人間がすれ違えない幅の外階段。カンカンと響く鉄製のそれをもどかしい気分で駆け上がる。手すりには赤錆が浮いていて手がこすれる。でもそんなことは気にしてられない。 呼び鈴を押す指が震える。あんまり何回も押すのはマナーに反するだろう。でもなかなか部屋の中で物音がない。5回目に押したとき、ドアの向こうでカチャッと言う音がした。
「…え…?」 反射的にドアを閉じようとする。その隙間に手を滑り込ませた。 「…入れて」
人間が2人並んで立てない狭さの玄関。千雪はスリッパ履きのまま身を乗り出していた。惣哉が入ってくると逃げるように部屋の隅っこに隠れる。 本当に惣哉には見たこともないワンルームの狭い部屋。天井も低い。段ボールが積み重なった向こうに形ばかりのキッチンがある。副理事長室のそれよりずっとささやかだ。すっきりと全てが片づいた後が政哉の言葉を裏付けた。 「理事長先生ですね、内緒だってお願いしたのに」 座ってうなだれた千雪は口惜しそうに呟いた。仕事の時よりラフなニットのツーピースを着ている。髪も解いて、メイクも落として素顔になっていた。幾重にも涙の流れた痕がある。痛々しいほどに青白い顔をしていた。膝の前で組んだ細い指が震えている。 「やだな、もう。副理事長さんにはきれいな格好でお別れしたかったのに。…計画が失敗しちゃいました」
「忘れ物、届けに来たから。ほら」 「あ!」 「良かった…どこに落としちゃったのかと思っていたんです。もう見つからないかと思ってました。ありがとうございます」 何歩でもない距離をそろそろと歩いて受け取りに来る。 「千雪…」 ぽとりと床にコサージュが落ちた。 「……!!」
「…泣いていたんだね」 「あ、これは荷造りしながら…学園のこととか…色々考えてたら、感極まっちゃって…」 「僕のことは…?」 「え?」 「僕のことは…考えてくれた?」 惣哉はじっと千雪を見つめ返す。また、するりと視線が逸らされる。 「ふ…副理事長さんの事なんて、考えてません! 本当に、少しも考えてませんから…」 「僕は…一晩中、君のことだけを考えていたのに?」 ぴくりと背中が動く。でも振り向かない。 「私の事なんて…考えて頂かなくて…いいです」 「千雪…考えるなと言われても、無理だよ。…本当にどうしたらいいのか分からないんだ…でも、君に側にいて欲しいんだ」 千雪の腕を掴む自分の手が震える。もう頭で考えてものをいう状態ではなかった。ただ、千雪を押しとどめたい、その純粋な心が言葉を溢れ出させていた。 「君が堅苦しい服装が苦手なら、僕もそれに合わせるよ…芝生の上で転がりたいなら、一緒に付き合う。無理にこっちに合わせろなんて、もう言わない。君に…君が僕の隣りで笑っていてくれればそれだけで…それだけでいいんだから。そうしてくれるなら、何でもする。…ね、君がいないと…駄目なんだ」 ずるっと千雪の腕を掴んでいた手が抜けた。そのまま床に崩れ落ちる。膝は土間に付いて、四つん這いになった。涙が溢れていた。子供みたいに泣くなんて…情けない、こんな姿を千雪に見せるなんて何て格好悪いんだろう…でも止めたくて止められるものではない。 鼻の先の辺りで千雪がぺたんと座り込んだ。
「…副理事長さん?」 「お洋服、何だか、凄く変…あの、靴も左右が違うみたいです」 「え…?」 慌てて、我が身を確かめる。幸さんもいないため、どうにか自力で『自分のワードローブ中、一番カジュアルな服装』を探してみた。 普段、着たこともないから、手入れもしていない。よれよれの綿シャツはボタンが掛け違えてあり、身体に合わないチノパンは裾を踏んでいた。買ってから一度も履いたことがなく、丈も直していなかったのだ。 足元を見ると、片方は朔也のスニーカーだ。それもこの前ようやく手に入れた超レアものだと自慢していた気がする。もしかすると今頃、玄関で怒っているかも知れない。足のサイズが同じなので全然気が付かなかった。
「髪の毛も…どうしたんです? 洗いっぱなしは初めて見ましたよ…」 …これも慌てていたため、昨日シャワーを浴びたままだった。前髪がばらばらと落ちている。 くすくす笑いながら、千雪の細い指が惣哉の髪を梳く。自分が今、一体どんな格好をしているのか、鏡を覗くのがものすごく怖い気がした。
その後、彼女はまた膝の上で小さな両手を組むと、静かに深呼吸した。 「あのね…副理事長さん」 思わず、顔を上げる。千雪は涙の中で静かに微笑んでいた。 「私、学生時代にお付き合いしていた人がいたんです。とても優しくて…結婚しようって言ってくれました。でもね、父の病気のことがあちらのご両親に知れて…それで、お別れしたんです。『初めからそんな苦労を背負い込むことはない』と親御さんがおっしゃった…って、そう言われればそうなんですけどね。父の病気はまず治ることはないのだし、父の年齢から言って…これから長患いになることは明らかです。でも…何だか自分の全てが否定されたみたいで…とても哀しかったです。これからもそんな別れが待っているんなら…もう誰も好きになるもんかって、悲しい想いはしたくないって、ずっとずっと考えてました」 「千雪…」 惣哉に淡々と語り続ける千雪。でもその表情は穏やかだった。 「でも…学園に来て、素敵な方にお会いしちゃったんですよ」 「きれいな色のスーツを着て、優しくお笑いになる方でした。もったいないくらい素敵で、私にも柔らかい声で話しかけて下さいました。…もっともその方は私など眼中にない感じでしたが…素敵なお相手がいらっしゃるんだと、他の方が教えて下さいました」 「え…?」 驚く惣哉の顔がおかしくて仕方ないように、千雪は声を立てて笑った。でも、その後、ふっと真顔に戻る。 「…だから、今日はお会いしないで、お別れしたかったんです。理事長先生にもきちんと申し上げたんですが…だって、お顔を拝見したら、名残惜しくなっちゃうでしょう? また自分が期待してしまうのが嫌だったんです…」 そう告げたあと、双の瞳からぽろぽろと新しい涙がこぼれ落ちた。 「…橋崎様、お父様と学園にいらっしゃったときお会いしました。とてもお美しくて素敵な方でした。お二人で並んで歩かれている所を拝見して、あんな方が副理事長さんにはお似合いなんだなあって…素直に頷いてしまう自分が哀しかったんです」 小さな肩が震えている。いくら拭っても涙は溢れて来るらしく、声を押し殺したままだ。でも微かに嗚咽がこぼれてくる。
「千雪…」 「私…本当に、自信ないんです。でも…」 千雪の身体がすうっと寄り添ってきた。それが嬉しくて、思わず腕に力が加わる。 「副理事長さんが…来て下さったら…何だか、どうしていいのか…分からなくなっちゃって…」 「私で、いいんですか?」 惣哉は自分の顔がほころぶのが分かった。千雪の髪を梳いて、腕を緩める。見上げた前髪をそっとかき上げ、ゆっくりと微笑む。 「君じゃなきゃ、駄目なんだよ」 何かを言おうとして、言葉が出てこない口元。そっと指を押し当てる。震えが指先から伝わってきた。真っ赤に泣きはらした目が本当にきれいだ。 そっと身をかがめる。千雪の腕が首に回ってくる。背筋がぞくぞくする幸福感が惣哉に襲いかかる。永遠に冷めない夢のように、永遠に押しとどめたい夢のように。 「千雪…」 「来年は…」 「あの、並木の下を一緒に歩こう…まだ、僕は…どんな花なのか良く知らないんだから。君の好きだと言ってくれた花を、二人で見たいな…」 それから、急にある考えが頭をよぎって、笑いがこみ上げてきた。 「…どうしたんですか?」 「…うん?」 「子供、10人」 「…は?」 「君に、産んで貰わないといけないのかな…?」 「……え〜!?」 「…ちょ、ちょっと、無理です! やだ! そんなの冗談ですってば!!」 その姿がおかしくて、ついついいじめたくなる。 「…東城家の財力なら、そのくらい何でもないんでしょう?」 「そんなあ〜」 「…私、そんなに産めません、身体がバラバラになっちゃいます…」 「いいよ」 「君が寝たきりになっても、最後までちゃんと看病してあげるから…」 「ふ、副理事長さん〜」 「…でもその代わり…」 「僕が、倒れたらちゃんと看病して貰うよ…」 もう一度、そっと肩を抱く。寄り添ってくる小さなぬくもり。 「…離さないよ」
開け放った窓から、馴染みのない下町の朝の喧噪が聞こえてくる。今の惣哉にはそれすらも2人を祝福する音楽に思えた。 終わり(020210)
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