「…この先に…あるの? 家が…」 寂れた駅舎を背に咲耶は進行方向を確かめた。夕方から降り出して列車の窓を叩き付けていた雪が辺り一面に舞い上がっている。空から降っているのか、地から湧き出ているのか確認できないほど四方八方から吹き付ける。 目の前にようやく道とおぼしき存在を確認できた。両側に木々を抱えた獣道。 「暫く行くと…河があります。それを伝っていけば…たどり着けると思うのですが…」 「ごめんなさい…こんなに雪が深いとは思わなくて…。私、夏にしか来たことがなかったんです」 汽車に飛び乗ったまでは良かったが、当てなどあるわけはない。人の多いところではすぐに探し出されてしまう。 山沿いの小さな渓谷にひっそり建っている別荘はへんぴな土地柄、家の者もあまり利用してなかった。近くに観光名所もなくただただ山道があるだけ。それでも何軒かの別荘が建てられていた。それは自分の事業を誇示するためのもので…あまり人間が入っているのを見たこともないが。 それが…何故か梓はそこが気に入っていた。空襲が激しくなった戦争末期はそこに何人かの女中たちと住み着いていたぐらいだ。夏の休みにも欠かさず、出向いていた。
「…あの、咲耶様…」 「ここまで、送って下さったら結構です。お家にお戻りになって? きっと皆さんがご心配していらっしゃるでしょう…私は一人で行けますから…」 そこまで言うと、もう相手の顔を見ることが出来なかった。俯くとその目からはまた涙が溢れてくる。梓自身、この先の道を自分一人で歩ききれるかは分からなかった。でも、これ以上咲耶の行為に甘えることは許されない。 「梓様…?」 その足は梓の目線の先で止まった。次の瞬間、咲耶の腕が梓をすっぽりと捉えた。 「何を言うんだい? こんな所に梓様一人を残して戻れるわけがないでしょう?」 「…だって…」 「これは、私の…我が儘だから…。そうよ、高倉様がもう何人もの女性を囲まれている好色な方だとしても…そのうちのお一人を今回の渡米に同伴したことが皆の周知の事実だと言われても…彼が私の婚約者様であることには変わりないわ。お父様がお決めになったことなのだから…。私は…妾腹の娘で…戸籍上はお母様の実子になっているけど、お父様が女中に手を付けて生ませた娘よ。母親の身分があまりに低いので、それでは将来役に立たないと言うことで…それだけの理由で実子にして頂いたの。お母様もお兄様も…みんな私が卑しい娘だからと蔑むことはなかったわ。本当に可愛がって育てていただいた、後藤家の娘として…十分に良くしていただいたわ…だから、今度は私がお役に立つのは当然のこと…」 「…本当に。本当にそう思っているの…?」 「なら君は…どうしてそんな風に涙を流すの…?」 息が降りかかる至近距離。じっと見つめられる…風にさらされて冷たく凍り付く頬が幾度となく流れた涙の道筋を残している。咲耶の薄茶の瞳が駅舎の白熱電球に照らされて妖しく光った。それは海のような青い色。 梓は心の奥まで全部を見透かされてしまった気がした。もう隠すことは出来ない、心が悲痛な叫び声を上げて崩れていく。 「…嫌…!」 「…そりゃあ、私は卑しい子かも知れないわ。私の存在はきっとどんなにか家族のみんなを苦しめたことでしょう…でも、それは私のせいじゃない。私は…そうなりたくてそう生まれたわけじゃない…なのに…私がただ一人に人に愛されることを望むのはそんなにいけないことなの? 妾腹の娘はその制裁として…今度は正妻の苦悩を味わうのが当然なの? …違う、そんなの…嫌…」 激しい動きに一度はすり落ちた咲耶の手がもう一度、梓の顔を包み込む。右から…そして背に回っていた手も今は左から梓を包んでいた。 少し愁いを含んだ愛しい瞳がまっすぐに梓を見つめる。その薄く微笑んだ口元が何かを呟くように微かに動いた。 梓は。 もう、自分の感情を押し殺すことは出来なかった。ゆっくりと誘うように愛しい人の首に手を回す。 咲耶の前髪がふんわりと額に触れる。くすぐったくて…愛おしい…この人の身体の全てが。 「咲耶さま…」 次の言葉は音にならなかった。 梓の口は咲耶にしっかりと塞がれてしまったから。激しく吸い付いてきたそれは梓の全てを自分の中に取り込んでしまおうと思っているように、強く激しく貪ってくる。口づけとは…単に唇をふれあうものではなかったのか…この瞬間まで、そんなことも梓は知らなかった。舌が絡み取られ、絡み取り、自分がそんなことをするとは思わなかったことを当然のように受け止める。怖くないと言えば嘘になる。優しい瞳の青年が自分を覆い尽くす大きな獣のように思えてくる。 「…君が、離れたいと言ったって…帰れと言ったって…僕はもう帰らない…」 梓を解放した唇は休むことなく、次に黒髪をかき分けた耳元を探る。そして首の浮き立った青い血筋も探り当てる。 無我夢中で。 その人にすがりつく。他にどうすることが出来るのだろう。愛おしい人に愛おしんで貰うことで…誰が罰することが出来るのか? そんなこと、出来やしない…ただただ、生命が生きる糧として求め来るものを求めることは…当然の権利だ。人間として、当たり前のことなのだ。 今は、この人の側にいたい。 自分の激しい想いが全てのしがらみを解き放った。
「…行こうか?」 「…はい」 先ほどまではのみ込まれるように恐ろしかった吹雪の道が、2人を祝福する花吹雪に姿を変えた。
「…水道も、凍っているみたい…電気もつかないわ」 雪に埋もれた洋館に辿り着いたのはそれから長い時間を経てのこと。道無き道、しかも慣れない雪道、吹雪となれば都会暮らしには信じられない何十もの苦難になる。幾度も足が滑って雪に叩き付けられた。足の指の感覚が消えた。棒のように凍り付いた足が動かなくなる。 「遭難」と言う文字が、絶えず頭の中をぐるぐる回った。 それなのに、不思議と恐怖はなかった。肩を抱く、もう一つのぬくもり。絶えず囁かれる甘い問いかけ。生命の危険と向かい合っていても、梓は今までの17年間の人生の中で、感じたことのない満ち足りた気持ちを抱いていた。 「…納屋の鍵をくれる? 多分、薪が積んであると思うから…」 建物の中には雪こそは吹き込んでこないものの、冷え切った空気は変わらない。暖をとらないことには始まらない気がした。 程なく、裏口から咲耶が戻ってくる。両手に抱えられるだけの薪を持っていた。 「これだけあれば、夜通し大丈夫。良く乾いているね、管理がいいや…」 器用な手つきで暖炉に薪を並べると古新聞にマッチで灯をともす…窓からの白い雪の明るさしかなかった室内にオレンジ色の世界が生まれた。細い枝から順にくべると…あっという間に薪全体が暖かな光の中に包まれた。 「…お上手…ですね…」 自分で暖炉の火を起こしたことも実はなかった。魔法のように繰り広げられる光景を息を呑んで見つめていた梓は、ようやく一息ついた咲耶に感嘆の言葉をかけた。正直な気持ちだった。 夏用にしつらえられた別荘には大した防寒具もない。濡れた服は身体に触るので、ごくごく軽装になった2人は寄せ集めたたくさんのシーツと毛布にくるまった。火の近くに身を寄せてもなお、身体の震えは止まらない。 梓は右隣りに座る咲耶をそっと見つめた。 いつもは柔らかく綿毛のように見える髪が、雪にかかってしっとりと水分を滴らせている。そのせいかいつもより濃い色に見える。オレンジの光もそう見せる一因かも知れない。彫りの深い横顔が陰影を付けて浮かび上がる。揺らめく炎の流れになめられるように角度を変えながら。 梓は自分を包んだ毛布をたぐり寄せて胸元を押さえた。膝を抱えたまま、視線を暖炉に移す。 …家では、どうしているだろう? お兄様は…お父様はご心配なさっているのだろうか? 向こうもこうして冬の終わりの吹雪になっているのだろうか? 「…ごめんなさい…」 「え…?」 「本当に…咲耶様を巻き込んではいけなかったのに…。私、気が付いたら…こうしていたのね。こんな…取り返しの付かないこと…」 枯れたはずの涙がまだ溢れ出てくる。梓の小さな胸は張り裂けそうに高鳴った。初めて起こしてしまった自分の行動があらぬ方向に走りだし始める。 「…後悔…してるの?」 ふわりと。引き寄せられる。湿り気を含んだ咲耶の香りはいつもに増して愛おしく切ない。そこに堕ちてしまえば、2度と這い上がることの出来ない深みのように。 「自分のことは…後悔なんかしないわ。…ただ…あなたを巻き込んでしまったことが…」 考えないようにしても、心はそこに戻る。誰かを巻き添えにしてしまった後ろめたさはぬぐい去れないのだ。自分が心から求めたものだとしても…。 「言っただろう? 僕がここにいるのは、自分の意志なんだよ。君が気に病むことじゃない…僕自身が来たいと思って、辿り着いたんだ。それだけのことじゃない…」 「でも…」 パチパチッと火の粉が散る。大きく炎の影が揺らぐ。 「…梓…」 反応して顔を上げる。自然な角度でさりげなく、唇は触れ合う。そうすることが当然のように。 すぐに咲耶が離れる。一瞬の間を置いて、今度は梓の頬に唇を落とした。 「…しょっぱい…」 「や…」 「…あ…」 「…怖い…?」 「許して、梓…」 「……!」 「…好きだよ、梓…」 これから何が起こるのか。愛し合った男女がどうするものなのか…知識としては分かっていた。でも自分の中に素直に取り入れることは出来ないでいた。出来なくても、夫となる人にされるがままにするのが、妻としての勤めであると諭されてきた。 それでも身体が震えて止まらない。愛されたいと思う一方で、この恐怖から逃げ出したいという衝動が生まれる。五分五分の気持ちが梓の中でぶつかり合う。 …その時、ふわりと身体が浮いた。 一糸まとわぬ咲耶の上体がしっかりと梓を抱きしめていた。痛いぐらいに咲耶の胸に自分の頬が押しつけられる。荒い呼吸が振動になって伝わってくる。愛おしむようになだめるように…耳元にかかる熱い吐息。 熱い思いが全身から湧き起こってくるのを止めることはもう出来なかった。ゆっくりと、広い背中に自分の腕を回す。しっかりと、感触を確かめるように。 もう一度、梓の背に毛布の感触が戻ってきたとき…淡い微笑みを浮かべた彼女はそのまま咲耶の首に手を回して、自分の方へと引き寄せた。
窓を打つ風の音に混じって、ざりざりと削り取る音が絶え間なく続く。 けだるさを感じながら、梓はゆっくりと瞼を開けた。彼女はしっかりと抱かれたままいつの間にか眠っていたようだ。熾火だけになってくすぶっている暖炉がささやかな暖を感じさせる。でも窓の外の吹雪とは対照的に、梓は少しの寒さも感じていなかった。それどころか火照るほど熱いものを身体に感じていた。自分を包んでくれているもう一つのぬくもりに頬を押し当てる。その感触が伝わったのか、逞しい腕が少し動いた。 「…起きていたの…?」 その言葉と共に、額に唇が落とされる。その瞳を見つめようと上向きになると、視線を捉える前に唇が覆われた。首の後ろに腕が回されて、強く吸われるままになっていた。 「まだ、半分寝ているでしょう…?」 「…そんなこと…ありません」 お互いが昨日のまま何も身に付けていないことに気付いて、改めて羞恥の心がわき上がってくる。そっと目をそらせようとしたが、身体は床に押しつけられ、再び咲耶は覆い被さってくる。薄い毛布を通して木の床の感触が伝わってくる。…昨日はそれすら、感じる余裕がなかった。 「起きているなら、ちゃんと反応して見せて…」 「…ん…!?」 「ちょっと…咲耶様! 止めて…私、まだ…」 「駄目、朝ご飯なんだから…」 「もう…」
その日は日が暮れ落ちるまで、何度も何度も、戯れるように身体を重ねた。微笑むと口づけられ、口づけられると抱きしめられる。まるで太古の神々のように、何も考えることなく自由に思いのままに愛し合った。 あまりの空腹に、ようやく昨日の昼以来何も口にしていなかったことに気付く。戸棚を探ると、戦時中に貯蔵したのだろうか、いつの物か分からないような缶詰が出てくる。開けてみると保存のための乾パンが入っていた。それをゆっくりと口に含む。固くてなかなか溶けていかない。お互いの情けない姿に声を立てて笑い合う。そんな食料すら、2人でいれば最高のディナーになった。
再び。夜のとばりが降りてきた。吹雪はますます強くなる。咲耶の手でくべられた暖炉の火が揺らめく部屋の中にはついさっきまでの激しさを身体に残したままの2人が、けだるくに横たわっていた。梓はゆっくりと上体を起こすとシーツを白い素肌のままの身体に巻き付け、窓際まで歩いていった。 「…どうしたの…?」 荒れ狂う窓の外をじっと見ていた梓は、近づいてきた人影に後ろからそっと抱きしめられる。 「…大地が…怒っているんです…」 「え…」 押し殺したような彼女のうめきに、咲耶は息を呑んだ。 梓は緩んだ腕から逃れて、くるりと窓を背にして立つ。その瞳に先ほどまでの甘い色は微塵もなく、深い夜の湖の色を感じさせた。 ただならぬ何かを咲耶は瞬時に感じ取っていた。
「もう、十分です。終わりにしましょう…私たち」 愁いを含んだ目はそれでもしっかりとした光を放ち、じっと目の前の恋人を見つめていた。 「…梓…!?」 次の瞬間、獣が飛びかかるように咲耶は彼女の肩を鷲掴みにしていた。 「何を言い出すんだ! 僕も君も…全てを捨ててここに来たんじゃないか!? 今更…そんな勝手なことを言わせないよ? …君は…僕の、僕だけのものだ…」 大きく肩を揺すられても、少しもひるむことなく、梓は淡く微笑んだ。 「もう…十分です。咲耶様…いえ」 梓の瞳が長いまつげで覆われた。大きく息を吸う。そして全てを吐き出す。再び黒目がちの愛らしい瞳が愛おしそうに開いた。 「…一籐木、月彦(いっとうぎ、つきひこ)様…」 がたん、と音を立てて、咲耶の身体が揺れた。何歩か後ずさりをした後、椅子にぶつかったのだ。 「…どうして…どうして、それを…」 「知っておりましたわ、もっとも…途中からですけど。迂闊でしたね? どうして同窓生の妹を選んだのです? …お兄様の卒業写真に…あなたもちゃんと写っていらっしゃいましたよ」 「……」 「あなたは、御養子であれ、一籐木グループの跡取り様。…1週間後に、名家・春日部様のお嬢様との祝言が予定されていることも…私には、後藤家の内情を探る目的で故意に近づいたことも…みんなみんな…全てを、存じておりました」 そこまで言い終えると、梓は耐えきれず背中を向けた。 「それを知っていて…何故…こんな…」 梓は答えない。聞こえていないのか、微動だにしない。 「何故なんだ!! 君は…心の中で、僕の猿芝居を笑っていたというのか…!?」 その声には反応した。梓は変わらず背を向けたままではあったが、その小さな肩が小刻みに震え始めた。 「梓…」 「それでも…愛してしまったのです。あなたを、月彦様を一目見た瞬間に、私の心は全て奪われてしまいました。申し訳ないことをしたと思います…でも、でも、私はあなたと…」 そこまでようやく話すと。彼女は体中の力が抜けたようにずるずると座り込んでしまった。そのまま、額を窓に押しつけて泣き崩れた。 咲耶…いや、月彦はその姿を黙ったまま呆然と眺めていた。身体の震えは止まることはなかった。何故?全て分かっていて…どうして梓はこんな真似を…自分を欺いた人間を…。
荒れ狂う吹雪は留まるところを知らず、この古い洋館を揺さぶり続けた。その激しさに混じって、時折、押し殺した嗚咽が響き渡る。昨日から櫛を入れることのなかった漆黒の髪は柔らかく乱れて、彼女の小さな白い背中を優しく覆う。表情も彼女自身の黒い帳に隠されたように、咲耶…ではなく、本当の名は…月彦の目には捉えることが出来ない。
2人の間に透明な見えない壁が形成され、切り取られた2つの空間のそれぞれに個々の意識が浮遊する。自分から生まれ、吹き荒れ、壁にぶち当たった悲しい意識が、我が身に再び襲いかかってくる。 月彦は…全身を揺らして大きくかぶりを振った。目の前の幻想の壁がさらさらと崩れ落ちて行く。腰に申し訳程度に巻き付けられていたシーツがほどけるのも構わず、彼は窓際まで駆け寄った。
「…梓…」 「…梓…!」 「もう何もいらないんだ…梓だけ、いればいい。家も、名前も…みんな捨てて…どこかで2人で生きていこう」 「…月彦…さま…?」 「最初は…そうだ、初めは君の言ったとおり…。僕は父に認められて使用人の子供の身分から、一籐木の養子になった。夫に先立たれて途方に暮れた母が人づてを頼って、田舎から出てきて一籐木に住み込んだ。それから2年後の、10歳の時のこと。一籐木の当主である父には子供がなく、有能な人材をその身分に関係なくすくい上げる人だから、僕のことも本当の子供のように育ててくれた。でも…親類にはよそ者の僕が一籐木の当主になることを快く思わない人間も多くいる。僕は…叔父から無理難題を押しつけられた、後藤家の内情を探れ、と」 吹きすさぶ風が悲鳴のように木々を揺らす。窓際によるとその嘆きが体中に響いてくる。 「…浅はか…だった、本当にすまなかったと思う…でも、信じてくれ。君を本当に大切に思っている、君を知れば知るほど、欺くことは出来なくなった。…君に逢っている時間が…一番、心を満たしてくれたんだ」 ゆっくりと腕を解くと、梓の正面に回り込んだ。俯いたままの顔に手を添えてそっと上向かせる。涙の中に顔がある、と言った方がいいような顔を目の当たりにして、月彦の心は一段と痛んだ。 梓も。揺れる瞳でじっと月彦を見つめ返した。その色が驚きの色彩を帯びる。何故なら、月彦の頬も涙に濡れていたからだった。 「…あ…」 強く引き寄せられ、頬と頬がこすれ合う。涙のひんやりとした感触が混ざり合う。 唇が塞がれ、お互いがお互いを確かめるように舌を絡める、絡め取られる。使い慣れた指よりも器用に動くそれを梓は愛おしんだ。真冬の雪の中にあって、張りつめた空気の中なのに、2人の身体から熱く汗がしたたり落ちる。 「…梓…梓…」 お互いがお互いであることを確かめるような激しさの後、月彦の腕にしっかりと包まれたままの梓は、甘えるような笑みを浮かべて青く光る瞳を見つめた。たまらず、その桜色の唇を味わう。優しい受け答えに満足して月彦が名残惜しそうに顔を離す。 「…ね、ずっと一緒だから。君となら、何処ででも生きていける…」 そう囁いた唇に梓の指がそっと触れた。 「…駄目ですわ…」 「…え?」 初めは聞き違いかと思った。そんははずはない、彼女だって自分を愛してくれているはずだ。愛しているからこそ、こうして全てを受け入れてくれるのではないか。 「駄目ですわ、…その様に考えられてはいけません。あなたには…月彦様にはちゃんと、いらしゃるでしょう? 茉莉子様を悲しませてはなりません」 梓は月彦の婚約者である春日部家の娘の名前を口にした。 その名を聞いても月彦には何の感情も湧かない。顔なじみだし、言葉も交わしたことのある儚い花のような娘。病気がちで白い顔をした彼女はいつも物静かな微笑みで月彦を見つめた。その慎ましやかな立ち振る舞いを好感を持って眺めていたことは事実だ。彼女が自分の婚約者であると父から告げられても、そんな物かな、とあっさり受け入れた。婚礼を控えてはいたが、まだ手も握ったことはない。 「茉莉子様には…申し訳ないけど。僕にはもう、梓以外の女性を妻に迎えるつもりはないよ。梓への思いを抱きながら、他の人を愛することなんて出来ない、…まさか、君は? 高倉と結婚してしまうつもりなのかい?」 「…え…?」 「ほら、僕だって君と同じなんだよ」 「…駄目、…だって、あなたは約束したんですもの。茉莉子様とご結婚することを。約束は守らなくてはならないわ、私だって高倉様と結婚する。高倉様の妻になるわ。ねえ、これは自分たちだけのことではないのよ…家の、親族の皆の問題なの。一時の感情で流されていい物ではないわ…」 「…嘘だろ? 君がそんなことを言うなんて…信じられない。君が、僕以外の人間と結ばれるなんて…そんなこと考えただけで気が狂いそうだ、…止めてくれ、冗談でも言わないでくれ!!」 再び、かき抱かれる。信じられない、という怒りの気持ちが新たなる欲望を呼び覚ますように。 「嫌だ、絶対に許せない…! 他の奴の腕で、君がこんな風に…」 強く、胸を吸われる。貪り尽くすように背中で巻き付いた腕がきしみながら、絶え間ない波が訪れる。 「…梓…!!」 大きく喘ぎながらも、梓は震える声で続けた。 「…駄目、月彦様…私は約束をちゃんと守る人が好きなの…茉莉子様との約束を破る、そんな月彦様は…嫌い…大嫌いよ!」 渾身の力を込めて、月彦の身体をはねのけた。 予想すらしていなかった行動に、月彦の不安定な体勢は簡単に解かれる。 梓はシーツで身体を覆うと、濡れた瞳で月彦を捉えた。目の前の人は驚きと悲しみの混ざった色をたたえ、大きく息を弾ませていた。 そんな表情すら、狂おしいほど愛おしい。思わずその胸に飛び込みたくなる欲求を必死で押さえながら、梓はゆっくりと微笑みを浮かべた。 「…茉莉子様は…家がご近所で…とても親しくさせていただいていたの。お優しい方よ、私が妾の子と知っていても蔑んだりはしなかった。茉莉子様のお家とうちとは…そんなに仲が良くなかったけど…どんな人とも分け隔てなくお付き合いできる方。一籐木を支えて、繁栄に導いて下さる方よ」 「……」 「…梓…」 「お願い…約束を、守って…私を幻滅させないで…」 「…分かった…」 「夜が明けたら…ここを出よう。2人とも、お互いの暮らしに戻るんだ…君がそう望むなら…そうしよう。でも…」 「今夜の君は、僕の物だからね」 梓はその問には答えず、ただ額をすり寄せた。それだけでお互いの気持ちは十分だった。 「あのね、月彦様」 「私の、お願いも聞いてくれる? …私との、約束…」 「…何…?」
「…こんなに…近かったかなあ…?」 サクサクと。晩秋の落ち葉を踏みしめて、男が呟く。気抜けしたような声だ。 「そうですね、今日みたいにお天気だったら歩きやすかったでしょうね…でもそうしたら」 くすくす、小さく笑い声が上がる。遠い日の記憶を呼び覚ますように…。 「あのように、なれなかった気がしますわ」 何かを含んだいい方に月彦は振り返る。カサカサとコンビニの袋が揺れた。 「50年か…本当に待たされたな」 「申し訳ありません、…こんなおばあちゃんになっちゃって、がっかりしたでしょう?」 「いや…」 「茉莉子が…亡くなったとき、一緒になってくれと言ったのに。どうして申し出を断ったんだい? お陰でこんなにギリギリになってしまったじゃないか…」 小さく首を振る、変わらない仕草。愛おしそうに見つめる梓の目に光る物が溢れてきた。 「…約束、でしたから。私は約束を守る人が好きですもの…」 「相変わらず、泣き虫なんだなあ…もう泣いているのかい? 今夜はずっと泣いているんじゃないだろうね?」 そう言いながら抱きすくめる、昔より小さく感じる身体。目に溜まった涙を唇で吸い取る。梓の身体が一瞬、強ばる。 「しょっぱい…涙の味は変わらないんだね」 「…もう、嫌な方!」 「…誰かに見られたら、驚かれちゃうわ。信じられる? …75歳と68歳のおじいちゃんとおばあちゃんのカップルよ、ギャグにしかならないわ…」 梓が腕の中で囁く。 「いいじゃないか、今日は50年前に戻るんだろ?」 「…そうね」 明るい笑い声が山肌にこだました。
「…僕は…君との約束を全部守ったのに…どういうことだろうね、君は約束を破ったね」 手を繋いで歩きながら、月彦が意地悪く言う。 「…仕方ないでしょ、あの子がおなかにいることが分かってしまったんですもの…どうしても生みたくて、家を追い出されて…お父様が亡くなるまで、家には一歩も入らせて貰えなかったのよ…」 目に前にあの日の洋館が現れた。 「…でも、お兄様は…ここを私に下さったわ。事業に失敗して全てを失っても…私には何もしてやれなかったからって、ここを残してくれたの…私の人生は、とても幸福だったわ」 「宵子(しょうこ)の手を引いた君に偶然再会したときは、本当に驚いた。優しい子に育ててくれたね」 「父親似なんですよ、私は助けられてばかりでしたわ…今はなかなか逢えませんけど…」 「彼は…いい奴だろう? 将来は部署をひとつ任せることになっている…」 娘の宵子には父親のことを詳しくは知らせていなかった。だから、彼女が一籐木グループの者と一緒になりたいと言い出したとき、腰が抜けるかと思った。 「…まさか…それもあなたの仕組んだことじゃないでしょうね?」 「さあね…」 宵子の結婚式に会社の代表として現れ、祝辞までした月彦。末席の親族席で開いた口の塞がらない梓だった。25年前の出来事が昨日のことのように甦る。 「…行こうか…」 今、自分の手のひらに感じているもの…この50年間、忘れたことのない愛おしいぬくもり。それを再び手にすることが出来た。生きていて良かったと思う。 「…すまないね」 「…え?」 「最後の…旅を、道連れにしてしまうこと…」 「嫌ですわ…それこそ本望と言うものです。そのために…薬でどうにか身体を保たせていたようなものですのよ。私、心臓に持病がありますの…いつ死んでもおかしくない身体なんですから…あなたも…」 「胃に転移が始まっているんだと。去年、大手術をして持ち直したと思ったんだが…人間、癌になったらおしまいなんだね…」 「ふふふ…」 梓の場違いな笑い声に月彦が振り向く。 「何? おかしいのか?」 きょとんとした顔に微笑みかける。月彦の驚きももっともだ。自分の命のはかなさを思って…そうして笑うことが出来るのだろう。 「いえ…嬉しいのです、あなたと一緒に、これで何処までも一緒に行けます…」
遠い日の記憶がありありと甦る。この日を予知していた、最初から知っていたようなあの日の笑顔を。
晩秋の暖かな光が降り注ぐ。解き放たれた物語は、今、新しい頁を静かに歩み始めた。 本章に続く(011215〜17)
◇序章のあとがき◇ 「赫い渓を往け」扉>序章・2 |