まばゆいばかりのシャンデリアが高い天井から何十と吊り下がっている。 その片側、オフホワイトに塗り込められた壁はたっぷりとドレープがかかった布が掛けられている…光沢のある深い織り。どこか中世ヨーロッパの香り。 部屋中に生演奏のクラシックが流れる。それに合わせてきらびやかに着飾った紳士淑女がゆっくりとステップを踏んでいた。 …つまらないなあ… 言葉通りの「壁の花」…広間の隅っこに身の置き場もなくもたれかかって、梓(あずさ)はため息を付いた。 視線の先を遮っていく女性たちはゆったりとしたドレス…細身で体の線に沿って流れる七色の薄布。着物から洋服へ…待ちゆく人の服装も戦後、塗り替えられるように変わった。梓の通うミッション系の女子高校の制服もセーラー服だ。 …やっぱり、子供っぽかったな。 自分の服装に視線を移す。深紅のドレスは大きく袖が膨らんで、ウエストで花のようにふんわりと広がっている。胸元にはドレスと共布で作られたバラがぐるりと飾られていた。二の腕の中央ですぼまっている袖口からは丁寧に編まれたレースの飾りが覗く。髪は緩やかにウエストまで届く豊かな漆黒。その一房を頭の上で束ねて、大きなリボンを付けていた。 「…お嬢様は、この方がお可愛らしいです!!」 …可愛いより…大人っぽくなりたいのに…。 「梓、こんな所にいたのか?」 「…お兄様…」 彼は両手に持っていたシャンパンのグラスの片方を、渡しながら静かに言った。 「今日は…高倉様はいらっしゃらないそうだ」 「…え…?」 「仕方ないだろう、…まあ、お前もようやくお顔を合わせることが出来ると思ったんだが。彼は有能な実業家だ、お忙しいんだよ」 「じゃあ、…私はもうここにいても仕方ないですね。家に戻っていいでしょう?」 初めて出席した夜会は知り合いもいなくて、本当にどうしたらいいのか分からない感じだった。それでも高倉様がいらっしゃると聞いたので、こうして出てきたのだ。 訴えるように兄の顔を見上げたとき、向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。 「あらあ〜梓さん。…お人形さんのように着飾られていて、今日は一段と可愛らしいですわ。このたびは高倉様とのご婚約、誠におめでとうございます」 女は襟元にキラキラした飾りをたくさん付けた濃紺のドレスを優雅に着こなしてきた。ここにいる他の淑女たちと同様の胸からのゆったりとしたドレープ…ギリギリまで開けた胸元から、こぼれそうに豊満な胸を強調する如く兄にすり寄ってくる。 「美智恵様…ご無沙汰しております」 「あらあら、その様にかしこまらなくていいのよ。もう、半月後にはあなたのお姉様になるんですから…本当にこんなに可愛らしい妹さんで嬉しいわ…」 仰々しい付けまつげに、ワインレッドの口紅。大きくカールされた長い髪…同性の梓から見ても息を呑むようなナイスバディ…反らしたくても、ついつい目がいってしまう。 梓はどうしてもこの女性を好きになれなかった。 「ねえねえ、早く踊りましょうよ。鷹暁(たかあき)様…」 「あの…お兄様?」 「私、もう帰っていいでしょう? 安浜さんを呼んでちょうだい…」 「…梓」 「迎えは2時間後に来ることになっている。こういう場では誰と踊ってもいいんだよ? …お前もそろそろ公の場に慣れて行かなくてはならないよ、…分かるね?」 「はい…」
…つまらない… でもどうにか時間を潰さなくてはならない。
大日本帝国…その名を掲げていた栄光の日々は去っていた。戦後、米国の占領下に置かれて不自由な生活を強いられた。梓の家も与えられていた華族の称号を剥奪された。華族、とは言っても梓の家…後藤家(ごとうけ)は階級は下の方になる。そうは言っても祖父や父の手腕により、着実に伸びてきた家だった。 焼け野原だった街に活気が戻ってくる。次々と百貨店デパートが再建されていく。その建築に融資を行い、大株主になり…後藤家は頭脳と足を使って、戦後の基盤を整えていた。 長兄の兄の縁談も大銀行の孫娘、と言うことで美智恵に決まった。梓にしてもそうだ。産業界きってのやり手と言われている高倉との縁談はその全てを父が取り仕切っていた。婚礼の当日まで顔も知らない、と言うことがまだまだまかり通る世の中…梓は半年後、女子高校を終了したら嫁ぐことになっている高倉のことを何も知らされていなかった。顔すらも見たことがない。 「女の方から、その様なこと…はしたないですよ」
テラスの手すりにもたれかかって…遠く、生演奏を耳に捉えながら月を眺めている。 「…何をしているの?」 「どうしたの? 踊らないの?」 ひんやりと夜のとばりが降りたテラスには自分以外の人影はない。広間に続く窓の付近にも気配がない。シャンデリアに照らされた屋内は切り取られた異世界のようだった。 「こっちだよ」 「……!?」 梓は息を呑んだ。 地面より高く造られたテラスの下の茂み…声の主はいた。月の光に照らされた長めの髪は明るい茶色…あまりお目にかかったことのない色だった。ほとんどの日本人は黒髪だ。大衆の中にいたらこの人はどんなにか目立つだろう? 肌は透けるように白く、まつげもその下に隠された瞳も明るい色だ。色素が薄いのかも知れない。細身ですらりとした体躯…身長の程は上から見下ろしているので確認できないが…。 …月の…化身…? 本当に月の光が見せた幻影のようだ。梓は言葉が出なかった。 「…見下ろしていないでさ、下においでよ。綺麗だよ、ここ」 「…こんな所から…どうやって行けば宜しいんです? 無理ですわ、怪我してしまったら困ります」 日頃、見ず知らずの人間に声を掛けることなどなかったが、少年の瞳に見入られると自然に警戒心がなくなっていた。自分の胸元まであるテラスの手すりを前に梓は困ったようにぼやいた。 「…では」 …すたっ…! ひらりと弧を描くように…大きく飛び上がった人影が手すりを悠々と超えてきた。 「……!!」 思ったよりもさらに身長が高い。兄の鷹暁も長身の部類だが、それよりも…いくらか上背がある。 …正直。庭から声がしたので、庭師かその子供だと思っていたのだ。 「お連れ致しましょう…」 「え…?」 何が起こったのか…瞬時には分からなかった。 ふんわりと深紅のドレスごと、梓は月明かりの空間を舞い上がった。 「…はい、地上に到着」 …抱きかかえられている。そして、いつの間にかテラスは遙か見上げる所にあった。 しかし、耳に届く微かな生演奏がここが現実の世界であることを告げていた。 するりと腕が解かれ、梓のダンス用の靴は地に着いた。 「…あなたは、だあれ? パーティーにいらしたのに…どうして、こんな所にいるの?」 梓の問いかけに反応して、彼はゆっくりと微笑んだ。まるで梓の声が聞けることをとても嬉しいと言うように。 「君だって…ひとりでどうしてテラスに出ていたの? 半袖のドレスじゃ、寒かったでしょう?」 「…あ…?」 彼は微笑むとさっと自分の上着を脱いで肩に掛けてくれた。すらりとしているとは言っても、梓よりはずっと肩が広い。包み込むような優しい香りが鼻をくすぐった。 「…僕は、一条、咲耶(いちじょう、さくや)」 「…一条…様?」 「君は聞いたことがなくて当然だよ。東北の田舎の出なんだ、今は親戚の家に居候の身。今日も友人に誘われたんだけど、気後れしちゃって…で、一人で月見してたんだ」 「そう…なんですか?」 「月は田舎も、ここも同じだから。なんだか、ホッとしたな」 「まあ…」 「僕の田舎は菜種油の産地で。春はあの唱歌の通り、一面に黄色の海が広がるんだ。そこに月が昇る…本当に夢のような情景で…」 うっとりと遠くを見るような横顔が月明かりに浮かび上がった。こんなに綺麗な顔を今まで梓は見たことがなかった。まるで美術館で見た西洋の画家の宗教画のように…。 「あ、ごめん。こんな話は面白くもないね」 咲耶が急にこちらに向き直ったので、梓は慌てて目をそらした。…とんでもなく恥ずかしかった。殿方をこんなにまじまじと見つめてしまうなんて…お母様が知ったらどんなにか嘆かれることだろう。 「…そ、そんなことはありませんわ…」 「私…菜花は学校の花壇でしかちゃんと見たことがないんです、でも可愛らしくて好きな花ですわ。そんなにたくさん咲いていたらさぞ、綺麗でしょうね」 「…嬉しい…」 梓の左肩にふわりとぬくもりが置かれた。驚いて顔を上げる…その正体は、咲耶の頭だった。あまり重みを掛けないように、梓にもたれかかって瞳を閉じていた。綿毛のように柔らかい髪が梓の頬をくすぐる。 「田舎から出てきて。…何だか都会の空気には馴染めなかった。もっと早く、君みたいな人に出会いたかったな…」 …こ、これはさすがにまずい行為ではないだろうか…? 梓の身体は硬直した。嫁入り前の娘が見知らぬ殿方と並んでいるだけで大変なことだ。その上、会話までして…そして…。それなのにどうしてもこの状況から逃れたいとは思えない。それどころかこの時間がずっと続けばいいとすら、思っている…。 きっと。この人は本当に月の化身なのだわ…だったら月と戯れて何が悪いというの…? そう思うとぬくもりを感じる辺りから、ゆらゆらと倦怠感が広がってくる。一気に緊張がほぐれたので瞼が重くなる…梓は知らないうちにまどろんでした。
「…起きてください、皆が帰宅を始めたみたいです…」 「…あ、私…」 慌てて立ち上がる。急に動いたので、感覚が掴めず、よろめいてしまった。 「危ない…!!」 「…すみません」 「あ、上着…ごめんなさい、一条様の方が寒かったでしょうね…」 「いいえ」 その時、テラスの方から兄の声がした。 「…行かなくちゃ…!」 振り向くと、何かをたたえた瞳がまっすぐにこちらを見ていた。 「これを…」
「…どうしたんだ、梓。そんなところで…」 ぎくりとして、周囲を見回す…ついさっきまでいたはずの、咲耶の姿が忽然と消えていた。 「全く…若い娘が一人で夜の庭なんか歩くな。夜盗にでも連れて行かれたらどうするんだ…」 「…夢?」 しかし、梓の手にはしっかりとレースのポケットチーフが握られていた。
「…どうしたの? 梓様、アイスクリンはお嫌い?」 「あ…いえ…」 「もしかして、御婚約者様のことでも考えていらしたんでしょう? お式の日程はお決まりになったの?」 「いえ、まだ…でも夏までには、と言うことになっていますの…」 明るい日差しの入るカフェテラス。制服姿で入るのは校則で禁止されているし、気兼ねしてしまうが、ここは今、向かいに座っている同級生、麻理枝の家の経営している店舗だ。中庭に面して外からは死角になるテーブルを用意されていた。放課後、何人かの友と寄り道していた。 正直、友達との会話もうんざりしていた。ほとんどの級友は進学せずに嫁いでいく。海外に赴任する婚約者に伴って学期半ばで退学するものもいた。 「これから、銀座へ出てみませんこと?」 「ウインドゥに素敵なショールが飾ってありましたの…皆でお揃いにしません?」 …そんな眠たくなる会話をそらで聞きながら、梓は年の瀬に近い空を見上げた。 「あらあら…梓様…! アイスクリンがスカーフに…」 「ごめんなさい、洗面所をお借りしてきます…」 …どうしちゃったんだろう、私… スカーフのシミは大したこと無かった。ちょっと濡れたハンカチでこすると元通りになったのでホッとする。洗面所を出た彼女は友の一行がおしゃべりに夢中になってこちらを見ていないことを確認すると、そっと外に出た。 冬の声を聞いても今日のような天気はいい。ほんのりとしたぬくもりがセーラー服を通して肌に伝わってくる。 梓はポケットから…レースのチーフを取りだした。 そっと鼻を寄せてみる。1ヶ月近くたったのに、まだ香りが残る気がした。 あんな…短い時間の出来事が、梓の人生の記憶のほとんどを占めていた。 ふう、とため息を付く。皆の元に帰ろうとドアに手を掛けたとき、背後から声がした。
「それ、持っていてくれたの?」 …信じられなかった。身体が凍り付いたように動かなくなる。 恐る恐る…振り返る。この声を忘れることはなかった。
「やあ」 月の化身が。今度はカフェテラスの中庭中央…まばゆい日差しの下に立っていた。 「…一条、様…」 「咲耶、でいいよ…ところで、君の名前は?」 目の前がぐらりと揺らぐ。押し寄せるこの感激をどうしたらいいのだろう? 刹那の出会い。 梓はこの地に宿る全ての神に感謝の祈りを捧げていた。
自分は婚約者のいる身だ。そうじゃないとしても身内以外の男性と一緒にいるところを人に見られることは身の破滅を招く。もしも噂に上れば、本人ばかりではなく親兄弟にまで被害が及ぶのだ。 それが不安でないはずはない。それでも、この日から咲耶は本当に自然な感じで時々、梓の目の前に現れるようになった。 ある時は道を尋ねるように、ある時は大道芸人になって。びっくり箱のように繰り広げられる光景に梓は心を奪われていた。 「楽しい方ですね、咲耶様は…」 北風の吹き荒れる公園の林は人影がなかった。大丈夫ですよ、と言うように咲耶が辺りを見渡すと目で合図した。梓の表情が安堵の色に変わる。 「どうして、私の行く先がお分かりになるの? …それより心配なのは、咲耶様がいつお仕事をなさっているのかと言うことだわ。伯父様の事業を手伝っていらっしゃるのでしたよね? お忙しくはないんですか?」 「…今は、梓様にお会いするのが私の仕事だから…」 「え…?」 「…嘘。あなたと会わないときは仕事してる、心配した?」 「もう…」 でも。 次の瞬間。行き場のない寂しさが心に浸み込んでくる。梓の表情がにわかに曇った。腰を下ろして芝に付いた手が小刻みに震えた。それを震えごと、咲耶の手が包み込む。 「婚約した…お相手に、申し訳ないと思っているんでしょう? こうして2人きりで会っていること自体がいけないことだからね…」 「いいえ…いいえ…」 「私は…自分の身が恨めしいんです…咲耶様と…こうしてお会いできる時間が…あと、どれくらいあるのかと。…私のお相手に…どうして咲耶様じゃなくて他の方がいらっしゃるのでしょう…?」 「梓様…」 「…ごめん、僕に…もっと力があれば…でも、約束する。梓さんが必要としてくれるときは必ず側にいるから…僕で力になれることがあれば、何でもする。ただ…君の将来を変えることは…」 柔らかい毛布に包まれるような淡い抱擁…暖かいのに、悲しみを伴う。いつの間にか季節は立春を迎えようとしていた。
一段と風が冷たい。ガタガタとガラス戸を揺らしていく。 未だに高倉様との対面は果たされてない。彼が商談をまとめるためにアメリカに渡ってしまったのだ。朝鮮戦争より飛躍的に活気づいた日本の産業は大きなうねりで国全体を包み込もうとしていた。戻るのは祝言の直前になると言うことだった。 勝手に動き続ける自分の周囲の流れは、幸いにして梓の心うちを察することはないようだった。 梓は知っていた。自分の中にもっともっと深い欲求があることを。恥ずかしくて口にすることも出来ないが…大体、彼女は自分から咲耶に触れることすら出来ない。心の中でどんなに求めても、やはり「後藤家梓」として生きる身体に染みついた理性には逆らうことが出来ないように。 …忘れよう、忘れなければ…。 ガタガタと…一段と激しくガラス戸が鳴る。カーテンを直そうと編み物を置いて椅子から立ち上がる。 …咲耶様!? そんなはずはない、こんな吹き荒れる木枯らしの中。こんな中に人間がいるわけが…。だのに、硝子越しの彼は寂しそうな笑みをたたえると、背を向けようとした。 「…あ…!」 「咲耶…さ…ま?」 「…危ないじゃないですか、こんな風の夜…それに誰かに見つかったらどうするんです!?」 梓の言葉に静かに微笑んだ咲耶は素早く窓の隙間から部屋の中に大きな包みを投げ込んだ。 「…何?」 短い会話の間にも風は容赦なく吹き荒れる。 「もう、帰る…ごめん、驚かせて…」 「…咲耶様…!」 会いに来てくれてありがとうと言いたかった。こんな風の中を。だけど想いが溢れて何も言えない。言葉すらもどかしくて… 咲耶の手が窓を支えた。少し身を乗り出す。美しい彼の顔が淡く微笑んだ次の瞬間…梓は静かに瞳を閉じた。 そっと、一瞬、咲耶のぬくもりを感じた。…自分の唇で受け止める。 「…好き、好きなの…咲耶様…あなただけが…」 梓の言葉を目の前の咲耶は無言で受け止める。 もう一度。今度はずっと深く…2人の唇が出逢う。 「…おやすみ…」
去っていく背中が門の外へ消えていくのを確かめてから…慌てて窓を施錠する。 梓の手でようやく抱えられるほどの大きな包みの中からは…一巻き分もありそうなレース地が出てきた。 それを抱えて…梓はもう一度、涙に暮れた。
「それ、私が持っていくわ。梓様は来なくて結構よ」 春の訪れを感じさせるような日差しの差し込む明るいキッチンに、不似合いなきつい口調が響いた。丁度、女中たちが出払っていて、そこにいたのは2人だけだった。 「…え?」 お茶の支度をしたトレイを持ったまま、きょとんとしている梓に、尚も畳みかけるように言葉は続く。 「ほらほら、邪魔よ。あなたはお部屋で花嫁修業でも何でもなさっていてください! …何もお出来にならないからとお輿入れが延期されたら困るじゃないの!」 兄嫁である美智恵は周囲に他の人間がいないと態度が豹変する。今もその時だった。 姑…つまり梓たちの母親はきっちりした性格で、事細かに指図をする。それがうっとうしくてたまらない美智恵はそのはけ口を弱い梓に向けていたのだ。 「でも…」 今日は兄・鷹暁の大学時代の学友たちが集まっている。普段は男の人と話をすることはなかったが、彼らは兄の友達である。自分を妹同様に可愛がってくれるので、梓はなついていた。お茶を囲んで、皆の談笑に耳を傾ける時間が好きだった。 「分からない人ねえ…」 呆気にとられている彼女を、一瞥して背を向ける。 「夫のお客様をおもてなしするのは、妻である私の仕事よ! いい気にならないでちょうだい!!」 ばたん! と扉が閉まる。 梓は反論する暇もなく、キッチンに一人残された。
兄嫁の言動は…少しひどい気がした。彼女が客間に行って接客をするのは当然だけど、どうして自分は入っちゃいけないのだろう? これを持って…挨拶くらい、いいわよね? 菓子盆を取り出すと、色とりどりの包みを綺麗に盛りつける。トレイに乗せると、さっき美智恵が閉めたドアを開け、突き当たりの客間へと向かった。
「嫌だわ〜杉山様ってば…」 「…おい、声が大きいぞ…」 「何言っていらっしゃるの? だって、本当のことじゃない…みんな言っていることよ、まったくあなたもお優しいように見えて…腹黒いお方ね」 「何を言い出すんだ!」 「ねえ、皆様…梓様のお相手…高倉様は、本当に彼女にお似合いの方よね、だって…」 次の言葉を聞いた途端…体中の血の気が引いた。梓はその場から音を立てずに逃げ出していた。
…何処をどう歩いたのか…分からない。昼過ぎまで晴れていたはずの空は北の方から黒雲が広がっていた。晴空と黒い雲の境界線がひときわ不気味に思える。折からの冷たい風が梓に吹き付ける。でも、今の彼女にはそんな寒さなど感じる感覚はなかった。 編み上げのブーツにコートだけ羽織って…手袋もマフラーも付けてない、ちょっとそこまで買い物にでも行くような格好で出てきてしまった。吐く息が真っ白く凍っていく。長く垂らした髪まで凍り付いてしまいそうだ。 高級住宅街。戦災を逃れた住居が並ぶ。と言うことは都心にある梓の家からはだいぶ離れたことになる。何時間が過ぎたのか見当も付かなかった。 目の前はひときわ威厳のある門構えがある。梓の身長の倍近くあるような木の塀に囲まれていた。同じ塀が延々と続いていることからもここが大邸宅なのだと言うことを物語っている。 夕闇に染まる舗装していない沿道に、梓の影だけが長く伸びている。 後先考えずに出てきたから、ポケットには小銭しか入っていない。だから電車すら乗ることが出来なかった。 何時間も歩き続けた足が棒のようになって重い。 …どうしよう。 家に戻らなくてはならない、頭では分かっている。でも…帰りたくはなかった。
ふいに梓の脇を黒塗りの大型車が通り過ぎる。すぐ先の門の前で止まった車から運転手が出てきて、後部座席のドアを開けた。 「…お疲れさまでした。また、明朝お迎えにあがります」 「ああ、ご苦労様」 短い会話のあと、車が走り出す。グレイのスーツを着込んで、ベージュのコートを手にした青年がその場に残った。コートのベルトが風に吹かれて激しく舞っている。 彼に梓の影がかかる。それを目で追うように青年は面を上げた。
「…梓…さま?」 驚いて立ち尽くしたのは明るい茶色の髪をふんわりと流した…今すぐ会いたくて、でも多分それは無理だろうと諦めていたその人。きっちりとスーツを着ているせいか、いつもより年齢が高く見える。 「…咲…耶…さまっ!!」 「…どうしたんです?」 「お願い…私を…どこか遠いところに連れて行って…」 押し殺していた感情が吹き出したように梓の両目からは涙が溢れだしていた。鼻をくすぐる咲耶の甘い香り…花園の中に迷い込んだようだ。それに包み込まれると…もう他には何もいらない気がした。 |