若葉に覆い尽くされた中庭が季節の流れゆくさまを否応なしに見せつける。木々は大きく広がった枝から力強い鋭気を放っている様だ。 心地よい風が吹き込む窓から、毎日眺め続けた風景を見下ろす。少し名残惜しい気がした。
朝食の後、家に出入りするなじみのお手伝いさんが来てくれた。 「本日はご主人様と奥様がお戻りになるそうです、今夜はお嬢様のお好きなものをお作り致しますね」
…両親も気遣ってくれているらしい。
ここに運び込まれたのは3月の始め。もう5月に入ったのだから約2ヶ月もの間、入院していたことになる。もっとも入院が必要だったのは1ヶ月ほどで、その後は自宅療養でも良かった。しかし、家族が留守がちな上、あのような事があった後だ。自宅の回りにも色々人が張っているらしいので、かえって気疲れすると病院にいることにしたのだ。 連休明けからは学校に戻れる。春休みを挟んで2ヶ月のブランクは大きいだろうが、幸い惣哉が暇を見ては家庭教師役をかって出てくれたので助かった。多分、咲夜の学力から考えて、授業には支障なく付いていけるだろう。
「…遅くなりました、もう御支度は宜しいでしょうか?」 「はい、大丈夫よ」 「お支払い等は済ませて参りました。お荷物はこちらで全部ですか?」 惣哉は少しも変わらずに側にいてくれる。当たり前のことなのに、咲夜はとても心苦しい気がしていた。 咲夜が惣哉を拒否してから、彼は二度とそう言った行動に出ることはない。ボディーガードとしての立場を静かに遂行していた。 「どうです…? 右手は。やはり、しびれますか?」 切なそうな瞳が咲夜に向かう。心配を掛けないように微笑みを浮かべて答えた。 「…ええ。やはり左手を使う練習がいるみたいね」 切断こそは免れたものの、登次郎叔父に深く切り込まれた腕はやはり元の通りには動かない。リハビリはしたものの、完治は出来ないと言う。 咲夜の答えに惣哉の表情が歪む。彼は未だに咲夜から目を離してしまった自分を悔いているのだ。
あの日の登次郎の呼び出しも罠のひとつであった。ああして惣哉を咲夜から引き離し、息子の暁彦を墓地へと赴かせる。そこで何か間違いがあろうと…いや、そうあった方が好都合と言うものだろう。咲夜を息子の妻として迎えることが出来たらと親族の人間は皆、内心しのぎを削っていたのだ。登次郎の息子である暁彦はその筆頭であったと言えよう。 暁彦は墓地にいた女に暴力をふるい、怪我を負わせたと言うことで警察に拘束された。その後、登次郎があんな結果になり、半狂乱になっているという。惣哉も何度か留置所に足を運んだそうだが、話にならなかったらしい。負傷した女性の方も同様で、失明しかかった上、今は精神科にいるという。咲夜に刃に向けたことで警察にやっかいになることは間違いないが、まだ病院から出られる状態ではない。
「気にしないで、惣哉さん。命が助かっただけで、幸いなのよ…お父様もそうおっしゃっていたわ。確かにしびれるけど、全然動かない訳じゃないわ」 少し小首を傾げて、惣哉の顔を覗き込む。すっきりとした表情。彼はそれを見たとき、どこか不思議な気がしていた。
入院している間…咲夜は深く沈んだままだった。見舞客のいるときは明るく振る舞っていたが、一人になるとただ呆然と窓の外を眺めるのみ。惣哉の問いかけも聞き落とすほどだった。
「あらかじめ、お伝えしなくてはならないのですが…明日は私、午前中に外せない用事がありまして、お嬢様を学園までお送りすることが出来ません。申し訳ないのですが…どなたかを…」 こんな事は言いたくなかった。しかし、やむを得ない。惣哉は絞り出すようにそう告げた。 「あ、ならいいわ。私、自分で学園まで行ってみるから…」 病棟の廊下に咲夜の明るい声が響く。背中で聞いた惣哉はびっくりして振り返る。 「とんでもありません! 何て事おっしゃるんですか? もしもまた、何かあったら…」 「平気よ、もう特別扱いはしないで。電車にだって、バスにだって一人で乗れるわ。本当は定期、と言うものを買って、ずっと通学しても良いのだけど…それじゃ、惣哉さんのお仕事がなくなっちゃうわね」 くすくす、軽い声が響く。惣哉の目の前にいる少女は陰りひとつなく楽しそうに笑っていた。 「…お嬢様…」 「ご冗談でも止めてください。この不景気に、再就職も出来ないですよ…社内でも余剰人員の削減計画が出ています。登次郎様の扱っていたリゾート部門は実質的に閉鎖になってしまうのですし。私を路頭に迷わせる気ですか?」 「そうね、それも可哀想だわ」
…朔也は自分の前から姿を消した。 でも彼が実在しない人間だとはどうしても思えない。朔也はほんの一日足らずの間であったが、紛れもなく一緒にいたのだ。この手で触れることも出来たし…それに。 背中を向けたまま前を歩く惣哉に気付かれないように、そっと左手を耳にやる。指先が必要以上の熱さを感じ取っている。 どうしてなのか、自分でも分からない。 大体、出逢うこともなかったような人物なのだ。咲夜の生涯の中で朔也に会わずに過ごしたことで何ら支障はなかったはずだ。 それでも…。 朔也はたったあれだけの時間に…咲夜の心の全てを捉えていた。見えないその手のひらで心臓ががっちりと掴まれているように、彼のことを考えただけで胸が苦しい。耳が声を覚えている。手のひらが体温を覚えている。…甘い香りも包む腕の力も。 当たり前のようにその存在を受け入れたいと思った。惣哉のことすら忘れていた。 探したい、と思った。 惣哉の調べてくれた資料からは何の手がかりも得られなかった。でも、同じ時代に生きている人間なら…いつか再び巡り会えるかも知れない。心で強く念じれば、…そのためにも自分の足で出来るだけ歩きたいと思った。 今まで。 祖父・月彦に、そして惣哉に。
(…どこかで、必ず元気でいてくれたら。) 誰かの声が耳元で響く。知らない声…なのにとても懐かしい声。 (あなたのことを想うだけで、私はきっと生きていける…。) 降り注ぐように、咲夜を包み込み、支配する。 愛するという気持ち。ただ一人の人間をひたすらに思い続けるという気持ち。溢れ出てくる希望。
「おばあさんは、いつも楽しそうだったよ」 「僕には信じられなかった。TVで月彦の姿が出てくることもあっただろうに、平然としていた。立ち振る舞いも姿もお嬢様なのに…地道に生きているのが不思議だったな…」 そう言いながらも彼の口調から、昨晩までの憎しみの色が消えていた。だんだん明るくなっていく風景の中でゆるやかに薄茶の前髪が揺れる。 「少し…羨ましいかも」 「羨ましい?」 「咲夜は、おばあさんの様な生き方をしてみたいって言うの?」 「そうじゃないんだけど…」 その時は上手に説明できなかった。でも今なら分かる。 憎むことなく、責めることなく…悔やむことなく。ただ一度の愛を静かに想って生きていたのだとしたら。 「どうしたの? 感傷的になっちゃって…」 (…どうして、出逢ってしまったのかしら…?) (後悔してるの?) (ううん…感謝しているの…) 心の声に反応して、胸の中で少し身じろぎした。腕の力が少し緩む。 束縛を解かれた頭を上に向ける。朔也の顔を覗き込んだ。 「朔也…」
「…さくや…」 微かな音でその名を呟く。自分の名を、そして…同時に愛おしい人の名を。 きっと、きっと…会えるはずだ。 廊下の窓越しに溢れるばかりの五月が微笑む。咲夜も応えるように微笑みを返した。
「…本当に、大丈夫なの? 咲夜…やはり、及川さんにお願いしましょうか…?」 玄関先まで見送ってくれた母親が、心配そうに言う。今朝、何度目の同じ言葉だろうか? 及川さん、とは母親専属の運転手だ。今日は母が出かけないので非番であるが、三軒先の家に住んでいて、呼べばすぐに来てくれる。 喉の奥で微かに笑い声を上げて、咲夜は笑顔で答えた。 「お母様…言ったでしょう? 私はもう大丈夫よ…たまには自分で登校してみたいの。…時間もたっぷりあるんだし」 「咲夜…」 母親は咲夜と良く似ている。彼女は母親似なのだ。咲夜は自分に良く似た瞳が観念したように揺らめくのを静かに見ていた。 「じゃあ、行って来ます!」 ドアを開けるのも左手だ。やはり右の手は自由に動かない。 外に出ると心地よい風にセーラーのスカーフがふわりと揺らめいた。短めのスカートも柔らかい波を描く。 長い石畳のエントランスを軽い足取りで進む。ようやく玄関まで辿り着いたとき、ふと足を止めた。
息を呑む。 大きく目を見開いたまま、言葉を失った。
「やあ」 「…そ、どうして…」 「お嬢様が今日から登校されると聞いたので、お迎えに上がりました」 そんなふざけた行動すら、咲夜にはすぐには反応することが出来ない。 「お迎えって…あの…」 よく見ると。彼の制服は咲夜の通う学園のものだ。 でもまさか…こんな人間は今まで会ったことはなかったはずだ。幼稚部からエスカレーター式の学園である。外部から新しい人間の来ることは稀で、みんな顔見知りだ。咲夜だって同じ学年の生徒は違うクラスであったとしてもフルネームで呼ぶことが出来る。 「わわ、…ちょっと待てよ、泣くなよ。どうしよう…咲夜ってば…」 慌てる姿がぼやけて歪む。慌てふためいている彼と自分の間には腰の辺りまでの高さの通用口の扉がある。 扉越しに身を乗り出してきた彼の胸に顔を埋めた。 「…もう、会えないのかと思った。どうして…あの…あなた一体…」 首にするりと腕が回る。上半身を引き寄せられると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。 「惣哉さんが…後藤家と言う一族はもう残ってないって。あなたにあてはまるような人間は末裔にもいないって…ねえ、あなたは一体、…誰なの?」 「ごめん、ちょっと嘘付いた」 「…嘘?」 その言葉に思わず顔を上げた。 「三鷹沢、朔也…って言うのが本当の名前」 「三鷹沢? …あの、後藤家って言うのは?」 すると、朔也は前髪をかき上げて、照れたように横を向いた。 「おばあさんは勘当されたときに、後藤家とは縁を切っているから。母親方の親戚筋の家に養女として入っているんだ。おばあさんは、片岡梓…で、僕は母の嫁ぎ先の…三鷹沢。仰々しい姓だけど、普通のサラリーマンの家だよ。でも…咲夜と会うときは、どうしても、後藤家を名乗りたかったんだ」 「はあ…」
「…あの。もしかして…惣哉から話を聞いていない? あいつ、どういうつもりなんだろう…」 「え…?」 まさか…。 「惣哉さんって…みんな知っていたの? 知っていて、私に、何にも教えてくれなかったの!?」 「あいつ…穏やかそうな顔して…性悪…」 朔也がそう呟いたとき、別の方向から声がした。
「息子のことを、性悪呼ばわりされて…聞き捨てなりませんね」 「おじさま!」 「げ、おじさん!?」 二人の声が同時に通りに響きわたる。 駐車してある自分のベンツの前で…惣哉の父である学園理事長が腕組みをして立っていた。
「…ねえ、おじさま。この道じゃ、学園と反対方向よ?」 結局。二人は学園理事長の車に乗せてもらっていた。 「お分かりになりますか…?」 「今日は、お二人に自主休講して頂きます」 「え?」 「ちょっと…おじさま、私は復学初日なのよ? ご冗談でしょう?」 「お嬢様」 「これは学園理事長の私が決めたことです。…お元気になられたことを早く、ご報告に行かれた方がいいと思いますよ」
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