TopNovel「並木通りのシンデレラ」扉>並木通りのシンデレラ・8



…8…

 

 

 初めは不思議な子だと思った。今まで自分の周囲にいなかった、目新しい存在。

 いつの間にかそれを目で追うようになる。彼女が副理事長室にいないときはついつい無意識に探している。構内を歩くときも耳では彼女の声を求めて、目はあの小さな身体を、揺れる髪を映そうと漂う。気付かないうちに惣哉は千雪の存在全てに支配されていた。
 惣哉の今までの10年間、咲夜がいたはずの場所にすんなりと入り込んできたのが千雪だった。

 …やっと、つかまえた。

 腕の中にすっぽりとおさまったもう一つのぬくもりが、自分の心に平穏をもたらす。自分の方が泣き出してしまいそうになる。絶えず不安だった、満たされない気持ちでいた。…それをこの腕の中の人は取り去ってくれる、穏やかな笑顔で包んでくれる。そして、自分もその笑顔ごと包み込みたい…どうしたらいいのかは分からない。でも、ただ守りたいと心が叫んでいた。

 

「…副理事…長さん…」
 いつの間にか落ち着きを取り戻した声が、穏やかに自分を呼ぶ。

「うん?」
 存在を確かめる如く、再び強く抱きしめる。

「…離してください、もう大丈夫ですから」

 その声が毅然としていたので、つい、従ってしまった。

 彼が腕を解くと千雪の小さな手が惣哉の胸を押して自分の身を剥がした。そうした上で、惣哉を見上げる。普段通りに戻った距離が切ない。もう一度引き寄せたくなる衝動が惣哉を襲った。でもそれは千雪の表情に制される。2人の間に入り込めない壁が出現した。

「千雪君、僕は…」
 それでもなお、惣哉は言葉を続けようとした。

 千雪がゆっくりとかぶりを振る。そして困惑した笑顔で惣哉を見た。

「…ありがとうございました。落ち着きました、本当にもう大丈夫です。今お茶を入れますから…少し部屋に戻っていて頂けますか?」
 何もなかった感じでさり気なく言う。

 惣哉には信じられなかった。思わず手を伸ばす。触れていないと不安だった。

「駄目です」
 お茶道具を取るために横を向いた千雪は惣哉の方を見ずにそう言うと、今度はゆっくりとこちらに視線をよこした。

「副理事長さんはお優しい方だから、私を見て放って置けないと言うのも分かります。でも迷惑です、止めてください」
 しっかりした口調だった。惣哉の言葉など何の力も持たない。彼女は全身で惣哉を拒絶していた。

 雷の音が近くなる。窓の外の一瞬の雷光がキッチンの中まで入り込んでくる。それが灯って消えるのを待ってから、千雪は再び言った。

「…副理事長さん、ちゃんとお相手がいらっしゃるでしょう…?」

 それだけ言うと、またお茶の支度を始めた。カチャカチャと食器のぶつかる音がキッチンに響く。

 惣哉は小さくため息を付くとそこを出た。背中に張り付いた視線の意味には気付かず。


 

「…叔母からの電話でした」
 湯飲みを惣哉の机に置くと、何もなかった調子で千雪は話し出した。

「父の妹に当たる人で、今は父の世話をしていただいてます。公共の施設でショートステイをしていますが、時々3日くらいの間が出来て…そう言うときは叔母の家で見て貰うことになります。どうもまた症状が進んでしまったみたいで、色々とご迷惑を掛けたみたいです」

 千雪なりに。惣哉に心配を掛けたのだから、きちんと理由を話したいと考えたのだろう。湯飲みを膝の上で包んで、淡々と言葉を並べる。

「お父さん、いつから…?」
 若年性の痴呆症だと言った。どんな病も年齢が若いとその分進行が早い。

「私が高校を出て、こっちに来るまでは普通に生活してました。もちろん、仕事もしてましたし。それが、本当にあっという間に悪くなってしまって。今でも半分は信じられないんです。みんな、私が離れてしまったので気が抜けたんだって。でも父は私が学校を出て、教師になるのを楽しみにしてました。父のためにもちゃんと卒業したかったし、叔母も『お金は出せないけど手は貸すから』と言ってくれました」

 千雪の視線が、荒れ狂う窓の外の風景に移った。

「こちらに来たのは最後の我が儘なんです。本当は父も自宅で介護したい。でも帰省したときに少し手伝ってみたら、私じゃ全然駄目なんです。父の身体を動かすことすら出来ない、本当に非力な自分が情けないです。だから、せめて父の施設の側で、働きながら面倒を見ていこうと思ってます。あの、理事長先生までここに残るようにと勧めてくださって、本当に有り難いと思います。でも、私は帰ります」

「じゃあ、――こうしたらどうなんだい?」
 思わず、惣哉は千雪の言葉を遮っていた。必死だった。

「お父さんの入居するホームをここの近くで探すというのは。病院にだってそう言う施設を併設しているところもある。せっかく仕事に就いたんだ、諦めてしまうのは早いんじゃないのかい?」

「…副理事長さん…」
 小さくため息を付いて、距離感を感じる微笑みで惣哉を見る。この顔は嫌いだ、自分が惣哉が触れることの出来ない存在だと言っている。

「申し訳ないですが…こちらの収入では父を施設に入れるだけの額にはなりません。それに地方とは違って都内の施設は高くて。とても庶民の手に届きません」

「じゃあ、こちらで少し出資しても。あの…」

「そう言うのは困ると申し上げたでしょう? 副理事長さんに借りを作ることは出来ません、特別扱いは困ります」

 千雪の言うことはもっともだった。当然の言葉だ。それでも千雪をここに留めておきたかった、その方法も分からなかったけど。泣きたいぐらいもどかしい気分、自分が小さな子供に戻ってしまった気がした。そして駄々をこねた子供を癒すのは千雪の得意技であったから、とても敵わない。

「でも」
 もうひとことだけ、言いたいと思った。

「退職願は受け取れない、保留にしておく。君の任期は今月いっぱい、7月末までだったね?」

「副理事長さん…」
 千雪は寂しそうに微笑むと、視線を膝の上に落として静かにお茶をすすった。

 

………


 週末も雨が続いていた。梅雨の末期に近づいたらしく、連日の雨は心の中までしっとりと濡らしている。

 惣哉は席を立って、窓の外を眺めていた。瞳に濡れそぼった風景を映して、でも心の中では全く別のことを考えていた。

「…ただ今戻りました」
 ぱたぱたと、遠慮がちにレインコートを脱ぐ音がする。千雪は今日、出張だった。朝から姿を見ていなかったが、3時を過ぎてこちらに戻ってきたらしい。

「お帰り」
 そう言いながら、視線は窓の外を向いたままだ。今日は彼女に会いたくなかった、会わないままで帰宅したかった。

「副理事長さん? どうしたんですか…?」

 いつもならにっこり笑って迎え入れてくれる人が、意識的に視線を逸らしている。どうしてなのか千雪には分からないようだった。惣哉自身がどうしてこんな気分になるのか分からないでいるのだ、それを彼女に分かれというのは無理な話だ。

「今日はそのまま家に戻っていいと言ったでしょう? どうして戻ってきたの?」

 我ながら何ともひどい言い方だと思う。でも、千雪の方は言葉の中にある棘に気付かないらしい。いつもと同じ調子で少し悪戯っぽい声を出した。

「副理事長さん、ちょっとこちらを見てくださいますか?」

「え…?」
 促されて、素直に向き直ってしまった。

 惣哉の目の前で千雪が静かに360度回転した。ふわっとスカートが広がる。明るい色の髪が元の通りに彼女の横に収まると、にっこり微笑む。いつもよりはにかんだ、きれいな笑顔だ。

「…千雪君…」
 惣哉は目を見開いた。

 柔らかい素材のキャミソールドレス。レース素材のカーディガン。上半身は体の線に沿っているが、ウエストから下は花のようなフレアーになっている。朱に近い赤。全身が花びらに包まれているみたいだ。

「副理事長さんが…いつか言ってくれましたよね、こういう色が私に似合うって。やっと見つけました、きれいでしょう。自分へのご褒美に奮発したんです。せっかくだから早くお見せしたくて…ごめんなさい、ご迷惑でしたか?」

 言葉が出ない惣哉に、嬉しそうな顔で告げる。…似合うよ、と言えばいいのだ。簡単なことだった。でもその一言が出てこない。いつもなら何も抵抗なく出てくる言葉が、今日は口を出ることがなかった。

「…お茶、いれます。コーヒーでいいですか?」
 ふわふわとスカートの裾を揺らしながら、キッチンに入っていく。その後ろ姿が、切ない。でもこの手にこの腕に飛び込んできてはくれない…どんなに求めても…。

 何を考えているのかと思う。彼女は言ったじゃないか、はっきりと「迷惑だ」と。所在なく両手を握りしめる。何も捉えられないそれが腹ただしかった。


「今日はウチのアパートの回りが停電なんです。電線工事があって。6時過ぎまでかかるそうなので、こちらで仕事を片づけて戻ります」

 成績付けの時期になっていた。

 私立は公立よりもスケジュールが早めだ。中高は期末試験が残っていたが、小学校はもうまとめの時期に来ていた。千雪も連日の面談の手伝いをしている。彼女自身に担当のクラスはなかったが、構内を訪れる父兄を教室まで案内したり、していた。そして成績表の記帳も頼まれているらしい。細かい字でぎっちりと生活の記録を記していく。根気のいる仕事だった。

「そう、僕は5時前に上がるけど。気を付けてね、戸締まりはきちんとして」

「大丈夫ですよ」
 顔を上げて、くすくす笑う。

 自分の机に垂直になる形で千雪の机が置かれている。小さめなので見上げる形になる。視線を右に移すといつでも千雪の存在を確かめられた。

「今日はお迎えがいらっしゃるんでしたよね? ごゆっくり楽しんで来て下さいね」

 外で食事をするとき。アルコールが入ることが分かっているので、その時だけは送迎を頼む。父の運転手をしてくれる園田さんが来てくれることになっていた。

「ああ」
 千雪の胸元にドレスと共布の巻きバラが遠慮がちに並んでいるのを見つけた。子供っぽすぎないギリギリのデザインだ。

「あの、千雪君?」
 ふと思いついて、訊いていた。

「何でしょうか?」
 きょとんとして、またこちらを見る。

「今日、もしかして…夜、お出掛け?」

「…え?」
 どうしてそんなことを聞いてくるのか分からない、そんな表情だ。

「今日は、このまま家に戻りますが。どうして?」

「いや…」
 言ってしまってから、しまった、と思った。口ごもりながら続ける。

「きれいな格好して…きれいにメイクもしてるから。誰かに会いに行くのかと、思って…」
 本当にそう思った。嘘じゃない。

「やだ、出掛けなくたって、ちゃんとすることだってありますよ。今日は外に出ていたんですし。嫌だなあ、副理事長さん。ご自分がお楽しみになるからって、周りも一緒に見えちゃうんですか?」
 千雪の言葉に嫌みはない。くすくすと笑い声を上げて、そのたびに髪が揺れる。それからふと時計に目をやった。

「あ、そろそろ5時になりますよ。園田さんがお待ちにならないように、御支度してください」

 

………


「まずは橋崎様のお宅に参れば宜しいですね?」

 惣哉が後ろのシートに身を埋めると、園田がゆっくりと言った。

 いつもは咲夜の送迎をして運転する立場だ。こうして人の運転する車に乗るのは何だかくすぐったい気持ちになる。
 園田の運転はその道の熟練なだけあって素晴らしかった。車の揺れもほとんどなく、安心して乗っていられる。

「…行ってくれ」
 橋崎の家まではここから30分ぐらいの時間がかかる。道が混んでいればもっとかかるかも知れない…少し眠ろうと思った。

 そんな惣哉をバックミラーで確認した園田は滑るように車を発進させた。


 

 目の前を浮遊する物がある。…羽根。

 真っ白な羽毛がふわふわと視界一杯に漂う…一体、どれくらいの量があるのだろう…吹雪の如く、降りしきる。
 捉えることは出来ない…夢の空間。羽根は大切な人を暗示している。

 …千雪…

 この腕に抱きとめると心が安らぐ。暖かいぬくもりが惣哉の心を溶かしてくれる。

…でも。

 彼女は自分の腕には抱きしめられないのだ。するりと逃げてしまう。追えば追うほど遠ざかっていく。
 くるりと一回転した…夕方の赤いドレス。

『せっかくだから早くお見せしたくて…ごめんなさい、ご迷惑でしたか?』

 嬉しそうな笑顔が脳裏をよぎる。そして、部屋を出るときの寂しそうな笑顔が。

『副理事長さんはお優しい方だから、私を見て放って置けないと言うのも分かります。でも迷惑です、止めてください』

 千雪の言葉に従うしかなかった…でもそうなのだろうか?

『…副理事長さん、ちゃんとお相手がいらっしゃるでしょう…?』

 今夜は彼女とエンゲージリングを選びに行くことになっていた。そろそろ式場の予約も、という話だ。

 橋崎朱美嬢との結婚へのシナリオは惣哉の知らないところで着々と進んでいた。でも知らない、というのは惣哉の勝手な言い分だった。彼女を選ぶことを躊躇しなかったのは自分なのだ。

 それで構わないと思っていたのだ、咲夜がこの腕から飛び立ってから。

 でも…ふわふわと舞い降りてきた千雪が、今、自分の心を支配している。愛おしかった…でも怖かった。拒否されるごとに心がちぎれそうに哀しかった。求めても求めても、手に入らない物。どうしたら、彼女は振り向いてくれるのだろう…。

 千雪の。

 身体も心も全てがこの手の中に欲しい。奪い取っても構わない、欲しいと思うのに…。


 薄暗い部屋が視界に映る。ほのかなデスクライト…浮かび上がる赤いドレスの千雪。泣いているのかも知れない、そんな気がした。叩き付ける雨の中、どんなにか心細いだろう。彼女が本当に戦っている感情は何なのだろうか。

 するりとかわされる切なさはぬぐい去れない。
 でも守りたいのだ。抱きとめられないなら、包み込むようにこの腕を広げて。

 彼女が泣いているとしたら、自分が許せない。

 

 かき分けながら羽毛の吹雪を抜けていく。視界が開ける。ざんざんと窓を打つ雨音が戻ってきた。

 フロントガラスはワイパーが拭っても拭っても雨粒に覆われる。

「…園田さん」
 惣哉は背筋を伸ばすと、しっかりとした口調で言い放った。

「学園に戻ってくれ、今日の予定はキャンセルする」

 

………


「ふ…副理事長さん?」

 息を切らしてドアを荒々しく開けた。きょとんとした千雪が視界に入る。

「どうしましたか? …忘れ物ですか? あの、今、橋崎様からお電話が。携帯に連絡が付かないって」

 泣いてはいなかった。頬も濡れてはいない。ただ驚いてはいるようで、不思議そうに惣哉の存在を確かめている。

「…あ、ああ。何だって?」

 携帯は面倒なので留守電にしていた。橋崎の家には車から予定のキャンセルを入れた。電話口に出たのはお手伝いさんで彼女に言付けを頼んだのだが、折り返し朱美本人が抗議の電話を掛けてきたのだろう。

「私には何も。副理事長さんとお話がしたいって仰って」

 千雪が言い終わらない前に、再び電話が鳴った。受話器に手を掛けた千雪から奪い取る。相手はやはり朱美本人だった。

「…ですから、あなたとの今日の予定は。取り消させて頂きます」
 何やらぎゃあぎゃあと向こうでわめいている。今まで惣哉から約束をキャンセルしたことはなかった。惣哉の予定に合わせて日程を組むのだから当然だ。向こうは花嫁修行中で時間は自由になる。

「また、改めて詳しいお話はします。本日は失礼いたします」
 相手に構わずに受話器を置いた。

 顔を上げると、呆然とした千雪と目があった。惣哉は微笑みかけた。

「…どうしたんですか? あの、ケンカでもなさったのですか…?」

 腑に落ちない様子だ。婚約間近の恋人とデートに出掛けて、そのまま舞い戻ったら誰だってそう言う表情になるだろう。
 その当たり前の表情が楽しくて、自分の取った行動がおかしくて、惣哉は軽く笑い声を上げていた。

「…副理事長さん」
 その不謹慎な行動をいさめる表情で、千雪が呟く。

「とりあえず、コーヒーをいれて? 僕も一仕事するから」

 すっきりした気分だった。もう悪夢は見ないだろう、そんな気がした。

 

続く(020202)

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