… その☆2 …

広瀬もりの/著

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 ある晩、私はなかなか眠れなくて、ぼんやりとしていた。

 お台所には西向きに大きな窓が付いている。外側から格子が付いてるから、入ってくる光はいつも縦線にしましま。昼も夜もしましま。今夜、磨りガラスの向こうはきっと満月。天高く登ったお月様が地上を綺麗に照らしているんだ。
 いいなあ、お月様。だって、お月様は私たちよりも、人間よりも、動物よりも植物よりも、ずっと長生きするんだって。毎晩毎晩、お空に現れて、暗い夜道を歩く生き物たちの足元を照らしている。きっとみんなから「ありがとう」って言われるんだ。
 それにね、秋には「お月見」っていうのもあるんだよ。これは一升ますさんが教えてくれた。私にこっそり。その日は一升ますさんの中に今年採れたばかりの里芋とサツマイモをふかしたものを入れて縁側に置く。穂の出たススキとお団子も作るんだって。そして、みんなで外を見て「お月様素敵ね」って言うんだって、すごいよね。

 ――はあ、何だか。また悲しくなって来ちゃった。

 私は俯いて流しの中を見つめた。お姉さんが夜洗い物をしたあとに、綺麗に磨いていったピカピカのステンレス。そこに磨りガラス越しの月明かりが落ちてくる。……あれ? 私はその時気づいた。昨日まではそうじゃなかったのに、白い光と一緒に紫色のすらりとした影が映ってる。何? これは何?
 恐る恐る振り向いて、どっきりする。だって、流しの上の出窓の所に。見たことのない洗剤さんがいたんだ。たしか、夜までは緑色の肩幅が広くてウエストがきゅっとしてお尻の大きいな緑色の洗剤さんがそこにいた。素敵なおばさんだった。いつでも私をあわあわにしながら誰にも聞こえない魔法の歌を歌ってくれる。それを聞いていると悲しいこともふうっと消えて、何だかとっても嬉しくなるんだ。
 そう言えば、夜のお皿洗いの時、お姉さんがおばさんの身体をきゅっと押して「あら、もう終わりね」って、言った気がする。洗剤さんは中身が空っぽになったらおしまいなんだ。きっとおばさんは分別ゴミの入れ物に入っちゃった。ああ、さようならも言えなかったな。
 すっごく切なくなって、私はきゅんきゅんする胸を押さえていた。私たちの間には毎日のように「こんにちは」と「さようなら」がある。一期一会って言う言葉があるんだよ。袖すり合うも多生の縁、とか言ってね、出会いはその時限りかも知れないから、いつでも気持ちよくおつき合いしなくちゃって言うの。今日、私が泥の付いた身体をこすってあげたにんじんさんも、畑から収穫されてここに来たばかりだけど、すぐに包丁さんに小さくカットされて、今夜のカレーになっちゃった。
 そうなんだよ、いつもそう。さようならも言えないの。だから、私はいつでも出来る限りの笑顔で、流しの中に来る人に「ようこそ!」って言う。だって、その時しか私はその人と会えないかも知れないでしょ? 八方美人とか言われてもいいの、私いつも気持ちよくしたいの。
 ……でも、あの新しい紫の人。何だか男の人みたい。だって、円柱形のすらりとしたボディーをしていて、姿勢もいいし、頭の上に付いてるキャップも格好いい。うわ、どうしよう。明日から、私は彼に「おはよう」って言うのかな、何だか恥ずかしいよぉ〜っ! ほっぺが赤くなっちゃって、いつの間にか緑の洗剤のおばさんのことも忘れていた。そして、ごちゃごちゃと考えているうちに、いつかうとうとと眠りについていたの。

 翌朝、すっかり全てを忘れていたら、いきなり頭の上から声がした。
「おはよう! いい朝だね。気持ちいいよ!」
 私はどこからその声がするのかも分からなくて、きょろきょろしちゃった。そしたら、くすくすっと笑い声がする。その時ようやく気づいたの、その声の主、昨日の晩に見た新しい洗剤さん。
「おっ、おはようございますっ!」
 いゃん、いつもみたいににっこり出来なかった。だって、朝の光を浴びた彼は昨夜よりもずっと格好良くなっていたんだもん。もう、どうしたらいいの。目のやり場に困っちゃう。そんな私に、彼はますます素敵な笑顔でこう言った。
「実は僕ね、今までスーパーの売り場にずっと並んでいたんだ。その前は段ボールの箱に入れられて、長い間車に揺られていた。産まれたところは工場の中。だから、こうやって本物のお日様の光を浴びるのは初めてなんだ。本当に気持ちがいいね、想像していたよりもずっと素敵だっ!」
 私はすごく恥ずかしくなっちゃった。だって、彼が素敵だと言ったのはお日様のコトなのに、何だかまるで台所スポンジの私が誉められたみたいに思えちゃったんだもん。そのくらい、彼はうきうきしていた。この世の中が、全部素敵で出来ていて、見るものすべてが最高だって思ってるみたい。すごいな、こんな風に前向きになれる人がいたんだ。
 やがて、朝ご飯が終わって。とうとう洗剤さんと私が出会うときが来た。お姉さんが私に水道の蛇口から出したぬるま湯を掛けて、軽く絞る。そのあと、洗剤さんをちゅーっとかけたんだ。
 ……うわっ、いい匂いっ! 洗剤さんの身体には「ラベンダーの香り」と書いてある。そうかこのすごく気持ちいい匂いは「ラベンダー」って言うんだ。どうもお花の名前みたい。洗剤さんの身体には紫色のお花の絵も付いてた。夢見てるみたい。すごく気持ちいい。新しい洗剤さんは、すごく明るくて素敵な人だけど、中身もこんなにすごいんだ。
 白いお皿さんもコップさんも、私に付いてる洗剤さんのあわあわに気づくと「あれっ」と声を上げた。「今日のあなた、すっごくいい香りがするわ」って、私のせいじゃないのに言うのよ。もう恥ずかしいったら。そしたらお姉さんまで、洗い物が終わったあと、手をくんくんしている。みんな、洗剤さんが大好きになったみたいだ。すごい、今日初めてのお仕事だったのに、みんな洗剤さんに夢中だ。
 そりゃ、分かるよ。こんなに素敵なんだもん。でもさ、神様って不公平だよ。スポンジの私にはいい匂いなんて付いてない。まあ、もしも付いていたりしても、毎日あわあわになったり水で流してぎゅっと絞ったりしていたら、そんなものすぐになくなっちゃいそうだけどね。でも……洗剤さんは私にはないものを持っていて、いっぺんにみんなを魅了する。ずるいなあ、ホント。
 私だって、最初は洗剤さんがいいなって思った。ちょっと憧れていた。でも、あんまり会う人会う人が「今日のあなた素敵ね」って言うたびに、だんだん嫌な気分になってきたんだ。いつもの私と同じなのに、つけている洗剤さんが違うだけなのに、それだけでみんな私を違う人みたいに見る。私は私、中身は一緒なのに。まるで私までが変わってしまったみたいに。そんなの嫌、それじゃあ、私は何なのよ。

 一日が終わる頃には、私はもうすっかりへそを曲げていた。ぷんとふくれたまま、たわしさんが「おやすみなさい」と言ってくれたのにお返事しなかった。もう最低、いつもの私はどこに言ったんだろう。つつましくても、にこにこしてみんなに好かれていた私。それが一日でどっかに行っちゃった。みんな洗剤さんのせいだよ、洗剤さんが悪いんだよ。
 だから、その晩、真っ暗になったお台所で、洗剤さんが「こんばんは」と言ったのに無視しちゃった。そのあと寝たふりしていたけど、やっぱり気になって。三回呼ばれたら、まるで今気づいたみたいに目を開けて彼を見上げていた。そしたら彼、朝と全然変わらない笑顔で私を見てる。何だかいじけてる自分が急に恥ずかしくなって、私はまた俯いてしまった。
「今日はとても楽しかったよ、本当にありがとう。こんな素敵な一日は生まれて初めてだ。みんなスポンジさんのお陰だよ」
 私はびっくりして、思わず顔を上げてしまった。だって、洗剤さんが思いもよらないことをしゃべりだすんだもん。何でいきなりそんなことを言うの? 私がびっくりした顔していると、洗剤さんはちょっと赤くなって言った。
「実は僕、ふわふわしたのも初めてなんだ。僕たち洗剤はスポンジさんの力を借りないとふわふわ出来ないんだよね。話には聞いていたけど、一体どんな風になるのかなって、昨日の晩からずっとドキドキしていたんだ。嬉しくて嬉しくて、踊り出しそうだったよ」
 それから彼は、感激を思い出すみたいに大きく深呼吸した。幸せをいっぱい吸い込んで、たっぷりと吐き出す。どうして、この人はこんなに楽しそうなんだろう。私たちは毎日毎日、同じ事を繰り返している。代わり映えのない毎日で、だんだん色んなことが面倒くさくなっちゃって。初めての時のどきどきをどこかに置き忘れている。そうなのかも……知れないね。
「君みたいな、素敵なスポンジさんで良かった。とびきりのふわふわだったよ。君の身体って柔らかいね、夢見てるみたいだった」
「え……?」
 それは他のみんなには聞こえないような、ちっちゃな声だったけど、私はもう心臓が飛び出しちゃいそうになっていた。うわわ、どうしたの、何言い出すの。すっごい恥ずかしいよ。
「昨日、お姉さんが僕を買ってくれて。買い物袋の中で、ずーっとみんなの話を聞いていたんだ。ここのスポンジさんはすごく可愛いって。いつでもにこにこしていて、一緒にいると幸せな気分になれるって。スポンジさんに優しく洗ってもらえると思えば、面倒な仕事も辛くない。スポンジさんは特別の魔法使いみたいだなあって……」
「え……?」
 知らないよぉ〜そんなのっ! 私、そんな、素敵じゃないもん。ただのスポンジなんだよ? 洗剤さんがいなければ、あわあわしてみんなを綺麗にすることも出来ない、当たり前のスポンジ。立派なものじゃない。
「昨日の晩ね、緑色の洗剤さんが、君のことよろしくねって言ってた。ちょっと恥ずかしがり屋さんだけど、仲良くしてねって。僕、仲良しになれるかってちょっと不安だったけど、やっぱり君で良かった」
 やだぁ……なんだかすごく恥ずかしくなっちゃう。これって告白みたいだよ。こんな格好いい洗剤さんに素敵なことを言われちゃうと誤解しちゃうでしょう。
「せっ、洗剤さんって……どうしてそんなに楽しそうなの? そんなにうきうきしていて疲れない? 大丈夫?」
 ちょっと不安になって、聞いてみる。洗剤さんはひとりで歩けないから、本当に踊り出したりはしないけど、何か目の錯覚で動いているようにすら見えてくる。疲れるよ〜毎日のことなんだから。そんなにしていたら、きっとすぐにガタが来るよ。洗剤さんの身体はプラスチックで出来てるんだから、ひびが入ったら中身が漏れちゃうよ。
「そんなの、平気だよ」
 洗剤さんはきっぱりとそう言うと、胸を張った。
「君がふわふわあわあわってしてくれるから、そうすると夢を見てるみたいな気分になるんだ。毎日、そんな風に出来るんだったら、うきうきして当たり前でしょう?」
 それから小さな声で「僕たちって相性ばっちりだね」って、言ってくれた。私はすごく恥ずかしかったけど、でも必死で笑顔を返した。私がいて、洗剤さんがいて、ふたりいるからふわふわできる。どっちかしかいなかったら寂しいのに、ふたりなら10倍も20倍も幸せになれるんだよ。誰かと一緒にいてこんなに嬉しいって感じたの初めてかも知れない。

 晴れた日には、お姉さんは窓を開けてお掃除する。ちっちゃなピンチハンガーに私をつるして格子の所に引っかける。日光消毒なんだって。その時、洗剤さんにも見せてあげよう。彼がまだ知らない外の風景を。空の色が青いことや、風の匂いに春を感じること。空を飛ぶ鳥に、揺れる木の枝。もっともっと素敵がいっぱいあるって教えてあげよう。
 ラベンダーの香りがほのかに残る身体で、私は満ち足りた眠りにつく。こうしていると洗剤さんがすぐ近くにいるみたい。明日も、晴れるといいな。キラキラに輝く、洗剤さんの笑顔で目覚められるといいな。

Fin(040216)
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