「副理事長さん!」 「佐倉先生」 顔を真っ赤にした彼女はずんずんと惣哉の目の前まで歩み出て、手にしていた貯金通帳と給与明細の紙をテーブルの上に置いた。添えられた手がふるふると震えていた。 「あの、これはどういうことなんですか!?」 「…これが、何か?」 「何か、って。見てください! どうして今月の私のお給料が先月の倍になっているんですか? 経理の方が間違えたのかと思って、今伺ったら、これは副理事長の指示だって…」 「あ、まあ…そう言うことなんだけど…」 確かに。 そう言う風に指示したのは自分だ。彼女は代理教員で正規の給料が支払われていない、厚生面でも保証がない、自分の給料をいくらか回してやってくれと伝えた。東京で一人暮らしをしながら、親への仕送りをしていたら本当に大変だろう…ここは私立であるから、少しぐらいの操作は何ってことない。 だからといって、この反応は意外だった。感謝こそすれ、こうして怒りを露わにやってくるとは夢にも思わなかった。 「…訂正してください! 私は規定のお給料以外は頂きません。こんなの契約違反です!」 「…佐倉…先生…」 「でも。あなたは自分の稼ぎ以上にお父上に仕送りをしなければならないのでしょう? ならば、少しでも多い方がいいのではないですか?」 「馬鹿にしないで下さい!」 「私は副理事長にお金を恵んで頂くほど落ちぶれてません。正直申し上げて、迷惑です! お願いします、すぐに訂正してください…そうじゃなかったら私…」 こういう事態を招くと言うことを知らずにやったことであるが、結果として彼女を傷つけて泣かせてしまった。自分が浅はかであったことに愕然とする。 「…すまなかった、申し訳ない」 これが咲夜であったら…ためらわず抱きしめてしまうだろう…しかし、そうも出来ない。 「ありがとう…ございます」 彼女が静かに自分の涙を拭っている間…その肩越しに、惣哉はあるものを見つけた。それは惣哉の物よりは小振りなデスクと椅子のセットだった。近日中に惣哉の部屋にも彼付きの秘書を置こうと言うことで、父親が早めに運び込んでくれた物だ。 それを見つめているうちに、惣哉の心の中に新たな考えが浮かんだ。 「…佐倉先生。パソコン、使えますよね?」 「は…? はい、それは…」 「じゃあ、外国語は?」 「…外国語…? 英語ですか?」 「…副理事長さんのように、あんなにきれいには話せませんが、日常会話ぐらいだったら。読み書きだったら多少は出来ます、英文の論文を書いたこともありますし。クラスメイトには中国とフランスからの留学生がいましたから、独学ですが、それらも多少は…」 「…そう」 「…それが…何か?」 全く話の読めない彼女に、何だか面白そうに惣哉は言った。 「佐倉先生、放課後のご予定は?」 「…学校か、アパートかで教材研究をしてますが」 「じゃあ、こうしましょう。あなたには空き時間と放課後にこちらに来ていただいて、…私の仕事を手伝って頂きましょう…それなら、私から支払いを受けるのも当然でしょう?」 「…は?」 「君には僕の秘書として働いて頂きます」 「…え? …ええ〜〜〜っ!?」 「…何か、僕がおかしいことを言いましたか?」 「あのう…副理事長さん。秘書って…理事長先生の所の野崎さんのようなお仕事をするんですよね? 私じゃとても務まりません。…そんな、副理事長さん、苦し紛れに変なこと言い出さないでください。冗談でも止めてください」 小さな頭を振りながら、必死で訴える。この小さな体の中には、しかしきちんとしたプライドがあり、理性がある。不思議なものだと惣哉は思った。 「…そんなにご大層に構えることもないんだよ? 僕は自分で大体のことは出来る。接客だって父の代理ぐらいだから、あっちでやるから。ここで教材研究して、仕事を渡したときに文書をまとめたり電話の番をして貰えれば…それに」 惣哉はふふふ、と鼻で笑った。きょとんとした瞳が見つめてくる。 「僕の秘書なら、ここで昼食を摂ることになるから。いつも運んでもらってるランチを明日からひとつ追加してもらうよ。そうすればもう、林檎を隠れてかじることもないでしょう? もちろん、教室で食べた方がいいときは持っていっても良いから」 「…ふ、副理事長さん」 「とにかく、出来ることをやってもらえればいいから。詳しいことは野崎さんに聞いてね?」 「で、出来なくたって、知りませんよ」 「じゃあ、とりあえず。お茶を入れてもらおうかな? コーヒーも冷めてしまったからね?」
翌日、惣哉が学園に出勤して自分の部屋に入ると、そこにはもう先客がいた。 「さ…佐倉先生」 「私にも授業の用意がありますので、早起きしました。お掃除は一応しましたから、これからコーヒーをお入れしますね」 「副理事長さんはクリームじゃなくて、牛乳をお入れになるのがお好きなんですよね? お砂糖は疲れたときだけ、今は宜しいですか?」 「…良く知ってるね」 「野崎さんに一通り、副理事長さんのことはお伺いしました。昨日は取り乱してしまって、申し訳ありませんでした。お心遣い感謝してます…それから」 「…副理事長さん。私の名前、呼びにくいんじゃないですか? いつも言いにくそうに、声を詰まらせていらっしゃるから…」 惣哉はハッとした。自分でも気付いていなかった。しかし…彼女の「さくら」と言う姓の響きからはどうしても愛おしい少女の名を思い起こさせる。「さくや」…と。そのためにいくらかの引っかかりを感じていた。 「でしたら、下の名前でどうぞ。子供たちもその方がいいみたいで、そっちで呼ばれてますし」 「そうか、じゃあ、そうさせていただこうかな?」 「はい!」 「じゃあ、私、教室の方に行きます。またお昼に参りますね。コーヒーのお代わりもありますから、召し上がってくださいね」 「ありがとう、いってらっしゃい」 ドアの向こうに消えていった姿を見送って、惣哉は向き直った。自分の机の上に目をやると昨日までなかった一輪挿しに白い花が飾られていた。 続く(020125) |