ゆったりとした敷地内をみどりの風が渡っていく。 フェンスに沿って植えられている桜並木が自分の下に黒々とした影を落としている。隙間がないほどびっしり葉を茂らせた枝が一斉に揺らめく。 「…どうした?」 「あ、いえ。何でもありませんよ」 「午後は経理関連の書類に目を通してもらう。金銭的な事は税理士に一括して頼んではあるが、経営者として任せきりは良くない…分かるな、惣哉」 「はい、父上」
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大学課程を修了後、惣哉は一籐木グループの一員としての職務に就いた。月彦の孫娘である一籐木咲夜(いっとうぎ・さくや)の身辺警護を申しつかったのだ。10年間、それを続けてきた。「続けている」と進行形の言葉で語れないところに今の彼の心境がある。もちろん、任務は遂行中なのであるが…。 そんな彼に「そろそろ、自分はリタイヤを考えている」と父親が切り出したのはつい半月前の事だった。5月の終わりのことである。理事長室の大きな窓から見える学園の表庭が若葉から深い緑へと色を染め変えていた。気の早い紫陽花が薄いグリーンに色づいたその花弁を揺らしていたのを覚えている。「大事な話がある」と直々にこの部屋に呼ばれたとき、大体の話の内容は察知したが、それでも惣哉は驚きを隠せなかった。 「…私も、もう歳だ。余生を楽しみたい…」 惣哉は黙ったまま、父親を見つめた。彼の申し出はもっともである。70を越えた今日、まだまだ現役のはつらつさは失われていなかった…が。一籐木月彦の急逝である。それと共にもう一つの命が月彦の死よりもずっとささやかに、でも政哉にとってはあまりに重く散ったことを惣哉は知っていた。 …後藤家、梓…。その女性が父の中で特別の人となっていること。自分の母親とは全く違う位置にいることを…今の惣哉なら理解することが出来る。惣哉自身が自分の手のひらから、一羽の美しい小鳥を放ってしまったから。 豊かな量を残したまま、美しく銀色に変わった父の頭髪。男性にしては白い肌にその下を流れる赤がピンクに浮き出る。ごつごつと骨太の力強い両手を眺めて、惣哉はふっと顔を緩めた。 「理事長は…しばらくはそのお席に留まってくださるのでしょうね? 私は立場的には副理事の席にありますが学園経営においては全くの素人です…色々ご教授を頂かなくてはなりません」 「それはもちろんだよ…ただ、お前が私の跡を継いでくれるという保証がないと、私も心が安らかにはなれないからな。…それに」 「…それに?」 「…そろそろ、お前にも良き伴侶を迎えねばならないであろう」 「それは…今少し。申し訳ございません…」 咲夜を手放した…その心の痛みがまだ生々しい。その傷は癒えることがない気もしていた。実際、自分たちの間に何か特別の事があったわけではない。何の約束があったわけでもない…ただ、心が絡み合っていた。惣哉はそう信じていた。 「惣哉」 「…いつまでそうしていても、時はいたずらに過ぎゆくものだ…私には分かる。私自身がそうであったからな」 否定の言葉を連ねようとしていた惣哉はそのまま黙り込んでしまった。かの女性のことについて、父から直々に話を聞いたことはない。全てが惣哉の想像でしかないのだ。このように政哉が正面から過去を口にするのは初めてであった。 「もし、お前に…良いと思っている女性がいるなら紹介しなさい。お前が認めた人間なら間違いはないだろうから…」 惣哉は俯くと静かに目を伏せた。 「…父上の…宜しいように取りはからって下さい」 息子の言葉に机の上に置いた手を組み替えた政哉は、何とも言えない寂しそうな目をした。
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「橋崎のお嬢様とは…その後、どうかね?」 さくさくと地を踏みしめる音。2人はフェンス伝いに広い敷地を散策していた。正門を入ると広々とした表の庭があり、客人を迎えるように美しく樹木が植えられている。花壇にも季節の花が絶え間なく咲き乱れる。入ってすぐの建物は2階建ての事務局。その奥に三棟の校舎が渡りで繋がれてある。生徒たちが使用する校庭はさらにその奥にある。広さは普通の学校の何倍もあって、校舎を出てフェンスまで走って戻ると休み時間が終わってしまうと言う笑い話まであった。それでも今は昼休みであり、まぶしい日差しの中で子供たちのはしゃぎ声が溢れていた。 「はい、何度かお食事や観劇にお誘い致しました。親しくお付き合いさせて頂いております」 「…気に入らないのかね? あちらのお父上からは話を進めてくれと申しつかっておるのだが…」 「ならば、そうなされば宜しいでしょう? 私にも他意はございませんよ?」 「惣哉、…相手のいることだぞ。その様に投げやりになっていては、あちらに失礼ではないか?」 「投げやり…ですって? 父上、私にその様なつもりはございませんよ…」 この息子は。 …政哉は考えた。多分、惣哉は自分では分かっていないのであろう。しかし、心の傷を癒すのは他人ではない、本人が自らを癒さなければ駄目なのだ。 眉間に手を当てて痛みをこらえたとき、がさがさ、と言う音を聞いた。 「…どうしたのかね?」 「行ってみましょうか?」 2人は顔を見合わせると樹の側に歩み寄った。
「あ、理事長先生だ!!」 「こんにちは〜」 「惣哉さんもいる〜」 子供たちがこちらに気付いて、駆け寄ってくる。 「こらこら、『惣哉さん』ではなくて、『副理事長先生』とお呼びしなさい」 「…君たち、こんなところで何を騒いでいたの?」 「うん…来て来て、惣哉さん〜麻衣ちゃんのがね〜」 ピンクのリボンを頭に結んだ女の子に腕を引かれて、樹の下までやってきた惣哉はぎょっとして上を見た。人影…? …人がいる? 木の上に…。 「ああん、ちゆ先生〜もっと右なの〜」 「違う違う〜その横〜」 子供たちは上を見て必死に叫んでいる。 「ええ〜? 分からないわよ、右って…どっち!?」 「あ、あった〜!! …と、え…!?」 「きゃあ!」 「危ない!!」 その瞬間。2人の目が合った。惣哉の目に飛び込んできたのは、明るい栗色の髪を肩で揃えた少女だった。 ざざざざーん!!! 「痛たたた…」 「…大丈夫ですか…?」 「…え?」 「…きゃあ! 申し訳ありません!! …これは、学園副理事長!! 本当にすみません…」 「君こそ…怪我は?」 「え? …私なんかより…どどど、どうしましょう! 副理事長さん、せっかくのスーツが汚れてます!」 「木に登っちゃ駄目でしょう? 校則にもありましたよね、敷地内の草木は大切にしましょうって…君、高等科? 何年生?」 「あ、あの…私…」 「佐倉先生…どうしました? 危ないではないですか…」 「…きゃああ! 学園理事長も!! まあ、どうしましょう…」 「…先生?」
「…子供の飛ばした竹とんぼを取ろうとしたらしいな…まあ、彼女らしいと言えばそうだろうが…」 「…父上…。彼女、本当に本校の教員なのですか? どう見ても高等科の生徒にしか見えませんけど…」 「…お前…職員紹介の時に列席していただろう…?」 「はあ…」 「まあ、もっとも…佐倉先生はこの間お産のため休みに入った小宮先生の代理教員だ。正式に雇用したわけではないのだが。彼女は今年の春に大学を終了してね、教員の採用試験には受かったらしいんだが、どうも離島に行けと言われたらしくて…」 「…離島?」 「ほら、東京都には島があるだろう? 新規採用の教員はそちらに飛ばされることもあるんだ、今はどこも就職難だからな。彼女は田舎が東北の方で…躊躇したらしい」 「…そうなんですか」 「ちょうど彼女の卒論の担当と私が懇意にしていてね、代用教員の話をしたら、彼女を薦めてくれたんだ」 教員、と言っても採用間もないらしい。ようやく6月になったのだから、まだ2ヶ月。板に付いていなくて学生に間違えたのも頷ける。 「…だが…高校生はいささか失礼だったな…」 「はあ…」 「彼女はあのようにそそっかしい所はあるのだが…とても熱心な職員だよ。子供たちもすっかり馴染んでいる」 別に惣哉に言い含めているのではないらしい。窓の外を眺めながら、楽しそうに政哉は言った。 続く(020125) |