TopNovel「並木通りのシンデレラ」扉>並木通りのシンデレラ・11



…11…

 

 

「本当に、ありがとうございました」

 園田には惣哉の家の前まで送ってもらった。時刻は10時を回っていたが、まだ父もお手伝いさんの幸さんも起きているだろう。お茶の一杯も飲んで貰おうと思ったが、千雪はもう充分です、と控えめに辞退した。

 

 静かに御礼を言って、頭を下げる千雪に、惣哉は名残惜しそうに言った。

「じゃあ、送るよ」

「え、いいですよ。だって、副理事長さん、お家に前に着いていらっしゃるじゃないですか。道も明るいですし、大丈夫です。本当に、一人で帰れます」

「…千雪君」
 諭すように言葉を切った。

「レディーを送り届けるのは最低限のマナーだよ」
 言い捨てるように言葉を吐くと、さっさと歩き出す。慌てたヒールの音が追いかけてくる。

「大丈夫ですよ、副理事長さんは明日も会議が入ってらっしゃるでしょう? 早くお休みになられた方がいいです」

 

 ――副理事長さん、と。

 気付くといつも通りの距離が出来上がっている。呼び方ひとつでこんなに遠く感じるものなのか? 初級の心理学で言われることが、体験として身にしみてくる。もう少し、自分の名が彼女の口元からこぼれるのを聞きたかった。それはひとことで酔いしれる甘い響きだった。

 もどかしさは小さな苛立ちになって、惣哉を支配する。彼女が悪いわけではないのに、無意識のうちに言葉に刺が混ざる。

 

「…いつ、帰るの?」
 千雪の言葉は無視して、自分の話を始めた。

「え?」
 案の定、彼女の方は話の流れが読めないらしい。足を止めて、小さく答えた。

「君は7月末で任期切れでしょう? そうしたらすぐに引っ越すつもりなのかな、と思って」

 くるりと振り返ると街灯の下に立っている千雪が、ふわっと浮き立って見えた。襟足を覆っている後れ毛は金色に光る。
 週末の住宅街はこの時間でも人通りはまばらだ。電車より自家用車を使う者が多いこともあるだろう。

「ああ、そのことですか。そうですね、そうなると思います」
 惣哉の視線を感じた彼女は意識した微笑みを浮かべ、その後、視線を車道へ逸らした。

「あ、もしかして。引っ越しのお手伝いとか心配して下さるんでしたら、大丈夫ですから。荷物も少ないですし」
 言葉に会わせて花びらのような袖口がふわふわと揺れる。その言葉のひとつひとつが計算されたかのようにぎこちない。

「まだ、退職届は受け取ってないよ?」
 千雪の横顔を追いながら、絞り出すように切り札を取り出す。

「副理事長さん」
 困ったように言葉を詰まらせる。そうだろう…退職届を受理しないのは惣哉なのだ。千雪の不手際ではない。そんなことを責められても仕方ないのだ。

「今更だけど、戻らない様には出来ないの?」

 ぴくり、と背中が動いた。でも、答えはない。何かを掴もうとして、掴みきれない…そんなたとえようのないもどかしさが惣哉を包んでいた。

「千雪…」

「もう、止めてください! 私が決めたことなんですから…!」
 車道のセンターラインを見つめたまま、少し苛立った声で千雪が叫んだ。

「僕が…戻らないでくれ、と言っても…?」

 

「え…?」
 驚いた顔で彼女は振り向く。大きく見開かれたきれいな瞳を見つめたまま、惣哉はもう一度言った。

 

「千雪、戻らないでくれ。…ずっとここにいて欲しいんだ…」

 視線の先の少女はこちらを見つめたまま、微動だにしない。

 

 ゆっくりと歩み出て、小さな肩を抱きしめる。強い抵抗はなかった。怯える様に小刻みに震える体が自分の腕の中にある。背中に腕を回す。大きく背の開いたドレスなので、肌の感触がそのまま伝わってくる。

「君に…側にいて欲しいんだ…」

 腕を緩めて、千雪の顔を捉える。片手で、震える顎を持ち上げた。

「好きだよ…」
 やはり、千雪の抵抗はなかったと思う。その唇に自分のそれを押し当てても、息が続く限り味わって、一度離してまた吸い付いても…彼女は惣哉のするがままに身体を預けてきた。

「千雪…」

 どうして、手放せるものか。この人を。手放してしまって、どうやって生きていけばいいのか。

 

 咲夜との歳月の間。いつでも終焉だけを思い描いていた。どんなに愛おしいと思っても、どんなに想いを募らせても…いつかは終わりが来るような、そんな予感がしていた。

 冷めている、と言えばそうだったのかも知れない。

 それで最終的には咲夜が去っていったのかも知れない。朔也のことを憎くないと言ったら嘘になる。でも彼のまっすぐな心が咲夜を揺り動かしたのだとしたら、自分には勝ち目はないのだ。

 

 …もう、誰でも同じかと…思っていた。

 

 でも、千雪が現れた。突然、視界に飛び込んできて、いつしか心ごと捉えられていた。
 澄み切った透明な空間を漂う無数の羽根…そんなものを掴み取る事自体が不可能なのに、それでも欲しいと思った。

 

「…駄目です」
 
 その声にハッと我に返る。惣哉の胸に手を付いて、軽い身のこなしで彼女はすり抜けていた。

「副理事長さんには、もっとふさわしい方がいらっしゃるでしょう? 私なんかじゃ、到底お相手は務まりません。恥をかかれては可哀想です。あなたは聡明な方なんですから、もっとその辺をわきまえてくださらないと…」

 しっかりと惣哉を見上げる双の瞳。ゆらゆらと揺れながら、淡く微笑んでいた。

「…どうして…」

 自分が洗いざらいに想いを告げて、どうしてすり抜けていくのか? 惣哉には理解できなかった。今までの人生の中でこれほど心から何かを欲した事もなかった。それだけに力の入れ具合も分からない。もしかしたらもっと上手な方法があるのかも知れない。

 でも、今はこの目の前の人を手に入れたい。どんな手段を用いたとしても…。

「物珍しいのだと思います、田舎から出てきた娘が。でもすぐに物足りなく感じられますよ、やはり人間にはそれぞれ自分の生きるべき場所があるんです…私の生きるべき場所はここじゃありません」

「そんなことないよ!? 君は、こんなにきれいになるじゃないか? きちんとした服を着てそれなりの教養を身に付ければ、どこに出したって恥ずかしくない。君は頭の良い子だし、飲み込みも早い。そんなに自分を卑下することはないんだ。頼むよ、そんないい方は辞めてくれ…」

 どうしたら、千雪の心が手にはいるのか、見当も付かない。でもあらん限りの思考を巡らせて、思いとどまる方法を案じていた。

 

「でも…」
 惣哉の心の痛みが伝わっているように。千雪も辛そうな表情になった。

 

「背伸びをするのは、辛いんです」

 

「…え…?」

 そのはっきりとした言葉に色々なものが吹き飛んでしまった気がする。
 瞬きした先に、薄く微笑む千雪の顔があった。

 

「副理事長さんのお部屋でお手伝いをさせていただいて、とても勉強になりました。でも同時に私たちの間にはとても大きな溝があるんだなあと、気付いてました。あの、このようないい方をしては失礼だと思いますが、私はかしこまって素敵なお洋服を着て、上品に過ごすより、副理事長さんが眉をしかめてしまう安物のジャージを着て、芝生の上を駆け回る方が好きなんです。そうしないと自分じゃなくなる気がする。…世界が違うんです、私にはそれが良く分かりました。今度はちゃんとした方を雇われてください…そして、お似合いの方と幸せになっていただきたいです」

「…そんな…」
 今更ながら、愕然とする。服装やその他のギャップはそれなりに感じていた。でも彼女は自分が言えば合わせてくれていたじゃないか。…それが、押しつけであったとは…。

「このドレスも、靴も…みんな借り物です。明日になれば返さなくてはならないんです。髪も解けば元に戻ります…こんなきれいでいられるのは…本当に…今夜だけですから…」

 その時。

 たった今まで、崩れることなく凛としていた千雪の表情が一瞬崩れた。すうっと、頬にひとすじの滴が流れる。

「ちゆ…」
 何か言わなくては、と思った。でも言葉は出てこない。何と言ったら慰められるのか。自分の気持ちは伝えた、想いのたけはぶちまけた…そうなったら、この先、どうにもしようがない。もう…残っている手札はない。

「今日は…本当にありがとうございました。夢みたいで…いい思い出になりました…」
 ゆっくりと頭を下げて、礼を述べる。その後、視線を合わせないように背中を向けた。

「…お休みなさい」

 軽いヒールの音が遠ざかる。

 惣哉は後を追うことも出来ずに立ちすくんでいた。全てを出し切ってしまった空虚な気持ち。頭の中をぐるぐる回る様々な思考。それはただの黒い帯になって、渦巻くばかり。

「千雪…」
 視界の彼方に消えた、その人の名を呟いてみる。かさり、と足元に何かが当たった。

「…あ」
 彼女の髪から落ちた花が置き忘れた心のように転がっていた。

 

………


 …眠れなかった。

 部屋のサイドテーブルの上に置かれたコサージュの片割れ。それを何度となく見つめては、大きなため息を付いた。

 腕の中に確かに抱きとめた頼りない身体と、唇に残る確かな感触。震えながら吸い付いてきた、愛おしいぬくもり。

 確かに。

 千雪の方の心なんて気にしてなかった。彼女にとっては自分の気持ちなど迷惑以外の何者でもなかったのかも知れない。…そんなことを考えるゆとりすら消えていた。
 無い物ねだりをする幼子と、それをなだめる母親。2人の関係はそんな感じだった。実際10歳の歳の開きがあるはずが、彼女の前であまりにも未熟な自分がいた。

 …諦めるしかないのか…

『副理事長さんには、もっとふさわしい方がいらっしゃるでしょう? 私なんかじゃ、お相手は務まりませんよ…』
 千雪の言葉が哀しく反芻される。

 

 …いや。もしかすると…それは言い換えれば彼女にも言えること何じゃないだろうか? 

 自分よりも彼女にふさわしい男はいくらでもいる。彼女が背伸びをしなくても、着心地の悪い服を着てかしこまらなくても…ありのままの彼女を包めるような誰かが。

 でも、それを考えただけで気が狂いそうになる。自分にはそれが出来ないと彼女本人から烙印を押されていながら、諦めきれない。

 

 朝、学園に行けば彼女が迎えてくれる。どんな面倒な仕事があったとしても、あの笑顔を見られるなら楽しく思えた。柔らかな声、はにかんだ笑顔。軽い足音と振り向いたときのふわりと流れる髪の動き。気付かないうちに全てに支配されていた。それを手に入れられるのなら、どんなことも厭わないのに…。

 

 …口惜しい。

 

 この先、どんな顔をして彼女に会えばいいものか。千雪のことだ、今日も何気ない顔でやってくるだろう。いつものようにコーヒーを煎れて、軽やかにパソコンを打って…話しかければ、いつも通りの明るい笑顔で対応してくれるはずだ。

 でもそんな彼女の気遣いに耐えられる自信がなかった。

 いつしか夜が明けていた。時計が6時半を指している。ベッドから起きあがると、惣哉はキッチンの方へと向かった。

 

………


「…おや、今日はもっとゆっくりで良かったんじゃないのか?」
 ダイニングのテーブルで惣哉の父・政哉が新聞を広げていた。

 学園も夏休みに入っているので、いつものように定時に出掛けなくてはならないこともない。ましてやここは学園と敷地続きだ。何かあったら連絡を貰えばすぐに駆けつけることが出来る。

「…コーヒーでも貰おうと思いまして…あれ、幸さんは?」

 惣哉の声に政哉はおやおや、と言う表情になった。

「何だ、忘れていたのか? 今日はお孫さんの結婚式で、大阪だから早く出ると言ってただろう。朝食なら、冷蔵庫にサンドイッチがあるそうだよ」

「…そうでしたね」
 惣哉はようやく思い出した。この間そんなことを言われた気がする。取り忙しくてすっかり忘れていた。

「あ、コーヒーなら、私の分も煎れてくれ」
 キッチンにむかう背中から政哉が叫んだ。


 

「何だか、浮かない顔だな」
 コーヒーのマグを受け取ると、政哉は息子を見つめた。一口飲むと、クリームではなく牛乳が入っている、ついでに砂糖がいれてない。一瞬、眉をしかめたが、惣哉の顔色を見て咎めるのをやめたようだ。

 惣哉は父の声に一瞬、顔を上げたが…そのままカップに視線を落とした。

「昨晩は、楽しくなかったのかい? 園田と今日の送迎の事で連絡を取ったが…千雪君、とてもきれいだったそうじゃないか。私もひとめ拝みたかったな…」

「…そうですね」
 本当は返事をするのも面倒くさい。洗いっぱなしの額にかかった前髪をかき上げて、短く返答する。

「惣哉? …彼女と何かあったのか?」

 惣哉は黙ったままカップを握りしめた。察しのよい政哉のことだ。些細なところで相手の心内など見抜いてしまう。彼から見れば惣哉など生まれたての赤子同然に分かりやすいだろう。

「…私では…駄目なんです」
 観念して、言葉を絞り出す。泣き言を言うなんて柄じゃないと思ったが、父親の前だ、多少のことは許されるだろう。

「駄目って、…何が、だね?」
 ゆっくりと言葉が繰り出される。父にはあって、自分にないもの…それはこんな大きく包み込むような心なのかも知れない。

「彼女を、守りたいと思ったんです…でも、私では力不足で…彼女には似合わなくて…でも、欲しくて…困らせてしまいました」

「そんなことか」

 短い返答に顔を上げる。『そんな』と片づけられていいものか、少し怒りを覚えた。でもその視線の先に柔らかい父の瞳が映る。

「橋崎同窓会長からはせっつかれるし…お嬢様からは泣きが入るし…お前の行動にはいささか当惑していたよ。…でも良かったんじゃないのか? ここに来て自分の本当に大切なものが分かったのだから」

 政哉はつかつかとサイドボードの方へ歩いていった。

「彼女は…千雪君は素晴らしい子だろう? お前にないものをたくさん持っている」

「それは…そうだと思います」
 惣哉は素直に答えた。

「では…どうしてそんなにいい子を悲しませるような真似をするのかな」

「は…?」
 解せない言葉に向き直る。…悲しませる、というのは少し違う気がした。

 

 当惑する息子の表情を視線の先でなぞり、大きくため息を付いた政哉はゆっくり微笑むと言った。

「これを言うと…千雪君との約束を破ることになってしまうんだがね。昨日、彼女からの退職届を受け取ったよ。お前が受け取らないと頑張っていると直接私の元に持ってきた」

「そんな…」

 まあ、考えてみれば簡単だ。学園理事長の政哉に直接渡してしまえば、惣哉が何と言おうと受理される。いたずらに駄々をこねたところで、千雪の方が一枚上手だったのだ。

「お前は、彼女の…涙の意味を考えたことがあるかい? 理事長室で、千雪君…泣いていたよ」

 

 無言のままに頭をよぎる、昨日の最後の表情。一筋だけこぼれたもの。

 

「私の…気持ちに応えることが出来ないことが…申し訳ないと、彼女なりに思ってのことじゃないですか?」

 それが千雪の自分に対する思いやりなのだと解釈していた。それだけにやりきれなかった。

「それは…どうかな?」

「は…?」
 もったいぶった言葉に思わず言葉が出る。この人は、父は何を知っていると言うのだろう?

 

 政哉はサイドボードの上に所狭しと飾られた写真立ての中から、1枚を取り上げた。若くして亡くなった惣哉の母、すなわち政哉の妻が微笑んでいる。目配せをして微笑みかけると、それを元の位置に戻した。

 

「惣哉、お前は高いところから…彼女を引き上げることだけ考えていなかったかい? 自分が救おうとばかり考えていなかったかい? …そう言う思い上がりが彼女を追いつめたのだとしたら。お前には私のように遠回りをして欲しくない。…お前の母上は…素晴らしい方だったよ、本当に。私は心の安らぎを手に入れることが出来たと思う、お前という立派な息子も授けて頂いた。…だが、途切れてしまった想いは永遠に心を支配するのだ。出来ることならば、まっすぐに、心が求めたその人と幸せになった方がいいと思う。お前は、私や…月彦のように…隙間のある人生を送らないで欲しい」

 柔らかいがしっかりした視線が、惣哉を捉える。この人は何でも知っている、そんな気がする。

「でも、父上…私は…」
 泣きたい気持ちだ。洗いざらいをぶつけて、受け入れて貰えなかったのだ。もうこの先のしつこさは彼女を萎縮させるだけだと思う。そんな情けない自分はもうたくさんだった。

「彼女、今日、引っ越すそうだよ」

「…え!?」
 がたん、と乱暴に席を立っていた。

「お前に絶対言わないでくれと言われていた、でも私は彼女の上司である前にお前の父親だからな。…運良くお前に誘われたのが前日で良かったと、自分を誘って貰えて光栄だと…あんなに泣きじゃくっていたのに…きれいな笑顔だったな」

「……」
 また、思考が入り乱れる。何も告げずに行くつもりだったのか? どうして?

 そんな惣哉の表情を見て取って、政哉は静かに続けた。

「お前に会ってしまったら、行くなと言われたら…決心が鈍るから…だと。ここまで言ったら、さすがにまずいかな…?」
 政哉は喉の奥でフフッと笑いをもらした。

「父上…」

「惣哉、彼女の立場になって考えなさい。お前が好きになったのはただきれいな服を着て優雅に振る舞うそこら辺にあまたといる淑女じゃないんだよ。…引っ越し、と言えば午前中だ。早く行かないと手遅れになる」

 そう言われても、どうしていいのか分からない。呆然としたまま立ち尽くす惣哉に、政哉は歩み寄ると肩に手を置いた。

「…郷に入っては、郷に従え…だよ。彼女にふさわしい人間になって、さあ、お姫様を奪還してきなさい」

 ぽん、と背を押される。その後は無我夢中で、とにかくクローゼットへ駆け込んだ。

続く(020210)

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