「とても楽しかったですわ、惣哉様」 「朱美様にお気に召していただければ、私も嬉しいですよ」
惣哉の父・政哉が選び出した娘は、嫌みなほど咲夜の面影を思い起こさせる。 でも。 似ていれば似ているほど…些細な違いが際だってくる。微笑んだときの口元、髪をかき上げる仕草…髪を揺らして歩く様すら…咲夜を10年間ずっと見つめていた惣哉だから、その微妙な違いが気になる。 (…それならそれで良いだろう) 政哉が指摘したように彼は投げやりになっていた。自分が東城の家の一人息子として、良き伴侶を迎えることが必要ならばそれでいい。もう誰だって、一緒なのだ。娘の方は乗り気らしい、ウキウキと会いに来る。そして気が付くと、そろそろ婚約…と言う風に話はまとまりつつあった。 シェフが特に腕を振るったという、特上のステーキを口にしながら、ふと窓の外を見た。 東京湾を望むこのレストランからの夜景は美しい。夜の遊覧船の灯りが遠く揺らめく。桟橋の近くまで植え込まれた街路樹には数え切れない電球が飾られ、海面を明るく映し出していた。 (今日の夕食は何を食べているんだろう…?)
千雪は代用教員として採用されていた。 普通だったら小学校の教員の傍ら、秘書を兼任することは不可能だ。教材研究もさることながら、書類を作成したり、そのほかの雑多な作業がある。教員の仕事だけで身体が2つ欲しいところだ。 「でも、知識があっても教えるとなると大変なんですよ」 「教師なんて、子供の頃から割と成績が良かった人間がなるものでしょう? そうすると分からない子供はどこがどんな風に分からないのか、それを理解するのが難しいんです。『分数が出来ない』とひとことで言ってもその子の頭の中でどれだけの事が理解できているか。算数なんてつまづいたらそこでおしまいですもの、出来るだけ導いて行きたいなあと思うのですけど」 「千雪君、服の感じが変わった?」 放課後、副理事長室に入ってきた彼女を見たとき、ふと気付いた。服装が…少しずつ変化している。 「あ、お分かりになります?」 「野崎さんが、さすがにポロシャツはまずいだろうとおっしゃったので。友達に少し借りたんです、ブラウスとかスーツとか。みんな就職活動でたくさん買ったみたいで。お勤め先ではまた別のが欲しくなるようで、こういう真面目くさいのは着ないんですって」 襟がレースの縁取りになったドレッシーなブラウスとクリーム色のタイトスカート。肩にオレンジ系のスカーフを巻いている。 「服のことはよく分からないので…スタイリストをしてる友人に組み合わせて貰って」 確かにきれいな組み合わせだ。清涼感もあるし、秘書の服装としてはこの場にふさわしいだろう。…しかし。 「でも、少し身体に合ってないんじゃない? 肩も落ちてるし、ウエストもだいぶ余っているでしょう?」 「…友達の服はみんな大きくて。と言うより、私が小さいんですけど。既製服でもなかなか身体に合わないんです」 「じゃあ、お直しにすればいいんじゃないの? もっと自分の身体に似合ったサイズのものをちゃんと選んで、きちんとオーダーした物を着てごらんよ。もう少し、格好が付くと思うな」 惣哉としては間違ったことを言ったつもりはない。自分を含めて周りの人間は服をオーダーするのが当然の事になっていた。仕事着はもちろん、ラフな服装もお店で選んだとしても身体に合わせて詰めたり伸ばしたりして貰う。ほんの数センチの違いで着心地が全く違う。そして相手に与える印象も。千雪ももう少し身体に合った服を着れば様になるのではないかと思った。 でも惣哉のひとことが千雪の表情をふっと陰らせた。 「そうですね、おっしゃるとおりです」 「副理事長さん、やっぱり裕福な暮らしをなさっている方なのですね」 「え?」 「お洋服をお直ししたり、ましてオーダーで作って頂いたりしたら、どんなにお金がかかるかご存じないでしょう? 普通サイズならいざ知らず、私のような規格外の体型だったら、どうにか服と折り合いを付けていくしかないんですよ? でも、丈つめだったら少しやってみます。副理事長さんがおっしゃるとおりにしていたらお給料が洋服代で全部消えちゃいますから」 「…そういうものなの?」 「私では、詳しいことは分かりませんが。多分、今着ていらっしゃるスーツだって庶民には一生手が出せない物だと思いますよ。生地の手触りが違いますもの。私の父も副理事長さんみたいにかしこまれば少しは素敵になっただろうなあと考えたりします。もっとも仕事をしていた頃は町の工員でしたから、スーツもろくに着てませんけどね。あ、コーヒーを煎れてきますね」
自分の所得のことを考えたことなどあまりなかった。幼い頃から金銭面で苦労したことはない。父親から相続のことで相談を受けることはある。長い年月をかけて、この学園の敷地と建物の半分、そして東城家の邸宅も惣哉の名義に移っていた。多分このまま、死ぬまでこんな暮らしを繰り返すのだと思っている。 咲夜にしたってそうだ。彼女の身に付ける物はほとんどが彼女用に作られた特注品である。何人かのデザイナーがいて、折々に咲夜に一番似合うと思われるデザインを提示する。その中から選んで何枚かを作らせるのだ。一籐木グループの後継者である彼女が自分のデザインした服を着こなしてくれれば、デザイナーの名声も上がる。そう言う思惑もあって、デザインはどれも大変素晴らしい出来だった。 今、惣哉の家に居候している三鷹沢朔也…彼などは惣哉から見れば庶民の代表に思える。でも彼もゆくゆくは一籐木グループをしょって立つ人間になるのだ。中身も外見も一級品になって貰わなくては。…咲夜の隣りに立つことがふさわしい人間になって貰わなくては。
今まで、学園事業にはあまり関わってこなかったが、ここの職員の大半は学園の卒業生らしい。惣哉の馴染みの同窓生の顔もある。裕福な家庭の子女が集まる学園だ。似たもの同士が群れなす中で、千雪の様な存在はとても珍しい。 学校、特に私立ともなると職員同士の派閥抗争が経営者の大きな悩みのひとつになると聞く。ましてや地方出身の千雪。…しかし、不思議なことに彼女は自然に誰からも好かれる娘だった。子供たちは元より職員も父兄も。一緒に連れ立って校内を歩くこともあったが、惣哉は皆が自分より千雪に声を掛けてくることに苦笑した。
………
今日の午前中、惣哉は教育関係の会議に出席していて不在だった。土曜日ではあるが、昼食を済ませた後、片づけたい書類があったので学園に戻った。 (…あれ?) 惣哉には馴染みのない今風の歌謡曲だ。車のラジオを付けたときに、耳にしたことがある程度の。憂いを含んだゆるやかなメロディーをなぞるように繰り返す…澄んだきれいな声。音楽に親しんでいて、学生時代は学内のオーケストラに所属していた惣哉だ。音には敏感な彼であったが、少しの間このまま聞いていたい気分になった。ドアノブを掴んだまま、立ち尽くす。 「惣哉様。如何致しましたか?」 「え? …あ、何でもない」 「あら、副理事長さん。本日は戻られないのかと思っておりましたが」 大きく造られた窓際に向かって立っていた千雪が振り向く。昼からの日差しが強く差し込んで彼女の髪を金色に縁取った。日よけを兼ねて窓際近くに植えられた銀杏の木がふさふさと葉を茂らせている。かさかさとその身が揺れると共に開け放たれた窓から涼やかな風が吹き込んできた。 「コーヒーで宜しいですか? 冷たいものの方が良いでしょうか?」 「…熱いのでいいよ」 「あら、副理事長さん。お上手ですね」 「お好きなんですか? カラオケとか行かれます?」 「…カラオケ?」 とりあえず知識としては知っている。仕事の一環として視察に行ったこともある…「カラオケボックス」と呼ばれるところ。安っぽい部屋に安っぽいソファーがある。大きな画面を見ながら、歌を歌う姿が異様に映った。充満したタバコの香りも鼻を突き、嫌悪感を募らせた。ちなみに学園の規則では子供たちはそこへの出入りを禁止されている。 「…って。そうですよね、副理事長さんはそう言う所って似合わなそう…」 「それ、桑田さんの新譜…知ってます? サザンオールスターズって言うバンドのボーカル」 「…それくらいは…」 「今日ね、仲間たちと行くんです。ええと、同じ田舎から出てきた子たちなんですけど。みんな職種はバラバラですが、同郷のよしみってことでとても仲良しなんです。1ヶ月に一度はみんなで顔を合わせて…そうそう」 「以前、副理事長さんが私の髪が明るすぎるとおっしゃったでしょう? よく言われるんですよ、着ている物はボロなのに髪だけの手入れが良いって。これもヘアメイクしてる友達の実験台なんです。芸能人の髪もいじっているんですよ。新しい薬が入ると、試したいって呼ばれるんです」 「…そうなの」 「で、練習をしていたの?」 「え? 聴いていらしゃったんですか? …恥ずかしい」 「…カラオケって、難しいんですよ。やはり練習しないと不安だから。小さい声だから聞こえなかったと思っていたんだけど…」 そう呟く唇がいつもとは違うもう少し明るい色になっている。まじまじと見れば、ファンデーションも今日はきちんと塗られている。土曜の午後ということで早めに着替えたのか、薄いオーガンジーの布と2重になった青い小花の散ったキャミソールのドレスに白いカーディガンを羽織っている。足元も白いサンダルでヒールが高い。今まで惣哉が見てきた彼女の中で一番の着飾った姿に思えた。歩くたびにふわふわと揺れるスカートの裾から膝小僧が見え隠れする。華奢な身体に吸い付くようにドレスは彼女に似合っていた。
「…そういうデザインの服が君には似合うようだね。色が、暖色系の方がいいかも知れないけど」 「そうですか?」 「副理事長さんって、男の方なのに色々詳しいんですね。噂によると咲夜さんの服も一緒に見立てていらっしゃるって。それも、本当の様な気がします」 「え…まあ、そう言うこともあるかな?」 「一籐木のお嬢様のお洋服、いつも素敵ですものね。じゃあ、おこがましいかとは思うのですけど、私にはどんな色が似合うと思われますか? …そう言うのって自分ではよく分からなくて…友達も色々言ってくれるんですけど、ピンとこないんですよね…」 「う〜ん…そうだなあ…」 「…赤、かな」 「赤、ですか? 初めて言われましたよ。私が赤を着ると幼くなりません?」 「赤だって、色々あるからね。千雪君の肌や髪の色だと…オレンジがかった色が良さそうだね。パープルのレッドは避けた方がいいみたいだ」 少し瞼を閉じて、想像してみる…パープルのレッドは咲夜に似合う色だ。漆黒の髪と陶器の白の肌…千雪の明るめの髪と同じ色白でも黄みがかった肌は似合わない。やはりベストな色があるのだ。 「凄い! 本物のスタイリストみたいです!!」 「そうそう、忘れてました、副理事長さんはお昼は? 私はもう軽く頂いたんですが…もしも召し上がることもあるかと副理事長さんの分をおにぎりに握ってくださったんです。冷めても平気だから…召し上がります?」 「…あ、昼は済ませてきたから。君の夜食にでも持って帰れば? 悪くなっちゃうかな…」 「あ、…いえ」
その時。千雪の声色が変わった。ほんの少しだったが…ふっと沈んだ色に。
「…どうかした?」 「…すみません。私…おにぎりって食べられないんです…」 「え?」 「おかしいですよね、ご飯も海苔も大丈夫なんです。でも、おにぎりは出来れば。子供の頃からなんです…」 何とも謎めいた言葉だった。 でも千雪はもう一度「すみません」と小さく言うと、さっさと自分の作業に戻っていた。惣哉もそれ以上、問いつめる気にもならなかった。 続く(020129) |