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………11

 

 

 

 お通夜はその日の夜に行われた。制服姿のまま、長屋先生の車に乗せてもらって先輩の自宅に向かった。葉月ちゃんも一緒に。

「…癌だったんだ」
 先生は前を向いたまま、後部座席の私たちに告げた。先生の中にはいくらか予期していたところがあるらしくそれでも落ち着いていた。お見舞いも行ったらしいし。

 でも、私は。先生のその言葉を聞いても全然信じられなかった。こんなのは、たちの悪い冗談だと思ってしまう。

 だって…先輩は元気だった。たった2ヶ月前…年の瀬の公園で私は会ったのだ。ちゃんと言葉を交わしたのだ…それが、それを。

 身体の震えが止まらない。私の手を葉月ちゃんがぎゅっと握りしめてくれた。柔らかくて温かい手。その手も小さく波打っていた。

 私の中のたくさんの否定の想い。でも…先輩の家に着いたとき、すっかりと整えられた喪のしつらえに、事実を受け入れるしかなくなった。車を降りると、加賀見先輩が喪服姿で駆け寄ってきた。黙ったまま先生に一礼して、それから私と葉月ちゃんをそっと見つめた。青ざめた頬の色に物言わぬ強いものを感じ取る。本当にささやかなお通夜。弔問客も多い訳ではないようだ。一人の命の最後を語るには静かすぎる宵。

 とりあえず、お焼香を…と促される。でも、私の足はどうしても門の中に入ることが出来なかった。立ち尽くしたままの私に先生と葉月ちゃんの途方に暮れた視線が注ぐ。そっと、手を引かれて、それでも小さくかぶりを振った。

「…私が、ここにいますから…」
 押さえた声で、加賀見先輩が私の肩を抱いた。加賀見先輩は先にお別れを済ませてきたのだろう。卒業式の時に遠目に見たのと変わらないロングヘアを揺らしながら、黒縁の眼鏡に手をやった。

 

 駐車場にされた空き地を歩いていく。サクサクと草を踏みしめる音。加賀見先輩の黒いヒールが露に濡れる。それをぼんやりと見ていた。柔らかい風が頬をくすぐっても熱さも寒さも感じない。身体の感覚が消えていた。

 

「…あの…」

 ふいに。私たちの背後から声がする。慌てて振り向くと喪服の着物に身を包んだ小さな身体の女の人が立っていた。ひとつにまとめられた髪に白いものが浮かぶ。その人の視線ははしっかりと私の方を向いていた。

「カナ、ちゃん…ですよね?」

「…はい」
 その声に聞き覚えがあった。その話し方に記憶を辿る。そしてすぐに行き着いた…この人は、緒方先輩のお母さんだ。私はどこか似ている目元の辺りをぼんやりと眺めていた。

「巧が…ウチの息子が、大変お世話になりました。ひとこと、御礼を言わせていただきたくて…」
 細くなった目から、ほろりと涙がこぼれる。それを白のハンカチで拭った。お化粧の上手く乗っていない肌は実際の年齢よりもずっと老けて見えた。深々と下げられた頭に、反応できない。

 

 私は、何もしていない。それどころか、先輩を傷つけてしまった。子供じみた甘えた考えで先輩を守りたいと思い、それが出来なくて切り捨ててしまった。私が先輩にしたことは…責められはしても、感謝されることじゃない。

 震える唇で、何か言おうと思う。でも言葉が浮かばない。どうしていいのか分からない。

 

 面を上げたお母さんは、涙の中でゆっくりと微笑んだ。そして手にしていた小さな包みを差し出す。

「…これを」

 小さな紙袋。白くしぼんだ手が差し出したそれをじっと見つめる。何だろう? 小首を傾げた私に彼女はそっと囁いた。

「巧がね、カナちゃんの卒業祝いにあげるんだって言っていたの。どうしても自分で手渡したいって、ずっと頑張っていたんだけど…間に合わなかったわね。なんでも…いつかの約束だって…」

 

 ふわっと。

 私の意識が浮遊した。

 思い出した、そうだ…あの屋上への階段。鷹山君に渡せなかった万年筆を受け取った先輩…。

『その代わり、カナちゃんの卒業の時にもちゃんと贈り物するよ。それでお返しで…いいよね?』

 あの時、階段の吹き抜けに響いた深い声。

 

 まさか…先輩は、あの約束を覚えていたんだ。そして、私の卒業に合わせてちゃんと、用意して…。

 ぐらりと、視界がうねる。よろめいた私を加賀見先輩が後ろから支えてくれた。両手で口元を覆ったまま、私は何も言うことが出来ないでいた。

「カナちゃん、…貰ってやってちょうだい…」
 懇願する瞳。震える白い手。加賀見先輩が私の背中をぽんぽんと優しく叩いた。

「…あ」
 おずおずと手を差しだして、受け取る。思ったよりもさらに重みのない羽根のような包みだった。それをしっかりと両手で胸に抱え持つ。

「あのね、カナちゃん…」
 お母さんはほっと息を吐くと、ゆうるりと天を仰いだ。群青色から漆黒に変わろうとする夕まぐれの空に、ぽつんと細い月が上がっていた。消えそうな暗い淡く、その存在を揺らめかせる。糸の月。

「巧は…あなたと会ってから、確かに変わったわ。学校にも楽しそうに行くようになったし、時々は冗談まで言うように…あまりの変わり様に私たちは本当に驚いたの。あなたの話をするときの巧は本当に幸せそうだったわ…」

「そんな…」
 とても同意できずに、俯いてしまう。私がしたことはそんな誉められるようなことじゃない。ただ、ちょっと喜ばせて、その後突き落としてしまった。先輩を信じたかったのに…ずっと側にいたかったのに、周りの人達の視線に、噂にどうしても立ち向かうことが出来なかった。あの、蔑む目が怖かった。

 

 今になって分かる。長屋先生の言葉も、葉月ちゃんの涙も…お兄ちゃんの動揺も。どれひとつとして決定打ではなかったのだ。ただ、それは私が逃げたいという気持ちへの言い訳でしかなかった。本当に一番残酷で、一番許せないのは私自身だ。お母さんにこうして感謝されることなんて、何もない。

 先輩と会わなくなって。私は元の通りの平穏を手に入れた。先輩のことは忘れた振りをしていた。明るい場所で笑顔に包まれて前向きに生きていく。プラスの思考の中にいた。キラキラと輝く残りの高校生活と引き替えに私は一番大切なものを手放してしまったのだ。

 

「お母さん…私は――」

「いいのよ…」
 まるで、私が何を言わんとしたのか、この人には分かっているようだった。静かに首を振る。

「巧は、幸せだったわ。最後の瞬間まで、あなたとの思い出に包まれていた。カナちゃんと過ごした時間があの子にとってかけがえのない宝物だったの。カナちゃん、人はね…温かい思い出があれば…辛いことをいくらでも超えていけるの。そう言うものなの…私や、主人が少しでも救われるのはあの子が幸せに生きたからよ。それを与えてくれたのは、あなたなの…」

「…そんな…そんなじゃないもんっ!! …私は先輩に…」

 ぱさり。

 さっきの包みが腕からこぼれていた。慌ててしゃがんでそれを拾う。衝撃で開いた封からこぼれ落ちるもの…。

 真っ白な小さなカード。そこには懐かしい先輩の文字が並んでいた。

『カナ、卒業おめでとう』

 短いひとことが綴られたカードに続いて現れたものを見た瞬間。私の目からは、どっと涙が溢れてきた。

 …それは。

 小さな石のついた、一組のピアスだった。

 

………

 


 あれから、幾つもの春が巡ってきた。進学した私はそこでたくさんの新しい出会いをした。もちろん、お付き合いした人もいる。初めてキスしたのは…サークルの先輩だった。ほとんど、強引な不意打ちの行為に逃げることも出来なかった。

 その後…ずっと胸を締め付けられる。ひとつの後悔の念がしっかりと根付いてしまった。

 

『一度だけでいいんだ、キスさせて』

 

 どうして、あの時。先輩の言葉を受け入れてあげられなかったんだろう。キスなんて、本当に挨拶みたいな簡単なものじゃないか。他の誰かにこんなに簡単にあげちゃうなら、先輩にだって…それなのに、私は。

 

「仕方ないんだよ、カナ」
 そう言ってくれたのが、葉月ちゃんだったのか、美音子ちゃんだったのか…または長屋先生だったのか、覚えていない。

 先輩は…明らかに私に特別の感情を抱いていた。先輩が危険な人物とされていただけではない、私の中にそんな彼の感情を恐れる心が確かにあったんだから。二人のその相反する感情を非難することは出来ない。私がもし先輩を好きだったら…一人の男性として、愛していたなら…越えられた壁だったのかも…知れない。

 私の中で。先輩は先輩だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。恋愛感情なんて、微塵もなく、ただ慕っていた。でも先輩は…違ったのかな。

 

 口惜しくて、情けなくて。

 

 その時、決意した。私は、自分から好きになった人と恋愛する。先輩のことを乗り越えられるくらい大切な人がいつか現れるまで…簡単に、誰かと付き合ったりしてはいけないんだ。そんな人、一生、現れないかも知れない。もしも現れたとしても、向こうは私のことを好きになってくれないかも知れない。

 でも。

 妥協は出来ない。先輩の腕を振り払ってしまった私の心にはそんな枷があった。ずっと、ずっと…それから逃れることはなかった。

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