まれて何かがある。右手を肩先まで柵のように縦に張られているロープの外に出して、慎重にまさぐると…どうにか外れて咲夜の手に収まった。 「何…?」 小さな普通郵便で収まるぐらいの大きさの真四角に近い封筒。 「CD−ROM…?」 朝日に向かって、掲げてみる。CD…のようであるが、なにやらマジックで表面に書いてある。一番奥はクッション材に丁寧に包まれていた。半透明の水玉の間からでは書き文字が良く読みとれない。 「咲夜…!」 「あったわ! …これ、何だろう…」
その時。
「ご苦労だったな。そこまでだ」 視線の先の朔也の歩みが止まる…咲夜の背後で、聞き覚えのある低い声がした。
それぞれの思惑を表現するように、橋が大きくうねった。 |