TopNovel「並木通りのシンデレラ」扉>並木通りのシンデレラ・5



…5…

 

 

「惣哉はいるかい?」
 それからまた4,5日が過ぎて、ある日の放課後。軽いノックの音がした。

 その声にさっと千雪が立ち上がり、ドアの所まで小走りに進み出て開ける。

「まあ、理事長先生。こちらにいらっしゃるなんて…珍しいですね」
 ドアの外にいた人物があまりに意外だったので、千雪は眼をぱちくりさせた。普段だったら何か用事のあるときは秘書の野崎を通じて、惣哉の方が理事長室へ行くことになっている。

「…父上?」
 惣哉も父の訪問が意外だったので、席を立つと不思議そうに言葉をかけた。

「そうも驚くこともあるまい。お前と…佐倉先生の仕事ぶりを見に来たんだよ」

「理事長先生!」
 千雪が慌てて口を挟む。

「私、ここでは副理事長さんの秘書です。「先生」はいりません、ただ佐倉と呼んでください!」
 千雪はこういうことにひどくこだわる。惣哉のことも頑として「副理事長さん」と言い続ける。堅苦しいから名前で呼んでくれと訴えても駄目なのだ。

 こんな風に言ってくる千雪が可愛らしくて仕方ないように理事長・政哉は眼を細めた。千雪は理事長のお気に入りだった。政哉は何かにつけて千雪を呼びつけてはおしゃべりの相手にしているようだ。

「でも、私にとっては。佐倉先生は立派な先生ですから」

「…困ります」

 理事長は千雪如きが口で敵う相手ではない。簡単に丸め込まれて、下を向いている。その姿には惣哉も思わず吹き出してしまう。

「…立ち話も何ですから、どうです? たまには私の秘書の煎れたコーヒーでもお飲みになって行かれますか?」
 惣哉は明るい声で政哉に席を勧めた。

「そうだな、頂くかな。…実は、お前と橋崎のお嬢さんとの婚約の話で」

 その言葉にハッとして、千雪の方を見ていた。でもそんな惣哉よりも早く彼女は反応する。

「あ、プライベートなお話ですよね? 私、お席を外しますよ、コーヒーが入ったら持って参りますね」
 ぱたぱたとサンダルの音を響かせて、キッチンに消えていく。今日は若草色のベストスーツとサマーニットのセーターを着ていた。やはり借り物らしく、スーツは少し大きめだ。

「…父上」
 自分でも分からないうちに眉をしかめて抗議していた。

「何だね? 私は事実を言ったまでのこと。…それとも何か、不都合な点でも?」
 ひょうひょうとした感じで政哉は答える。ソファーに身を沈めて、膝の前で手を組んでいた。

「…そうですが。その話なら、ここでわざわざしなくても。家に戻ってからで良いじゃありませんか? …こんな…」

「変な奴だな、妙に突っかかるな。お前と橋崎のお嬢さんとのことは学園でも皆が知っていることだろう? もちろん彼女だって承知している事、今更隠し立てすることないだろう? それどころか、秘書として知っておく必要があるんじゃないのかい?」

「そうですが、…でも…」
 父親の言うことはもっともだ。惣哉の方がどうかしている。それは分かっていても、心に面白くない気持ちがあることを感じていた。

 俯いた惣哉の姿を政哉は暫く見つめていた。それからふと、視線を窓の方にと移した。ゆっくり立ち上がる。

「…おお、この部屋から見る風景はまた少し、違うようだな」
 そう言いながら、つかつかと窓辺に寄る。腰高の窓だが、その下も硝子張りで…左右のわずかな壁を除いて窓際の壁一面が硝子張りになっていた。昼からは日差しの強い日にはカーテンを引く。でも夏の日差しはあまり中までは来ないので今はそのままになっていた。

「きれいに磨かれているな…これも千雪君かい?」
 惣哉と2人きりの時には、政哉は千雪をこう呼んでいた。千雪に対して「佐倉先生」というのは単にからかっているらしい。

「はい、そうです。高いところを拭きたいと言ってどこからか脚立を運び込んでいたので、さすがに辞めさせましたが…」

「ふふふ、彼女の身長ではあまり高いところに届きそうにもないからな」
 その奮闘振りを想像したらしく、政哉はまた面白そうに笑った。その後、急に真顔になった。

「でも、惜しいことだね。彼女は正式に採用になる気はないらしい。1学期いっぱいで学園を去ると言っている」

「そうなのですか?」
 もともと代用教員だ。産休の小宮が戻ればお役後免になることは分かっていた。でも…1学期いっぱいだとしたら、あと一月じゃないか…?

「でも、彼女ほどの人材なら。父上もお気に入りのご様子ですし、強く言えば残る気になるのでは?」

「…そうも行かないんだと。田舎に帰るそうだ、親御さんの近くにいたいそうだよ。…本当に惜しい人材だ」

 惣哉には何も答えられなかった。

 

………

 


 千雪は惣哉から見ても、真剣に教員の仕事をしていると思う。子供たちに好かれるだけではない、彼女が受け持つと何故か教室がきれいになる。子供たちが彼女を真似て掃除するんだそうだ。

 

 いつだったか、彼女が担当した生活の授業の一環で、校内の草木を見て回っている所に丁度居合わせた。

「あ、惣哉さんだ〜」

「ねえねえ〜抱っこして!」

「僕が先〜!」
 2年生のやんちゃな子供たちが子犬のように絡みついてくる。暫く相手をしていたが、そのうちに悪ふざけをした子供が惣哉のかけていた眼鏡を奪って逃げた。

「ほらほら〜こっちだよ〜」
 男の子は足早に逃げる。

「ほら、返しなさい…」
 そうは言っても眼鏡なしでは足元がよく見えない。子供に手荒に扱われては、眼鏡がどうなるかも不安だ。今日は放課後に咲夜を送り届けるのだ。眼鏡を壊されたら、敷地続きとは言え、自宅まで予備を取りに戻らなくてはならない。

 でも子供たちはそんなこと知るはずもなく…奇声を発しながら逃げていく。

 どうしようかと思ったとき、聞き慣れたはずの千雪の声が驚くほど強い口調で響いてきた。

「こら、光之君!! 駄目ですっ…副理事長さん、困っていらっしゃるでしょう? 人が嫌がる事をしてはなりません、ふざけて良いことと悪いことがあるのよ!」

 表情は分からないが、その声色で大体の検討が付く。多分、今までに見たことがないような剣幕だったんだろう、暫くして涙目の男の子が「ごめんなさい」と眼鏡を渡しに来た。

「分かりましたか、もう駄目ですからね!!」
 腰に手を当てて、厳しい表情の千雪が眼鏡越しに見えた。男の子が小さく頷いた。

「はい、分かれば、いいんだからね…」
 千雪の表情がふっと緩む。男の子の頭をふわっとなでた。途端に彼は感きわまったのか、大声で泣き出した。

 すると千雪は。

 柔らかく微笑んで腰を落とすと、そっとその子を抱きしめた。小さな頭を自分の胸に抱えて…彼女の目から涙が溢れてきた。そして小さな声で言った。

「偉いね、分かったんだよね…」

 

 男の子はひとしきり泣くとすっきりした様子で、また仲間たちの中に戻っていった。その背中を見送った千雪はくるりと惣哉の方を向き直った。

「…いけませんよ、副理事長さん」

「…え?」
 立ち去るに立ち去れなくなり、呆然とそこにいた惣哉は急に声を掛けられて驚いた。

「ああいうときは毅然とした態度で接しなかったら、子供のためになりません。甘やかすのが教育ではないんですよ。副理事長さんはすっかり子供たちになめられてます、そんなじゃこの先、経営者が務まりませんよ!」


 

「…それは。お前の方が悪いだろう」
 この話が出たときに政哉はきっぱりと言った。

「でも、父上。あんなに子供に対してきついいい方をしなくても。子供との関わりに亀裂が入ったらどうするんです? それにあの子は家に戻って親御さんに話しますよ? 我が子を泣かされたと知ったら、いい気はしないでしょう」

「馬鹿だなあ、お前は」
 政哉は心底呆れたように、惣哉を見つめた。

「我々は子供たちを立派な人間に育成する手助けをしてるんだ。善悪の判断を付けることはとても重要だ。それも分からない親なら、こちらから願い下げだね」


 千雪は知っていたのだ。子供たちに何が一番必要かを。彼女のまっすぐな瞳を見ていると惣哉は今まで知らなかった世界が拓けていく気がした。

 

………

 

「…もう6月も下旬なんだなあ。来週からは期末試験も始まる、慌ただしくなるな」

「そうですね」
 自分が学生を終えて久しいので、何とも感覚が鈍っている。でも今回は咲夜も朔也も最高学年として、そして受験生として臨んでいる。少しは身近に考えることが出来た。

「お前の縁談がとうとうまとまると言うことになれば、あれこれと忙しくなる。そろそろ日程を調整して、式の日取りも決めなくては…」
 政哉はそう言いながら窓の下を見ている。

 その横顔を目で追う。今までこの手の話には自らの事でありながら何の感情も湧いてこなかった。でも今は少し心が動く…どうしてなんだろう。

 ゆっくり動いていた政哉の視線が一点をとらえて止まった。

「お前は母上のことをどれくらい覚えているかい?」

「どうしたんですか? いきなり」
 意外な問いかけだった。年若くして亡くなった惣哉の母。体が弱く、病院暮らしが長かった。子供も惣哉一人を生むのが精一杯だったと聞く。

「いや。お前もとうとう家庭を持つのかと思ったら、急に思い出してな。ほら、正門から続く道に、入り口の両側に街路樹が植わっているだろう? あれはお前が生まれたときに母上が希望して植えた物なんだ」

「そうなのですか、知りませんでした」

 門を入ってすぐの道なりに10本ずつの樹が植えられ、ふさふさと葉を茂らせている。惣哉の成長を知るように立派な成樹に育っていた。


「…どうしたのですか? お二人でしんみりされて。おめでたいお話をされていたのでしょう…?」
 キッチンから出てきた千雪が不思議そうに窓際の2人に声を掛けた。

「コーヒーが入りましたので、どうぞ。理事長先生はクリームとお砂糖を2個でしたね」
 お盆を手にした千雪は2人をかわるがわる見つめながら、にっこりと微笑んだ。


………


「…記念樹ですか。副理事長さんのお母様は素敵な方ですね。でも20本も一気に植えちゃうのが凄いです」

 

 その日の帰り道。仕事が丁度切りよく終わったので、2人で外に出た。と言っても惣哉はすぐに家に辿り付いてしまうが。ふと思い出して、さっきの父親の話をした。

「あ、でも。そうか、それで分かりました!」
 千雪は急に思いついた様子で、言った。

「分かったって? 何が?」

 惣哉が聞き返すのを嬉しそうに見つめて、千雪は大変な秘密を打ち明けるように小声で言った。

「この並木、どうしてすぐに途切れるのか、不思議だったんです。きっと副理事長さんのお母様はもっとたくさんお子様を産んで、そのたびに記念植樹をしようと考えていらしたのではないでしょうか? そうしたら、春は見事だったでしょうね」

 そう言うと千雪は静かに遠くを見た。傾いた夕日がその横顔を照らし出す。その瞳に光る物を見た。

「そう、でも桜の木ならそこらじゅうに。目新しい物ではないだろう?」
 ゆっくりと目をそらして、惣哉は何気ない感じで言った。

「…あら!?」
 千雪はいつもの調子に戻って、明るく笑う。

「嫌だわ、副理事長さん。ここは桜じゃないですよ、ハナカイドウです。桜より少し遅れて咲く、もっと赤みの強い花ですよ、幹も葉も全然違うじゃないですか。私、この花好きなんです。だから春は嬉しかったな」

「…ハナカイドウ…?」
 この並木にどんな花が咲いていたのか、何の記憶もなかった。

「きっとお母様のお好きなお花だったんですよ」

 彼女は下から覗き込むように惣哉を見た。呆然とした瞳で見つめ返す。千雪はゆっくりと微笑んだ。

「…今度は副理事長さんがお植えになれば宜しいのですよ…?」

「え?」
 言葉の意味が分からない。彼女が何をもってこの言葉を告げているのか…?

 するりと視線がそらさせる。千雪は惣哉に背を向けた。

「副理事長さん、近々ご結婚なさるんでしょう? 奥様にお子さんが出来たら、この並木に樹を増やしていけば宜しいんです。そうすれば、きっといつか見事な並木になりますよ」

 惣哉は千雪の小さな背中を見つめていた。

「そうしたら、私もいつかお花見に来ますね」

「千雪君…」

 どんな言葉を返したらいいのか、惣哉は混乱していた。千雪の言うことはよく分かっていたのに、どこか引っかかる。何かが違う気がする。間違っている気がする。

「ここ、表玄関まで、今の並木の10倍はあるよ?」

 しかし、口から出てきたのは何とも間抜けな言葉だった。でも千雪は反応してくすりと笑って振り返った。

「じゃあ、10人産んでいただけば宜しいんです。副理事長さんのお家の財力なら、それくらい大丈夫です、少子化の世の中に歯止めを掛けてください」

「おいおい…」
 千雪の無邪気な発言に頭を抱える。

 さらさらと夕暮れの風が2人の間を通りすぎた。

続く(020129)

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