TopNovel「並木通りのシンデレラ」扉>並木通りのシンデレラ・6



…6…

 

 

 昼下がり、いつものように敷地内の散策。子供たちの元気の良い笑い声に混じって、聞き覚えのある声がした。

「千雪君か?」
 惣哉が足を止めたので、隣りを歩いていた政哉もつられて立ち止まる。

 梅雨の中休みで晴れ渡った空の下、紫陽花の花びらを繋いで、飾りを作っているようだ。普段は「草木を大切に」と言う校則もあってこんな事は許されないが、ここの紫陽花は来週頭に剪定することになっている。いつまでも花を咲かせて枝を伸ばしておくより、時期を見て刈り込んだ方が来年の花のためになるとの庭師の意見で毎年行われていることだ。そこで大きな手鞠のようにそこここに咲き誇る花たちは子供たちの遊び道具に変わっていた。芝の上に座り込んだ千雪が子供たちの集める花びらを糸で繋いでいく。何人かの女の子は頭や首に花飾りを付けていた。

「今日は忙しいと言って、昼間来なかったんです。こんな事をしていたんだ…」

 小柄な彼女が子供たちの中にはいると、ほとんど見分けが付かなくなる。何やら冗談を言い合っているようで、時折大きな笑い声がはじける。もちろん、千雪もお腹を抱えて笑い転げていた。

 

………


「…やだ、声を掛けてくだされば良かったのに。こっそり見ているなんて」
 放課後やってきた彼女は、惣哉の話に頬を膨らませて抗議した。

「何だか、取り込み中だったようだから、申し訳なくてね。…随分楽しそうだったじゃない、笑い方もここにいるときと全然違うから。子供たちといるのはそんなに楽しいのかい?」

「…副理事長…さん…?」
 惣哉の言葉にどこか非難めいた色を見たのだろう、千雪は眼をぱちくりさせた。

「…あ、いや…」
 自分でもどうしてこんな言い方をしてしまったのか分からない。しどろもどろに言葉を濁す。

 その表情を見つめていた千雪はくすくすと笑い声を上げた。

「あのね、副理事長さん。こういう言葉、知ってます…? 目の前の人は自分自身の心を映しだす鏡なんですって」

「…へ?」
 謎解きの様な言葉に気を取られて、思わずコーヒーのカップを落としそうになった。

「私は子供たちが楽しそうに笑うと、それにつられちゃうんです。哀しそうな顔を見ると哀しくなるし…だから、副理事長さんにもつられちゃうんじゃないかしら? だって、副理事長さんはお笑いになるときだってふふっと口元が緩むぐらいだし、いつも静かでおとなしやかでしょう? だったら私だって大声で笑えませんよ?」

「う〜ん…」
 言われてみればそうである。おなかの底から笑い転げた記憶もないし…何事にもゆったりと通り過ごして来た気がする。

「でも、見てみたいかも知れません。副理事長さんが大声でお笑いになる所」

「…え?」
 顔を覗き込まれて絶句する。急にそんな風に話を振られても困ってしまう。その表情がよほどおかしかったのだろう、千雪がくすくす笑う。惣哉もつられて照れ笑いする。

「…参ったなあ…」
 どう取り繕って良いのかも分からず、惣哉は頭をかいた。

 

………


「…何だか惣哉さん、楽しそう…」
 後部座席から身を乗り出して、咲夜が言う。今日は咲夜を送り届ける日だ。朔也は今頃、予備校に着いた頃だろう。期末試験の勉強にかかりきりになることもなく、受験勉強も続ける。彼の生活はハードだ。

「そうでしょうか?」
 信号が赤になったので、バックミラーに顔を映してみる。…自分ではよく分からない。

「そうよ〜そんなに素敵なお方なの?」

「…え?」
 ぎくりとする。心臓を素手で掴まれた気分になる。

「そ、それは…」

「まあ、ごちそうさま。御婚約ももうすぐなんでしょう? 何だか妬けちゃうわ…」

「咲夜様…」
 ハンドブレーキを降ろして発進する。心のどこかでホッとしたような不思議な気分になった。

 当たり前のことだが、咲夜は自分があの女性を思いだして笑ったのだと思っているようである。拗ねた言葉が何ともおかしい。2人の間にいつしか穏やかな関係が戻っていた。

「でも本当、惣哉さんは前より丸くなったみたいよ。つんつんしたところがなくなって、表情も穏やかになったわよね。こういうのって、女性の影なのかあ…」
 ちらりとバックミラーを見ると、拗ねた表情で頬杖を付いている咲夜が見えた。

「…咲夜様だって、そうではありませんか?」

「…え?」
 惣哉の言葉に咲夜が驚いて聞き返してくる。

「表情が明るくなられましたね、そんなに朔也はすごい男なのでしょうか」

「…まあ!」
 頬を赤らめて照れ笑いをしている。こんな表情も自分といるときには見たことがなかった。

「でも嬉しいわ。惣哉さんも幸せになるのね…」

 右にハンドルを切る。咲夜の言葉には答えなかった。

 

………

 …時々、見る夢がある。

 地面に足がついている感覚はあるのに、自分を取り囲む大気はゼラチン質にまとわりついてくる。身体が自由に動かない。息の出来る水の中にいるように、強い抵抗を感じながら惣哉は振り向く。…探している、いつもの人を。いつもこの夢の中では一人の人を追い求めている。

 半透明な大気の向こうに揺らめく物があった。

「…!! …咲夜様…!!」
 上手く発することの出来ない声が喉の奥で引っかかる。彼の言葉に反応して、青い服の少女がゆっくりと微笑む。そしてこちらに手を伸ばす。…招くように…。

 彼女の黒い髪がその生まれ持ったウェーブのまま、大気を漂う。するりときびすを返して、向こうに向こうに遠ざかる。

 …待ってください…!!

 声にならない。自分の胸の中で警告を発するようにはじけるのみ。身体の外に出ていかない。彼女の行く方向に慌てて追いかける。

 すると…忽然と現れる…透明な壁。手で触れると氷のようにつるつると掴み所もなく滑った。でも力一杯叩いたところで、壊れることはない。

 いつも見る夢だった。…いつからだろう…? だからいつもと同じその続きも分かっている。

 壁に行く手を阻まれたまま呆然としていると、一枚のドアが浮き上がってくる。必死でドアのノブを探す…位置はいつも同じなのに手が滑り落ちる。言葉が消えた空間で、ドアのガチャガチャときしむ音だけが辺りに響く。焦った気持ちで鼓動が早くなる、汗で眼鏡がずり落ちる…前髪が視界に入ってくる…だいぶ乱れているようだ。

 カチャリ、微かな音がしてようやくドアが開かれる。去っていく少女の背中が、それでも少しは近くなる…ホッとしたのもつかの間、また目の前に先ほどと同じ壁が現れる…。

 壁に阻まれては焦る心。開かれたドアに安堵したもつかの間、再び立ちはだかる新たなる壁…決まり切った展開なのに、どうしても慣れることが出来ない…悪夢だ。何年も見続けている悪夢だった。

 揺らめく大気、阻む壁。…走り去っていく永遠の少女…。

「……!!!」
 声にならない想いがこだまする。

 

 ――と。

 

 ずるりと何かに腕を獲られた。吐き気がする…激しい逆流の中で目眩を起こして一瞬、目を閉じた。脳みそが全て吸い抜かれる…そんな錯覚を覚える。

 今までのこの夢の終結とは異なる、味わったことのない感覚。口の中にあの大気を感じたまま、うっすらと目を開けた。


 薄暗い…最初はどこにいるのか分からなかった。

 外の風景が夕暮れの色を濃く染め上げて、ゆったりと横たわる。いつもは千雪が座っている机の上のライトだけが青白い空間を作っている。部屋の電気は落としたままだ。身を埋めていたソファーの中で、身じろぎした。背中がぐっしょりと汗をかいている。汗をかいているのに…しっとりと冷たい。口の中はカラカラに乾いていた。

 だるい身体をもてあましていると…だんだん戻ってきた感覚の中に異質の物を感じた。

 右手が。何か温かいもので覆われている。両手のひらも背中と同様、冷たい汗をかいていたが…そこだけがホッとするぬくもりに包まれていた。

「…副…理事長さん? 大丈夫、ですか?」

 声の方に視線を移す…千雪だ。ソファーに座っている自分を見上げて、彼女は床に座っていた。心配そうな茶色の目が惣哉を見つめて揺れている。その色がだんだん安堵のものに変わっていった。

「…僕は…」
 背を起こす。ソファーとの間に空間が生まれて、背中にひんやりとした空気が入り込む。

「こちらに参りましたとき、お休みのようでしたので。ご様子を見ていたのですが」

 膝にかかっている毛布に気付く。6月の終わりとはいえ、梅雨のさなかでひんやりと冷え込む日だった。千雪がかけてくれたのだろう。部屋全体の灯りが付くとうたた寝には迷惑だろうと、彼女はデスクライトのみで仕事をしていたようだ。

 咲夜を自宅に送り届ける日だった。一籐木の家まで行って、何となくここまで戻ってきた。5時に近かったのでそのまま引き上げても良かったのだが、今日は朔也が予備校なので家庭教師の必要もない。一杯コーヒーを貰ってから、ゆっくり家に戻ろうと思った。

 でも千雪は副理事長室にいなかった。
 もう帰宅したのかと一瞬思ったが、彼女の通勤用の靴が置いてあった。多分、会議でも長引いているのだろう。しばらく待とうと考えた。

 

 …いつの間に眠っていたのだろう? そしてあんな夢を。

 

 無意識のうちに右手を動かしていた。それに反応して、千雪が驚いて包み込んでいた手をどける。

「あ、すみません…」
 デスクライトに顔の左半分が照らされた彼女は慌てたように髪を揺らして言葉を発した。

 自分の物だけに戻った手が何とも心細い。

「…この所。副理事長さん、とてもお忙しいご様子で――お疲れなんだろうなと。今日はこの後ご自宅に戻られるだけでしょう? 少しごゆっくりなさった方がと思ったのですが。あの、ひどくうなされていらっしゃったので…」
 スカートを叩いて、半歩、後ろに下がる。彼女としては無意識にしたことだったのだろう、初めて自分の行為に気付いたらしくひどくうろたえていた。

「…そう」
 いつもは自宅の部屋でこの夢を見る。目が覚めたときの額に残った嫌な気分はいつも同じだったが…自分自身は眠ってその夢の中にいる、端から見てどんな姿なのかは分からない。
 額に右手を持っていく。いつもよりは辛くない。深みにはまる前に目覚めたらしい。中途半端な浮遊感があった。そして、思い切って訊ねた。

「僕…何か…叫んだりとか、してたかな?」

 その言葉に視線の先の千雪が困惑した表情で薄く微笑んだ。ほの暗い空間にひよこ色のサマーセーターが浮かび上がる。肩から胸の辺りまでビーズ飾りが付いている物で、なかなか質は良さそうだ。ただ、相変わらずサイズは余っている。細い首筋に吸い付いた襟元と袖口にも一列に小粒のビーズが縫いつけられていた。

「…一籐木の、お嬢様のお名前…呼んでいらっしゃいました…」
 淡々とした言葉が返ってくる。瞳は緩やかに輝く。まるで子供を慰める母親のように。

 惣哉はその言葉に息を呑んだ。自分の行為が自分で信じられない。確かに夢の中で咲夜を追っていた。いつもそうだ。自分の中に彼女に対する未練の想いは消えたはずだ。それなのに夢に見る…。

 一体…どうして…。

「あの、友達にこの前貰ったハーブティーがあるんです。あまり香りのきつい物ではないので、お飲みになります? きっと落ち着かれると思いますよ」
 千雪が静かにそう言って、背中を向けた。

「…副理事長さん?」

 次の瞬間。千雪の声で我に返った。自分の右手が彼女の片腕を掴んでいた。

「あの…何か?」

 思いがけない行為に振り向いた彼女には答えず、惣哉はそのまま浮かした腰をもう一度ソファーに沈めた。腕を掴まれたままの千雪はバランスを崩して惣哉の上に倒れ込む。丁度、惣哉に背を向けて彼の膝の上に座ってしまった状態だ。

「…副…」
 咄嗟の行為に身をよじって逃げようとした彼女は、しかし、後ろから惣哉に抱きすくめられていた。驚きのあまり、声も出ない。左右から自分の身体に巻き付いた腕が小刻みに揺れていた。どれくらいの寝汗をかいたのだろう、ワイシャツまでしっとりとしている。左の頬に惣哉の柔らかい髪の感触がした。

「…ごめん、しばらく…このままでいて…」
 そう告げる声も震えている。

 

 …千雪が背を向ける。その瞬間に、惣哉の中で何かがはじけた。

 

 走り去っていく…咲夜。追いかけても追いかけても…届かない背中。…届かない想い。
 いつか去っていくと知っていた。咲夜がどんなに甘い視線で自分を見上げていても、それはいつか届かない物になるのだと。心のどこかで諦めていた自分がいたのだ。

 そして、それが現実の物になる。愛おしい少女は自分の前から去っていった。

 

 咲夜よりも小さな身体。さすがにあれ以来、林檎で昼食を済ませるようなことはなくなったが、それでも元々が細い体質なんだろう。あまり強くかき抱くと、折れてしまいそうだ。花の香りがする…シャンプーがムースの匂いだろうか?

 …もう、自分から去っていく背中は見たくないと思った。

 今、確かに腕の中に感じている暖かさ。それを確かめたとき、惣哉の頬に熱く流れて行くものがあった。

「…副理事長さん」
 惣哉のすすり泣く声が、千雪の耳に届いた。後ろから抱きすくめられたままで、それでもしっかりした声でゆっくりと話し出す。

「大丈夫ですよ、副理事長さんにはちゃんと素敵な方が待っていてくれるはずです。お寂しかったんですね」

「千雪…君」
 鼻をすすり上げる。こんな風に人前で泣くのは咲夜があの事件の後、ようやく目覚めたあの時以来だ。千雪はもたれかかる感じで、惣哉の頭にそっと自分の頭をすり寄せた。

「副理事長さんは素敵な方です、きっとお幸せになれますよ。さ、離してください…」

 惣哉の呼吸がだんだん落ち着いて来るのを確かめて、言い含める声がする。自分でも気付かないうちに腕を解いていた。千雪はゆっくり立ち上がると、惣哉の方に向き直る。そしてゆっくり微笑んだ。

「今は信じられないかも知れません。でもきっと、咲夜様以上に副理事長さんの事を幸せにして下さる方はいらっしゃいます。ご自分と向き合われてください、そうすればもう逃げることはないはずですよ…」
 その表情は母親のそれだった。暖かく、包み込むように惣哉に降り注ぐ。長いこと忘れていた感情が甦ってきた。

「…君は…」
 惣哉は呆然とした顔で千雪を見つめ返した。

「どうして、そんなに…」
 分からなかった、この小さな身体のどこに強さがあるのか。自分の心まで抱きとめてしまうほどの大きな何かがある。

「私、強くなんかないんですよ」
 困った表情に変わって、髪を揺らす。よく手入れされたそれはするすると滑らかに彼女の顔の回りで躍っていた。

「…私、おにぎりが食べられないと言いましたよね。でもずっと小さい頃は食べられたんです。それが…あの日を境に…」

 そこまで告げると、彼女は窓の外を見た。視線の先にあのハナカイドウの並木がある。

「私が10歳の時に。母が弟を連れて、出ていったんです。朝起きたら、台所のテーブルにおにぎりが置いてあって、母と弟がいなかった。それ以来、会ってません。両親は協議離婚しましたが、母も弟も2度と私たちに会いに来ませんでした」

 そのままほのかに光の射し込む窓際まで歩いていって、額を硝子に押しつける。

「私と父は、捨てられたんです。とても哀しかったです。それからなんです、そのおにぎりはテーブルの上でひからびて、カビが出て、それでも捨てられなかった」

 思いがけない告白だった。千雪の履歴書の母親の欄は空白だったが、母と死別している惣哉はそんな物だと思って気に留めてなかった。

 何と答えて良いのか分からないでいる彼にゆっくりと振り向いた千雪は、涙もなく微笑んでいた。

「だから、私も去られる悲しさは少しは分かります。これが母から貰った最後の愛情だと思ってます。副理事長さんはお優しいし、素敵な方です。大丈夫ですよ、きっとお幸せになれます」

「…どうして、そんなことが分かるの?」
 信じられないほど、断言する。その彼女の態度が分からなかった。雲を掴むような何とも曖昧な感触、どうしてそんなにしっかりとした口調で告げるのか。

「あら?」
 そう言った千雪は、普段通りの明るい声に戻っていた。惣哉の前をつかつかと横切るとまっすぐにドアの所まで行き、部屋の灯りを付けた。

 そして、くるりと振り向いて、にっこり微笑む。

「副理事長さんに好かれて、嬉しくない方なんていらっしゃいませんよ? そうでしょう?」
 
 呆気にとられた惣哉を残して、彼女はキッチンへと消えていった。

 

続く(020202)

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