「ほら、こういうところ」 「何?」 「バリアフリーってご存じですよね? お年寄りや障害者、弱者に優しい、そんな世の中。この学園は丁寧に建設されていて、素晴らしいんですが少し年代物でしょう? ですから、大人では気にならないような所に使いにくい事があるんです。階段の段差が低学年の子にはちょっとありすぎるんです。教室の入り口も滑りが出ていて、お弁当の時、飲み物が運ばれますよね? あの台車が引っかかって困っています」 「ふうん…」 「赤ちゃんだとほんの数センチの段差すら、最初は越えられないんですよ。小学生になれば、運動神経の発達のためにあまりに優しすぎる建築は逆効果かも知れないです。でも階段にしっかりした滑り止めを付けるとか。あと、簡単なところでは廊下の交差している所、その真ん中に小さなテーブルを置いて花を活けるんです」 「ぶつかったら、危ないじゃない?」 廊下の真ん中にそんな障害物があったら、大変だと思う。きっと自分の反応が思ったとおりだったんだろう、千雪は楽しそうに笑った。 「…おっしゃると思いました。でもね、実はそうした方が事故が減るんですよ?」 「そう言うものなの?」 「車道にある中央分離帯と同じ原理です。真ん中に花瓶があると思うと、もしも急ぎ足だったとしても自然にスピードが落ちます。出会い頭の衝突って、結構ありますもの…きっと『廊下は右側をゆっくり歩く』と口で言うより効果的ですよ」 「…千雪君は詳しいんだね」 「そんなことないですよ」
梅雨が明けて晴れ渡った空。明るい日差しの差し込む昼下がりの廊下。先ほどまで行われていた成績会議が終われば、終業式を待つばかりになる。構内の子供たちの表情も明るい。
「父が発病して、慌てて介護のことを調べました。だから付け焼き刃なんです」 「でも、お父さんのホームへの入居の日程が決まったんでしょう? 良かったね」 順番待ちだった特別養護老人ホームへの入居が決まった。このことは千雪が惣哉の父の学園理事長・政哉に報告したことだが、伝わって来ていた。 でも、視線の先の千雪は何とも複雑な顔をしている。 「…良かったね、というのはちょっと違うんです」 「え…?」 千雪の言葉の意味が分からない。不思議そうに訊ねる惣哉に彼女は寂しそうに微笑んだ。 「副理事長さんは…ホームの欠員って、どんなときに出るかご存じですか?」 「どんなって…」 惣哉が頭の中で考えを巡らしている間に、千雪の方が答えを言った。 「元気になって、退所する場合と。あとはお亡くなりになってお家に戻られる場合です。でもね、ああいった種の医療機関の場合、お元気になられる方はほとんどゼロです。入所した皆さんは期間にはばらつきはあるものの、皆さん死までの時間を過ごされることになります。父と同様に入居待ちの方は大勢いらっしゃいます。…入居を待っている、ということは…すなわちどなたかがお亡くなりになるのを待っていることになるんです」 「千雪君…」 「父が入る部屋のベッドには最近までどなたかがいらっしゃった事になります。私もその方の死を待っていたことになるんです」 俯いた背中が哀しそうだった。髪が前に滑り落ちて、白いうなじが見える。何もかもが小さくて儚げだ。彼女の笑顔が見たいのに、どうしたらいいのか分からない。こういう会話の中で寂しそうな表情が日増しに増えていく。
「…千雪君、今日の予定は?」 「お部屋でのお仕事が済んだら、そのままアパートに戻りますが?」 「じゃあ、…ちょっと付き合ってくれるかな?」 千雪はきょとんとした表情で小さく頷いた。
………
「ボーナス、ですか?」 学園前から駅へと伸びる道路。その両脇には贅沢に広く造られた遊歩道がある。学園の敷地内に留まらず街全体が学園都市にふさわしい造りになっていた。もちろん、一籐木グループからの多額の援助のたまものだ。 片道2車線の車道を行き交う車に気を取られることなく、ゆったりとした気分で歩くことが出来た。 上下お揃いのニットスーツを着た千雪が小首を傾げて惣哉を覗き込む。 「君は学園の規定ではボーナスが支給されないだろう、雇用の期間が短いからね。でも学園のことも僕の仕事の補佐も本当に良くやってくれているでしょう? だから、心ばかりの御礼がしたくてね」 「でも…」 「これは学園理事長命令でね、ほら。父から金一封を預かってあるんだ」 「…まあ」 「これは、これとしてね」 「僕からも君に何かプレゼントしたいと思ってね。もちろんお金でもいいと思ったんだけど。それじゃあつまらないでしょう? 何か記念に残る物を本人に選んで貰いたいと思って…」 駅までの10分の道のりは会話をしていたら、あっと言うまだ。駅前には銀行や証券会社のビルに並んで百貨店のビルもある。あまり規模は大きくないものの、上品な品揃えで知られていた。 「いいですよ、本当に。お気持ちだけで…」 「でもね、…千雪君」 「な、何でしょう?」 「僕が勝手に選ぶと、またその辺に飾っちゃうでしょう? だから、…ね。いつかの花束の代わりだと思って?」 「…副理事長さん…」
「…これでいいの?」 片手に乗るくらいの小さめのコサージュが2つ。透明なプラスチックのケースに入っている。白のミニバラの花束を真ん中に、濃淡様々なピンクの小花が形良く取り囲んでいる。根元は綿レースのリボンでまとめられていた。ポイントに人工パールがキラキラと散りばめられている。 惣哉が考えていた金額よりもゼロがひとつ少ない。もっと、違う物を…といい出そうとしたが、その前に千雪の言葉が遮った。 「あのね…これ、ずっと欲しかったんです」 「私、学生の頃からあのアパートにいて。だからここには覗くだけだけど、時々来てました。このお花はある有名な手芸家さんの作品なんです。ひとつずつ手作りで、とても丁寧で素敵な仕上がりで。でも装飾品に贅沢できなくて、それに」 「副理事長さんから頂くんでしたら、枯れないお花がいいなあと思ったんです。…駄目ですか?」 「…分かった、じゃあ貸して。包んで貰うから」 その言葉に反応して、千雪が微笑む。彼女を中心に無数のシャボン玉がわき上がる気がした。惣哉には本当にそんな幻影が見えた。 「ありがとうございます」
店を出ると、後を歩いていた千雪の方を振り向く。案の定、信じられないという顔をして立っている。その手にはしっかりと百貨店の小さな紙袋がある。 「何だか、どうしたのですか? 今日の副理事長さん、いつもと違うみたい…」 考えてみたら、食事に誘うこともなかった。連れだって歩くことすら、構内以外は自分の家までのほんの少しの時間だけだ。
でも。 千雪と一緒にいられるのもあと半月足らず。彼女の採用期間は7月末なのだから。千雪の父親がホームに入居するのは8月の初めだと聞いた。それに向けて、田舎に戻るつもりなのだろう。 よっぽど、嫌われるぐらいならこのままでいようと思った。管理者と職員という関係のまま。でも、千雪の事を思っただけで胸が苦しい。秘められた咲夜との日々とは全く違う感覚の苦痛が惣哉を支配していた。そこからどうしたら抜けられるのかと、もがいてみた。 「いや、君が思った額より、ずっとささやかにしてくれたから。行きつけのレストランにでも…」 そう言いながら、千雪の様子を見た。所在なさ気に俯いている。 「…副理事長さん。あの、お誘いいただくのは嬉しいのですが、多分無理じゃないかしら?」 「え?」 何でこんな台詞が出てくるんだろう? 思わず聞き返していた惣哉に千雪はすまなそうに微笑んだ。 「副理事長さんが良くいらっしゃるのって、あそこのホテルの最上階にある展望レストランでしょう? 確か会員制の…。夜はフォーマルじゃないと入れないと聞きました」 そう言いながら自分の服装を見ている。今日のサマーニットは上品な色合いだったが、所詮セーターだ。ドレッシーなドレスとは言わないまでも、せめてきちんとスーツを着ていないと駄目かも知れない。 惣哉は常にスーツを着用していたので、自分自身が困ったことはない。今日のクリーム色の麻のスーツもどんな場面にも恥ずかしくない着用の仕方だ。ベージュとグリーンのストライプ柄のネクタイ。靴下もモスグリーンを合わせていた。 「本当に。お気持ちだけで結構です。…すみません」 惣哉はまたも自分の思慮のなさに哀しくなった。彼女を喜ばせようとしても何故か空回りする。今までの経験が役に立たない。普通に行動しようとすると、いつでも引っかかりを生じる。
「…あの、副理事長さん?」 「どうしたの?」 「じゃあ、今日は私に合わせてください! …行きつけのお店をご紹介します。穴場なんですよ…あ、でも」 「上着は脱いで頂いた方が宜しいかも? あまりきっちりしていると、浮いちゃいますね…」
………
学園の周りは高級住宅街だ。広めの敷地に平屋に近い贅沢な建物が並ぶ。あまり高い建築物は景観を損ねる。だから駅前のホテル以外は目だった高さの物は見あたらなかった。 産まれたときからこの街に住んでいながら、惣哉は駅から裏手の方にはあまり出掛けたこともなかった。通っていた学園は自宅の隣だったし、大学は車で通っていた。 「…こちらです」 きょろきょろと辺りを見渡す惣哉の姿がよほど面白いのだろう。笑いを堪えながら、案内する。 千雪の借りているアパートは駅から裏手に歩いて10分ぐらいの所にある。ごみごみと立ち並ぶ長屋のような商店街。自転車は通れない程のささやかな歩道があったが、そこまで店の商品が溢れてきている。やおやの店先には段ボールをあけたままの状態で、キャベツやレタスが顔を出している。 惣哉自身はあまり食料品の買い出しをしたこともなかったが、彼の家は馴染みの市場から宅配を頼んでいる。調味料など細々した物は、先の百貨店から外商部を通じて届けて貰うと聞いていた。
千雪が惣哉を招き入れたのはアパートの近所にある中華料理店だった。
「びっくりなさったでしょう」 店の奥の4人掛けのテーブル。赤いビニール張りのスツールに向かい合って腰掛ける。 何とも場違いな気分で、無意識のうちにネクタイを少し緩めた。 「何か、お飲みになりますか?」 一口飲んで、ちょっと顔をしかめたのが分かったのだろう。ミネラルウォーターでも浄水器を通した水でもない。ただの水道水であることが分かった。 「じゃあ、ビールを…」
「千雪ちゃん、お待ち!」 「あ、は〜い」 千雪はよろよろしながら、定食のお盆を2往復して運んできた。
「…おいしい」 割り箸を手にしたまま、心配そうに覗き込んでいた千雪がホッとして顔を崩す。 「良かった。こんなゴミゴミした所にお誘いして、どうかなあと思ったんです。でもここ、お店のわりにおいしいんですよ。スープも色々工夫して凝った物になっているし、麺なんて手打ちなんですよ。餃子だって皮から作るし。ホント、良かった。副理事長さんはおいしい物がちゃんと分かる方なので、食べていただければ大丈夫だと思ったんです…」 そう言いながら、自分の食事に箸を付ける。同じ内容だが、千雪の方が量が少ない。不思議に思って訊ねると、嬉しそうに答えてくる。 「だって、その方の体格で食事量も違うでしょう? 残したらもったいないじゃないですか。ここ、量によってお値段がちょっとずつ変わるんです」 おおざっぱに見えるのに、細かい心配りがなされている。見た目はくどそうだったが、油も良質の物をしているらしく、想像以上にあっさりしている。気が付いたら、皿を次々にからにしていた。 「…千雪ちゃ〜ん、ちょっと」 「お店の奥さんが一皿サービスしてくれるって。それを手伝ってくれって言ってるんですが…少し、いいですか?」 「…あ、うん」 一人取り残されるのも不安だったが、そんなに長い時間でもないだろう。手帳でも見てればいいかと承知した。 |