一籐木本社での惣哉の仕事はささやかなものであった。いくつかの担当の取引先があり、商談をまとめることもあったが、そう難しいものではなかった。惣哉にとって一番の仕事は咲夜の警護であったから。 …やはり、登次郎様が噛んでいたのか? 一籐木咲夜、惣哉の主人になるが…彼女は亡き前頭取自らが「我が後継者」と称した人物である。若干17歳の少女。緩やかに流れる黒髪と大きな瞳、陶器のように透き通った肌。すんなり伸びた体躯。そこにいるだけで人々の視線が吸い寄せられる美少女は重い宿命を背負っていた。 ならば、何故? 何のために? 咲夜自らも、その一番近くにいた惣哉もそのことについては悩んできた。でも咲夜が美しく成長するに従い、惣哉は前頭取・月彦の言わんとすることが分かってきた気がする。 …彼女は…カリスマなのだ。 そこにいるだけで、皆を魅了する。その美しさは歳を重ねるごとに輝きを増す。彼女を支える有能な人間たちの頂点に立ち、まとめる役割が果たせたら良いのだろう。もちろん、彼女自身にもそれなりの知識は学んでもらうが。 そして、何より重要なのは彼女の一番近くに来る…彼女の夫となるべき人間の選出。 公にしないうちに、月彦はこの世を去った。煙に巻かれたような一族の前に…忽然と現れた男がいた。 三鷹沢…朔也(みたかざわ・さくや)。これは惣哉とその父である政哉にしか正式に知らされていないが、この咲夜と同じ歳の高校生は月彦の秘められた恋の形見になるらしい。 彼の出現と登次郎の事故死によって、事態が思わぬ方向に進みだした。
…のどかなものだな…。 本社ではそれなりの喧噪がある。学園に来るとそれがなくなり、穏やかな日差しに包まれる気がする。情操教育の一環として、樹木が多く植えられているのも一因であろう。それほど草木には詳しくない惣哉もそれらを眺めるのは好きだった。 今日は父親である学園理事の政哉が出張で留守にしていたが、彼はいつも通り、昼下がりの散策を楽しんでいた。
「あ〜惣哉さんだあ〜」 「…今日は木登りしていないのかな?」 「あ、あのね〜惣哉さん。ちゆ先生、見なかった?」 「うん〜いないの。ご飯の時から〜」 子供たちがくるくると目を動かしなから、口々に言う。 「…ちゆ先生?」 「そうだよ、ちゆ先生〜ええと」 「名前、何だったっけ? ちゆ先生の」 「あ、さくら先生だよ、佐倉ちゆき!!」 「佐倉先生?」 「じゃあ、見つけたら伝えておくね。もうじき予鈴だから、お教室に戻りなさい」 「は〜い、じゃあね、惣哉さん」 「ばいばーい」 ぱたぱたと走り去っていく小さな背中を眺める。彼らには明るい未来だけがある。そこしか視界に映らない、幸せな年月かも知れない。
「あ、あの…」 「え? 誰かいるの?」 「すみません、あの副理事長さん…ですよね? 子供たち、行っちゃいましたか?」 惣哉は不思議そうに植え込みの間を覗いた…彼女だ。 「ええと、佐倉先生。いらしたなら、出ていらっしゃれば良かったのに…」 「え…でも。あの状況で、出るに出られなくて…」 …林檎? 「あのう…これ?」 「あ、すみません。お手数お掛けして」 「ランチのデザートですか?」 「いいえ、お昼ご飯なんです。2個持ってきたんですけど、ひとつでおなかがいっぱいになったから。青森の友達からもらって」 その時、予鈴の音が響いた。 「あ、私行かなくちゃ。このことは子供たちに内緒にしてくださいね! それあげますから。それでは、あの、失礼します…」 「…林檎が昼ご飯?」 先ほどの小等部の子供たちとあまり変わらない背中を見送る。片手に残ったささやかな重みを感じながら、惣哉は呟いた。それから心の中に何か引っかかりを感じる…。 そうか。思い当たった。 彼女の顔色は少し青かった。元々線の細い体質なんだとは思うが、それにしても七分袖から覗いていた腕は痛々しいほどほっそりしていた。――見覚えがある。そうだ、あの時の咲夜の姿だ。
その日の放課後。 「あ、副理事長さん。先ほどは申し訳ございませんでした」 「少し、お時間頂けますか? 私の部屋に来て下さい」 「…はい…?」
事務局の二階に理事の個室が設けられている。父親の理事長の部屋の隣りに惣哉の部屋はあった。空き部屋だったところを当ててもらったので、まだあまり物がない。父親が接客のほとんどを行っているから、形ばかりの応接セットとその奥に表の庭に向かって立派な木製の机が置かれていた。奥に小さなキッチンがあり、お湯が沸かせるようになっている。机と同じ色のダークブラウンの本棚がいくつか置かれていたが硝子扉の中はまだ空間が多かった。 「その辺に座っていてください」 「佐倉先生…」 「あ、はい!!」 「先生、食事をちゃんと摂っていないでしょう?」 「…はい?」 もともと小柄なため、他人に気付かれにくいだろうが、彼女の姿は軽い栄養失調の兆しがあった。惣哉には覚えがあった。 「…ダイエットでもしているんですか? そうしなければならない体型にも思えませんが。大体、君の場合、もう少し太った方がいいぐらいだ。自分の身体の健康管理は教職者の基本ですよ。元気でいなかったら、子供たちにも目が行き届かないでしょう…?」 子供たちに目が、と言うところで彼女の顔が曇った。 「申し訳ありません、以後気を付けます」 「何か、理由があるんですか? 僕でよければ話してくれませんか?」 他意はなかった。管理者として、職員の事を詳しく知るのは当たり前だと思ったし、何らかの事情もありそうだった。自分のことを「私」ではなく「僕」と意識して変えてみた。その方が彼女との距離が縮まって話しやすくなるだろうと思ったからだ。いつもなら父親の仕事だろうが、今日は彼がいない。それに父親もこの彼女には親しみを感じているようだった。 その言葉に顔を上げて惣哉を見つめた彼女の目は少し潤んでいた。言おうか言うまいか…多少の迷いはあったようだが、思い切ったように口を開いた。 「…お恥ずかしいのですが。今月は持ち合わせが底をついてしまって。あと数日でお給料が振り込まれますので、それまで何とかしようと」 「はあ?」 「君、そんなに散財しちゃったの?」 「…え、あの。仕送りをしたら、思ったよりも物いりだったので」 「仕送り?」 「…田舎の父の支払いに…。ええと、父は若年性の痴呆になってしまって。今は公立の施設のショートステイを繰り返しているんです。もうすぐ民間の特別養護の施設に入れて貰えることが決まっているんですが…民間ってお金が高くて…」 惣哉にとっては目新しい単語の連続だった。親がそう言う病に倒れたこともない。母親は若くして亡くなったが、環境の整った十分に介護してくれる病院で健やかな最後を迎えた。その入院費で困ったことなど一度もない、多分莫大な費用だったとは思うが、東城の財力を持ってすれば大した事はなかったのであろう。 なのに、目の前の娘は自分の仕送りで父親を養おうとしている。今年学生を終えたばかりのあどけない姿で。 「ですから。本当に、御心配かけて申し訳ございません。これからは大丈夫です、お仕事には支障のない様にします。副理事長さんには絶対にご迷惑をお掛けしませんから。あの、皆さんには黙っていてくださいね。心配かけちゃうと申し訳なくって…」 そうだったのか、と惣哉はようやく分かった。彼女は子供たちに心配かけたくなかったのだ。だからあんな所に隠れて食事をしていたのだ。学園は弁当持ちなので、菓子パンやテイクアウトの総菜を持っていたら目立ってしまう。それが丸ごとの林檎だったらそれこそ大変なことになってしまう。 「――給料日までだったら、僕が少し貸そうか? いくらぐらいあったら足りるのだろう?」 「そんな! 困ります!!」 「大丈夫ですから! 副理事長さんにまでご迷惑をお掛けしたくないです!!」 それには惣哉も引き下がるしかなかった。
惣哉がいれたコーヒーをきれいに飲んで、何度も頭を下げた彼女は小さい体をますます小さくして、部屋を出ていった。 廊下を遠ざかっていく足音を聞きながら、惣哉はじっと何かを考えていたが…やがて受話器を取ると経理部へのナンバーを押した。 続く(020125) |