7月がふんわりと降りてきた。 急ぎの関係書類に一通り目を通し、大きくため息を付く。 もしここに千雪がいたら、心配そうに見上げるだろうからこういう行為も慎んでしまう。今は5時間目の真っ最中でそういう心配は無用だった。 千雪と初めて逢ってから、1ヶ月が過ぎた。正式には顔合わせの時に対面しているはずだし、彼女自身は何度も惣哉と廊下ですれ違い、会釈をしている、と笑っていた。 でも…。 机の上、千雪が活けたカーネーションとかすみ草の花が窓からの湿った風に揺れている。彼女が来てから花は欠かしたことがなかった。毎日丁寧に水を換えて、手入れをし、それでもくたびれてくるとそれはキッチンの花瓶に移される。そしてここには新しい花が活けられる。 「わざわざ、買ってくるの? 大変でしょう」 「アパートの1階がお花やさんなんですよ、余ったお花を大家のおじさんが下さるの。茎が折れて短いのとか花の形がちょっと歪んだ物や。でもこうして飾れば、少しはお役に立てるでしょう? お花だって愛でられるために切られたんですよ」 実際、彼女の話には魚屋さんだの果物屋さんだの…とにかく色々な人間が登場した。話しぶりからも皆に可愛がられているのがよく分かる。
そんな彼女が昨日、はにかんだ笑顔で言った。 「あの、明日少し早めに上がらせて頂けませんか? 友達と会う約束があって」 「別に構わないよ、僕も明日は定時で上がるし…でもいつもならもっと遅い時間に会うでしょう? どうしたの?」 仕事を持っている友達ばかりだ。職種も様々だが販売業の子は8時にお店が閉まるまで出られない。そんなに早く彼女が出る必要はないのだ。不思議そうに訊ねると、千雪はちょっと考えた後、小さな声で言った。 「…誕生日なんです。みんながパーティーをしてくれるって。そしたらいつも髪の毛をいじってくれる子がきれいにセットしてくれるって言うんです。わざわざ私のために予約を入れないで時間をとってくれたんですって」 「へえ…」 「そうそう、その子、タクミくんって言うんですけど。言ってました、私のセンスが良くなったって。何だかあか抜けたって…」 くすくすと恥ずかしそうに笑う。 確かに彼女の服装や持ち物について色々と口を出してしまうことが多かった。小姑のようで我ながら嫌になるが…何しろ、安っぽいのだ。同じ服を着るのだってもう少し着方があるだろうと思ってしまう。その上、ジャージなども安物を買うらしく、裾や袖口がすぐにだらしなく伸びてしまう。 きちんとした品物を買えば、結局は長持ちして安く付くんだと言うと、ちょっと困った顔をして微笑んだ。 でも今の千雪の言葉。惣哉が反応したのは違う部分だった。 「…ヘアメイク…男性だったの?」 思わず驚きの声を上げてしまう。きょとんとして彼女が答える。 「そうですよ。どんなお仕事だってその道のプロは男性の方が多いじゃないですか。あれ、私、言いませんでしたっけ?」 「そう…」
…シャラリと流れる金属音がして、自分の腕にはまっていた時計を思い出した。咲夜が、去年の惣哉の誕生日に贈ってくれたもの。華美ではなく、そうと言ってシンプルすぎず、惣哉の好みを熟知した選び方だ。彼自身も気に入っていた。 時計の重みを感じる左手でそっと髪をかき上げる。そのまま額に手を当てて、じっと考え込んだ。 やがて、車のキーを手にして席を立つ。惣哉のいなくなった部屋、彼の机の上に外された腕時計が置かれていた。
………
いつものようにぱたぱたとサンダルの音を響かせて廊下を歩いてきた千雪は、部屋に入ってすぐ大きく目を見開いて絶句していた。 「あの…副理事長さん…これ…?」 「誕生日なんでしょう? 君はいつも頑張ってくれるから、ほんのお礼だと思って」 「でも…」 あっさりと差し出された物をすぐには受け取れない。彼女の小さな手は自分のスカートを握りしめていた。しばし黙ったままだったが、やがて顔を上げると決心した表情でそれを受け取った。 「ありがとうございます…」 彼女の腕では抱えきれないほどの大きな花束。淡いピンクと白で彩られたそれは少女の微笑みそのものの仕上がりだった。馴染みの花屋に飛び込んだ惣哉だったが、何しろ花の名前がよく分からない。目に付くままに色々な花を選んだら、こんなに大きくなってしまった。それをここまで運ぶのもちょっと恥ずかしかったが、授業中のことで何人も見てないだろう。 でも、千雪が喜んでくれるなら。そんな思考が頭を埋めていた。アクセサリーでは好みがあるし仰々しい、小物もいきなりでは用意できない。いつも欠かさずに花を活けてくれる程の彼女だ。花が嫌いなわけではない。 しかしながら。 …目の前の千雪の態度は想像していた物とはちょっと違っていた。彼女のことだ、頬を染めて喜んでくれるのかと思っていたが、当の本人は喜びと言うよりは戸惑いの様相が強い。だいたい、抱えたまま少しふらふらしている。きゅうっと抱きしめるように花束を抱えて、再び言葉をなくしている。それも喜びの態度だと思えばこちらも嬉しいが、どうもそう言う感じではない。身体全体で困惑しているのが空気で伝わってくる。 「…ごめん、あんまり嬉しくないみたいだね」 その言葉に千雪は慌てて顔を上げた。 「いいえ、そんなことないです。ただ、こんなに立派なお花は頂いたのが初めてで…びっくりしちゃって…」 「あの…ごめんなさい。本当に嬉しいんです、でもこんな…」 「重かったら、アパートまで車で運んであげようか?」 「いいえ、今、野崎さんにお聞きして、…花瓶を探して参ります」 「え…?」 「ええと、中央玄関の前がいいかな? せっかくですから、皆さんのたくさん見てくださるところに、飾りましょう?」 「…千雪君? これは君に贈った花だよ、アパートに持って帰れば良いのに…」 話の展開が理解できない。そんな惣哉に身軽になった千雪は静かに微笑んだ。 「こんなに大きな花束を頂いても。今は夏ですし、数日の命です。ウチの6畳一間のアパートじゃお花が可哀想、大体こんなに大きかったら、バスタブに浮かべて置くしか出来ませんよ…?」 「そんな…」 「あ、もちろん何本かは頂いて行きます。副理事長さんのお気持ちはちゃんと受け取りましたから。本当にありがとうございます!」 おかっぱ頭がぺこりとお辞儀する。何ともやりきれない気持ちでそれを見ていた。
彼女が部屋を出ていった事を確認すると、もう一度大きくため息を付く。天然のフローラルの香りがしつこいほどに鼻をついた。
………
惣哉は自分の贈った花が活けられた大振りの花瓶の前を通って、部屋へとやってきた。何ともやりきれない、しっくりこない気持ちで一杯だ。それがどこから来ているのか分からない。 今日は学園自体は振り替えの代休だったが、午後から重要な会議がある。子供たちは休みでも職員は出勤だ。明日からは期末試験も始まる。千雪には無理をしないでゆっくりと出勤するようにと念を押した。しかし、ドアを開けると、待ちかまえていたような笑顔が視界に飛び込んできた。 「おはようございます、副理事長さん。あら、顔色が優れませんか?」 「いや…気のせいだと思うよ」 「副理事長さんの今日のご予定は、昼食後の1時から運営会議でしたね。…午前中は?」 「え、会議のための書類に目を通そうと思っているけど…?」 「ああ良かった! じゃあ、10時になったらお茶しましょう? いい物があるんです」 「昨日、貰ったんです。これ、『行列の出来るケーキ屋さん』の看板商品の焼き菓子ですよ。なかなか手に入らないんです! 昨日のお花のお礼に手を付けないで持ってきました」 「千雪君…」 「本当はね、珍しい物だから仲間のみんなも味見したいって言ったんです。でも副理事長さんと食べようと思って死守しましたからね。ちゃんとおいしい紅茶も仕入れてきました! 完璧です!」
…花より団子…
惣哉はこの日、何度も思い出し笑いをする羽目になった。でもそれは彼の中で、とてもささやかに幸せな瞬間でもあった。
………
あまりに雨が吹き込むので、立ち上がった千雪が窓際に行って硝子を閉めた。その後、雨が吹き込んだところを雑巾で拭いていると惣哉の机の電話が鳴った。 「…あ、自分で出るからいいよ」 ややあって、保留ボタンを押すと千雪に声を掛ける。 「君の、ご実家の親戚の方だって。どうする?」 「あ、子機の方を下さい、キッチンに行って話してきます」 惣哉は今日の会議の内容をまとめながら、雨の音を聞いていた。千雪は小さな声で話しているのか言葉は聞き取れない。暫く立って、通話中のランプが消えていることに気付いた。 ああ、終わったのかと思い、書類をまとめる。今日中に作成して欲しい文書がある。そんなに長い文章ではないので今からパソコンで打ち出してもそう時間はかからないだろう。
そう思って待つせいか、なかなかキッチンから戻らない彼女が気になった。お茶でも入れているのかとも考えたが、席を立つとキッチンの入り口で声を掛けた。 「…千雪君?」 返事がない。千雪は突き当たりの壁に向かって立っていた。こちらから見ると小さな背中しか見えない。少し俯いている。左手の棚の上に彼女が持っていった子機が置かれていた。 「どうしたの、電話は終わったんでしょう?」 「…すぐに、参ります。少し一人にさせてください」 「…え…?」 「千雪君――」 振り向かない背中。惣哉がよんでいる声は耳に届いているはずだ。さらさらと髪が揺れて、手を顔に持っていったのが分かる。 背中に冷たいものが流れて、覚えず彼女の腕を引いていた。それほど強い力を入れなくても軽い体は反転して、こちらに向き直る。 抗議する目がこちらを見ていた…頬が濡れている。 「ちゆ…どうしたの? 何かあったの?」 「来ないでください! 一人にして下さいと申し上げたでしょう?」 そんなことを言われたって、この顔を見てしまっては後に退けない。 彼女の泣き顔を見るのは2回目だった。最初は初めてここに千雪が飛び込んで来たときだ。あの時は怒りに満ちた涙だった。興奮余って出たという感じの…今は違う。このまま放っておいたら崩れ落ちてしまいそうなはかなさに支配されている。 真っ赤になった目が…気丈な言葉とは裏腹に光をなくしてそらされた。惣哉に掴まれた薄い肩が小刻みに揺れる。 惣哉はそのまま自分の胸に彼女を引き込むと、その背に腕を回して固く抱きしめた。 「…副…、やめてください、離してください…!」 当然の事ながら、千雪は激しく抵抗する。そんなことは分かっていた。でも腕の中でもがく人を解放することはどうしても出来ない。更に腕に力を込めると、震える声で言った。 「…これなら、君の顔は見えないから。泣いていいよ…」 その言葉に更に千雪の背が固くなる。 「う…」 次の瞬間、今までの緊張が嘘みたいにふわっと抵抗が消えた。軽く呻いた彼女の身体が力をなくして、しっとりと吸い付いてくる。そして堰を切ったように泣き出す。小さなすすり泣きが狭いキッチンに響いた。 愛おしい、と思った。…そして、離したくないと。 当然のように湧き起こってくる欲求。
「…千雪君…」 惣哉の心の中で、今まで駆けめぐっていた様々な想いがようやくしっかりと形になった。 「僕は…君を、守りたい」
彼の言葉を受けるように、窓の外の雨足が一層激しさを増した。
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