…11…

 

「…あなたは…」

 聞き覚えのある声に、底知れぬ恐怖の色があるのは何故だろう…?

 間違いであって欲しいと祈る気持ちで、咲夜はゆっくりと振り返った。

「…叔父様…」
 悲しいことに、彼女の予想は当たってしまった。

 橋の根元で立っている男…その人は咲夜の父の実の弟である、一籐木登次郎、その人であった。

 彼は確かに野心家ではあったが、いつもなら咲夜を見つめる瞳はもっと優しいはずだ。彼の口元は微笑みを浮かべていたがそれは友好の印などではない。ようやく獲物を手に入れようとしている、獣のものだった。眼が怪しく光る。

 そして…その手には、光るものを持っていた。

「…それを、こっちに渡すんだ! 子供が手にするようなものじゃない…全く、親父らしいな。こんなに回りくどいことをして」

「叔父様…どうして? これに、何が入っているの?」

 咲夜はまだ、橋板の上に腰を下ろしたままだ。恐怖の心もあって、容易には立ち上がれない。脚もガクガクと震えていて言うことを聞かない。そのままの体勢で、少しだけ後ずさった。

「咲…!!」
 橋が揺れて、背中から朔也の声が飛ぶ。登次郎の視線がすっと移った。

「来るな!!」

 辺りにドスのきいた声が鳴り渡る。

 朔也が足を止めたのは、それでもその声にひるんだわけではない。登次郎の右手に握られた大振りのナイフが咲夜をしっかりと捉えていたからだ。

 朔也の歩みが止まったことを確認してから、登次郎はゆっくりとその肥えた身体を揺らしながら、一歩ずつ歩き始めた。そして、あくまでも穏やかな微笑みで言い放つ。

「ここは…三月から禁猟区なんだ。銃声がすると、誰かに気付かれる…穏便にコトを済ませるにはこういう道具が必要なんだ…」

 そう言いながら光るものをかざす。その手は少しも震えを見せず、むしろ楽しんでいるようだ。その仕草に、咲夜は暁彦…この叔父の実の息子…の姿を見た。

「頭取…親父は…俺の金の流用に気付いていた。しらばっくれると、こっそりと情報を収集した…でも奴は先が長くない、医者は年を越すのがやっとだと言っていた。だから俺の計画は完璧に貫るはずだったんだ…」

「よこせ…」

 浅黒い手が空を切る。咲夜はしっかりと両手に持ったものを握りしめた。

「よこせって、言ってんだよ!! このアマが…!!」

「きゃあ!!」

 ざく!!

 次の瞬間、咲夜の右腕が血で染まっていた。深く切り込んだ刃は太い血管を切ったらしい。血の流出が早い。 CD−ROMが咲夜の背後に飛んだ。

「そこをどけ…」

 尚も登次郎の手に光るもの。

 咲夜の血潮をたっぷりと塗りつけた、鮮やかな赤を滴らせている。それが自分の仕立ての良い背広にかかっても気にする様子もなく、尚もにじり寄ってくる。

「嫌よ!! …どうしちゃったのよ、叔父様!! 目を覚まして! 何なの!?」
 咲夜は痛みをこらえて必死に叫ぶ。

 朔也は…自分が近づけば、咲夜の身に危険が及ぶと思うと歩むことも出来ない。あのナイフが…もしも急所を一刺しすればひとたまりもないだろう。

 目の前の男はそう言うことを容易にやってのけるような、恐ろしさを漂わせていた。

「…眼を覚ます…? 俺の目は最初からちゃんと開いているがね…お前の父親は凡庸な奴だ…どうにでも言い含められる。もう、この先は親父の言いなりになることもない…どうだね、お前は…暁彦と一緒になって一籐木を盛り立てるんだ。東城の小せがれなんて眼じゃない…お前は、一籐木咲夜だ。お前には一籐木を支える義務がある…」

「叔父様…!!」

 じりじりと寄ってくる恐怖の波。人がようやく一人通れる橋だ。咲夜がどかなければ登次郎にCD−ROMは取れない。

「東城の親子の方はちゃんと監視を付けて置いた。あいつらは親父の一番の側近だったからな…今日の立ち入りに向けて、何かをやらかすんじゃないかと思っていた。だが…まさか、お前が鍵を握っていたとはね…それも他の男をたらし込んで…いいご身分だよ、お嬢さんは…」

「叔父…」

「ならば、仕方ないな…!!」

 登次郎の手にしたナイフが…まっすぐに咲夜に降りかかった。思わず、目を閉じる。至近距離では逃げることも叶わない…もう駄目だ、そう思ったとき…

 にわかに…山の頂から、一陣の突風が吹き込んできた。橋はまるで頼りない紙で出来ているように…大きく揺らぐ…

「う…うわっ!!」

 目の前の登次郎がバランスを崩した。そのまま、大きな体が橋の柵になっているロープを飛び抜ける…

「叔父様…!!!!」

 咲夜の叫び声をかき消すような…恐ろしい絶叫と打ちのめされるような水音が…重なり合うように、辺り一面に響き渡った。


 

「…咲夜!!」

 辺りに静寂が戻った。さらさらと河の流れが耳に入る。日の昇った辺り一面は急に輝きだした。

「ごめん…咲夜、…」

 背後から駆け寄る音がする。でも振り向けない…どうしてなんだろうと考えた彼女は、自分の右手が石のように重くて冷たいことに初めて気付いた。

「咲夜…腕…」

 どくどくと波打つ音…登次郎の付けた傷から、止めどなく滴るもの…

「朔也…」
 すぐ後ろに声を感じて、ゆっくりと寄りかかる。頭も重く、目を開けているのも億劫だ。

「おい!? …咲夜? …咲夜ってば…!!」
 吸い込まれそうな深みから、引き戻される。

「う…!」
 感覚を失ったはずの腕が、痛みを訴えた。

「待てよ…止血…!!」

 朔也が咲夜の右腕の付け根の辺りをコートのベルトでしっかりと絞めた。血液が腕に行かなくなる。更に重くなる…

「朔也…あの…叔父様は…」
 消えていきそうな意識の中で、登次郎叔父の断末魔が耳に残る。

 朔也はそっと目を伏せた。

「渓に…この高さじゃ、助からない…」

「そう…」
 朔也の体温が心地いい。このまま眠りに入ってしまいそうだ。

「駄目だ、目を閉じたら…どうしよう、助けを…奴の車の中に何かないかな…」
 朔也は慌てて、身を乗り出した。かろうじて動いた咲夜の左手が服を引いて制する。

「…行かないで…」

「馬鹿!! お前、死ぬぞ? …早くどうにかしないと…」

「行かないで…ね、側にいて…」

「咲夜…」

 消えそうな微笑みが朔也に訴える。浮かせた腰をもう一度落ち着ける。吊り橋はかすかにきしみの声を上げた。彼は咲夜の腕を気にしながら抱き寄せた。

「ごめん…守りきれなくて…」

「ううん…」
 声を発するのも本当は辛い。短く言って、目の前の人を見つめた。

「ごめん…本当に…」
 茶色いまつげ…しっとりと伏せられる。自分を抱える腕が震えていた。

 ああ、もう駄目だ。意識が遠のいていく…

 ぬくもりの中に落ちていくように閉じていく瞼と共に…咲夜の意識もそこで途切れた。

 

 

 まどろみ…真っ白な空間。

 

 そこは全てが始まる空間…。

 流れるような空気がだんだん晴れてくる…

 

 …さくや…
 誰? 私を呼ぶのは?

 …さくや…
 遠き記憶の彼方から響いてくる音色…

 

 暖かなぬくもり…それが男の声であり、女の声になる。


 

 導かれるように、瞼が開いた。白地の天井が見える。どこだろう、ここは…?

「…咲夜様!」
 ふわりと。自分の左の手が握られる。暖かくて控えめな…力。

「惣哉…さん…?」
 頭が重い。沈んでしまったように上げることが出来ない。首だけゆっくりと回す。

 ようやく視界に入ってきた惣哉の顔。変わらない穏やかな瞳が涙で濡れていた。そこから溢れたものが頬を伝っていく。

「良かった…」
 そのまま視線を落とす…安堵の気持ちが握られた手のひらから伝わってくる。鼻をすすって片手で涙を拭った彼は、もう一度、眼鏡をかけ直すと咲夜を見つめた。

「どうして…? 惣哉さん…」
 彼がどうして泣いているのか、分からない。どうにか身を起こそうとした瞬間、右手全体に激痛が走った。

「…痛い…!」

「あ、いけません…今、主治医を呼んで参ります。幹彦様やお母様にもすぐに来ていただきますからね…」
 惣哉は身を乗り出すと、咲夜の身体をベッドに収めた。乱れた髪が自然な手つきで整えられる。

 今までと全く変わらない彼の流れるような仕草に咲夜は心のどこかで違和感を覚え始めていた。

「惣哉さん…私…」
 だんだん記憶が戻ってくる。吊り橋の上、登次郎叔父…そして…。

「咲夜様…あなたは10日間も意識が戻らなかったのです。でも発見が早かったので…腕の方も切断を免れました…新学期には無理ですけど、5月の連休明けには元通りになられますよ…」
 惣哉が言葉を選んでいるのが、何となく分かる。

「…発見…? ねえ、朔也? 朔也が人を呼んでくれたの?」

「…え…?」
 なにやら分からない、と言った視線が咲夜に届く。

「朔也…どなたです? …お嬢様はお一人でいらっしゃいましたよ? 発見してくださったのも駐在所の人です。どうしたんですか? …大丈夫ですか…?」

 嘘を言っている様子はない。あまりに心配を掛けてしまいそうなので、咲夜はそれ以上のことを訊ねるのを止めた。

 

 その後、主治医が来て、細かな診断が行われた。現頭取である父・幹彦と頭取夫人である母も忙しい業務の中を駆けつけてくれた。まだ、面会謝絶の札のかかる病院の特別室の中で…ものを考える暇のない位の数日間が流れた。

 

 

「…登次郎様には…本当に残念なことでした…」

 昼下がりのまどろんだ病室。ベッドごと身を起こしてすっかり春めいた窓の外を眺めている咲夜に、背後から惣哉が声をかけた。

 脱税の画策を裏で指示していたのが登次郎叔父の一家であった。穏やかな性格の兄・幹彦につけ込んで、あくどいことを平気でやってのけた。ことがあからさまになっても言い逃れようとしていたらしい…

 渓底に落ちた彼は即死に近い状況だった。揺れた橋でCD−ROMごと落下したのだ。CDも粉々になった。しかし…実は、東城家の惣哉とその父親の元には証拠が握られていた。月彦は登次郎の眼を咲夜に向けさせて、その隙に彼の悪事の全てを公にしようとしたのだ。

「…おとりに…されるなんて。お祖父様もお人が悪いわ…」
 咲夜は…そう言いながらも怒った様子はない。首をすくめてくすぐったそうに笑った。

 それが惣哉の眼にまぶしく映る。

「まさか。お嬢様を単独で行動させるとは…このことについては私も聞かされてはおりませんでした。…分かっていたなら…行かせはしなかったのに…」

「惣哉さん、私は…」

 単独行動、と言う言葉が引っかかる。そんな咲夜の訴える瞳に惣哉は困ったように反応した。

「お嬢様」
 言葉を遮るように、少しきつい口調で彼は言った。

「…何度も申しましたでしょう? お嬢様はお一人でしたよ…そのような…お嬢様と同じ名の者がいたなんて誰も見ていないし、知らないんです。多分、ショックから、意識が飛んでいらっしゃるんですよ…」

「でも…」

 惣哉の言葉の方が信じられない。

 自分は一人で発見された、朔也の姿はどこにもなかった。

 咲夜は一人で渓に往き、登次郎に切り付けられてもみ合ったが一命を取り留めた…。

 そんなことが信じられるだろうか…。

「…咲夜様…戻ってきてください…」

 部屋には人影はない。夕方の検温までは2人きりの空間だ…惣哉のぬくもりが咲夜の背中を包み込んだ。

「惣哉さん…」

 すっかりなじんだ外国製のコロンの匂い。決して自己主張しない、惣哉本人の様な香りだ。胸の前で組まれた腕の片方に誕生日に贈った腕時計が揺れる。

 しかし…咲夜は気付いていた。全く別の感情を。こうして恋人の腕の中に包まれていても満たされない心。惣哉が変わったのではない、自分が…明らかにあの日を境に変わってしまったのだ。

「お願いします…咲夜様…早く、元の通りに…」

 首筋にまとわりつく吐息。頬を伝って咲夜の唇を探る。何度も触れ合った角度で自然に吸い付いてくる優しいぬくもり…でも、咲夜はそれを静かにすり抜けた。

「…ごめんなさい…」
 身をよじると。咲夜はそっと向き直った。

 呆然とした表情の惣哉が自分を見つめている。そうだろう…何の前触れすらなく、ある日を境に態度が急変したとしたら…驚かない方がおかしい。咲夜自身も戸惑っているのだ。

 悲しみをたたえた瞳で惣哉を見上げる。そして、言おうか言うまいか…目覚めてからの数日間、ずっと心に留めていた言葉をようやく吐き出した。

「お願いがあるの…人を捜して欲しい、後藤家朔也と言う人間を…」

「咲夜様? …まだそんなことを…」
 
 尚も食い下がる惣哉にゆっくりとかぶりを振る。

「惣哉さんの…人脈を使えば…人捜しぐらい、訳ないのでしょう…? こんなこと、あなたに頼んじゃいけないと分かってる、でも…彼に会いたいの…」

 咲夜の眼から涙が溢れ出た。

「…彼が会いたくないと言うなら、仕方ないわ…でも、どうしても会いたいの…」

「…咲夜様…」

 ぱさり。

 ベッドのサイドに置かれたテーブルに、書類の束が置かれた。

「…惣哉、さん…?」

 心をなくした眼が、その書類を見下ろす。そして静かに告げる。

「もう…調べは付いてます…。でも後藤家自体は…事業に失敗した後に跡取りがなく、家そのものがなくなっております。…末裔は地方に残っているそうですが、咲夜様のお話に一致する人間はおりませんよ…」

「嘘…」

 惣哉が調べてくれたのだ、間違いなどないだろう。

 でも…それでは、あれは? 彼は確かに後藤家朔也と名乗った。

「じゃあ、あの別荘は? 後藤家のものだったのでしょう…?」

「それも…もう何10年も前に人手に渡ってます…後藤家のものではありません」
 咲夜の言葉を待っていたかのような即答。

「嘘よ…だって、朔也は、いたのよ? …ちゃんと私と一緒にいたのよ? …どうして…」

 惣哉の渡してくれた書類には。梓の名前もなかった。ショックのあまり、そこまで聞く気にもならない…梓のことすら嘘だったのか…嘘と言うより…初めから存在しないことだったのか?

「嘘よ…嘘よ…嫌! 嘘だと言って!? …惣哉さん!」

 惣哉は何も答えない。

 泣き濡れる咲夜に触れることすら出来ないように、悲しくそこに立ち尽くしていた。

続く(011230)

<<    >>


「赫い渓を往け」扉>11