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………9

 

 

 

 薄暗い気持ちで、家に辿り着いた。部活もサボってしまったのに、身体のふしぶしが痛かった。怒りに満ちた身体は知らない間に強ばっていた様だ。

 

 ふうっと、一息つくと。奥の方からどかどかと足音がした。

「――…カナ!!」

「お兄ちゃん!!」

 思わず、叫んでいた。夏休みだと言うのに戻らずにいたお兄ちゃんが何故か目の前にいた。ニコニコといつもの笑顔で私を見下ろす。私は信じられない気持ちで瞬きした。

「どうしたの? お兄ちゃん!? 免許、取れたの…!?」

 お兄ちゃんはこの夏、下宿先の方で車の免許を所得するために自動車学校に通っていた。それで戻らなかったんだ。空き時間はバイトをして。それで…。

「ふふ…、ほおら――」
 お兄ちゃんはポケットに手を突っ込むとちゃりんと何かを取りだした。指先でくるくると回す。それが止まったとき私は目を見張った。自動車のキーだった。

「車…買ったの!?」

「うん、中古だけどね…カナを乗せてあげようと思って持ってきたんだ」
 得意そうに胸を張るお兄ちゃん。私まで嬉しくなってくる。久しぶりに見るお兄ちゃんは日に焼けて大人っぽくなっていた。それでも大好きなお兄ちゃん。今までの嫌な気分も吹き飛んでいた。

「えええ〜、お兄ちゃんの車には乗ってみたいけど。お兄ちゃんが運転するのは嫌だなあ…」

「何だと? こいつめ〜!!」
 お兄ちゃんの腕が首に巻き付く。そこにぱたぱたとスリッパの音がしてきた。

「まあまあまあ…相変わらず、仲良しさんなのね。カナちゃん、今日はご馳走にしますからね。早く着替えて手伝ってちょうだい…」
 ママがにっこり笑って言う。ママも嬉しそうだ。やっぱり家族は一緒がいいな。

 

 その時。電話が鳴った。ママが慌ててリビングに飛び込んで受話器を取る。2,3言話して、保留音にした。

「カナちゃん、緒方先輩から電話よ?」

「あ、はーい…」

 そうだ、戻り道で。

 …今日の葉月ちゃんの話があまりにショックだったので。先輩が戻っていたら声が聞きたくて、公衆電話からかけてみたんだ。でもちょっとコンビニまで行っていると言われてしまった。きっと家に戻って、折り返しかけてくれたんだ。

「…緒方? 誰?」
 お兄ちゃんはまだ緒方先輩のこと知らないから、きょとんとしている。ママがふふふと笑って、説明する。

「カナちゃんの部活の先輩なんですって。良くお勉強を教えて頂いてるらしいの。何でも山ノ脇の方からバスで通っていらっしゃって…」

 そこまで話したママの声が止まった。変な空気のよどみを感じて、受話器に手を掛けたまま振り返る。

「ちょっと待て? 山ノ脇の…緒方? まさか…緒方、巧(たくみ)…まさか、な」
 お兄ちゃんの顔がさああああっと青ざめていく。

「え? お兄ちゃんがどうして先輩のことを知っているの? そうだよ、先輩の名前は巧っていうの―…」

 

 次の瞬間。

 信じられないことが起こった。

 

 私の身体を突き飛ばすように受話器を奪ったお兄ちゃんが、それに向かって大声で叫んだのだ。

「緒方…!! 何でお前が、カナに関わるんだ!? カナに近づくんじゃない…!!」

 後ろを向けたまんまの背中は大きく波打っている。荒い呼吸に合わせて揺らぐ身体。私はそれを呆然と見つめていた。お兄ちゃんは今までに見たことのない激しさで一気にそれだけ言い放つと、叩き付けるように受話器を置く。もう何は口を挟むとか、そう言う感じではなかった。実際何の言葉も浮かんでこない私は、ただ、黙ってお兄ちゃんの姿を見つめることしか出来ないでいた。

 

 やがて静寂の戻ったリビングでお兄ちゃんがこちらを振り向く。その表情は何とも形容の出来ないように張り付いていて、背筋がぞくっとした。覚えず、ぶるっと身震いする。

「母さん―…!!」
 お兄ちゃんの視線は私をすり抜けて、背後にいるママの方を向いていた。ママの細くて激しい息づかいが背中に感じられる。
 
「駄目じゃないかっ!? あいつの電話なんて取り次いじゃ…カナに何かあってからじゃ遅いんだよ!?」

「え? え? …何なの? どうしてなの、守(まもる)君…」

 突然、話を振られて。ママは可哀想なほどうろたえていた。今にも泣き出しそうだ。

「守君…? ママが何が悪いことしたの!? ねえ、ちゃんと答えてちょうだい!!」

 ママの声は良く電話口で私と間違えられる。可愛い声だ。その声が細く高くなって、お兄ちゃんに問いかける。一方、お兄ちゃんの方は私とママを交互に見つめた。その瞳はうつろで、何だか本当にお兄ちゃんじゃないみたいだった。

「緒方は…」
 ややあって、お兄ちゃんのびっくりするくらい低い声がうねり出た。青ざめた頬。ぎゅっと握りしめたままの手。震える身体。

 次の言葉を聞いたとき。私の方も自分の耳が信じられなくなっていた。

「緒方巧は…俺の高1の時のクラスメイトだった、一月だけ」

「え…?」
 戸惑いがそのまま声になる。大きく瞬きした。私を取り巻く風景が揺らいだ。

「お兄ちゃん、それどういう…あの…」

 必死で記憶を辿る。そうだ、先輩は。ウチの高校に来る前に違う高校に行っていたと言ってた。2年のブランクがあったと言ってたっけ…と言うことはお兄ちゃんと同じ学年で前の高校に入学したことになる。お兄ちゃんの高校は山の脇にある有名進学校。レベルが高い。お兄ちゃんも遠いのを覚悟で通ったんだ。

 でも…それが?

 尚も見つめると。お兄ちゃんは弱々しい視線を私に向けた。力の入らない心で、それでも必死でいつもの優しいお兄ちゃんに戻ろうとしているみたいだ。

「カナ、約束しろ。もう緒方には関わるんじゃない、話もするな…悪いことは言わないから」

「……?」
 私の訴える視線から逃れるように、お兄ちゃんがついっと横を向く。

「お兄ちゃん…?」

「晩飯まで、…横になる」

 そのまま、ふらふらと階段の方に向かう。その背中にはもう次の言葉をかけることが出来なかった。

 

………

 


「…カナ? どうした?」

 次の日。数学の授業が終わった後、長屋先生が心配そうに声を掛けてきた。

「…え?」
 慌てて、反応する。モノクロの視界の中に先生の顔がよぎった。徐々に風景に色が付いてくる。

 

 お兄ちゃんはあのまま部屋から出てこなかった。今朝の朝ご飯にもテーブルにつかなかった。ママは心配して何度も覗きに行って…でもどんなに声を掛けても出てこない。一体、どうしてしまったんだろう。緒方先輩の名前を聞いただけで、あの反応はどうしたことだろう…?
 昨日の葉月ちゃんの話もあった。でもあれを聞いただけではそんなに感じるところはなかった。かえって、先輩に対する周囲の人達の視線が毒々しく感じられた位だ。大人の汚い部分を見せられた気がした。

 でも、お兄ちゃんの反応は。大好きなお兄ちゃんだからこそ、信じられなかったし辛かった。

 

「カナ」
 先生は何かを含んだ目で私を見た。それから広い教室の中、私にしか聞こえない早口で言った。

「放課後、進路指導室に来なさい」

 

………

 


「…そうか」
 私の話を一通り黙って聞いていた長屋先生は、窓の外を見たまま小さく頷いた。

「お前の兄貴がな…世界は狭いもんだな」
 そして、静かに振り返る。先生はお兄ちゃんのように取り乱したり青ざめたりしてない。いつもの微笑みはないものの、私の方をしっかり見ていた。

「…先生」
 その視線に助けられて、私も話し出す。

「何があったんですか? その、前の高校で…」

 先生は少し目を細めると、ふうっと小さくため息をついた。

「カナ、お前は緒方のこと、本人からどれくらい聞いてる?」

 私は答えた。幼稚園のころ、事故に巻き込まれたこと。それによって小学校への入学が遅れて、それもあっていつも周囲から浮いていたこと。傷のことが元でいじめにもあっていたこと…高校に進学したものの、問題が起こって、退学したこと…。

「あのな、カナ…」

 俺も同僚の教員から聞いただけで、その場に居合わせたわけではない。そう前置きしてから、先生は静かに話し出した。

「実際の所、真実は誰にも分からないと思う。でも、事実は事実だ」


 それは。

 入学式から一月足らずのまだGW前のことだった。朝からしとしとと街中を濡らす小糠雨がうすら寒い雰囲気を漂わせていた。

 授業中。教室内にガタンと音が上がった。椅子が倒れたのだ。続いて、何かが鈍く床に倒れて転がる音。

「辞めろっ――…!!」
 その声に教室内にいた生徒が騒然とする。物音と叫び声の方向を見たものはその身を凍らせた。

 …血溜まり。その上に倒れ込んだワイシャツ姿の男子生徒。それに馬乗りになるもう一人の…。


「よりによって、美術の授業中だったそうだ。一人の生徒が緒方のことを軽い気持ちでからかった。それに反応した緒方が彫刻刀でそいつの背中を数カ所刺し、さらに床に倒れた所を―」

 昼過ぎから空を覆い尽くしていた灰色の雲から、さあっと雨が落ちてきた。開けはなった窓から吹き込んだその音で、一端、先生の声が途切れる。

 私は、言葉が出なかった。そして、そうではあっても先生の次の言葉に耳を塞ぐことも出来なかった。…お兄ちゃんの芸術の選択は…美術だった。同じクラスだったと言うことは、その場に立ち会ってしまったことになる。

「緒方は、流血して許しを請う相手の首に手を掛けて締め上げたそうなんだ…その時、席を外していた美術教師が戻ってきて、その場を鎮めた。相手の生徒もその親も自分たちにも非があったことを認めてことを大袈裟にはしなかったらしい。でもその事件はまだまだ入学したばかりで浮き足立っていたクラスのムードを一転させてしまう。事件の後、登校しなくなった緒方は1学期が終わる頃、退学届けを出したそうだ…」

 丸くて温かい人柄を映しだしている先生の顔がピンとした緊張を孕んで私を射抜く。教師の顔を越えた前を歩く人間の表情。そして、再び口を開く。

「カナ、お前には無理だ…諦めなさい」

「せん――…??」

 その、言葉の意味が分からない。突然話がすり替わってしまったようだ。そんな私の戸惑いを先生はさらに遮った。

「お前には、緒方を救えない」

 強くて静かな声に身体がびくんと反応する。…どうして? 先生はどうして私の心の中が分かるの? どうしてそんなことを言うの?

「救えないって…!? どういうことなの? 先生、先輩は…悪くないじゃない。事故にあったことも、それによって進級が遅れたことも先輩のせいじゃない。何があったって、一番傷ついているのは先輩で…それを、どうしてみんな分からないの!?」

 私の中の全ての怒りが必死の言葉になる。思いの丈をぶつけてもなお、先生は悲しそうな顔で私を見ていた。

「カナ、緒方がお前を心のよりどころにしているのは知ってる。俺たちはそれを良く分かっている。誰に対しても心を開かなかった奴が、お前には素直に自分を見せる。それは素晴らしいことだと思った…だからこそ、俺たちは頑張ってきたんだ…」

「頑張って…って?」
 先生の先輩に対する想いの強さにも、そして言葉尻にも素直に反応できなかった。

「お前と緒方が朝勉強始めた時点で…職員会議で問題になったんだ。緒方は前々から教師の間で目を付けられていた。そしてお前も…お世辞にも成績の良くない困った生徒として。嫌ないい方をすれば、お前たちは本当に最悪の組み合わせだった。でも、俺は…俺たちは緒方の心に芽生えたものをどうにかして生かしたいと思った…だから加賀見と協力しあって、お前たちを2人きりにしないようにしたんだ。そうして、危ない現場は回避するから、と言うことで――」

「じゃあ…」

 加賀見先輩が朝、やってきたのも…先輩が病欠の日に先生がやってきたのもみんな言い合わせて示し合わせてのことだったというの? みんな、分かっていてやっていたことだったの?

「沙也佳だって…お前のことを心配していた。でも、緒方を想うお前の心は汚したくないって…カナ、お前はみんなから護られてようやくやってきたんだ。でも、もう限界だ…」
 先生は辛そうに眉間に手を当てた。その指が震える。

「緒方の、お前に対する執着は異常だ。このまま行くとどうなるのか保証できない。カナ、お前には緒方を救えない、無理なんだ…」

「何で、そんなこと言うの!? 先生…私は…私は、先輩の側にいるって約束したもん。先輩だって私といると元気になれるって…!!」

 体中で必死に訴える。でも先生は表情を変えずに私を見据えた。その唇が非情に動く。

「その言葉が、真実なら。どうして、お前は今、そんなに震えているんだ…!?」

「…え…?」
 言われて、気付く。自分でも信じられないほどガクガクと音を立てる身体。怒りではない、恐怖から来るもの。私の知らなかった先輩がたくさんたくさん出てくる。私に許容できない大きさのものを持って…。

 ――でも。

 思わず、自分で自分の腕を抱く。ひるんでは行けない、自分の決心を曲げてはならないと…。

「先輩みたいな立場になったら、誰だって先輩みたいになっちゃうもの。先輩は悪くない、私は先輩と一緒にいたい…っ!!」

「カナ」
 雨にけむる風景をバックにして、先生は静かに言い放つ。

「だったら、お前は知っているのか? 加賀見が他の生徒より2歳年上であると言うことを。…中学3年の時、事故に巻き込まれて足を大怪我して、完治するまで進学が出来なかった。今でも奴は少し足が不自由だ…でもそんな素振りもないだろう…それだけじゃない…」

「え…」

 先生は一度、瞼を伏せる。もう一度、ゆっくりとそれを開けたとき、ため息と共に話し出した。

「沙也佳が、1学年休学したことがあると言うことは?」

 今度はもっと大きな衝撃を受けた。ふらっと揺れた視界に慌てて机に手をついて静止する。…何? 先生は何を言っているの!?

「…だから、あいつらは他の奴よりも緒方に同情的だった。まあ、沙也佳は子供の頃、身体が弱くて内臓の疾患で入院を余儀なくされていたかららしいんだが…それでも、あいつらはそんな影を微塵も見せない。ちゃんと他の仲間に同化している。…影を持ったまま、それから逃れようとしないのが…緒方だ…」

「でもっ!! でも…!!」
 何と言ったらいいのか分からない。でも先生は私をひとつの方向に導こうとしている。そこに向かってはならない、私には…私には…大きな決心があるんだから…何があってもそれを守り通したい…!!

 そんな私の肩を先生が強く掴んだ。ぎりりと痛いくらい食い込む指。

「カナ…堕ちていく人間を救えるのは相当の力を持つものだけだ。そうじゃなかったら…そうじゃなくても救いたいのだとしたら…その時は自分も同じ所まで堕ちて行かなくてはならない。お前は…それだけの器じゃない。いつかはなれるかもしれないが、今はそうじゃない。今のままでいたら…二人とも取り返しのつかないところまで行ってしまう。カナ、お前の高校生としての本分はきちんと勉強することだろう? 救えないなら、手を差し伸べてはならない…」

「やだ!! そんなのっ…やだっ!!」
 口惜しい、どうしていいのか分からない。全てのものが私の前に立ちふさがる。どうしてなの? ただ、私を頼ってくれた先輩の手を握り返したい、それだけなのに…。

 心の奥にくすぶりだしたもう一つの感情を必死で払いのけようとする。怖かった、私を惑わせるものも。そして惑わせられる心も。自分の意志ではどうにもならなくなっていく心…。

 先生は大きく息を吐くと、私の肩から手を離した。そして身体を少し向き変えて、入り口に向かって声を掛けた。

「…いつから、聞いている。そこにいるのは分かっているんだぞ? …緒方」

 その声に反応して。

 引き戸が緩やかに開いた。

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