次の朝。 いつものように文芸部室に行こうと思って、早めに登校した。自転車置き場から、昇降口まで辿り着いたところで、ふっと目の前に人の気配を感じた。 「…葉月…ちゃん…」 「カナ、どうして。どうして、部活に来ないの?」 「分かってるでしょう? 文化祭は来週の土日なんだよ、もう10日もない。カナは新学期になってずっと部活に出てないでしょう? 1日でも歌わないと声が出なくなるのは知ってるはずよ…ねえ、聞いてるの!?」 私が反応しないことに苛立っているのだろう。葉月ちゃんの口調は段々厳しくなっていく。それに比例して私の心もどんどんかちかちに固まってきた。 「行こうよ! 朝練が始まるから――」 「――やだ!! 行かないっ!!」 自分でもびっくりするぐらい大きな声が出た。昇降口にこだまする私の声。透き通った朝の空気の中でどこまでも響き渡る。 「…カナ…」 青ざめた表情を見ていると私の方が切なくなってきた。 「ごめん…なさい」 でも、嫌なんだもん。もう辛いのは嫌なんだもん。 才能も何もない私が、みんなのお荷物になりながらコーラス部に所属しているの辛い…早く楽になってしまいたい。そのためには全てを取っ払って、すっきりしたい。だって、コーラス部は私のいる場所じゃないもん。いくら練習したって、ちょっとずつしか上手くならないし、声もやっぱり上手く出ないし…。 押し込めた想いが心の中でぐるぐる回る。吐き気がするほどに。これを吐き出してしまえば楽になれるのに。もう誰にも邪魔されたくない…。 「…カナ」 「美音子、困ってるよ? 自分の責任だって、だいぶしょげてる…」 「…そんなことっ!! そんなこと言わないでよ!!」 「カナ…」 葉月ちゃんがさらに何かを言おうとしたとき。靴箱の影から、もう一人の人影が出てきた。それは意外と言えば意外な人物だった。 「葉月ちゃん、あなたはもう朝練に行きなさい。カナちゃんは私が話をするから…」 その時の葉月ちゃんの意外そうな表情から、2人が申し合わせてここにいたのではないことが分かった。にっこりと微笑む沙也佳先輩…さらさらと流れる明るい髪の毛の色が曇り硝子越しの朝の日差しを浴びていた。
「カナちゃん、私、びっくりしたんだよ? 昨日久しぶりに部活を見に行ったら、カナちゃんがずっと出てないって言うじゃないの。具合が悪いとかそう言うのなら仕方ないと思う、でも…コーラスはみんなでするもんなんだよ? 一人でも欠けたら、いい合唱は出来ないの。それはコンサート前の練習でも体験したでしょう?」 「……」 先輩は私の答えを待っているようで黙ったままゆっくりと足を進める。先輩の横顔の向こうに中庭の植え込みが映る。朝の日差しをいっぱいに浴びて。こんな風景も長い間、見ていなかった気がする。 新学期が始まってからと言うもの。 私の行動範囲は自分の教室と文芸部室に限られていた。一直線の廊下を行き来する毎日。緒方先輩とは朝とお昼休みと放課後と会っていた。コーラス部に参加したくなくて、部員のみんなに後ろめたくて…逃げるようにあの場所に駆け込んでいたのだ。薄暗い、空気がよどんだ心地よい空間に。 「先輩、私、もう歌えないから。先生に、退部届けを出します。みんなと歌っても足を引っ張るだけで…私がいない方が綺麗な合唱になるもん…」 沙也佳先輩が私の姿をじっと見ている。俯いていてもその強い視線が感じられた。言いたいことを言ったのに心の中に何とも言えない辛いもどかしさが残っていた。 「…カナ、ちゃん…」 まっすぐの綺麗な瞳が揺れながら私を見ていた。思わず、息を飲んでいた。 「カナちゃん、…カナちゃんが歌うのは…上手になりたいから、だったの?」 「…え…?」 「カナちゃんは…そうじゃなかったでしょう? 歌うのが楽しいから、歌っていたんでしょう…? 違うの?」 私は何だか信じられない心持ちで先輩を見つめていた。どうして? 何で…そんなこと言うの? 「カナちゃん…?」 「え…あ、そうです。先輩の言うとおりです…」 私の答えを確認した先輩が、ふっと表情を崩した。 「なら、いいじゃない。楽しんで歌っておいでよ?」 「…いや!!」 「また、辛くなる…苦しくなる。そしたら、また、逃げたくなるから…!!」
「カナちゃん!!」 「逃げちゃ、駄目!! カナちゃんの今目の前にある壁は、回避する壁じゃないよ? 越えられる壁、越えなくちゃ行けない壁…それに気付いて!!」 「…先輩…?」 「カナちゃん、私もね…進路のことでずっと逃げていたと思う。音大を受けるから、学科の勉強はしなくていいって思ってた。でも違ったんだよ…担任から、言われちゃった。逃げるなって。私、小学校の先生になりたいの…だから、国立を受けることにしたんだ。音大の方が今の私にとっては入りやすいし、やりやすいと思う。でも目先のことに囚われて、大きなものを失ってはいけないと気付いたの」 「でも――」 「今、逃げると…後悔するよ? ずっとずっと、後悔するよ? それでもいいの?」 「先輩…」 「ほら、カナちゃん――…」 がちゃり。先輩が音楽室のドアを開いた。ぎゅうっと中に押し込まれる。右と左の壁一面にある窓からさんさんと日差しが差し込んでいる。明るい日溜まりの中の広々とした空間。 2人掛けの長机が3列に並んだ教室内で、ぽつりと立っている人がいた。他のみんなは突き当たりの準備室に別れてパート練習をしているらしい。楽譜の確認をしていたらしい顔を上げて、こちらを見た。 「…カナ…」 「ごめん、カナ。私、言いすぎたと思う…ねえ、ひどいこと言ったのは謝る。だから…ねえ、一緒に歌おう? 文化祭のステージでみんなで歌おう…」 「美音子ちゃん、あの…」 ぐっと、足元に力がこもった。昨日まで、ううん、さっきの昇降口までは逃げてしまいたいと思っていた場所。そこに足を踏み入れていた。準備室からピアノの音が漏れてくる。発声練習をしていないから、声が上手に出ないけど…みんなで選んだ、素敵な曲だ。コンサートが終わって、3年生の先輩が抜けて自分たちの代になって…初めてのステージに向けて、みんなで一生懸命まとめようとした歌…。 柔らかいスタッカートから滑らかな旋律へ。流れていく音。私のパートはメゾソプラノ。大体はソプラノパートを歌うけど、パートが2つに別れるときは下を歌う。アルトとテノールと…バス…4つのパートがひとつになって、初めて美しいひとつの曲にまとまる。音がまとまるだけじゃない、心がまとまるんだ。 「あの、泣かないで…美音子ちゃんっ。私が悪かったから…あの、もう一度、一緒に歌っていい? 歌わせてくれる?」 「も、もちろんだよお〜!!」 そして、その瞬間。あの小さな部室のことが心の中で急に小さくなっていた。 |
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