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………7

 

 

 

 次の朝。

 いつものように文芸部室に行こうと思って、早めに登校した。自転車置き場から、昇降口まで辿り着いたところで、ふっと目の前に人の気配を感じた。

「…葉月…ちゃん…」
 上履きに手を掛けたまま、身体が硬直した。いつから待っていたのだろう、きりりとした葉月ちゃんの顔がちょっと怖い表情になっていた。

「カナ、どうして。どうして、部活に来ないの?」
 葉月ちゃんはいきなり核心をついてきた。まわりくどいいい方をしないのが、彼女の特徴だったけど。そのまっすぐな物言いが私の心には恐怖に感じられた。自分から言葉を発することが出来ず、ただ俯いて唇を噛んだ。

「分かってるでしょう? 文化祭は来週の土日なんだよ、もう10日もない。カナは新学期になってずっと部活に出てないでしょう? 1日でも歌わないと声が出なくなるのは知ってるはずよ…ねえ、聞いてるの!?」

 私が反応しないことに苛立っているのだろう。葉月ちゃんの口調は段々厳しくなっていく。それに比例して私の心もどんどんかちかちに固まってきた。

「行こうよ! 朝練が始まるから――」
 ぐいっと、上靴を持ってない方の左腕を引かれた。それを反射的に振り払う。

「――やだ!! 行かないっ!!」

 自分でもびっくりするぐらい大きな声が出た。昇降口にこだまする私の声。透き通った朝の空気の中でどこまでも響き渡る。

「…カナ…」
 一方。葉月ちゃんの方も呆然として私を見ていた。私の行動が信じられないと言うように。

 青ざめた表情を見ていると私の方が切なくなってきた。

「ごめん…なさい」
 鼻がツンとして、泣きたい気分になる。大好きな葉月ちゃん、入学したときに一番先に仲良しになったクラスメイト。いつも一番近くにいてくれた。甘えるばっかりだったけど…でも、私は葉月ちゃんのことちゃんと分かっているつもりだった。しっかりしたところもパニックになるといきなり支離滅裂になっちゃうところもみんなみんな大好きだった。

 でも、嫌なんだもん。もう辛いのは嫌なんだもん。

 才能も何もない私が、みんなのお荷物になりながらコーラス部に所属しているの辛い…早く楽になってしまいたい。そのためには全てを取っ払って、すっきりしたい。だって、コーラス部は私のいる場所じゃないもん。いくら練習したって、ちょっとずつしか上手くならないし、声もやっぱり上手く出ないし…。

 押し込めた想いが心の中でぐるぐる回る。吐き気がするほどに。これを吐き出してしまえば楽になれるのに。もう誰にも邪魔されたくない…。

「…カナ」
 そんな私の姿を瞳に映しながら、葉月ちゃんの悲しそうな声がした。

「美音子、困ってるよ? 自分の責任だって、だいぶしょげてる…」

「…そんなことっ!! そんなこと言わないでよ!!」
 痛いところを突かれた。心がぎりりとしなる。ひどい、どうして 美音子ちゃんの名前を引き合いに出すの? 私が悪いみたいな言いかたするの!?

「カナ…」

 葉月ちゃんがさらに何かを言おうとしたとき。靴箱の影から、もう一人の人影が出てきた。それは意外と言えば意外な人物だった。

「葉月ちゃん、あなたはもう朝練に行きなさい。カナちゃんは私が話をするから…」

 その時の葉月ちゃんの意外そうな表情から、2人が申し合わせてここにいたのではないことが分かった。にっこりと微笑む沙也佳先輩…さらさらと流れる明るい髪の毛の色が曇り硝子越しの朝の日差しを浴びていた。

 


「…カナちゃん…」
 葉月ちゃんがカバンを持って行ってしまうと。先輩は顎で私を促して、昇降口から左に折れて、2棟への渡り廊下をゆっくりと歩きだした。

「カナちゃん、私、びっくりしたんだよ? 昨日久しぶりに部活を見に行ったら、カナちゃんがずっと出てないって言うじゃないの。具合が悪いとかそう言うのなら仕方ないと思う、でも…コーラスはみんなでするもんなんだよ? 一人でも欠けたら、いい合唱は出来ないの。それはコンサート前の練習でも体験したでしょう?」

「……」
 何も答えられなかった。責める気持ちの微塵も感じられない沙也佳先輩の声がしっとりと心に染みこんでくる。でも…同時に、今、緒方先輩が一人で部室で待っていると思うとそっちに行きたい気分でいっぱいだった。

 先輩は私の答えを待っているようで黙ったままゆっくりと足を進める。先輩の横顔の向こうに中庭の植え込みが映る。朝の日差しをいっぱいに浴びて。こんな風景も長い間、見ていなかった気がする。

 新学期が始まってからと言うもの。

 私の行動範囲は自分の教室と文芸部室に限られていた。一直線の廊下を行き来する毎日。緒方先輩とは朝とお昼休みと放課後と会っていた。コーラス部に参加したくなくて、部員のみんなに後ろめたくて…逃げるようにあの場所に駆け込んでいたのだ。薄暗い、空気がよどんだ心地よい空間に。

「先輩、私、もう歌えないから。先生に、退部届けを出します。みんなと歌っても足を引っ張るだけで…私がいない方が綺麗な合唱になるもん…」
 一気にこう言っていた。吐き出せるだけ、吐き出した。初めてコーラス部関係の人に口にする言葉だった。

 沙也佳先輩が私の姿をじっと見ている。俯いていてもその強い視線が感じられた。言いたいことを言ったのに心の中に何とも言えない辛いもどかしさが残っていた。

「…カナ、ちゃん…」 
 沙也佳先輩の優しい声が、どこがピンとした強さを持って、私の名を呼んだ。はじかれるように顔を上げる。

 まっすぐの綺麗な瞳が揺れながら私を見ていた。思わず、息を飲んでいた。

「カナちゃん、…カナちゃんが歌うのは…上手になりたいから、だったの?」

「…え…?」
 不思議な問いかけだった。心の奥がずるっとすくわれた感じ。どろどろしたものごと、さらわれて引きずり出されていた。

「カナちゃんは…そうじゃなかったでしょう? 歌うのが楽しいから、歌っていたんでしょう…? 違うの?」

 私は何だか信じられない心持ちで先輩を見つめていた。どうして? 何で…そんなこと言うの?

「カナちゃん…?」

「え…あ、そうです。先輩の言うとおりです…」
 強い口調に思わず本音が出た。自分の口から飛び出した言葉を初めて聞いたもののように私の耳が受け止める。久しぶりに聞いた心地よい響き。

 私の答えを確認した先輩が、ふっと表情を崩した。

「なら、いいじゃない。楽しんで歌っておいでよ?」
 ぽん、と背中を押される。でも、その瞬間、また足元が震えてきた。

「…いや!!」
 そう叫んで、先輩を見つめる。怖かった、次の一歩が。

「また、辛くなる…苦しくなる。そしたら、また、逃げたくなるから…!!」

 

「カナちゃん!!」
 先輩が。今までで一番、大きい声を出した。穏やかな優しい先輩にしては珍しい声の荒げかただった。

「逃げちゃ、駄目!! カナちゃんの今目の前にある壁は、回避する壁じゃないよ? 越えられる壁、越えなくちゃ行けない壁…それに気付いて!!」

「…先輩…?」
 激しさが胸に流れ込んでくる。気が付くと、4階奥の音楽室のドアの前まで来ていた。

「カナちゃん、私もね…進路のことでずっと逃げていたと思う。音大を受けるから、学科の勉強はしなくていいって思ってた。でも違ったんだよ…担任から、言われちゃった。逃げるなって。私、小学校の先生になりたいの…だから、国立を受けることにしたんだ。音大の方が今の私にとっては入りやすいし、やりやすいと思う。でも目先のことに囚われて、大きなものを失ってはいけないと気付いたの」

「でも――」
 それは、先輩の話じゃないの? 私なんかより、ずっと頭も良くてやろうと思えば何でも出来る先輩だから…。

「今、逃げると…後悔するよ? ずっとずっと、後悔するよ? それでもいいの?」

「先輩…」

「ほら、カナちゃん――…」

 がちゃり。先輩が音楽室のドアを開いた。ぎゅうっと中に押し込まれる。右と左の壁一面にある窓からさんさんと日差しが差し込んでいる。明るい日溜まりの中の広々とした空間。

 2人掛けの長机が3列に並んだ教室内で、ぽつりと立っている人がいた。他のみんなは突き当たりの準備室に別れてパート練習をしているらしい。楽譜の確認をしていたらしい顔を上げて、こちらを見た。

「…カナ…」
 それだけ言った、その顔が見る見る歪んで…ぼろぼろと涙が落ちてきた。

「ごめん、カナ。私、言いすぎたと思う…ねえ、ひどいこと言ったのは謝る。だから…ねえ、一緒に歌おう? 文化祭のステージでみんなで歌おう…」

「美音子ちゃん、あの…」
 私も何て言ったらいいのか分からない。いつもはきはきして元気のいい彼女が信じられないくらい打ちひしがれていた。まさか、美音子ちゃんが…。

 ぐっと、足元に力がこもった。昨日まで、ううん、さっきの昇降口までは逃げてしまいたいと思っていた場所。そこに足を踏み入れていた。準備室からピアノの音が漏れてくる。発声練習をしていないから、声が上手に出ないけど…みんなで選んだ、素敵な曲だ。コンサートが終わって、3年生の先輩が抜けて自分たちの代になって…初めてのステージに向けて、みんなで一生懸命まとめようとした歌…。

 柔らかいスタッカートから滑らかな旋律へ。流れていく音。私のパートはメゾソプラノ。大体はソプラノパートを歌うけど、パートが2つに別れるときは下を歌う。アルトとテノールと…バス…4つのパートがひとつになって、初めて美しいひとつの曲にまとまる。音がまとまるだけじゃない、心がまとまるんだ。

「あの、泣かないで…美音子ちゃんっ。私が悪かったから…あの、もう一度、一緒に歌っていい? 歌わせてくれる?」

「も、もちろんだよお〜!!」
 側まで寄ったら、ぎゅうっと抱きつかれてしまった。元バレー部の彼女の力はあまりにも強くて、ちょっと痛かった。でもとても嬉しかった。

 そして、その瞬間。あの小さな部室のことが心の中で急に小さくなっていた。

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