TopNovel「並木通りのシンデレラ」扉>並木通りのシンデレラ・10



…10…

 

 

 胸のポケットから、スケジュールの手帳を取り出す。片手にボールペンを持ちながら、明日からの予定をひとつひとつ確かめていく。
 一籐木の本社の仕事はほとんど残っていなかったが、咲夜の警護の仕事はある。学園も子供たちは夏休みになるが、職員は研修やら、なにやらで結構忙しい。部活動のコンクールや大会もある。

「いやいや、センセイ…ま、お一つどうぞ」

「…え?」

 いつの間にかさっきまで千雪の座っていた席に、あの初老の店員が座っている。調理用の白衣を着て、四角い帽子もかぶったまま。手には新しいビールの瓶。しっかり自分の分のグラスも用意されている。

「はあ、…あの、お店の方は大丈夫なんですか…?」
 自分のグラスを勧められるままに、差し出しながら、心配になって聞いた。

「今、出前に出ていた若いのが2人戻ってきましてね。厨房は息子が仕切ってますから、あたしゃ手伝いみたいなもんですよ」

「はあ…」

 惣哉が手を出すより早く、目の前の男は自分のグラスにもビールをなみなみと注いだ。

 息子が厨房を仕切っていると言うことは多分、この男は店主なんだろう。料理人特有のこだわりのある性格を瞳の奥に感じる。

「でもね、千雪ちゃんがセンセイみたいな素晴らしい人を連れてくるとはね。だもん、ウチの息子が口説いたところで全然なびかないはずだわ…」

 そう言いながら、一気にグラスを空けて、厨房を覗く。20代中盤くらいの人の良さそうな若者が忙しそうにフライパンを扱っていた。あれがこの店主の息子なんだろう。厨房に入った千雪とも親しそうに声を掛け合っている。

「ウチのだけじゃないです、花屋もやおやも魚屋も…向かいのクリーニング屋も、だったかな? とにかくこの界隈の若いのはみんな千雪ちゃん狙いだったんだからな、たまらんですよ」

「そ、そうなんですか…」
 何とコメントしていいものやら。惣哉は話がおかしな方向に進みだして、どうしたらよいのか分からず黙ってビールを飲んだ。

「千雪ちゃんは学生時代、ウチでずっとバイトしていたんですよ。本当に良く気の利くいい子でね、千雪ちゃん目当ての客も多かったんだから。学園に行っちゃったら、客足がめっきり落ちてねえ」

 それは本当かどうか分からない。今も店は途切れなく客が溢れている。でもこの店内でせっせと働く千雪の姿は容易に想像が付いた。

 惣哉の知らない千雪だ。…当たり前の事だが、惣哉に会う前にも、そしてプライベートな時間にも彼女の生活は確かにあったのだ。それを垣間見たことで、嬉しいようなもどかしいような気分になる。

「ま、センセイもお目が高い。ああ、本当に素晴らしい!! 山手の方々はお高いばかりだと思ってましたが、ちゃんと千雪ちゃんの良さを認めてくれるんですね〜格好は違っても心は同じ、ということですかい? なあ、兄弟…」
 そう言いつつ、店主はあっという間に2本目のビールをカラにしていた。そして、いきなり「兄弟」とか呼ばれている。もう口を挟もうにも言葉も浮かんでこない。

「…で、頼みますよ、センセイ」
 彼は急に小声になって、惣哉の方に身を乗り出してきた。

「…は?」

「千雪ちゃんのこと、本当に幸せにしてあげてくださいよ。あの子は本当にいい子です、私はあの子の泣いているところをもう見たくない」

 …え? 見ると店主の目のフチが濡れている。思わず、聞き返しそうになる惣哉に更に彼は言葉を続けた。

「センセイは見所あります、千雪ちゃんがあんなに嬉しそうに笑う顔は初めて見ましたよ。…あたしゃ、嬉しいです…」

 

「あ、あの…」

 突然、突っ伏して号泣されたら、惣哉じゃなくても驚くと思う。どうしようかと思っていると、背後から呆れた声が響いてきた。

「あああ、もう!! おじさんっ! また飲んでる〜お医者さんに注意されたんでしょ? もう〜」

「…大丈夫だよお〜そんなに飲んでないよ〜」

「またあ…、副理事長さんに変なこと言わなかったでしょうね! もう、目を離すとこうなんだから…」
 ぱしぱしと背中を叩いて、立ち上がらせる。その後、お膳の片付けをして、台拭きできれいにした。

 

「はい、奥さん特製の中華まんですって。おいしいんですよ〜杏仁豆腐もお勧めです。本当に普通じゃ出てこない賄いの食事なんです、すごい幸運ですよ!」

 色々な事が頭の中に一度に飛び込んできて、いささか混乱しているらしい。表情の作り方も忘れて呆然としてしまった惣哉に、何も知らない千雪はにっこりと微笑みかけてきた。

 

………


 クーラーの利きも悪く、熱気の方が勝っていた店を出ると夜風が心地よい。グラスに半分のビールで頬を染めた千雪がふわふわした足取りで車道を歩く。ゴミゴミした裏通りを走る車はほとんどなく、夜更けの車道は歩行者道路のようだ。

「千雪君…」
 街灯に金色の輪郭を浮かび上がらせた後ろ姿を眺めていた惣哉は、思い切って声を掛けた。心の中で何度も反芻した言葉だった。

「…? 何でしょうか?」
 振り返ると髪がふわっと舞い上がり、彼女の頬にかかる。

「…父の友達で代官山でレストランを経営している人がいるんだ。今度、そこで毎年恒例のお得意さま感謝デーがあって…今年は25周年なので特別の企画があるんだって」

 きょとんとした目が惣哉に向いている。何でそんな話を始めたのか分からないと言ってるみたいに。その表情を瞳の先でなぞりながら、言葉を続ける。

「懇意にしているアンサンブルを呼んで、生の演奏会をするんだって。日本でも著名な方も出るらしい…で、一緒に行かない? 今日の御礼に…」

 そこまで言うと、やはり気恥ずかしさが勝ってきて眼鏡に手を添えた。

 

 今夜の食事の代金は結局、千雪が出した。
 惣哉は自分が払うつもりでいたが、千雪がそれを望まなかったし、それにあの定食が千円でお釣りの来ると聞いて、まあいいかと思った。彼女としてもコサージュの御礼がしたかったんだろう。小さな赤い財布から何度も確認しながら、小銭を丁寧に出していた。カードの支払いに慣れている惣哉には目新しい場面だ。

 

 今までの千雪のパターンから言って、こうやって切り出した時に戸惑いながら辞退してくるだろうと思っていた。惣哉としてはもう話を白紙に戻したいところだが、しつこく復縁を言い寄ってくる橋崎家の父娘のことも知っているのだ。そちらとどうぞ、と言われたら、何と答えたらいいのか分からない。

 

「それって、いつですか?」

 自分が予期していたのに反する言葉が返ってきて、惣哉は思わず目をむいた。驚きを隠せない瞳で彼女の表情を捉える。

「今月の、25日」

「分かりました、…ご一緒させていただきます」

「え…?」
 肩すかしにあったようにあっさりと承諾されて、かえって慌てた。

「あ、あの。それで、そう言う特別の会なので…服装が…」

「分かってます」
 千雪は惣哉の言わんとすることを瞬時に理解したらしく、軽い笑い声をあげた。

「友達に頼んでみます、副理事長さんが恥ずかしくないぐらいの格好はしますから。期待してて下さいね」

 なんと返事していいのか分からないまま、呆然と千雪を見つめ続けた。

 

………


 夏至を1ヶ月過ぎたが日没はまだまだ遅い。待ち合わせの5時は陽がようやく落ちかけたくらいだ。夕焼けが西の空を染め上げる。ねむの木がふわふわとした薄ピンクの花を鈴なりにさせて、閉じた葉を揺らしている。

 カサカサと耳をくすぐる音。腕時計を見る。随分長いことここに立っている気がするが、まださっきから5分しかたってない。

 正装で、とは言われたが、タキシードでは大袈裟だろう。光沢のあるオフホワイトのスーツを選んだ。初めて袖を通したサーモンピンクのシャツはさすがに少し恥ずかしかった。

 

「何だ、今日はヤケに若造りしているじゃん。そんな格好したって、おじさんはおじさんなんだよ〜」

 玄関で靴を選んでいたら、背後から朔也の声がした。ムッとしたので数学の課題を倍にして置いたのは言うまでもない。もちろん朔也は絶叫していたが、当然の報いと言うものだ。

 

 …でも。

 実際のところ、自分の気にしていないことは気に障らないものなのだ。

 若造りと言われてもそういう格好がしたかった。今まで年齢のことを気にしたことはなかったのだが、千雪の隣りに立つと何だか自分の外見が妙に老けて見える。彼女が高校生に見えるくらい幼い、と言うのも確かにある。でも実際の高校生だった咲夜といるときは感じなかったこのジレンマは何だろう…?

 小さくため息を付いて、髪をかき上げる。これも高校生みたいに必死で鏡を覗き込んで、あっちにこっちに試行錯誤でブローしてしまった。

 

「…お待たせしました」
 コツコツと言うヒールの音が背後で止まった。歌う様な声がいつもより少しうわずっている。

 

 くるりと声の方を振り返って、息を呑む。千雪の姿が眼に入った途端、身体が凍り付いて動かなくなった。

 

「…副理事長さん?」
 不思議そうな瞳が覗き込む。さわさわと樹を揺らす風が惣哉の頬をひんやりとなでた。それでも身体はきしんで上手く動かない。

 

 もともと、きめの細かい肌だが、吸い付くようにきれいにメイクされている。派手すぎず、自然な仕上がり。しかし、高度なテクニックを駆使してある。何色ものファンデーションやカラーを使い、アイラインも目立たない色で控えめに入っていた。オレンジピンクのルージュが艶々と輝く。夕焼けの色を分けて貰ったようなシャドウが彼女の清純なイメージを害さない淡さでかかっている。

 ゆらゆら揺れるパール素材のイヤリング。お揃いのペンダント。

 髪は後れ毛を残してアップにまとめられ、多分ヘアピースなんだろうけど羽根みたいにふわふわとテールが揺れている。…そしてまとめた髪の根元にはこの間贈ったコサージュがデコレーションされて飾られていた。

 …ドレス。朱色のシフォン。幾重にも重ね合わせられたスカートは膝下丈で花びらの様に広がっている。同じく八重の花びらの形の袖口から、白い二の腕がすんなりと伸びていた。色をきちんと合わせたピンヒールが足元を包む。

 羽根の様なショールを腕に絡めて、千雪は恥ずかしそうにはにかんでいた。

 

「あの…やっぱり、どこか…おかしいでしょうか?」
 惣哉が長い間、何も言わないので不安になったのだろう。くすぐったそうに首を振りながら、千雪がまた声を掛けてきた。耳元でイヤリングが踊る。

「…あ、いや…」

 今の今まで、自分の姿のことばかり心配していた。でも千雪の姿を見た途端、そんな思考は吹き飛んでいた。

 ドレスアップした淑女など色々な場面で見慣れていた。橋崎家の朱美も毎回のデートにはこれくらいの格好で来ていた。何もそんなに珍しい物でもない。

 しかし。

 この目の前のふんわりと飾られた千雪の愛らしさは、一体どうしたものだろう。
 心配そうに自分を見ている彼女に対して、早く言葉をかけなければと思った。紳士のマナーとしてはそれが何より大切だ。でも言葉が出てこない。何か考えようと思っても、胸がいっぱいになって思考回路が働かない。

 見た目は年齢よりもずっと幼く見える千雪も、その実は年齢以上に聡明で知的だ。そんなことはこの2ヶ月足らずの期間で承知していた。

 その彼女が「期待してて下さいね」と言ったのだ。その道を極めんとして日々努力している若きアーティストの友人たちもたくさんいるらしい。彼ら、彼女らの助けを借りれば、それなりの仕上がりになるだろうと想像はしていた。
 女性、特に若い女性であれば、身に付ける物、メイクで別人のように変身できる。年齢を重ねた妖艶さには敵わない代わりに、何でも受け入れる柔軟さがある。

 ――でも。今日の千雪は惣哉の想像を遙かに超えていた。

 言葉を絞り出そうとする唇が震える。彼女の美しさはもちろん、自分との今夜のために彼女がここまで着飾ってくれたことが嬉しかった。知らないうちに目頭が熱くなる。こんなところで泣いたら何かと思われるだろう。

 惣哉はすっと視線を逸らすと、眼鏡に手をやった。それから本当に小さな声で言った。

「…おかしくなんかないよ…とても、きれいだ」

 その言葉に花のように顔をほころばせる千雪の姿が、惣哉の視線の端に捉えられた。たまらない気持ちになる。

 

 世界中の人々に彼女を見せびらかしたい。その反面、この姿を、この笑顔を誰にも見せたくない、自分だけの物に封印したいとも思う。

 

 二つの強い思考が彼の中で交錯する。

 

「…行こうか、車を待たせてあるから」
 思いを振り切る様にそう告げる。やさしい花のドレスに包まれた肩を抱きしめてしまいたい、そんな衝動も目眩の如く襲いかかってきたが、意識して心の中から排除した。

 

………


 運転手付きの外車に乗って出掛けることも、一流の淑女のようにエスコートされることも、何もかもが初めてなのだろう。戸惑いがちに立ちすくむ姿も、また一層、愛らしく思える。

「…素敵なお店ですね…副理事長さん」

 心に何かを思っている笑みを浮かべた園田が開けてくれたドア。おずおずと歩道に出た千雪はまた足を止めた。

「…どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい」

 仕事上のものだけではない笑顔で見送られる。園田も30分あまりの車内で、千雪の事が気に入ったらしい。もしかしたらいつも送迎している惣哉の父・政哉から何か聞いているのかも知れない。政哉だったら園田の運転に揺られながらそう言う世間話を楽しみそうだ。

 

「今夜は、仕事は抜きだから。その呼び方も改めて貰おうかな? ここは学園の構内じゃないんだし、レストランの中でそんな風に呼ばれたら、やっぱり堅苦しいな」

「え? ええ…でも」
 千雪が慌てた表情を見せる。

「私には副理事長さんは…やっぱり副理事長さんなんです…」

「駄目だよ」
 そんな千雪の姿を楽しみながら、わざと意地悪になった。

「惣哉、と、呼んでくれなくちゃ」

 予想通り、真っ赤になって彼女は俯く。ふふっと笑いが漏れてしまう。

「ほら、練習。言ってごらん」

 

 千雪は人々が行き交う遊歩道で暫く困り果てて俯いていたが、やがて観念した顔で、そろそろと惣哉に向き直った。

「…そ、惣哉、さん…」
 途切れながらようやくそう言うと、また真っ赤になって俯いてしまう。

「よく、出来ました」
 惣哉はゆっくりと千雪に手を差し伸べた。

「さあ、行こうか。…千雪」


 

 惣哉は自分がいつもより甘やかに微笑んでいることを自らの頬のほころびで感じていた。食前酒のシャンパンを飲む頃には、まるでワインを一瓶あけてしまったように酔いが回ってくる。

 ゆるやかなさざめきの中で、ほんのり頬を染めた千雪はテーブルのセッティングに、店内の装飾に、生のアンサンブルの演奏に、いちいちひどく感じ入っていた。でも、きちんと場所をわきまえていつものように大袈裟にはしゃぐこともなく、控えめに胸うちでじんわりと感激しているらしい仕草だ。

 ほのかに辺りを照らし出す、暖かい金色の照明。食事の妨げにならないように配慮された低いフラワーアレンジメント。首をすくめる仕草を見せるたびにイヤリングは揺れ、髪のてっぺんの花がふわふわと揺れた。

 自分の贈った物をわざわざ飾ってくれる…服に合わせて細い朱と金のリボンで飾られた花は彼女の髪にあるからこそ美しい。そんな気がする。

 

「これ、とてもおいしいですね…」

 千雪の言葉にハッと我に返る。そう言われるまで、ナイフとフォークを動かしながら、自分の舌が全く料理を味わってなかったことに気付く。

「…そうだね」

 一応のテーブルマナーは知っているのだろうが、いかんせん板に付いていない。時々、どうしていいのか分からなくなって、泣き出しそうに惣哉を見つめる。

「あの…パンは、手で食べていいんでしたっけ…?」

「そうだよ。…あ、バターを塗るのは専用のナイフでね。でも最初はバターを付けずにパンそのものを味わうのもシェフへの心配りだから…」

「…あ、はい」
 慌てて、手にしたバターナイフを戻す。

 惣哉はさり気なくお手本を見せるように、バターロールをちぎって一口頬張った。
 それを一通り目で追っていた千雪もようやくパンを手にすると、ゆっくりとその仕草を真似る。

 

 仕草のひとつひとつが、たとえようもなく愛おしい。一生懸命、惣哉に付いてこようとするその全てが。

 

 食事の味は実は余りよく分からなかったが、それでも惣哉の心は幸せな気持ちでいつのまにか満腹になっていた。

 

続く(020208)

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