「惣哉はいるかい?」 その声にさっと千雪が立ち上がり、ドアの所まで小走りに進み出て開ける。 「まあ、理事長先生。こちらにいらっしゃるなんて…珍しいですね」 「…父上?」 「そうも驚くこともあるまい。お前と…佐倉先生の仕事ぶりを見に来たんだよ」 「理事長先生!」 「私、ここでは副理事長さんの秘書です。「先生」はいりません、ただ佐倉と呼んでください!」 こんな風に言ってくる千雪が可愛らしくて仕方ないように理事長・政哉は眼を細めた。千雪は理事長のお気に入りだった。政哉は何かにつけて千雪を呼びつけてはおしゃべりの相手にしているようだ。 「でも、私にとっては。佐倉先生は立派な先生ですから」 「…困ります」 理事長は千雪如きが口で敵う相手ではない。簡単に丸め込まれて、下を向いている。その姿には惣哉も思わず吹き出してしまう。 「…立ち話も何ですから、どうです? たまには私の秘書の煎れたコーヒーでもお飲みになって行かれますか?」 「そうだな、頂くかな。…実は、お前と橋崎のお嬢さんとの婚約の話で」 その言葉にハッとして、千雪の方を見ていた。でもそんな惣哉よりも早く彼女は反応する。 「あ、プライベートなお話ですよね? 私、お席を外しますよ、コーヒーが入ったら持って参りますね」 「…父上」 「何だね? 私は事実を言ったまでのこと。…それとも何か、不都合な点でも?」 「…そうですが。その話なら、ここでわざわざしなくても。家に戻ってからで良いじゃありませんか? …こんな…」 「変な奴だな、妙に突っかかるな。お前と橋崎のお嬢さんとのことは学園でも皆が知っていることだろう? もちろん彼女だって承知している事、今更隠し立てすることないだろう? それどころか、秘書として知っておく必要があるんじゃないのかい?」 「そうですが、…でも…」 俯いた惣哉の姿を政哉は暫く見つめていた。それからふと、視線を窓の方にと移した。ゆっくり立ち上がる。 「…おお、この部屋から見る風景はまた少し、違うようだな」 「きれいに磨かれているな…これも千雪君かい?」 「はい、そうです。高いところを拭きたいと言ってどこからか脚立を運び込んでいたので、さすがに辞めさせましたが…」 「ふふふ、彼女の身長ではあまり高いところに届きそうにもないからな」 「でも、惜しいことだね。彼女は正式に採用になる気はないらしい。1学期いっぱいで学園を去ると言っている」 「そうなのですか?」 「でも、彼女ほどの人材なら。父上もお気に入りのご様子ですし、強く言えば残る気になるのでは?」 「…そうも行かないんだと。田舎に帰るそうだ、親御さんの近くにいたいそうだよ。…本当に惜しい人材だ」 惣哉には何も答えられなかった。
………
いつだったか、彼女が担当した生活の授業の一環で、校内の草木を見て回っている所に丁度居合わせた。 「あ、惣哉さんだ〜」 「ねえねえ〜抱っこして!」 「僕が先〜!」 「ほらほら〜こっちだよ〜」 「ほら、返しなさい…」 でも子供たちはそんなこと知るはずもなく…奇声を発しながら逃げていく。 どうしようかと思ったとき、聞き慣れたはずの千雪の声が驚くほど強い口調で響いてきた。 「こら、光之君!! 駄目ですっ…副理事長さん、困っていらっしゃるでしょう? 人が嫌がる事をしてはなりません、ふざけて良いことと悪いことがあるのよ!」 表情は分からないが、その声色で大体の検討が付く。多分、今までに見たことがないような剣幕だったんだろう、暫くして涙目の男の子が「ごめんなさい」と眼鏡を渡しに来た。 「分かりましたか、もう駄目ですからね!!」 「はい、分かれば、いいんだからね…」 すると千雪は。 柔らかく微笑んで腰を落とすと、そっとその子を抱きしめた。小さな頭を自分の胸に抱えて…彼女の目から涙が溢れてきた。そして小さな声で言った。 「偉いね、分かったんだよね…」
男の子はひとしきり泣くとすっきりした様子で、また仲間たちの中に戻っていった。その背中を見送った千雪はくるりと惣哉の方を向き直った。 「…いけませんよ、副理事長さん」 「…え?」 「ああいうときは毅然とした態度で接しなかったら、子供のためになりません。甘やかすのが教育ではないんですよ。副理事長さんはすっかり子供たちになめられてます、そんなじゃこの先、経営者が務まりませんよ!」
「…それは。お前の方が悪いだろう」 「でも、父上。あんなに子供に対してきついいい方をしなくても。子供との関わりに亀裂が入ったらどうするんです? それにあの子は家に戻って親御さんに話しますよ? 我が子を泣かされたと知ったら、いい気はしないでしょう」 「馬鹿だなあ、お前は」 「我々は子供たちを立派な人間に育成する手助けをしてるんだ。善悪の判断を付けることはとても重要だ。それも分からない親なら、こちらから願い下げだね」
………
「…もう6月も下旬なんだなあ。来週からは期末試験も始まる、慌ただしくなるな」 「そうですね」 「お前の縁談がとうとうまとまると言うことになれば、あれこれと忙しくなる。そろそろ日程を調整して、式の日取りも決めなくては…」 その横顔を目で追う。今までこの手の話には自らの事でありながら何の感情も湧いてこなかった。でも今は少し心が動く…どうしてなんだろう。 ゆっくり動いていた政哉の視線が一点をとらえて止まった。 「お前は母上のことをどれくらい覚えているかい?」 「どうしたんですか? いきなり」 「いや。お前もとうとう家庭を持つのかと思ったら、急に思い出してな。ほら、正門から続く道に、入り口の両側に街路樹が植わっているだろう? あれはお前が生まれたときに母上が希望して植えた物なんだ」 「そうなのですか、知りませんでした」 門を入ってすぐの道なりに10本ずつの樹が植えられ、ふさふさと葉を茂らせている。惣哉の成長を知るように立派な成樹に育っていた。
「…どうしたのですか? お二人でしんみりされて。おめでたいお話をされていたのでしょう…?」 「コーヒーが入りましたので、どうぞ。理事長先生はクリームとお砂糖を2個でしたね」 ………
その日の帰り道。仕事が丁度切りよく終わったので、2人で外に出た。と言っても惣哉はすぐに家に辿り付いてしまうが。ふと思い出して、さっきの父親の話をした。 「あ、でも。そうか、それで分かりました!」 「分かったって? 何が?」 惣哉が聞き返すのを嬉しそうに見つめて、千雪は大変な秘密を打ち明けるように小声で言った。 「この並木、どうしてすぐに途切れるのか、不思議だったんです。きっと副理事長さんのお母様はもっとたくさんお子様を産んで、そのたびに記念植樹をしようと考えていらしたのではないでしょうか? そうしたら、春は見事だったでしょうね」 そう言うと千雪は静かに遠くを見た。傾いた夕日がその横顔を照らし出す。その瞳に光る物を見た。 「そう、でも桜の木ならそこらじゅうに。目新しい物ではないだろう?」 「…あら!?」 「嫌だわ、副理事長さん。ここは桜じゃないですよ、ハナカイドウです。桜より少し遅れて咲く、もっと赤みの強い花ですよ、幹も葉も全然違うじゃないですか。私、この花好きなんです。だから春は嬉しかったな」 「…ハナカイドウ…?」 「きっとお母様のお好きなお花だったんですよ」 彼女は下から覗き込むように惣哉を見た。呆然とした瞳で見つめ返す。千雪はゆっくりと微笑んだ。 「…今度は副理事長さんがお植えになれば宜しいのですよ…?」 「え?」 するりと視線がそらさせる。千雪は惣哉に背を向けた。 「副理事長さん、近々ご結婚なさるんでしょう? 奥様にお子さんが出来たら、この並木に樹を増やしていけば宜しいんです。そうすれば、きっといつか見事な並木になりますよ」 惣哉は千雪の小さな背中を見つめていた。 「そうしたら、私もいつかお花見に来ますね」 「千雪君…」 どんな言葉を返したらいいのか、惣哉は混乱していた。千雪の言うことはよく分かっていたのに、どこか引っかかる。何かが違う気がする。間違っている気がする。 「ここ、表玄関まで、今の並木の10倍はあるよ?」 しかし、口から出てきたのは何とも間抜けな言葉だった。でも千雪は反応してくすりと笑って振り返った。 「じゃあ、10人産んでいただけば宜しいんです。副理事長さんのお家の財力なら、それくらい大丈夫です、少子化の世の中に歯止めを掛けてください」 「おいおい…」 さらさらと夕暮れの風が2人の間を通りすぎた。 続く(020129) |