「ねえ、カナ。親戚から、たくさん辛子明太子をもらったの。量が多すぎるから、明日お母さんがおにぎりにしてくれるって。たくさん作ってくるから、明日は音楽室でお昼ご飯ね?」 放課後の練習の後、美音子ちゃんが明るい声で言った。 「他のみんなには、お弁当の時に話したんだけど。カナはいなかったから…」 文化祭のステージは納得のいくものになった。コンサートをした市営文化会館のステージとは異なり、体育館の舞台は音響も悪い。それでも来てくれたお客さんに楽しい気持ちを伝えようと頑張って歌った。見に来てくれたOB・OGの先輩にも好評だった。緊張が解けて、美音子ちゃんも晴れやかだ。やっぱりとてもプレッシャーを抱えていたみたい。 「うん、分かった――…」 1年生の間は教室でお弁当を食べていた。何故ならコーラス部員のほとんどが同じクラスにいたから。2年生になって見事に2,3人ずつバラバラになる。何となく、音楽室に集まって部員同士でおしゃべりしながらお弁当を食べるようになっていた。それは他の部の子たちにも言えること。そして付き合ってるカップルなんかはどちらかの教室に出張したりもしていた。
私は相変わらず文芸部の部室でお昼を食べていた。でもこの頃はお昼ご飯に文芸部の部長である加賀見先輩が同席するようになっていた。文化祭の後、また3年生の早朝補習がはじまり、先輩との朝勉強がなくなる。そして、放課後は私の方でコーラス部の練習がある。文化祭のステージが終わると今度は12月の初めにある地域の音楽祭の準備に入る。上手い具合に間を置いて色々な催し物が準備されている。それぞれに新しい曲を選んで臨むと、6月のコンサートの頃には4部構成のステージを全てクリアできるほどの持ち歌が集まる。 時々。 お箸を持ったまま、視線を感じて顔を上げる。緒方先輩が私の方をじっと見ていることがある。目が合うと、それまでの緊張が解けてにっこりと微笑む。言葉のないまま。 私と先輩は「運命共同体」だったから。先輩のことはちゃんと分かっていたかったから。もっと色々おしゃべりしたり、考えたりしたかった。でもそれをする時間が何故かなかった。
………
次の日。 「…あれえ、今日はお弁当がひとつ?」 「うん、届けるだけ。音楽室で部活のみんなとご飯なの」 「ふうん、そうなの。…そうなの〜」 私は何気なく答えたつもりだったんだけど、井ヶ田ちゃんはにやにや笑いながら、何回も口の中で同じ言葉を繰り返していた。それから、今初めて気付いたように言う。 「そう言えば。4限目は体育館で修学旅行のコース班を分けるんだね。D組とE組は行き先一緒なんだよね?」 そうなのだ。来月・10月の中旬に行く九州への修学旅行。2日目と3日目の自由行動はクラスを越えた班を編成することになっている。今日の学活の時間がそのために当てられていた。 「だね。もしも同じ班になれたら、よろしくね」 もともと。あんまり周りの人間の些細な表情の変化とか察するのは得意な方じゃない。むしろ、相手の気持ちを汲むのは苦手な方だった。そんな私ですら、今の井ヶ田ちゃんの発した何とも言えない空気は分かってしまった。 何かを含んだ瞳。ねっとりと絡みつく視線。私の嫌いなもの。そして、気が付くと…井ヶ田ちゃんだけじゃない。そう言う空気を発する人がたくさんいる。どんどん増えている気がした。
………
予鈴が鳴って、慌てて机の上を片づける。 音楽室の机をいくつか並べて、今日はさながらお誕生会の様だった。美音子ちゃんちの明太子おにぎり、葉月ちゃんちのトリの唐揚げとフライドポテト、鞠香ちゃんちのサラダに当麻くんちの肉団子。私はデザートの牛乳寒天を作ってきた。それをみんな並べて、おなかいっぱい食べても食べ終わらない。他にもお菓子を用意した子もいて、本当ににぎやかだった。 それらをつつきながら、考えずにはいられない。加賀見先輩と緒方先輩が2人でいる狭い部室。薄暗い納戸部屋。それに較べて、こっちの空気は何て和やかで明るいんだろう。 加賀見先輩は、ちょっと個性的ではあるけどお友達も多くて。でも緒方先輩からは、お友達のことはおろか家族の話すら出たことがない。私とはたくさんのお話をしてくれるのに、もっと他の人とも楽しくおしゃべりをすればいいのに…。みんな、先輩の良さに気付いてない。気付けばもっと楽しくなるはず、そうに決まってる。 実際に。そう言う風に先輩に言ってみたこともあった。でも先輩はただ、悲しそうに笑うだけでそれより先に話は進まなかった。
「カナちゃ〜ん…」 実はクラスにそれほど親しい友達のいなかった私は今回、お掃除当番や理科の班が一緒の瑞穂ちゃんたちのグループに入れて貰っていたのだ。一応、クラスの中で班を作るから。どこかに入らなくてはいけない。瑞穂ちゃんがひとりでぽつんとしている私のことを心配してくれたらしく、声を掛けてくれたときはホッとした。 「あ、瑞穂」 「ねえ、カナちゃん…」 「カナちゃんが、3年の緒方って先輩と付き合ってるって…本当?」 「え?」 「あのね…班のこと、E組の子と話をしていたの。そしたら…あの、カナちゃんがいるなら同じ班にはなりたくないって…」 「な、何よう!! それって…!! 誰が言ってるのよ!?」 私がびっくりして言葉を失っていると。斜め後ろにいた葉月ちゃんが先に反応した。さっと振り向くと、葉月ちゃんの気の強そうな顔立ちが怒りに満ちていた。 「え…あの…その。どうも、E組では有名らしくて…」 「馬鹿馬鹿しいっ!! ねえ、瑞穂。緒方って先輩は文芸部の人なの。カナも私も同じ部員として面識があるだけ。そんな風に言われる筋合いはないわ…!!」 「そ、それならいいのよ…そんなに怖い顔しないで、葉月…」 「ね!! そうよね、カナ。あなたも誰かに聞かれたらそう答えるのよ!? そんなことで仲間はずれにされてたまりますか!?」 びっくりして、息が止まるぐらいの勢いだった。だから、つられて頷いていた。 「…じ、じゃあ…私も話を付けてくる。嫌な想いをさせちゃって、ごめんね…カナちゃん」 何度も頭を下げながら、去っていく瑞穂ちゃんを見送る。ボーっとしたまま立っていた私に、葉月ちゃんがこっそりと囁く。 「…カナ、詳しいことは放課後に話す。こんなことになっていたなんて、迂闊だった。私がちゃんと気付いてれば良かったのに…」
………
「去年の、文化祭の頃のことなんだ…」 そう葉月ちゃんが切り出した。 音楽室には行かず、葉月ちゃんのクラスであるA組の教室にいた。傾いた太陽が教室の窓を覗き込んで、室内を淡く色染めていた。私たち以外、人気のない教室にトーンを抑えた葉月ちゃんの声が浮遊した。 班構成はどうにかなった。 「何で、みんなそんなひどい言い方するの…?」 唇を尖らせて私が言うと、葉月ちゃんは意外にも…ふううっとため息をついて、それは当然なんだよと言った。そしてきょとんとした私の視線から逃れて、窓際まで歩いていく。綺麗な横顔が明るくオレンジ色に照らし出された。 「文芸部で文化祭に部誌を出すのは、今年と同じだったの。部員がみんなで作品を出し合って、それを構成してパソコンで打ち出して…そして、発行する段取りになってから問題が起こったの」 辛そうに眉間にしわを寄せて、こちらを向き直る。そして、葉月ちゃんの話はこんな風に続いた。
文化祭用の部誌を編集するための部会で、ちょっと問題が起こった。一人の先輩の作品が高く評価されたのだ。しかし、それに対して緒方先輩は「盗作ではないか?」と言いだした。そして、具体的に文芸誌を出してきて、コレと似ている、と言った。確かに文体も似ていたし、細かい部分は違うものの、盗作と言われても仕方ない感じだった。でも書いた本人は否定した。そんな作者の作品は知らない、全くの偶然だと。 その時。それまでの部内での評判により、緒方先輩に味方した部員はいなかった。四面楚歌状態で息詰まった先輩に対し、指摘を受けた作者である部員は反撃した。緒方先輩の作品をこき下ろしたのだ。
印刷室の機械で印刷して、藁半紙を二つ折りにして製本する。狭い部室では製本作業はムリなので、図書室を借りて作業していた。そして部員の誰かが気付いたのだ。緒方先輩の作品が部会の時にみんなに見せたものとはすり替わっていたことに。
「あのね、カナ。先輩はああ言う感じの人だから…その作品のイメージがそのまま先輩の心理状態だと見られてしまっているの。それは今の3年生の間では本当に有名な話だし、2年生の中にもことの成り行きを知っている人がいる。危険な人って思われちゃってる…私も内心、怖かったりする…」 「葉月ちゃんっ!?」 「先輩は、そんな人じゃない!! とっても優しいし…私のこと一生懸命考えてくれてる。それなのに…どうしてみんなは先輩のこと、分かってくれないの? 誰かが決めたイメージで見ようとするの!?」 「カナ…」 「やだ!! みんな、汚い!! 間違ってるっ!!」
自分のことのように。本当に悲しかった。先輩の寂しそうな表情が脳裏に焼き付く。悪いイメージばかりが先行して、本当の心を見て貰えない先輩。私を包み込んでくれるあの優しさを、誰も気付かないなんて。 葉月ちゃんの話では、私は先輩と個人的に付き合っていて、同じ人種だと思われているという。そう言う噂が先行している。部室でも、よそでも…きっと、よからぬ関係で…。 今までの、あの視線はこのためだったのだ。張り付くような好奇に満ちたあの目は私をそんな風に見ていたのだ。
「カナ…!! 待ってっ!!」 部室は鍵がかけられていて、誰もいなかった。私は放課後、いつもコーラス部に出ていたから、先輩はここには寄らず、まっすぐに帰宅していたのだ。 がんっ!! 大きな音を立てて、開かない引き戸を思い切り叩いた。ぼろぼろと涙が溢れてくる。口惜しかった、情けなかった。先輩を理解してくれない全ての人達が許せなかった。棘の様に突き刺さっていたあの視線たちももはや怖くなんかない。大好きな葉月ちゃんまで、先輩のことをあんな風に言うなんて。もう誰も信じられない。
――…私は、先輩を守る。ずっと先輩と一緒にいる。だって、先輩は私がいれば、ひとりぼっちじゃないから。先輩と一緒なら、どんなところに転げ落ちてもいい。どんな噂を立てられたって構わない。本当の先輩は私が知っているんだから。 先輩のこと、信じてる。だから…。 そのままドアの前に膝を付いてうずくまる。知らない間に下唇を噛みきっていた。口の中に生臭い血の匂いが広がっていた。 |
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